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2016年11月9日水曜日

平泉寺と大日堂[山形市平清水]




平清水 平泉寺

山門扁額「千歳山」



〜現地・説明板より〜


歴史の散歩道
平泉寺と大日堂


慈覚大師の開祖と伝えられる平泉寺は、天台宗の古刹であり、当寺には重要文化財に指定されている鉄鉢があり、陶祖・小野藤治平の碑がある。

また、夏椿と称する「沙羅の木」が白い花を咲かせる。天然記念物の枝垂れ桜の下には結城哀草果の歌碑がある。

大日堂は胎蔵界大日如来を本尊とし、大仏殿の復興を願ってつくられた千嵗山大仏の仏頭が安置され、裏山には四国八十八ヶ所霊場を勧請した石仏が並び、また、白山権現には宝篋印塔があり、修理の折、仏舎利の納められているのが発見されている。

なお境内には阿古耶姫の遺歌や、風五の句碑が建っている。


夜や更けて おぼろの中に 松の声
風五

消し世の 跡問う松の末かけて 名のみは千々の 秋の月影
阿古耶

滝山地区振興協議会
平成三年 宝くじ助成品



山形市指定天然記念物「紅しだれ桜」


~『わがさと平清水』より~


平泉寺縁起
山形市史資料第五十七号より


天台宗の古刹・平泉寺は、大日堂を本堂として奉祀し、明治維新まで無檀の祈祷寺として、代々山形城主や柏倉陣屋をはじめ、近郷近在の信仰が厚かった。

天保11年の同寺の『由緒分限御改張』によると、天平9年(737)行基菩薩の開山と伝え、仁寿2年(852)慈覚大師が東北巡錫の折、中興開基となり、その後、鎌倉時代には源頼朝から祈祷所に仰せつけられ、寺領36町歩を下付されたと伝え、当時、一山の塔頭は12坊あったと記している。



また同書には、慈覚大師が山寺にある立石寺を開山する以前に、瀧山に龍山寺を開山したが、今の三百坊跡に三百坊があって、平泉寺はその龍山寺三百坊の本坊として「龍山貫主」と称した由を記している。

さらに同書は、最上氏時代には代々270石の寺領を寄進され、山形東郷三十三ヶ村の総鎮守に定められたと記しているが、最上家の改易後は、寺領も召し上げられ、その後、松平大和守が山形城主のときに、諸社寺は幕府の御朱印領を申請して、御朱印寺になったが、平泉寺は当時無住だったので、その願いを出さなかったため、御朱印寺にはならなかったと記している。

また同書は、寛文頃に、松平下総守、奥平美作守が山形城主時代に、祈祷所に仰せつけられ、初穂米として毎月2俵ずつ、正月・九月には3俵ずつを下賜されたが、それらの文書は、今も数通所持していると書き上げている。



かくの如く平泉寺は、江戸時代まで無檀の祈祷寺として、山形藩主や、その他私領の尊敬を集めていたが、現在は有壇の天台寺院となっています。



結城哀草果 歌碑「栗のいがの青きがおちし裏庭を いがをぬらして雨はふりをり」


ころり観音



〜現地・説明板より〜

山形市指定文化財
氏家相模守光房寄進 鉄鉢 壹個
昭和40年3月5日指定


千歳山平泉寺は、遠く奈良時代に僧・行基が開創し、のち天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)が再興したと伝える古寺で、仏像、仏具、絵馬など多くの文化財を伝えているが、そのなかに山形城主・最上氏の家臣、氏家相模守光房が大日堂に寄進した鉄鉢がある。

鉄鉢は洗米鉢ともよび、これを神仏の宝前に置き、参詣者の浄財や米穀を納れたものであるが、県内に遺っておるものは非常に数が少ない。

この鉄鉢は高さ27.5cm(九寸一分)、口径50.0cm(一尺六寸五分)あり、一度火中したらしく黒ずんでいるが、次の銘文を陽刻している。

敬白 大日御宝前
奉寄進御鉢
藤原朝臣 氏家相模守光房
請願成就所
于時 慶長六年辛丑 閏月廿八日

慶長六年(1601)は山形城主・最上義光が関ヶ原余波戦の功により、庄内、由利の諸郡をも加増されて五十七万石の大名に飛躍した年である。

昭和四十年三月
山形市教育委員会


氏家相模守「鉄鉢」



~『わがさと平清水』より~


平泉寺の宝物

大般若経 写本


岩波の石行寺に南北朝時代の大般若経の写本があって、山形県の有形文化財に指定されていますが、その中の第三十六巻の一冊が平泉寺にあります。

それはなぜかと言うと、その写本の奥書に「文和二年五月九日、於平泉寺客欄之下書之、出羽州石行寺常住一筆写百巻之内第三巻也、云々」との記があるのを見つけ、平泉寺先代覚田代に石行寺から特に譲り受けたものであります。



絵馬


もともとは大日堂に奉納されたものであります。華鬘(けまん)型の小さな絵馬がたくさんあります。元禄、宝永、正徳年代の素朴な木版画が多い。

特記すべきものとしては、奥平美作守昌章が奉納した武者絵であります。縦1m、横1.2mの大きなもので、表面に「奉掛御宝前、所願成辨之所」、裏面に「武運長久之所、元禄七甲戌歳八月朔日作州、昌章、敬白」とあります。

昌章は一代の守護仏が大日如来なので、その信仰が特に篤く、平清水大日堂への参詣が34回に及んだと平泉寺の記録にあります。


奥平美作守「武者絵馬」



参道よりのぞむ大日堂


千歳山「大日堂」


~『わがさと平清水』より~


本堂 大日堂


現在の御堂は貞享元年(1684)、二十五世愛慶代(棟札が保存されている)に再建されたもので、四間四面の宝形造で桧造である。

正面の「覚王殿」と書かれた扁額は寛延三年、佐倉に移封して間もない堀田伊豆守正虎公の筆になるものである。

宮殿内の本尊は、行基菩薩の作と伝える胎蔵界の大日如来(秘仏)という。昭和54年の屋根替工事の落成祝賀の際、一世一度の御開帳が執行されました。さらに内陣には脇侍として持国天、増長天をはじめ火伏の牛(慈覚大師作という)、飛地蔵(秘仏)、南滝山不動の本地仏が祀られている。

