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2014年9月27日土曜日

こもはり山 [山形・滑川]


〜現地・案内板より〜

菰張山(こもはりやま)

前九年の役(1015〜1062)で源頼義・義家親子が、この地で安部貞任・宗任兄弟と戦った。兄弟は山に陣を作り抗戦したが、最後は陣(岩窟)に菰(こも)を張り、居ると見せかけて逃げた。その後この山を、菰張山と称するようになったと言う。

東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会


滑川住宅と「こもはり山(左)」


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜


こもはり山


(唐松観音堂から)眼下の川原を見渡すと、近年まで唐松山の根に向って真直ぐに流れた宝沢川の中心部は、現在は100戸を越える家屋によって満たされている。河川整備の結果である。

 その滑川住宅の背後に、宝沢川と滑川とを境とする険しい岩山が屹立しているのが見える。菰張(こもはり)山という。康平五年(1062)源頼義、陸奥出羽の按察使(あぜち)兼征夷大将軍に任ぜられ、安部貞任、弟宗任を征伐するに当り、安部一族は数千の徒党を引きつれ、この山に菰(こも)を張りめぐらして立て篭った。それで菰張山(こもはりやま)という。

 頼義父子は、八千の兵を随え、安倍一族を討とうとして菰張山に相対する馬見ヶ崎川南岸の山上に陣を築こうと、西方から登った。ところが、家来たちは皆長い旅の疲労の為、喉の渇きをうったえた。義家はこれを見て、士気を強めようと「この山頂に梅の実があるぞ」と叫んだので、家来たちは梅の酸味を思い浮かべ、涸渇を忘れて元気をとりもどして登頂した。義家は神仏を念じ山頂付近の岩を矢じりで掘ったところ、忽ち清水がこんこんと湧き出て来た。家来たちはこれで渇を癒し、陣地を築いて戦いに備えることが出来たという。

 こうして頼義父子は、菰張山に篭城の安倍の徒党と戦ったが、大いに苦戦した。このとき頼義は釈迦尊の仏徳と太子の宮の神霊に祈願したところ、忽ち敵軍は敗れ敗退した。これが菰張山・梅木山のおこりである。清水の湧き出たところを「八幡太郎矢衝きの清水」という。

 戦いに破れた安部の貞任は、義家の矢を目に受けたまま行沢村を笹谷峠をさして逃げのびたが、途中、盲橋の処で目にささった矢をぬいて目を洗ったという。それ以来、この小川に住む魚は皆片目になったといわれている。



こもはり山
上部の断崖

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

菰張山(こもはりやま)

 滑川住宅の東北部に、三角形の菰張山がある。岩山だが昭和三十年頃までは春には山つつじが綺麗に咲き、そのうえ山形市街地も一望できる風光明媚な山である。しかし、古代の官道(笹谷越)が山地の狭間から平野に出てきたところで、昔から軍事上の要衝の地点(対岸の唐松観音堂は見張所であったともいわれている)で、戦争にからむ多くの伝説が秘められている。

 康平五年(1063)の前九年の役のとき、陸奥守(兼鎮守府将軍)源頼義と義家親子が、国司に抵抗していた奥州の覇者、阿部頼時の一族を追討するよう朝廷から命を受けた際、この菰張山を舞台として安倍貞任、宗任兄弟との一戦を交えた。

 源氏方は長途の旅の疲れから喉の渇きをうったえ、山頂の梅の実で一時的に渇きをいやし(梅の木山)、さらに義家は神仏を念じて鏃(やじり)で岩を掘ったところ、こんこんと清水が湧き出てきた(矢衝の清水)。こうして源氏方は大平山(通称:六郎兵衛山)や梅の木山に陣をしき、菰張山の安倍方と矢合わせ(交戦)したが、当初は源氏方に利あらず苦戦で、三国伝来のお釈迦さま(法来寺)や大子の神(宝蔵院鎮座、行基上人作と伝えられる称徳太子を祭る)に祈願し、その加護によりようやく勝つことができた。

 この時、敗軍の将貞任は陣地(岩窟)に菰を張りカムフラージュして逃げたので、この山を菰張山、また山の下(滑川住宅地)を盾の下と名付けたという。現在も菰張山や大平山いは山城(砦)の跡が残っているが、築造の時代はいつなのか分からない。ただ、中世における山城は何度も手直しして使用したので、今の遺跡は多分戦国時代の最上家のものではなかろうかと(伊藤山大教授、なお大平山の頂上から紙を飛ばせば、風向きによって菰張山まで届く)。

