2014年9月23日火曜日

朴(ほおのき)地蔵 [山形・滑川]


朴(ほおのき)地蔵

〜現地・案内板より〜

ほうの木地蔵尊

 ここ滑川の「朴(ほうのき)地蔵菩薩」は、笹谷街道の一名所として誰知らぬものがなく、昔からひろく親しまれ、ふかく信仰されてきました。

 笹谷街道の歴史は古く、今から一千五十余年前(平安時代)の「延喜式」にも、ここが都と出羽国を結ぶ天下の官道であった事がしるされておりますから、駅馬や伝馬の往来も盛んであった事がしのばれます。

 滑川は、もと行沢村といいましたが、其の村はずれに此の地蔵尊がまつられたのは、随分むかしの事とおもわれます。

 この境内に大きな朴(ほう)の木が繁っておったので、誰いうとなく「朴(ほうのき)地蔵」とよばれるようになり、此の街道を旅する人々はかならず足をとめて参詣し、そして休息するを常としました。

 円満なお顔に、あふれるような慈悲をたたえて衆生のために合掌する此の地蔵尊は、此の地方とここを通る人々を護り、参詣する諸人の願いをよく叶えてくれるので、近郷近在はいうに及ばず、遠く県外にも信仰者が多く、中には「鉄(かね)の草鞋」を奉納した(宮城県柴田郡川崎町、中山の田中辰太郎氏)さえあります。

 この度、この地蔵尊の徳を賛仰し、鈴木彦太郎、佐藤八郎の両氏が施主となり、堂宇の再建寄進をなさいましたが、その落慶にあたり是を掲げて記念といたします。


あなたふと佛の誓いあらたにて

かかる滑川むらさきのくも


昭和五十五年庚申霜月吉日
朴地蔵菩薩別當敬白

選文 郷土史家 武田好吉
浄書 二瓶龍岳




〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

朴地蔵(安産・子安)

 朴地蔵は、滑川の東端、笹谷街道の坂道を登りつめたところ、南側の道端の木造のお堂の中に建立されている。かつては、側に大きな朴の木があったので、この名がある。昔から安産の地蔵として信仰する人が多い。

 大正六年旧六月二十日、宮城県柴田郡川崎町仲町、田中辰太郎と刻された鉄のわらじがまだ奉納されており、何を地蔵さまにお祈りしたのかは知るよしもないが、遠く宮城県にも知られた石地蔵であることを証明している。いつ造立したかは不明である。


 こんな伝説がある。

 昔、旱魃のため村中の田畑の作物が枯死寸前になった。そこで大勢の村人が、この地蔵さまに雨乞いの祈りを捧げているときであった。みすぼらしい一人の旅人が笹谷峠の方からやって来た。

 旅人は「皆んなで、何をお祈りしているのか」と聞いた。村人は口々に「旱魃で困って、お地蔵さまに雨乞いをしているところです」と答えると、そのみすぼらしい旅人は、「それは、さぞお困りでしょう。それでは私もお祈りして、雨を降らしてさし上げましょう」と言って、何言か祈り始めた。

 村人は不審に思いながらも、その旅人の行動を見つめていると、どうでしょう、間もなく大雨が降り出したのである。村人は驚き且つ大いに喜んで、天を仰いだ。やがて、ふと気がついて見ると、その旅人は消えていた。

 人々はそのお礼にと、お地蔵さまの前に朴の木を一本植えたのだという。後で、誰言うともなく、あの旅人は笹谷峠の十一面観音のお使いだったという噂も流れたという。この朴は、昭和の初年まで大木となって繁っていたが、度重なる台風で枝が折れ、ついに枯れてしまった(朴の木は材質が柔く、もろく折れやすい)。

 その後、その朴の木と抱き合うようにして繁っていた桜の木が大木となった。この桜はカスミ桜といい山形市の桜の名木に数えられたが、昭和三十四年九月の伊勢湾台風で倒れ、昭和五十年代に枯れてしまった。近年、新しく朴の木の若木がその跡に植えられた。誰が植えたのか知る由もないが、心温まる思いがした。


崇敬者の植えた二代目「朴の木」

〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜


 朴地蔵には、次のような史話がある。

 明治三十五年九月二十八日。山形県は300年来の大暴風雨で、県下の死者75人、負傷者360人、家屋全潰5,137戸、田畑被害51,603町歩、山形測候所の風速計が故障する大風災であった。数百年の樹齢の老木も多く倒れたという。

 この風で、朴地蔵の大木の朴の木の幹も、上部から折れたのである。折れた神木をただ捨てるのはもったいないというので、小白川の佐藤嘉四郎さんという人が、その朴の木の枝をもらい、山形市の仏師に弘法大師像を作らせた。嘉四郎さんは、滑川の神保重一郎さんの曾祖父の弟で、小白川の佐藤家(当主は佐藤東輔)に養子に行った人だった。この人が亡くなる時に、この大師像を滑川の実家に贈ってくれと遺言した。

 まだ、この木像は開眼していなかったので、神保さん宅で、その大師像の開眼と披露を兼ねて、親類知人を招き、今塚の光徳院の法印によって供養が行われた。明治四十五年の頃であった。

 ところが、その供養の最中、列席していた内城さんのおばあさんが、突然体を震わせ、「我は、朴地蔵なるぞ」と叫んで、坐ったままピョンピョンと跳び始め、だんだん高く跳び上がってそのまま前にあった膳を跳び越して、座敷の中央で、なおも跳び廻った。

 禅昌寺のおばさんも、体を震わせ、神がついた。居並ぶ一同は「これは目出度いことだ」と言って、大いに喜んだということである。

 朴地蔵の前の大きな自然石の石燈籠は、朴の枝をもらったお礼に、佐藤嘉四郎さんが奉納したものである。嘉四郎さんは庭師であった。



自然石の石燈籠

〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

 朴地蔵の祭りは、旧八月二十四日であったが、今は旧十月二十四日、ささやかに行なわれる。赤飯を供え、村内禅昌寺のお坊さんにお祈りをしていただき、近所の人々がお参りをする。昔は皆んなで念仏を唱え、地蔵和讃を唱和したという。朴地蔵の和讃は次のようである。

あなとうと ほとけのちかい あらたにて

かかる なめざわ むらさきのくも

なむ 地蔵大菩薩 地蔵大菩薩






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