周りの板壁には花図、竜、象、鳳凰の図絵が極彩色で描かれ、外陣の格天井にも見事な絵が描かれています。

また、大きな仁王像(左右二体で、もとは外の仁王門にあったという)と、約1.90cmの木造大仏頭(千歳山大仏の復元用に造られたもの)、また針子たちが奉納した特大の絵馬、技能の上達を祈願して奉納した数々の絵馬や実物作品などが堂内いっぱいに飾られています。



扁額「覚王殿」堀田伊豆守正虎公筆


針子絵馬(大日堂内)



〜現地・説明板より〜

千嵗山 大日堂
別当 平泉寺


当山は人皇四十五代、聖武天皇の御 宇、天平九 丁丑年(737)行基菩薩の草創にして、のち仁寿壬申年(852)六月十二日、慈覚大師完興の霊場なり。

もとは当山より四粁ばかり奥の字新山という処に、行基菩薩御自作による大日如来の尊像が安置されてあったのが、のち慈覚大師、東北巡錫のみぎり尊像の風雨に犯せらるるを悲しみて、現在の地に移し祭られたものであります。元の新山の旧蹟の地には古碑(薬研堀りのह्रीःキリクを刻してある)一基が残されている。

建久年間(1190〜1199)鎌倉右大将軍・頼朝公よりは、東北の祈願所の一として三十六町の庄園を賜り、一山塔中十二坊、十二末社などを字寺ヶ入りという処に扣え、天下泰平、五穀豊穣などの祈祷の道場であった。



その後、国司・斯波兼頼公、御入部より祈願所として寺領二百七拾石を賜り、本尊・大日如来は川東三十三ヶ村の鎮守と定められた。さらに松平下総守、奥平美作守、旧領の節は、本尊献膳用御初穂として毎月弐 俵、正、五、九月には三俵づつ奉納された書類など現存している。

また承応二年(1653)五月五日、改めて千嵗山のうち大日山、竪二町三十二間、横一丁四十間、絵図面入りの寄附古文書ならびに、当大日堂、屋根普請の祈りには、その都度、萱三千把、葭二百束、足代木三十本、ほかに人足などの寄附書類および寄進札など、今なお保存されている。



本堂、坂の石段、東の池は、慈覚大師、本尊奉移のみぎり閼伽水を求め錫杖にて穿ち給うところ、突然、白蛇があらわれ清水が湧き出た。

現在の平清水という字名、平泉寺という寺号は、皆これより起きたものであると伝えられている。



本尊:胎蔵界・大日如来(行基菩薩御作)

不動明王:南瀧山の本尊

飛行地蔵菩薩(秘仏):元和元年(1615)三月二十四日、山形北肴町表、火行河原より飛来る。

正面扁額:覚王殿 寛延三年(1750)、老中・堀田伊豆守正虎公、筆。

千歳山大仏御頭像:高さ六尺三寸余、元千歳山公園六角堂にあったもの。

両脇仕:増長天、広目天

御縁日:正月二十八日早朝、初大護摩供修行、家内安全、厄難消除(年祝いの人)、交通安全、とくに進学成就、諸願如意、御祈祷

大祭礼:四月二十八日(もとは旧三月二十八日)、午前十時、大護摩供

例祭:毎月二十八日

文化財:鉄鉢、別当平泉寺にあり。


慈覚大師の穿ちし池


~『わがさと平清水』より~


慈覚大師は新山の地を行脚された折り、大日堂の荒廃をいたく嘆かれ、下の平清水に風光明媚な土地をさがして中興されたといわれています。いまも境内にある古い桜は大師の偉業を物語るものと思われます。

なお大日堂の坂の下の池も、大師が掘ったものであります。大師が閼伽水(あかみず、仏に供える水)を求めて錫杖で土をついたら、清水がこんこんと出てきたので、里人はこの水を飲料に供し「平清水」と呼んだと伝えられています。

平清水の名の起こりは2つありまして、古い時代のことですから何れが本名とは言いがたいのであります。



お不動さま


風五「夜や更けて おぼろの中に 松の声」


阿古耶姫「消し世の 跡問う松の末かけて 名のみは千々の 秋の月影」


蔵王に多い「山姥さま」がここにも


白山大権現と宝篋印塔

~『わがさと平清水』より~


白山大権現堂

むかし、修験道の白山信仰が北陸から東北地方に拡がったといわれ、穢れを払う神で、お山、境内を守護するから地主権現ともいわれる。



~現地・説明板より~


白山大権現:川東三十三ヶ村の地主明神であった。

宝篋印塔:仏舎利を納蔵。



白山大権現の奥からはじまる「大日山八十八ヶ所」登山口



~『わがさと平清水』より~


新四国八十八ヶ所霊場


文政年間(1818〜1830)に、紀州の人、浦若歌之助が同行者たちと協力して、東北の人々も西国八十八ヶ所の霊場を参拝することができるようにと、それぞれの土を持ってきて瓶に入れ、一つ一つの石仏の下に埋めて建てたものといわれています。