 また、貞任は逃げる途中、目に当たった矢を抜き、滑川村と新山村との間を流れる川で目を洗い、笹谷峠を越えて陸奥に逃れたと。いまもなおこの川に棲む魚は盲目(めくら)で、架けた橋をば盲目橋(めくらばし)という。

 昔から東北地方は源氏との結びつきが強く(とくに平安時代の武士は主従関係)、あまり関係のない土地にも八幡太郎義家や源氏などの伝説が残っており、八幡神社は各地に創建されている。


入山禁止の看板


麓に祀られていた石仏




2014年9月26日金曜日

蔵王、中央高原 [山形市]




紅葉峠の「弁天さま」

「高松宮妃の歌碑」

朝日さして くれなゐにはゆ雪ふかき

蔵王の山の樹氷のはやし


高松宮宣仁親王妃、喜久子殿下が昭和29年、歌会始めでご詠唱なさった歌だとか。



鳥兜山頂の「大黒天」
日本神話の大国主命

蔵王温泉の「由来碑」

〜石碑文より〜

由来碑

時の第十二第景行天皇の世、西暦110年の頃、日本武尊の東征に従った吉備多賀由が矢の毒を癒しているうち、温泉を見つけて入浴したところ、たちまち全快したので、日頃信仰している大国主命のおかげと蔵王山頂にこれを祀ったと伝えられており、佛教の大黒天が後に日本神話の大国主命と同一視され、七福神の一神として信仰されて来たもので、蔵王温泉は発見者の名をとって、多賀由温泉から高湯温泉に変り、今に至っている。



ドッコ沼



 ドッコ沼は周囲約350m、平均水深2m、沼底から湧き出る水は枯れることはない。山形市の水瓶ともいうべき源泉。


沼のほとりに祀られた「水神さま」

〜案内板より〜

水神様

 この沼に住んでいた竜を静めるため、覚山法師が呪文を唱えながら、金剛杵の独鈷(ドッコ)を投げいれたことから、この沼を独鈷沼と呼び、竜を水神様として祀りました。

 安政三年(1857)に至り、蔵王火山活動の鎮静と雨乞いを併せ祈願し、村人達がこの石碑を建立しました。それ以来、寛政六年(1794)から繰り返していた噴煙噴火もなくなり、ふたたび静かな山に戻りました。


銘「安政三丙辰五月大吉祥日」



〜案内板より〜

独鈷(ドッコ)沼の由来(いわれ)

 覚山法師が修行の為、金剛杵(こんごうしょ)を手に蔵王山に入り、この沼にさしかかったところ、にわかに竜が現れた。呪経を唱え、金剛杵の独鈷(ドッコ)を水面に投げ入れると、竜は静かに沼に沈み再び姿を現さなかった。

 それ以来、この沼を独鈷沼と呼び、竜を水神様として祀りました。



「炭焼き窯」跡

〜案内板より〜

炭焼き窯

 此の窯は昭和初期ごろに造られたもので、ほぼ当時のままでの復元です。

 木炭の造り方は、窯のなかに生木をいれて、これに点火し、入口を密閉する。その後、昼夜におよび蒸し焼きにした状態で取り出し、砂灰(すばい)をかけて消火して仕上げるものです。

 窯の種類。この窯は東山窯といい、一回分の仕上がりでは炭俵(15kg)4俵分を焼いていたものです。



長命の松

双龍の松



羽州蔵王権現本縁別当
第二世 覚山行者伝記
(宝沢・三乗院文書)


清浄の水を求めんがために独鈷をもって池を掘るに、清水たちまちに湧出せり。今においてなお絶えず。ゆえに独鈷の池と名づく。この水をもって法華経を書写して大峯になぞらへて山中に埋む。その地を赤飴の経ガ峯と号す…


紅葉峠の花彩は、色即是空の匂い鮮やかに

独鈷池の月の影は、空即是色の光濃(こまや)かなり







2014年9月23日火曜日

愛宕山の石鳥居 [山形・高畠町]


愛宕山の石鳥居

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜


愛宕山の石鳥居


所在:高畠町高畠
様式:明神系台輪付き八幡鳥居
年代:近世
材質:凝灰岩
寸法:露出総高2.78m、柱間隔(礎石面から1m)1.45m、柱径(礎石面から1m)0.69m(左)0.59m(右)
指定:なし
位置::38°00'36.5"N 140°12'08.9"E


