2014年9月29日月曜日

炭焼藤太の伝説 [山形]



〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜


炭焼藤太の伝説


豊丸姫、京より来る

 鳥羽天皇の御代とか、羽州金井荘宝沢の里に炭焼藤太という人が住んでおった。毎日炭を背負って寒河江、白岩の里までも炭売りに行くことを業としておったという。

 その頃、京都一条殿に豊丸姫という美しい姫君が住んでおった。豊丸姫は日頃信仰している清水観音の霊夢によって、自分の夫となる人は羽州宝沢の里の住人炭焼藤太という人であると確く信じ、京都からはるばる宝沢の里をめざして、遠い旅路を辿ったのであった。


恥かし川

 途中、尋ね尋ねて漸く平清水の里までやって来たところ、そこに小川があった。橋がなかったので、姫は裾をまくって渡ろうとした。ところが川面にうつった自分の姿を見て、「ああ恥かしい」と思わず口走った。それからこの川を「恥かし川」と呼ぶようになったという。

如何にせん うつる姿はつくも髪
わが面影は 恥かしの川


五度坂・姫沢、股旅の清水(すず)

 やがて千歳山の麓を通り、馬見ヶ崎ぞいにさか登って行くと、山坂の道があった。姫はこの坂を登れば果たして宝沢の里に辿りつけるのだろうかと、ためらいながら五度も行きつもどりつしたのであった。それでこの坂を「五度坂」と呼ぶようになったという。

 五度坂を過ぎて、右の方を沢を見ると、煙が立登っておる。やれ嬉しや、ここが藤太の住む里かと、そこまで沢を登ってみると炭焼小屋があるだけであった。姫は仕方なしにその沢を引き返したのである。今でもこの沢を姫沢と呼んでいる。姫は疲れた足どりでなおも山路を辿って行くと、こんこんと湧き出る泉があった。姫は大いに喜びその水を飲み旅の疲れをいやした。この泉は「股旅の清水」と呼ばれている。漸く宝沢の里の藤太の住居に辿りつき、事情を話しその妻となった。

 あるとき、豊丸姫は夫の藤太に小判を渡し、これで米と味噌を買って来るようにたのんだ。藤太は炭を背負い山形の国分寺の近くまでさしかかると、池に鶇(つぐみ)が遊泳しているのを見つけた。藤太は「よし、あの鳥を獲ってやろう」と、思わず手にした小判を池の中の鳥に投げつけた。小判は鳥にあたらず水中に沈んでしまった。平気な顔で帰った藤太に、豊丸姫は「小判は都では大変値うちのあるものです。おしいことをなされました」というと、藤太は「ああ、あれか、あんなものなら裏の山に行けば沢山ありますよ」と事もなげに答えた。姫は驚いて裏山に行って見ると果して、そこには金が山ほどあったのである。藤太は大金持になった。その池は鴻の池といって今もなお存在している。


薬師寺の池


 藤太が炭売りに通うときは、藤森稲荷(山形北高の近くにあり)で休むのを常とした。今塚には藤太道があり、長崎の八幡神社境内には藤太の休石があった。長崎は沼尻郷と呼ばれておった時代で、鴻の池の伝説と同じような伝説が此処にもある。


藤森稲荷神社


鍋掛松と芋煮会

 長崎にはもう一つ、藤太の鍋掛松という伝説がある。宝沢の里から炭売りに来た藤太は、沼尻郷の最上川畔の松の木の下で、枝に鍋をかけて昼飯を食べたという。その松は藤太の鍋掛松と呼ばれておった。


中山町の「鍋掛松」


 この鍋掛松の下で後世、最上川の舟で運ばれて来る棒だらと最上川べりの沼尻郷の湿地から取れる里芋を、松の枝につるした鍋で煮込んだ船頭たちが酒盛りをしたという。こういうわけで、山形芋煮会の発祥の地ともいわれている。昭和五十二年秋以来、毎年九月中旬から約五十日間、唐松観音川原で、山形市民が芋煮祭を楽しむようになったが、これも炭焼藤太が取り持つ縁かも知れない。


唐松観音に置かれた初代「芋煮の大鍋」


金売吉治兄弟

 藤太には吉治・吉内・吉六という三人の子供があったという。長男の吉治信高は天治元年(1124)九月二十日に生れ、源義経に仕えた金売吉治であり、康治二年(1143)六月十二日、二男吉内信氏が、久安元年(1145)七月十九日に三男吉六信義が生れた。三人の兄弟は京都に金売りに通ったのであるが、後世奥州白坂で盗賊熊坂長範の為に殺害せられた。

 その後、藤太夫婦は清水観音に祈願したところ、嘉応元年(1169)四月、豊丸姫五十七才で四男喜藤太信正を生んだ。其の子孫は住吉神社宮司、宝崎家であり、藤太は八十三才、姫は七十八才で往生したと伝えられる。

 金売吉次兄弟の墓は今もなお福島県白河市白坂皮篭(かわご)にある。



恥川(平清水)
五度坂(宝沢)
姫沢(宝沢)
股旅の清水(宝沢)
藤森稲荷(山形北高の近く)
鴻の池(国分寺)
藤太道(今塚)
休石(長崎の八幡神社)
鍋掛松(長崎)
吉次兄弟の墓(白河市白坂皮篭)

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