(補足)
八十八の石仏が大日山に建つ。施主は山形の人である。為○○之菩提也とある。



~現地・説明板より~

新四国八十八ヶ所霊場:
文政年中、紀州牟漏郡木ノ元浦若之助、同行三人建立。境内山内にあり。



つづら折りの登山道沿いに多数、石仏が配置されている。


一番上の石像


展望台


展望台よりのぞむ山形市内。右奥には月山。


下りの別ルートにも、多数の石仏


蔵王権現


「山寺」の文字がみえる


八十八ヶ所を山中一巡すると、大日堂に戻る




2015年5月29日金曜日

千歳山 萬松寺 [山形市]





〜現地・説明板より〜


千歳山
萬松寺について


一、宗旨

萬松寺は曹洞宗(禅宗)です。曹洞宗はお釈迦様より代々の祖師がたが相承(うけつが)れた仏法です。

一、歴史

当山は阿古耶姫(中興藤原実方朝臣)の開基で、行基菩薩(法相宗)の開山、慈覚大師(天台宗)の開創でありますが、今は禅宗です。曹洞禅は道元禅師さまが我が国に伝え規範を正され、四祖の瑩山禅師さまが教示し広められたものです。瑩山さまの孫弟子(岩手県正法寺のお弟子)である「清岩良浄」さまが萬松寺を復興開山されたものであります。

一、寺紋

後村上天皇の命により久我竜胆(くがりんどう)です。

一、本尊

法報応を一身にして生誕された釈迦牟尼仏を御本尊と仰ぎます。尚、毘盧遮那仏、虚空蔵菩薩、観世音菩薩、地蔵菩薩、不動明王の仏さま、駒篭出羽稲荷明神などを安置しております。

一、唱名

南無釈迦牟尼仏、又は各々の仏様の御名をとなえます(静かに手を合わせて低頭しましょう)。

一、本山

大本山(越前)永平寺(道元禅師御開創)
大本山(鶴見)総持寺(瑩山禅師御開創)

一、教義

私達は仏の御子であります。しかし、この毎日を省りみれば、恨み、妬み、嫉みと貪瞋癡(とんじんち)の罪過(つみとが)をつくり、社会や家庭、夫婦までも知らずしらずの内に互いに痛め傷つけているのです。真に仏の心にそわない生活を繰り返しています。反省し悔い改めなければなりません。まして人として生まれる事のできた尊さを確信し目覚める事が大切です。神仏を敬い慈悲心をもって人々を愛する優しさが必要ではないでしょうか。この地球上に生まれ、この世の厳しさと苦楽をいつも味わう人間、この私達とて平凡なものばかりです。お互いに仲間の一人一人を大切にして、家庭や職場を明るくし、ひいては社会や世界全体をも明るくして、尊敬信頼の中から世間のお役に立てる事を喜び合いたいと願うものであります。

ここに端座合掌して感謝報恩の生活を営めば、どんな苦難にも負けない静かで深い安らかな日おくりが出来るものでありましょう。最後に参拝者各位に仏神の加護あらん事を祈念して。

山主合掌




〜現地・案内板(歴史の散歩道)より〜

萬松寺

千歳山萬松寺は今より1300年前に阿古耶姫が開基したといわれている。姫の父は藤原鎌足公の曽孫藤原豊充卿で、朝廷の命により陸奥に下って役命を務めておった。姫はこの地にきて生涯を終え、この萬松寺に葬られた(千歳山の山名はここに由来する)。

しばらくは近隣に住む衆の素朴な信仰の寺として存在していたが、幾年かの後に法相宗の行基菩薩が来錫し開山した。その後、天台宗の慈覚大師が来山し寺を開創した。後に禅宗の瑩山禅師の法孫が岩手の正法寺を開き、その正法寺三世清厳良浄禅師が曹洞宗萬松寺を開山した。

阿古耶姫と千歳山の松の精、名取太郎との悲恋物語と、歌枕としての阿古耶の松は、平家物語・今昔物語・古事談に記載され、名勝古跡として、あまりにも有名である。

滝山地区振興協議会
平成三年度 宝くじ助成品




萬松寺 山門


〜現地・案内板より〜

山門

山形開城の祖、斯波兼頼公(足利時代延文年間)が建立せし霞城(山形城)の大手門(南門)である。最上義光公(戦国時代天正年間)が城堀を改造し石垣城とするに当り、旧城門に黒印六十石を付加し、當山へ寄進された門である。

山門上の額「千嵗山(歳は山冠)」は上杉鷹山公の師、細井平洲の筆。

千歳山 萬松寺



萬松寺 仏殿


〜鬼頭尚義「あこや姫伝説の諸相」より〜

…

萬松寺とはどのような寺院なのか。萬松寺の来歴を記したものに『千歳山萬松禅寺誌』という資料がある(平清水公宣・平清水千秋、1984年)。この資料は萬松寺が発行したものであり、そこに記されている来歴には虚実入り混じっている部分も散見される。しかしながら、萬松寺の来歴を記したほぼ唯一の資料であることを鑑みて、以下『千歳山萬松禅寺誌』を用いながら、萬松寺の来歴を確認していく。

『千歳山萬松禅寺誌』によれば、萬松寺はあこや姫の開基にはじまる。その後、行基が来訪したことによって法相宗となり、さらに円仁(慈覚大師)が来訪した後には天台宗へと改宗している。さらに祖庭春暁という臨済僧によって臨済宗の寺院としてその宗派を変え続けた。

萬松寺が現在の曹洞宗となったのは、14世紀末のことであった。すなわち永徳年間(1381〜1348)に奥州黒石正法寺三世の清厳良浄が萬松寺に入ったことにより、曹洞宗へと改宗された。清厳良浄によって曹洞宗の寺院となった萬松寺は、ふたたび荒廃の憂き目に遭った。その後、文明年中(1469〜1487)に千歳山耕龍寺五世、金貞恵眞によって中興されて以降、萬松寺は曹洞宗の寺院として今日に至る(『曹洞宗全書』)。また江戸時代以降は、徳川幕府からたびたび御朱印を賜っていた。