 山形県南部の置賜地域は、朝日飯豊と奥羽山脈の連峰に囲まれている盆地である。愛宕山の石鳥居のある高畠町は、盆地のほぼ中央に位置し、東の宮城県につながる七ヶ宿街道(現国道113号)に沿って羽山と愛宕山につらなる。この山系には安久津八幡宮をはじめ、縄文の住居遺跡、石室古墳群などがあり、歴史的にも重要な地域であったことが読み取れる。

 石鳥居は愛宕山の西麓の緩やかな傾斜地に立ち、周囲にはブドウ畑が広がる。山頂には地蔵信仰の先駆けとなる愛宕地蔵菩薩堂があり、鳥居の愛宕山への帰属を裏付ける。いま現在この愛宕山は、羽山の麓に位置する青竜寺の管理となっている。東光山青竜寺は羽黒修験の流れをもつ天台宗系の寺院として、愛宕地蔵菩薩、薬師如来、秋葉権現をまつる。創建は平安中期とされるなか、明和五年(1768)に入部した高畠城主の織田左近将監信浮の祈願所として栄えていたとされる。

 愛宕山信仰は火伏せに霊験のある神として中世頃から信仰されていたが、近世からは修験道における道場の一つとして、全国に広がったという経緯がある。いま現在も愛宕信仰に関係する社寺は全国に千を数えるが、とくに東北地方に多いとされる。山岳信仰とのつながりを考えるべきだろうが、この一体の山々は標高が低く、山岳信仰の霊場など影が薄い。しかし、標高300数mしかない愛宕山は置賜盆地全域が一望できるなど、近世に盛んだった高畠修験の痕跡を今に伝えている。石鳥居はその象徴的な存在として、建立年代はこういった歴史的な背景に因んで近世と見るのが妥当であろう。


 一方、石鳥居の材質は俗に「高畠石」と言われる凝灰岩である。この凝灰岩は比較的に均質な産状を示し、古くから汎用的な地元の石材として名高い。高畠石を産するこの周辺の地質は、新第三紀中新世の凝灰岩層が中心となり、採石場は至るところに散在する。この状況から一定の石加工技術の伝承も古くからあったと思われる。

 が、しかし愛宕山の石鳥居の形状は通常の鳥居様式からかけ離れ、独創的な様式を見出している。表面は粗く削り落とされ凸凹が激しく、柱は四角に近く笠は丸い船首をもつ船型を示し、丁寧な表面仕上げによる端正なかたちは何処にも見当たらない。高さ約3mにも満たない小規模の鳥居だが、柱は両足を広げるかのように柱一本分の転びをもち、堂々と立ち尽くすその姿はみる人に豪傑感さえ与える。もはや細かい様式云々の世界をはるかに超えている。加工技術や経済的な理由から生み出されたかたちとは考え難い。どちらかと言えば、石工感性的な面が目立つかたちと言えよう。もし、その感性が信仰心の範疇に入るものとすれば、宗教と芸術が一体化した優れた石造作品として、新たな価値認識が必要かも知れない。

 いずれにせよ、愛宕山という銘文が刻まれた額束が設けられ、台輪が柱から削られていること。柱には転びがあり、笠と島木に見られる著しい反りなど。これらの様式的な特徴はすべて鳥居の建立年代を物語っており、前述した寺院と愛宕信仰の歴史を合わせて、近世の中でも後期に属する建立年代を示すものと考えられる。


 愛宕山の石鳥居の価値は一に独創的なかたちにある。そして、もう一つはその空間性にあるように思える。石鳥居の前景は高畠の大地が広がり、そのなかに幾つかの森山が鎮座する。冬至の頃、この大地に沈む夕日は鳥居の中央を通る。このとき、石鳥居は夕日に照らされ眩しい光を放つ。鳥居と暦が交差する瞬間である。




2014年9月11日木曜日

お清水の森 [山形・蔵王坊平]


ねじれ杉
樹皮がねじれながら成長した不思議な杉

〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜


後世俗に「お清水小屋」と呼ばれたものは、元亀四年(1573)に設けられたのであるが、これは置賜方面よりの登山道と上山中川口の登山道の合致点に当る。即ち置賜方面の参詣者は高畠から柏木峠を越えて楢下に出て、大門、菖蒲を経て清水に至る。この道は極く最近まで利用されているし、又山形方面の参詣者は足ノ口を経て廻立に出て、高野、永野を経て清水に至る。

