2016年11月2日水曜日

『わがさと平清水』より



『わがさと平清水』

編集:わがさと平清水刊行会
発行:平成四年四月五日

『わがさと平清水』表紙・裏表紙

表紙について:
この版画『千歳山風景』は万松寺に所蔵されている。

筆者の霞峰は、明治の初期ごろまで湯殿山参詣の行者の先達をしていた法印(僧)で、画を宇野義川(小橋町)について学び、霞峰の名で多くの作品を残している。

着色は平清水の住人、橋本晶夫氏によるものです。


平成四年(1992)頃の千歳山周辺
写真の田畑は現在(2016)、すでに宅地化されている


阿古耶姫(万松寺)

源顕兼の説話集『古事談』(健暦2年〜建保3年、1212〜1215年)のなかに、「あこやの松」「雀になった実方」として藤原実方(平安の歌人、左近衛中将)のことを記しています。『古事談』の阿古屋の松について、つぎに原文(教育社新書版・志村有弘訳)の中から一部をのせます。

実方(さねかた)が奥州を経廻していた時、歌枕(古くから歌に詠まれた名所)を見るために毎日出歩いていた。ある日、あこやの松を見に出ようとしたところ、国人(土地の人々)が申すには、

「あこやの松と申す所は、この国の中にはありません」と。

その時、一人の老翁が進み出て

”陸奥(みちのく)の 阿古屋の松に木隠れて 出づべき月のいでもやらぬか”
と申す古歌をお思いになっておっしゃられたのでありますか。それでしたら、その歌は出羽と陸奥がまだ分かれていない時に詠まれた歌です。両国が分けられた後は、あの松は出羽の方に入っているのです。

と申された。


その他に、藤原長清選の延慶3年(1310)頃に編集された『夫木和歌抄』(夫木集)という歌書があって、このなかに巻二九に一三、七八八番和歌として

「みちのくの 阿古屋の松に木隠れて 出づべき月のいでやらぬかな 読人知らず」

と載っていますので、『古事談』の阿古屋の松と照らし合わせて、千歳山に伝わる阿古屋の松物語は古くよりあった史実と信じてよいでしょう。



また、この和歌は、承久から仁治(1219〜1240)のあいだに成ったといわれる『平家物語』(平曲の軍記物語)にも、二之巻、阿古屋の松としてみられ、丹波少将成経(鹿ケ谷の陰謀に参加し、鬼界ヶ島に流刑。のちに許された)の島送りの日、涙ながらに、昔、実方(さねかた)中将奥州へ流されたことを思い出して、

「みちのくの 阿古屋の松に木隠れて 出づべき月のいでもやらぬか」

という古歌を口ずさみながら流されていったと記されています。



針子絵馬(大日堂内)


平清水家の柊(ひいらぎ)樹齢1,000年を越えるといわれる
県指定天然記念物

大和政府は植民政策をおこない、全国より移民をはじめました。年代は不明でありますが、天童市の西沼田、酒田市の城の輪の遺跡などから、山形県地方への移住がうかがえるのであります。

平清水地区でも、平清水家(現第74代、平清水久左衛門氏)は奈良時代の神亀年間、家祖、黒金穆弥(くろがね・ぼくや)公が朝命により下野国(栃木県)から里人数十人を従えて、千歳山南麓に移住し草庵をむすび、飲料水を探しまわり、やや湿地のところを見つけて杖で土地を掘ったところ、突然、清水が湧き出したといわれています。それから自分の家の姓を「平清水」とし、村の名も平清水と呼ぶようになったといわれています。

道家の邸内には柊(ひいらぎ)が樹齢1,000有余年の威容を誇っています。このヒイラギは家祖、黒金穆弥公故郷の山野に生い茂る幼木を移住の地までもってきて屋敷の鬼門に植えたと伝えられています。暖帯性の植物が主家を見守るように、気候的に寒さの厳しい東北地方の山形に土着したことは珍しい。このヒイラギは昭和28年に山形県天然記念物に指定されました。


平泉寺の紅しだれ桜市指定天然記念物

慈覚大師は新山の地を行脚された折り、大日堂の荒廃をいたく嘆かれ、下の平清水に風光明媚な土地をさがして中興されたといわれています。いまも境内にある古い桜は大師の偉業を物語るものと思われます。