さて萬松寺の縁起については、18世紀以前のものは今のところは確認できない。現在確認できる最も古い縁起が、元文二年(1737)に成立した『書上』である。『書上』の成立事情については、その序文において以下のように書き記されている。

今度千歳山萬松寺縁起、御尋遊され候処、往古寺消失並頽転シ、盗難度々 之変事御座候節、紛失し候旨申伝候。茲に因て若相残候も御座候哉と穿鑿致候得共、何ニても古き記録も相見申さず候。縁起御座無候ハヾ、所の老農申伝候事成共、申上候様に仰付られ候故、ふつヽかなる事のみに御座候得共、猶又此度彼是承合奏労趣左に申上候。

元文二年(1737)、山形藩に萬松寺の由来を尋ねられたが、寺院の焼失や寺宝の盗難などが重なって古い縁起がない状態だった。しかし地域の老人らの言い伝えでも構わないので進上せよとの仰せが下ったので、それを纏めて書き記したものが『書上』である。

まず『書上』を記した人物について確認しておく。『書上』の末尾には「久左衛門」という名が記されている。この久左衛門とは「平清水久左衛門」という人物である。平清水氏は、千歳山萬松寺のある平清水一帯の大庄屋を勤める家柄であり、佐久間氏とも名乗っていた。また四代目以降の当主は皆、「久左衛門」を名乗ることが慣例となっていた。平清水家(佐久間家)の系図について、元文年間に八代目久左衛門が山形藩に提出した『覚書』の記述から、『書上』を記した久左衛門とは八代目に当る「久左衛門義明」であったことが分かる。

それでは、『書上』に記されている「老農申伝候」話(地域の老人らの言い伝え)とはどのような話なのか。『書上』に記されているのは以下の話である。

寺号は開基阿古屋姫より起り候由相伝候。其由縁は上古いづれの公卿に御座候哉、奥州信夫郡辺に謫居被成候中、姫君誕生之処、美貌の御うまれゆへ、御父の御卿も御称美の思召にて、阿古屋の玉の佳名を御取用ひ、阿古屋姫と御名づけのよし。

然処姫君も御年つもりて後、閑閨さびしく思召程、夜々一人の男子来りて懇にとぶらひ候に、終に夫婦の契約有之。年月被為送候処、一夜又此男来りて姫君へ申し候は、

「是まではつヽみ候得共、元来我は松の精に候を、今時至て橋木に成御筈ゆへ、同床のかたらひも今宵ばかりと思ふ也。去ながらむつび候しるしには、縦伐て倒とも其時姫君御手かけられず候はヾ、動き申まじ」

と語り候ゆへ、姫君も奇怪に思召事大形ならず候処、翌日果して約に違ふ事無 之、其松を伐り数人にて挽候得共更に動き不申候間、所之者不審に存うらかたなど尋候上にて、姫君を頼み挽候に、御手かヽり候へば大木不滞候て、高低の遠路を挽着候に、其道すがら松と姫君さヽやきの聞へ候に付、所之者猶も奇異なる事に覚候て、夫より其橋を「蜜語の橋」と名づけ、今に信夫郡辺に御座候由。

其後姫君程なく卒去之処、御遺言に「わが骸は当国の名山に納め、墳上に松を植へしと被仰候ゆへ、千歳山迄送り唯今の阿古屋の地に葬埋仕候て、御遺言のごとく植候松を「阿古屋の松」と申し候旨。其時阿古屋姫御追福のため寺も建候歟、此由縁にて「千歳山万松寺」と号を申伝候。

久左衛門

以下『書上』は、藤原実方がアコヤノ松を探す話、そして実方の娘である中将姫が父・実方を追いかけてくる話が続けられる(この話は山形では「はずかし川」伝説の名で知られている)。



大正天皇の御手植え
「二代目・阿古耶松」



野口雨情の詩碑

いよいよ
よあけにや
よあけの明星
親だ子だもの
おやこひし

あこや姫事跡
雨情


野口雨情


〜滝山地区町内連合会「滝山地区 歴史の散歩道」より〜

千嵗山萬松寺

 千歳山の北側の道をたどると「熊の前(くまのべ)」に出る。ここに古刹千嵗山萬松寺が建つ。野口雨情の文学碑を右にみて山門へ進む。六地蔵を拝み、萬松寺の由来を語る碑を読み、山門の前に立つ。山形城の南大手門であったものを城主最上義光が寄進したものである。山額の「千嵗山」の文字は、上杉鷹山公の師細井平洲先生の筆になるものである。

 雄大な仏殿に入り、本尊の観音菩薩を拝む。慈覚大師以来のものといわれている。仏殿は方丈型といい、床が土間になっている。このような仏殿は近郊だけなく県内でも珍しいものである。また、大きな俳額とともに、阿古耶姫と名取太郎の悲恋を語る扁額が掲げられている。これは、寺の由来を語っているものといえよう。

 阿古屋姫の父は、藤原豊充(ふじわらのとよみつ)卿といい、信夫郡(福島県)にあって国守の任にあったという。姫は琴をかきならし、さびしさをなぐさめていた。が、ある夜、笛を吹き合せ奏する若者が現れた。以来、笛と琴を合せ奏するようになった。そうして楽しい日が続いたが、ある夜、突然、姫はいとまを告げられ身分を明かされる。

「吾れは、千歳山の松の精で、この度仙台名取川の橋として切られることになった。名残は惜しいが…」と。

 千歳山の松はこのようにして切られたが、次の日になると元の姿に戻っている。ここで阿古耶姫がねんごろに手を合せ弔うと、はじめて切り倒されたという。このようにして松は峠を越えて仙台へと引かれていったが、笹谷峠の頂上まで来たとき、ぴたりと動かなくなった。姫は名残を惜しみ、別れのことばをささやいた(ささやいたことから「ささやき峠」=笹谷峠となったという)。姫の情に動かされた松は、ようやく動きだし、無事名取川の橋となり以後橋が流れることがなくなったという。阿古耶姫は、この地に小さな庵を建て、松の霊を弔い生涯をおくったという。これが萬松寺のはじまりといわれている。