この合致点に笹小屋を造ったことは、両登山路の参詣者を先達するためであったが、「寛永五年七月、元上山領主松平丹後守殿時候不順ニ付、為五穀成就蔵王清水小屋ニ於テ一七日間御祈禱可致旨登山被仰付候、夫ヨリ該小屋ヲ以テ祈禱所ト相定メ、領主ヨリ年々御代参有之」(国有林下戻申請書、明治三十二年)とあるように、領主祈禱所となり、前記の二つの登山路を(上山別当安楽院が)完全に支配するようになったことが判る。

(中略)安楽院は広い範囲の霞地代場の外に、上山領内に百五十軒の祈願旦那を持ち、蔵王の先達及び、山林田畑をも所有し、また御山参詣者による賽銭や祈禱料は、清水小屋より馬に積んで下したとも伝えられ、最盛期の蔵王の繁昌を物語っている。



刈田嶺神社石碑
明治廿三年八月一日 
祭主 金峯吉見
東置賜郡 和田五百人講


〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜

清水の篭堂のあとに立つ此の石碑は、明治時代の蔵王山登拝の盛大さを物語る貴重な記念塔でもある。明治23年(1890)といえば未だ鉄道の開通しない時代であり、東置賜郡和田村(現高畠町)に蔵王信仰の五百人講があり、その講中が里先達の先導で、和田から高畠そして二井宿から楢下へ出て、更に大門、菖蒲から猿倉山の麓を通って坊平にいたり、此処お清水に到ったものであろう、そして此の篭堂で行をおこなってのち登拝をしたものであろう。

和田村里先達:渡辺八兵衛、白石市五郎、安田仙三郎、太田伝左衛門、武田七良左衛門、ほか碑背には多くの人名が刻まれている。



石造駒犬

〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜

 篭堂あとの清冽な流れのそばに、一対の駒犬が立っている。行をおえて、いよいよ峯入の門という意で安置したものであろうか、刻銘により文政四年(1821)甲石の太七という人の寄進であることがわかる。



石造半跏像
役ノ行者
 左手を欠失し、右手に珠子をもつ半跏像で、よい彫刻である。おそらくは修験道の開祖、役ノ行者であろう。背後の次の刻銘がある。

元治二年(1865)乙丑四月八日
施主人 上山吉六
鷹匠町 善治 善七 庄吉
表丁 卯吉


篭堂修理および道標石塚造立記念碑
 〜表銘より〜

蔵王山

祭神 天之水分之大神
斉明天皇之御宇白雉乙卯(654年)
大和国吉野蔵王之分神也坐々

昭和九年(1934)迄壱千弐百八拾稔(1,280年)
今茲依信仰諸子之特志修理清水篭堂
併而造道標石塚記念



〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜

昭和九年(1934)ここ清水の篭堂を特志を得て修理、更に蔵王山道の石塚道標を建立した記念の石碑である。昭和九年のこの時代にあっては蔵王山の信仰がかくも盛んであったことを物語っている。なお碑背には、斎藤茂吉の歌碑、即ち熊野岳頂上の

陸奥をふたわざまに聳えたまふ
蔵王の山の雲の中に立つ

その碑建立のことをも記している。「昭和九年八月、山形営林署の許可を得て中川村永野地内の国有林の頂上(熊野岳頂上)に建立した」旨を記している。


(背銘)より

蔵王山之歌碑 昭和九年八月
山形営林署之得許可
於中川村永野地内国有林頂上

上山町 高橋四郎兵衛
願人 大沼茂麿


(側銘)より

昭和九年
権中講義
大沢茂麿敬白
斎藤学蔵拝書
鏡渉治謹刻



水飲場


〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜


清水にのこる石碑石仏

蔵王山、六合目の清水は「おしず」あるいは「おすず」とよばれ、そして親しまれていたが、安楽院がここを支配し、行者(登攀者)のための行人小屋が設置されたのは天正頃(桃山時代)と云われている。

中川口の行者と、猿倉山の南方大門口からの登拝者がここに殺到したため非常に繁昌し、二階建の小屋には神壇、別当宿所、行者宿所がつくられ、それを囲む杉林(海抜千米以上に杉は育たないといわれているが、此処清水は美事に杉が繁茂し、高山の驚異とされている)は、置賜村山の信者たちの寄進植林によるもので、ますます其の荘厳味を加えていたが、そうした事もあって此処にはいろいろな石碑や石仏が造立された。一方、女人禁制の蔵王山も此処までは女性も登山を許されていたため大いに繁昌したものであった。