なお大日堂の坂の下の池も、大師が掘ったものであります。大師が閼伽水(あかみず、仏に供える水)を求めて錫杖で土をついたら、清水がこんこんと出てきたので、里人はこの水を飲料に供し「平清水」と呼んだと伝えられています。

平清水の名の起こりは2つありまして、古い時代のことですから何れが本名とは言いがたいのであります。



青磁香炉 小野藤治平作 平泉寺蔵


中皿 定五郎窯製
花立 佐久間瓶屋 明治12年製

平泉寺所蔵品



『平清水郷土史』発刊に寄せて

山形郷土史研究協議会会長 小形利吉


「最上(もがみ)」は山形の古名であるが、その文化発祥の地は平清水である。平城宮跡から出土した奈良時代初期の木簡には「裳上」、承平年中(931〜937)源順が編纂した『倭名類聚抄』には「毛加美」の字を宛ているが、和銅5年(712)出羽国が建置された時、それまでの陸奥国から出羽国に移され、その後から中世・近代まで「最上(もがみ)」の字を宛てきた。

古代の五畿七道制の時代は東山道に属し、行政単位としては近江・美濃・飛騨・武蔵・上野・下野・陸奥・出羽の諸国が所属し、諸道を行政単位とはしなかったが、各国府を連ねる官道を設けてその呼称に用いられ、東山道(あずまのやまみち)は東国経営の重要な交通路であった。

延喜式が完成したのは延長5年(927)で、それが施行されたのは40年後の康保4年(967)であるから、それによって笹谷街道が官道に指定され双月・山家附近に最上駅が置かれるはるか以前のことである。



寛平4年(892)源能有が編纂した『三代実録』の貞観9年(867)12月29日の条に「出羽国最上郡霊山寺預之定額寺」という記事があって、この霊山寺は応保元年(1161)10月、信阿という天台僧が『和漢朗詠集私註』を書いた隴山寺と同一の寺と考えられ、また、岩波の石行寺や平清水の平泉寺と同じく行基開創、慈覚大師再興と伝える龍山寺(あるいは瀧山寺とも書く)とも同一寺院と推定されている。

久安4年(1148)頃、西行法師が瀧の山を訪ねて桜の歌を残したことについては、瀧山説と長谷堂説があって今のところ定かではないが、東山道の要衝として早くから開けた土地であることは間違いなく、平清水久左衛門宅のヒイラギ(柊)をはじめ、阿古耶姫や中将姫の伝説、歌枕としての「阿古耶の松」などは、延喜式以前の東山道時代にもたらされたもので、都との交流が盛んに行われていたことを示す貴重な資料でもあると思う。



このようにして山形市周辺では最も早く開けた「平清水の歴史」がまとめられ、公刊されることは誠に喜びに堪えないことで、多くの方々のご一読をこい願って推薦の辞とする次第である。



飯はち 平吉窯製(山田香亭画)


大すず七右衛門窯


陶風呂桶製
新瓶屋窯製

平泉寺所蔵




一本脚の鳥居


大字平清水小字名


明治34年測図「山形」1/2万地測図

私たち平清水の集落は、東に奥羽山脈が走っていて、その一山である新山(にいやま)高さ約560mを起点に、南の境界は左沢山(あてらざわやま)南滝山(なんりゅうざん)猿岡山(さるおかやま)大林山(おおばやしやま、前田山ともいう)鬼越(おにごえ)戸神山(とかみやま)約311mと連なって、南の境界(嶺境い)になっています。

北の境界は、新山から観音山(かんのんやま、護摩山ともいう)船ヶ沢(ふながさわ)高戸屋山(たかとややま)千歳山(ちとせやま)約471.1mの線であります。

平清水は、この狭い山あいに開けた小さな扇状地で、地質的には第三紀層(約700万年〜100万年ぐらい、新生代第三紀層)を基盤にしています。東に走る奥羽山脈は比較的に若い地質年令の山ですから壮年期の山容をあらわしていますので、大雨の時など山崩れや洪水に十分注意する必要があり、並行して走る那須火山脈にある蔵王山(滝山はその外輪山)も、思い出したように鳴動することがあるかもしれません。



出典:『わがさと平清水』


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