 「阿古耶の松」は古くから歌枕として知られ、歌に詠まれている。

みちのくの あこやの松の 木がくれて いでたる月の いでやらぬかな
夫木和歌集

の古歌が有名である。

 平安時代、一条天皇の怒りにふれた左近衛中将藤原実方(ふじわらのさねかた)は「陸奥の歌枕を探してまいれ」との命により、陸奥守に下向、奥州へと下った。三輪笠島(宮城県)まで来た時、その地の信仰を集めている道祖神の前をとめるのをきかず乗馬のまま通り過ぎようとして、神の怒りにふれ落馬し、非業の死を遂げたという。後世、西行は陸奥の旅にて実方の塚(墓)に実方の昔を慕び、芭蕉もまた

笠島やいづこさつきのぬかり道
奥の細道

と吟じている。

 父のあとを追ってきた十六夜姫(いざよいひめ)も、ここ千嵗山で没したといわれている。十六夜姫(中将姫)の歌として恥川のほとりに碑が立っている。

いかにせん うつる姿は 九十九髪(つくもがみ)
わがおもかげは はづかしの川

疲れ果てた姿で、父実方の後を探し追いもとめてきた姫の心痛はいかばかりだったろうか、その嘆きが聞こえてくるようである。仏殿から奥へ進むと、「阿古耶姫」「藤原実方」「十六夜姫」の三基の墓が静かなたたずまいをみせている。

 さらに上り、阿古耶の松の前に立つ。「二代目阿古耶の松」は、大正天皇の御手植えといわれる。大正天皇の御製として

みしるしを うけて植えたる 我が山の
松のさかえに しのびまつらむ

の歌碑が立てられている。山内には、多くの碑や文学碑が立ち、ロマンが散策する人の心をかきたてる。萬松寺は行基が開き、慈覚大師が復興されたといわれる。幾多の移り変わりがあって、現在は曹洞宗の名刹である。



仏殿内 あこや姫と名取太郎の悲恋を語る扁額



〜斎藤林太郎『馬見ヶ崎川流域の変遷』より〜

…

 千歳山万松寺も曹洞宗の寺で、開山は千年以前といわれ、御朱印六十石を受けていた。阿古耶姫物語の伝説は有名であるが、他にその書は多く、ここでは記さない。

 大石良雄が、元禄十四年十二月十四日夜、吉良邸に討入りした前日の、十三日に書いた手紙が万松寺に残っている。宛名は、遙泉院、赤穂国神護寺、了雪和尚であり、長文の巻紙で、最初に、この書状は二通書き、寺坂吉右エ門に頼んで、速馬(はやうま)二頭を以てとどけると書いてあり、同志四十八名の名が記されており、遺言書のように細ごまとしたためた手紙である。手紙の最後はただ「十三日、大石内蔵助良雄」となっている。どうして赤穂からこの手紙が万松寺にきたかということになるが、元禄頃は住職の国替えが最も多くおこなわれており、宛名にある了雪和尚が来たのかはわからないが、万松寺には昔、「了」のついた和尚が六名居たことが古文書にある。遙泉院は浅野匠守の奥方である。


仏殿(方丈型)の土間


 全山松の名山として、優雅な姿の千歳山の、北側山麓に在る万松寺は、古色深い大きな寺である。仏殿は二百五十年前の建立であり、萱ぶき屋根、天井が高く、奈良、京都にはあるが、東北では唯一かと思われる広い土間須弥壇に仏像が安置されていて、そのうす暗がりを山風が吹きぬけている。

 山門は六百二十年前、斯波兼頼建立の山形城南大手門を、天正年間、時の城主最上義光が、山形城を石城に大改築したとき、南大手門を万松寺に移して、寄進建立したものである。その造りは古く、頑丈で大手門にふさわしい山門である。「千歳山」の山額は細井平州の筆であり、外に漢詩、和歌も残っている。万松寺には昔から多くの有名な人物たちが訪ねており、沢庵禅師、新井白石、斎藤茂吉、そのほか多くの著名な人たちの、それぞれの歌書をも残している。


細井平洲筆 山門の額


 境内には茶室とともに衆寮(しゅりょう)という建物がある。衆寮というのは、禅宗の寺にあるもので、他の宗にも有るところにはあったが、食も無く寝ぐらも無い流浪の衆、その人たちの救済のために、食と宿をあたえ、罪人であろうが、博徒であろうが逃散者であろうが、一宿一飯だけでなく、何日でも住まわせておった。その間、色々な仕事をさせたり、説教をしたりしたことは無論である。人間が立直って世間に出てゆく者も多かった。織田信長時代に見るような、寺院、僧侶らと百姓らの結束による抵抗一揆、豊臣の地検に対する広範な農民一揆、それには衆寮者らの僧兵としての力も大きく加わっていた。寺に救われた衆徒たちが寺の危急のとき、身を捨てて戦ったのは当然である。だからこそ信長は、寺院焼討、僧侶の火あぶり、キリスト教の導入も許した。しかし戦いの火を消すことは出来ず、因果の如く、本能寺の燃え盛る炎とともに、戦い取った地位も灰じんと帰し、自刃し果てたのであった。

 万松寺には運慶作といわれる毘沙門天像、明治十四年、明治天皇東北巡行のとき使ったオランダ製の大鏡がある。




 先代住職、阿古耶祖山は、慶応元年、下宝沢の石沢長治家に生まれ、万松寺に養われて、明治十八年住職となっている。御朱印六十石を徳川幕府から受けていたが、明治政府によって取上げられ、苦難な時代であった。食うか食わずの生活の中で、妻ももたず、百姓をやりながら寺を守った。しかし仏殿、山門、庫裡の屋根は腐れて雨もりした。