但しその清水も、エコーライン開通後は訪れる人もなく杉林も形を崩し、行人小屋は倒れてその残骸があわれに横たわり、荒れるにまかせるといった状態であるが、行人小屋(篭堂)の礎石や水飲場がのこり、さらに次に記す石碑石仏や、目通り185cmというミヤマヤナギの古木等ものこって、盛んだった昔をしのばせている。



西国三十三観音石像

〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜

清水の篭堂のあったところより、わずか登るとブナ林の中にそびえる巌に無数の石仏が安置されている。調べてみると、それは西国三十三所の観音像であり、文政三年(1820)此の山麓地帯の人々が造立したらしく、小倉、薄沢、甲石、廻立、糸目、千石、金谷、上山、高松、東吾、上関根、中関根、楢下、皆沢、菖蒲、小笹、中生居、下生居、宮脇などの村名がみえる。

また人名に女性の名が多いのは観音信仰の常ではあるが、その頃この蔵王山が「女人禁制」の山であり、ここ清水より上に登ることを許されなかったが、此の巌に立つ場所も当時は清水の行場に含まれていたところであったろう。女性はここで蔵王山を拝んで下山したものであったが、其の限界に善女たちを中心としたこの石仏造立が行われたものであろう。




苔と草のなか、半跏思惟の菩薩像

聖、千手、十一面、馬頭、如意輪といろいろな観音が安置されている。



樹齢300年といわれるブナの原生林
「千手ブナ」などの名木もある。

蔵王権現像

侍立するは二童子
善童鬼 妙童鬼


〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜

西国三十三観音の近くの巌上に祀る「蔵王権現像」は、躍動雄猛な忿怒相で、その左右に二童子が侍立しているのは「役行者本記」にいう善童鬼、妙童鬼であろう。これは『上山年代略記』によると明治二年(1869)の造立と記している。即ち同書に

浄光寺の弟子誡定、蔵王権現の尊像と二童子の像を刻んで祀る
尊像は後藤大次郎(耕山)、石工は甲石の木村庄七なり


石造 奪衣婆像(姥神)

〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜

蔵王権現像の下に、石造の奪衣婆(だつえば)が立ひざで坐っている。左手をにぎって突出し、右手をひろげて膝にのせた立てひざ姿で、顔も丸く、胸部も腹部も丸味があって愛きょうがあり、深山の魔女とも思えぬふくよかさは登山者の足をとどめる。

ここから上は女人禁制なので、みのりを捧げて女性は下山した(姥神はその境界に祀られることが多い)。



蔵王坊平ライザスキー場

鬱蒼とした森をぬけると、スキー場に出る。
じつはこの「お清水の森」、現在はゲレンデのなかに位置している。コースとコースに挟まれた、中州のように取り残された森なのである。







峠は決定をしているところだ

風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない

大きな喪失に耐えてのみ
あたらしい世界がひらける
峠にたつとき

すぎ来しみちをなつかしく
ひらいくる道はたのしい



真壁仁




伊達宗高公の碑 [宮城・刈田岳]




伊達宗髙公命願之跡


〜石碑台座の碑文より〜


伊達宗髙公命願之跡

政宗公の第七子 柴田刈田三萬石 村田城主 伊達右衛門大夫宗髙公

紅顔十八歳の寛永元年(1624) 刈田嶽の大噴火に際し 領民の惨状見るにしのびずと敢然この嶽に上り 火煙にむせびつつ身の危難を犯して命願をかけましたが その至誠天に通じ 遂に鎮火を見るに至りました。

古来命願後三年以内にその命を天に召されるとされていましたが 同三年(1626)京都に於いて従五位下右衛門大尉に任ぜられ 二条城の守護にあたるうち 同八月十七日疱を患い あたら花の蕾を散らしました 享年わずか二十歳

龍島院殿涼山英清大居士と号し 村田町龍島院に帰葬しました 先きに 公の遺徳を後世に伝えるため 大正十五年(1926)三百年祭記念事業として記念碑を建てましたが 風雪のため荒廃したので 今回 顕揚碑を建立し その霊を慰め遺徳を偲ぶこととした次第であります。この事により平和な豊かな国土が建設されることを祈ってやみません なお公の顕揚事業に寄せられた諸賢の御芳志に対し 心から尊敬と感謝の意を表します。