 朝から夜まで働いて、菜大根を作り、桑を売り、庫裡に蚕も飼った。寒中足袋もはかず、電気が来ても電燈もつけず、土地の所有が無ければ、寺を維持することができないと、金をためては土地を買った。そして三町歩の田畑が所有地となり、寺の修理復興を行ったのであった。

 ところが終戦後の土地改革によって、寺社所有の土地はまっさきに解放されてしまい、またもとの無所有に帰してしまった。白ひげをはやして田圃路をひとりで歩いていた姿がいまも目に見えるようだ。阿古耶祖山は昭和二十一年六月八日、八十四歳で亡くなっている。その師に入門して、平清水部落の平清水家から来たのが、現住職平清水千秋氏である。

…





参考URL:
鬼頭尚義「あこや姫伝説の諸相」説話から縁起へ
万松寺〜阿古耶の松〜


2015年5月21日木曜日

山寺の「根本中堂」と「日枝神社」 [山形]



根本中堂


〜現地・説明板より〜


山寺 立石寺と根本中堂

 山寺は、正しくは宝珠山(ほうじゅさん)立石寺(りっしゃくじ)といい、貞観二年(860年)清和天皇の勅願によって、慈覚大師が開いた天台宗のお山である。慈覚大師は、辺境の東北各地に多くの寺院を建立したが、立石寺の創建には特に力を入れ、明るく正しい人間を養成する道場を確立し、鎌倉時代には東北仏教界の中枢をなして、山上山下(さんじょうさんげ)三百余の寺坊に一千余名の修行者が居住、盛況を極めた。

 戦国時代、山内が兵火をあびて一時衰退したが、江戸時代には御朱印二千八百石を賜わって再び隆盛を見、宗教文化の殿堂を築きあげた。現在の立石寺は、境内三十五万坪(150万5,000平方メートル)の自然の岩山に、四十余の堂塔を配し、平安初期以来の山岳仏教の歴史を物語る、日本を代表する霊場である。

 正面の大きな建物は、国指定重要文化財の根本中堂(こんぽんちゅうどう)である。延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造(いりもやづくり)・五間四面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。

 堂内には、慈覚大師作と伝える本尊の木造薬師如来坐像をはじめ、文殊菩薩、飛車恩典などが安置され、伝教大師が中国から比叡山に移した灯(ひ)を立石寺に分けたものが、今日も不滅の法灯として輝いている。織田信長の焼打で延暦寺を再建したときには、逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を堂内で拝することができる。

あきらけく のちのほとけのみよまでも
ひかりつたえよ のりのともしび


招福 布袋尊
布袋尊のからだをなでて、願いごとをお祈りする。




日枝神社


〜現地・説明板より〜


日枝(ひえ)神社

 貞観二年(860)、慈覚大師の開山にあたり、釈迦・薬師・阿弥陀三尊を安置し、守護神とした。江戸時代までは山王権現(さんのうごんげん)といわれ、明治維新で村社となって、大山咋尊(おおやまぐいのみこと)を祭神としており、五月十七日に祭礼がおこなわれる。

 右側の大きな碑は、この地に行幸された大正天皇と、貞明(ていめい)皇后の記念碑である。後方の大銀杏(おおいちょう)は、慈覚大師お手植えと伝えられ、一千百余年の樹齢というその下には、高浜虚子・年尾の親子句碑がたっている。

いてふの根床几斜に茶屋涼し  高浜虚子
我もまた銀杏の下に涼しくて  高浜年尾


山寺の大イチョウ



〜現地・説明板より〜


市指定天然記念物
山寺の大イチョウ
昭和40年3月5日指定

 史跡名勝「山寺」の山内、山寺日枝(ひえ)神社境内の南東隅にあるイチョウの雄株です。根元の周りが約10m、地上1.5mのところの幹周りが9.6mを測ります。山形県内では、南陽市宮内熊野神社の大イチョウ、鶴岡市湯田川の乳イチョウなどと肩をならべるほどの巨木で、市内では最大のイチョウの木です。

 以前は、樹高およそ30mの主幹がありましたが、昭和47年9月17日未明の暴風によって、地上4mほどの上部で折損し、樹冠の大半を失いました。その後、数十年の歳月を経て現在のように樹勢は挽回し、山寺一円の守護神である日枝神社のご神木として、歴史の年輪を刻み続けています。

平成22年7月
山形市教育委員会




2014年10月2日木曜日

はだか地蔵 [山形・新山]


はだか地蔵

〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

 新山の延福寺参道左側の小堂に祀られている石地蔵は、裸体の坐像である。はだか地蔵は全国にも稀に見る姿であるという。奈良の伝香寺の地蔵は、ほんとうの丸裸であり、鎌倉の延命寺のはだか地蔵は、ころもも袈裟もまとっているという。

 いずれにしても裸地蔵は本来、自性清浄の徳を現わし、無我無心の童身のお姿で、信者の方がいろいろ装身具をお供えする慣わしになっている。お地蔵さんに頭巾を冠らせたり、よだれかけや腹巻を着させる民間信仰も、これから始まったらしい。



延福寺(新山)の参道に祀られている。

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

延福寺の裸地蔵

 延福寺参道の左側に、裸で坐っている地蔵さんが祀られている。衣を身につけない地蔵は全国でも珍しい。

 地蔵信仰は人々の苦を救うというよりも、後には、苦しみで死んだ人も地蔵として祀ることによって、その苦しみを再び受けないとする信仰に変化してきたようである(たとえば地区内でも、地蔵石像の両側などに死んだ人の戒名が彫られている)。中世以降はさらに、より人間に近い形の仏に救いを求めるため、裸地蔵が作られたものであろう。