昭和四十二年八月十七日
伊達宗髙公 顕揚会会長
村田町長 大平良治 撰文


伊達右衛門太夫宗髙公之碑


〜石碑の碑文より〜


伊達右衛門太夫宗髙公之碑


伊達政宗公ノ第七子宗高君ハ慶長十二年仙台ニ生ル、母ハ柴田氏、幼名長松丸、後右衛門ト称ス、柴田、刈田、三萬石ヲ賜ヒ村田城ニ鎮ス

元和九年刈田嶽噴火砂石ヲ雨ラス、田土ヲ埋没シ人畜ヲ塵死被害三十有余村ニ及ブ、寛永元年貞公明人王翼ニ鎮火祈禱セシム、君性慈仁、王侯慨然、請フテ公ニ代リ翼ト共ニ嶽ニ登り自誓シ命ヲ天ニ至ス、即チ声息ミ火ヲ滅ス、人至誠感応スル所トス

三年六月公ニ従ヒ京師ニ朝ス、従五位下右衛門太夫ニ任ス、八月十七日疱ヲ患ヒテ長逝セラル、年二十、法名凉山英清竜嶋院ト号ス、村田ニ帰葬ス、殉死者乳母阿知也外九名、郷閭今ニ義君ノ早世ヲ追逝止マズ嶽上祈禱ノ地ヲ選ミ茲ニ頌徳ノ碑ヲ建立シ以テ後昆ニ記念ス
大正十三年八月二十二日建之
庄司一郎 金峰充中

村田町石工
大沼八左エ門 高橋春吉



この碑は宗髙公の偉績を顕揚する為 大正十五年(1926)庄司一郎先生が建立しましたが 今回明治百年を記念して再建したものです
昭和四十二年八月
伊達宗髙公 顕揚会会長
村田町長 大平良治




玉の緒の絶えなんことは惜しからじ
君の情けを思ひ合わさば

                高橋清三郎


刈田岳から宮城方面をのぞむ


〜『蔵王山調査報告書』山形県上山市教育委員会より〜


噴火と伊達右衛門


刈田岳頂上に「伊達右衛門塚」と刻んだ石碑と「伊達右衛門宗高公之碑」という碑が立っている。

その碑銘は前述したが、それによると此の人は伊達政宗の第七子で村田城で三万石を食んでおったが、たまたま元和九年(1623)蔵王の噴火により其の所領が大被害を蒙った時、明人王翼とともに登山し、彼に祈祷せしめて鎮火せしめた事を伝えている。

ちょうど、これと似たような伝承が山形側にもある。すなわち前出『上山見聞随筆』によると、元禄七年(1694)五月二十一日、ふもとの三本楢で起きた山火事が頂上まで焼けのぼって遂にお釜の硫黄に火がついて天地顚動し、硫黄水はあふれ流れ出して大騒ぎとなった。このとき秦国の王女が上山に来たのに依頼し、その指図に従って鎮火した、とほぼ同じような事を記している。



此年(元禄六年)、唐土秦(清)の国より女性一人小舟に乗りて築紫に漂着す。所の守護職にて上陸させ様子尋候所、此節異国専ら合戦にて諸候国を争ふ、此女秦の将軍職にて、女ながら軍卒を引いて隣国にて戦ひ、終に利を失い軍勢皆死亡す。依て秦国(清国)にも徘徊ならず、小舟に乗て当て所もなく大海に漂ひ、今此処に来るといふ。

即、江戸江御訴の所、召し呼ばれ江戸にて様子御尋の所、申す口相違無之日本の地に留められ候。此女性外典の達者にて万事普通の人なり。公儀江相願、日本廻国順見仕度旨申上げれば相叶ふ。尤対州より通詞差添、御朱印傳馬にて国を廻る。

羽州上山江は六月上旬に通り、南部津軽の方より仙台に至る時に、蔵王の峯より煙りの立つを見て、あの煙は正しく嶽の硫黄ならむ、是を留めざれば田畑の仇とならむと云ふ、所の役人其術なしといえば、女性曰く我術を得たり、役人此山は女人禁制にて登る事叶わずと申す、女性然らば居ながらにして止る事ありと云ふ。依て此事を所の奉行に達して則頼みければ、白毛の犬を一疋入用といふ故、差出しければ其犬を長刀を以て二つに切り、其屍を器に入れて峯にのぼせ、火の中今の御釜の中へ投入せしむ。是七月下旬也。夫より煙り留り山火事鎮りたり。