 新山延福寺のお薬師さまは長禄二年(1458)、山形城主斯波頼宗(斯波兼頼の曽孫)の祈願所として薬師寺を建立し、別当の延福寺に新山村の領地百七石を寺領として与えたと伝えられる。本尊は薬壺を持った薬師瑠璃光如来で、特に眼病には霊験あらたかなこととて、村人は勿論、近郷近在からも厚く崇敬されたという。

 また、延福寺本堂前に観音さまの石塔がある。側面に有耶関(うやせき)と彫られている。明治の頃までは笹谷峠の八丁平に観音さまが祀られていたとのことなので、或はここに移されたのかもしれない。

 新山村は何時頃開けたものか明らかではないものの、古くは大同年間(806〜809)に荷山と称し、すでに七軒の民家があったという。古来から笹谷街道沿いにあることとて、おおよそ一千年以上を経ているものと考えられる。近世には宿場として栄えたが、前後三回(最初は弘化年間?、最後は明治十五年五月)にわたる大火災によって、全村がほとんど焼土と化している。最近まであった住居と馬小屋とを一緒にした曲屋(まがりや)も、この火災後建てられたものであるが、現在は皆無となっている。



2014年9月27日土曜日

法来寺 [山形・釈迦堂]





〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

法来寺と釈迦如来像

 大悲閣(唐松観音)の正面に当たって、馬見ヶ崎川原を挟んで、釈迦堂部落の屋並みが近くに見える。その河岸は「まま」と呼ばれる崩崖が続き、荒れ川馬見ヶ崎を象徴するかのように赤肌をさらしておった。今は国道286号線がその下を通り、「まま」は埋め立てられて元の面影は無くなった。

 下が淵になっている「まま」を昔は「まみ」と言った。これが馬見ヶ崎の語源であろう。しかし、馬見ヶ崎の語源にかかわる釈迦と白馬の伝説は別に伝えられている。部落の東端の老松繁る岩山の麓に、白馬山法来寺の高い屋根が見える。ここに三国伝来、日本三釈迦如来と伝えられる嵯峨野清涼寺式の仏像が安置されており、県の有形文化財に指定されている。この寺は室町時代の大日碑、仏足石などでも知られている。



白馬山 法来寺


〜現地・案内板より〜

法来寺

由来

 三国伝来の日本三釈迦如来の佛像が祀られるようになってから釈迦堂という地名が生まれ、それが白い馬に乗って来たことで白馬山の山号に、また、その法(お釈迦さまの教え)が法来寺という寺号にもなりました。

 はじめは馬見ヶ崎北(右岸)唐松に安置され、人々が祈願するとどこからともなく「馬のいななき」が聞こえ、大願成就するので、その辺一帯を「馬が見える崎」それとともに川の名前も馬見ヶ崎川と呼ぶようになりました。室町時代、法来寺は馬見ヶ崎川南(左岸)に移り、それにともない唐松の人たちも次第にこちら側に移り住むようになりました。

 法来寺はこのようにして、鎌倉以前の日本佛教の二大宗派の一つ天台宗を源流とし、一方の真言宗(南光屋敷を含む)坊跡を受け継いで成立し、現在は曹洞宗の寺院になっております。

平成十一年六月
紀識


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

白馬山法来寺

 山形市釈迦堂の東端、馬見ヶ崎をはさんで唐松観音の対岸に、白馬山法来寺がある。その開山は詳らかでないが極めて古く、初めは天台宗であった。そこに応永廿五年(1481)在室祐石大和尚が住持となり曹洞宗に改め、自ら開山となり、後本寺万松寺の三世となり、永享七年三月廿三日、入滅した。

 法来寺釈迦の伝説は古く、これを略記すると、長和二年九月九日、神僧図澄が釈迦如来の尊像を白馬に乗せこの地にやって来た。これより以前、平清水の郷民森山氏が軍吏に傭われ戦中に死んだ。唯一残された妻女は、亡父の霊を弔う為、尼となって唐松の地に草庵を結んだ。これを江滸(こうこ)尼公庵と称し観世音菩薩を祀っておった。これが唐松観音の創始とも伝えられている。この草庵に釈迦尊木像が安置され後釈迦ヶ峯に移った。その後さらに堂平に移った。当時馬見ヶ崎の北岸一帯を唐松と称し、笹谷街道はここを通り、道添いに唐松村の村落が長く連なっておったのである。

 神僧は深く尊像を崇敬し、万民の為め苦しみを無くして幸福に暮らせるよう願っておった。其の頃、処々に悪い病が流行して死亡するものが多かったが、この釈迦如来像に祈願すると皆病気の伝染を免れ、病気になった人もたちどころに快癒したので、崇拝するものが非常に多かった。人々が祈願をする時は、必ず何処からともなく馬の嘶(いななき)が聞え、その願いが叶えられた。それで誰が言いはじめたともなく、このお堂の前方一帯を馬見ヶ崎と称するようになったという。

 馬見ヶ崎の語源については種々の説がある。鳥居忠政が馬見ヶ崎川の堤防を築くとき、盃山で馬上から川原を見渡した、というのも一説だが、この時代より釈迦如来と白馬の伝説のほうが旧いようである。しかし、馬見というのはこの川岸の崩崖をママといい、ママの下の水が淵になっているところをマミということから出た名前とも考えられる。


源義家、法来寺の開基

 庚平五年、源頼義が安倍一族を征伐するとき、この釈迦如来に祈り、その霊徳によってこれを撃滅し、続いて寛治元年、源義家陸奥守兼鎮守府将軍となると清原真衡を助けて、武衡・家衡を討とうとして出羽の此地に来て釈迦如来像を拝し、大刀一振、願状一通を納めたという。