2014年9月9日火曜日

蔵王山、中興の祖「覚山」


〜東沢郷土研究会『苅田嶺神社(蔵王神社)縁起』より〜



白雉二年(651)

宝沢に井上太郎大夫、居住す。

孝徳天皇の白雉二年の頃、宝沢の里に井上太郎大夫という人が、住んでおって、夏は田畑を耕し、冬は狩りをやって生活しておった。今の三乗院の先祖である。



持統帝七年(693)十月十八日

乙鶴(おとづる)、生る。

宝沢の里の井上太郎大夫は、家が富み栄えたが、年老いて子供がなかった。それで天に祈ったところ、ある夜、妻が「一僧来り胎中に入る」夢をみて妊娠し、朱鳥八年十月十八日亥の刻、男の子を生んだ。両親は、乙鶴(おとづる)と名付け大変可愛がった。乙鶴は、生まれながらに智と徳がそなわっており、容姿端正、天性明敏で、八歳の頃から法華経を誦読し続け、学問と修行を怠らなかった。



和銅五年(712)三月

覚山(乙鶴)吉野の金峯山(きんぷせん)に登る。

元明天皇和銅五年春三月、乙鶴は家を出て山伏となり、覚山と名を改め、諸国の名山や霊地に修行した。まづ羽黒権現に詣で、あるいは富士山の頂上に登った。ある時は大和の国、奈良の都に行き帝城を拝し、摂州箕輪山に入った。また熊野三山、葛城にも入峰した。

おわりに吉野の金峯山に行って蔵王権現を拝して、御堂の辺(ほとり)に草庵を建ててしばらく此の山に止った。ある夜、夢に権現が現れて覚山に言った。「お前の生まれた奥州に、むかし役の小角が羽黒山に登ったとき、蔵王権現を勧請した霊山がある。早く本国に帰って此の山を再び開きなさい…」と。



和銅五年(712)十月八日

覚山行者、蔵王山を再び開山す。

覚山は急いで大和の国から故郷に帰って、霊跡を尋ねたが知っている人はいなかった。ところが、最上の辰巳の方の高山に毎夜、竜燈が輝いた。覚山は之をみて十月八日、弟子道山と共にこの山に登った。

麓から三〜四里を過ぎた頃に、高さ四〜五丈の滝があった。覚山行者が慈救(じきゅう)の呪を誦えると、たちまち不動明王が現れた。明王が行者に云った。「よく来てくれた。お前がこの山を開くための努力は、仏にも通ずるであろう。そもそも金剛蔵王権現は、本地は釈迦如来であって、一山皆黄金土であるから金峯山浄土というのである。参詣の行者はよく精進・勤行にはげむがよい。我は後の世までこの山の修行する人々を守るであろう」と言い終わると滝穴に隠れた。覚山は歓喜の涙で袖をぬらしながら、なお頂上へ登った。

険しい峯を登ると山頂は平らかであるが、路はなお険しかった。また、左側に二人の老翁が手に弓矢をもって現れた。覚山は、あなた達はどなたですかと問うたところ、「我々は、白山妙理権現、熊野三所権現である。開山以前からこの山に来て、慈民が現れるのを待っておった」と答えた。二人とも本地の姿にかえって、岩陰に隠れた。そこを弥陀原(みだがはら)と名付けた。そこで両社をこの山の鎮守の神と崇め奉った。

しばらく行くと、長髪の僧が現れた。「どなたですか」と問うたところ、「我は此の山の権現である。役氏が入唐してから、お前の来るのを久しいあいだ待っておったぞ」と答えた。覚山は重ねて問うた。「それでは、本地の御尊体を拝し奉りましょう」と。そのとき僧は、たちまち金色の姿に変身し、瓔珞(ようらく)荘厳な衣をひるがえして、幽谷に飛び去った。

覚山は、なおその跡を追って下ると、御沢八万八千仏が並んで坐っておった。また、右側に白衣(びゃくい)の女が一人おった。覚山が怪しんで問うた。「私は、むかし遊女であった。姿が綺麗だったので、人々はこれに迷った。その罪で、今は地獄におちたのです。私だけではありません。他の人々も同様です。どうぞ行者さま、みんなを救って下さい」と答え、腹ばいになって幽谷に入っていった。

覚山は、なお谷に下って見ると、地の底に数百人、悲しみ泣き叫び、その声が谷間にひびき渡っておった。これを聞いて哀しさのあまり、加持をして秘宝呪を唱えた。なお苦しむ衆生を救うために、山中に岩石を刻んで地蔵菩薩の本尊を安置した。

焦熱地獄から人々を救い、その身心を洗い清めるために、清浄の水を求めて独鈷(どっこ)で地を掘ったところ、たちまち清水が湧き出た。それで、この地を独鈷の地と名づけた。この水で法華経を書き写して、大峯の例にならって山中に埋めた。そこを赤飴の経ヶ峯と名づけた。


ドッコ沼


これに加えて、八箇の大石を集めて胎蔵の峯をあらわし祖母石と名づけ、九本の樹木を植えて金剛山をあらわし祖母堂と称した。鰐口は開山役の行者である。紅葉峠の花の彩りは色即是空の匂が鮮やかで、独鈷(どっこ)の池の月影は空即是色の光が濃(こまや)かである。

毎年五月二十一日は、国泰安民のために祭礼を行う。



天平の頃(730〜)

覚山、国守の命によって旱魃に雨を降らす。

天平年中、三年間旱魃が続き、近国飢饉で苦しんだ。国守は山の行者に命じて、当山で雨乞いを命じた。行者はさっそく滝の前で柴火を焚いて一日一夜祈祷したところ、不思議やその夜、子の刻、丑寅の方から黒雲が広がり、峯をおおい国中に雨を降らせた。その雨によって五穀たちまち潤って、国土は豊作になった。



天平の頃(730〜)

覚山、万福寺を建立

覚山は、蔵王山の麓に万福寺という寺を建てた。三乗院の原祖である。

覚山行者の御詠歌

おふせなく てらすべくなり 峯高き
我が立つ杣(そま)を出づる月影



天平勝宝六年(754)二月十六日

覚山、入寂(にゅうじゃく)す。

覚山行者は、昼は法華経を誦え、夜は止観の床に坐し、ある時は嶽に登った。足に鉄履をつけて、手に金剛杖をもち、その足は獣や鳥よりも早かった。峯には二匹の駒狗がおって、山に行くときは駕となった。深山幽谷を過ぎるときでも狼や鬼神も害を加えることが出来なかった。

勤行の功を積み、苦行の年を重ねて天平勝宝六年になり、行年六十歳、二月十六日、安らかに入寂した。弟子道山は遺誡によって阿古耶(あこや)の辺(ほとり)に火葬した。

小角は当山の開闢であり、覚山は中興の開祖である。






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瀧山 [山形・蔵王]


瀧山(標高1,362m)

平安時代、慈覚大師が開山した山岳信仰の山。
「瀧の山」と呼ばれるほど龍山四十八滝からの豊富な良水に恵まれている。
(『山形県の山』より)


夜明け直前の月


龍山川

龍山川源流。入水(いりみず)
修業場であった堂庭まで水を引いてきた水源(山形十二花月)。




唐滝(からたき)
龍山川水源(入水)の上にあり、常には水の流れのない滝で、大雨や雪解けの時だけ水の流れが見られる滝(山形十二花月)。


霊山神社(慈覚大師護摩堂)
瀧山権現の社(龍山神社)が山頂にあって毎日の修業に不便なため、一段下に護摩堂が建てられ日々の修業の場とされた。この中には慈覚大師の石仏像が奉ってある(山形十二花月)。


姥神さま
昔から山岳宗教の山は女人禁制とされ、入山できない女人のために姥神が祀られ、山頂の瀧山権現の代わりに姥神を参拝した(山形十二花月)。


瀧山大権現

姥神が立っていた石に、大正時代この山で暮らす炭焼きたちが瀧山大権現の石碑を建立。しかし、姥神は何者かに持ち去られ瀧山大権現の石碑だけが残る(山形十二花月)。



わらじぬぎ石
「慈覚大師の休み石」とも呼ばれ、この石に腰を下ろし、下界の汚れを落とすため新しい草鞋(わらじ)に履き替えてから堂庭(修業場)に入った(山形十二花月)。


穴(岩)小屋
穴小屋の天井より垂れる水で目を洗えば「目薬」に、飲めば「腹薬」になると伝えられ、ここに泊まって修業した岩穴(山形十二花月)。


赤石 

三百坊の石鳥居

畜魂供養(千手観音堂)