 その文に「如来調御の徳を以て一夫を殺さず、一鏃を費やさず、朝敵亡滅の証を見せ給え」とあり、再拝やや久しうして帰陣した。翌朝出陣のとき、空中に甲冑を着けた人馬がぞくぞくと進軍するのを見て、敵は大いに恐れ躁いで、収めることが出来ず敗走した。義家これを見て深く仏の徳に感激して、自ら「仏徳山法来寺」と書いた山額を掲げ、供田若干、山林数町を献じ、堂宇伽藍を建築する資金を寄附したので、壮麗な巨刹となった。それで義家を永く当時の開基とした。

 天治元年四月廿日、尊堂は天災で焼失したが、幸いに釈迦尊像は無事であった。


最明寺時頼、中興の開基

 建長三年、最明寺時頼、行脚の折、此の釈迦如来像を拝して一首を詠じた。

嵯峨與利茂 奈於最上奈留 古及茂登仁
心津久志仁 於加美奴留加奈

 此れを書いて宝殿に貼り、また供田を喜捨し、伽藍を造営させたので、時頼を中興の開基とした。其の後、嘉元二年に再び火災に罹り、寺宝典籍ことごとく焼失してしまった。尊像は再び難を免かれ、当時源義経の臣、亀井六郎重清の後裔、鈴木将監重知が郷民と相謀り、応永二十五年現在地に堂塔を築いた。ゆえに重知を法来寺再興の祖と称している。



釈迦如来立像の安置された蔵


〜現地・説明板より〜

山形県指定 有形文化財
木造 釈迦如来立像
昭和三十年十月二十五日指定

時代:鎌倉時代
像高:124.2cm
材質:桧
構造:割矧造


 本像は、平安時代末期〜鎌倉時代前半にかけて全国的に盛んに作られた「清涼寺式」木像です。「清涼寺式」とは、京都嵯峨に所在する清涼寺の本尊の釈迦如来立像から派生した造りの仏像を指します。

 本像の両手足の部分は後世につくられたものと考えられますが、胴体と衣紋の彫刻は、鎌倉時代仏像の特徴をよく表しています。

 釈迦堂地区は出羽国と陸奥国をつなぐ笹谷峠の西麓に位置し、古代からの交通路に面していたものと推定されます。鎌倉時代初期の仏像がこの地に残されていることは、古くよりこの地区に集落が形成されていたことを示しており、「釈迦堂」の地名もこの釈迦如来立像に基づくものと伝えられています。

平成十六年三月
山形市教育委員会


〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

三国伝来の釈迦如来

 釈迦堂(旧:山原村)の白馬山「法来寺(曹洞宗、旧:天台宗)」に、山形県有形文化財の「釈迦如来立像」がある。丈四尺一寸のダブタ式(ガンダーラ様式)で栴檀(せんだん)の香木に毘首羯摩(びしゃかつま)の作と伝えられ、優雅で美術の精巧を極め、嵯峨の清涼寺、大和の西大寺の釈迦像とともに古代三国伝来の「日本三釈迦」の一つと伝えられている。

 寺伝によれば長和二年(1013)九月九日、神僧図澄が釈迦如来の尊像を白馬に乗せて馬見ヶ崎川北岸の江滸庵(こうこあん)の草堂に持ってきた。後に釈迦ヶ峯に移った。霊験のあらたかな仏で、願が叶えられるときは何処からともなく「馬の嘶(いななき)」が聞こえたと。それ以来、この付近を馬見ヶ崎と呼ぶようになったという。

 前九年、後三年の役の折、源義家は釈迦如来像に大刀一振に願状を添えて戦勝を祈り、その甲斐によって安倍氏や清原氏を破った。仏徳により感激した義家は「仏徳山」なる山額と、供田(くでん)、堂宇建築費を寄進した。天治元年(1124)火災により堂平に移る。建長三年(1251)鎌倉幕府の執権、北条時頼(最明寺入道)が行脚(あんぎゃ)の際に立ち寄り、尊像を拝したという。慶長五年(1600)現在地に移った。

 この型の仏像を清涼寺式釈迦像といい、原像は天竺(印度)で、唐の唐聖寺を経て永延元年(987)日本にもたらされた。その特色は細目状の螺髪、美しい流水紋の衣紋、右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印を結ぶ。また、この清涼寺式(ダブタ様式)の木像釈迦像は日本に数十体あり、東北では仙台市八幡町の龍宝寺(真言宗、元:大崎八幡別当寺)に大永三年(1523)造立の一体(国重要文化財)と福島県喜多方市の大用寺(真言宗)に鎌倉時代末期作と伝えられる一体とがある。なお、釈迦如来像の宮殿(厨子)は京都の工匠、山本喜兵衛寛長が宝暦十二年(1762)製作したもので、18世紀中葉の貴重な作品である。

 法来寺の裏山にお釈迦堂があり(ただし今は取り壊された)、毎年旧正月十五日に御宝蔵から出された釈迦如来木像とともに一夜を過ごす「堂籠り」という奇習があった。この行事は元禄年間頃から続いてきたといわれ、女人のみならず関係者以外は一切立入禁止であった。昭和十年頃、文化財の木像が傷むのをおそれ、そのうえ、戦争も激しくなりつつあったので簡略化され、その後中止した。



註:文化財指定

当法来寺の釈迦如来木像については、昭和二年一月十七日に国宝に指定されるよう、曹洞宗管長の添書をそえて文部大臣あてに請願書を提出したが認められなかった。昭和三十年十月十五日、山形県有形文化財に指定。


註:

この釈迦如来木像の原形は、開封の唐聖寺にあり、これは天竺から渡来したものであり、永延元年(987)東大寺の僧、奝然が模刻して日本にもたらしたという。釈迦信仰の盛んになるにつれ諸国に同型式のものが拡まったものである。法来寺釈迦は、専門家は桧造りで鎌倉時代の作と見ている(横川啓太郎)。



仏足石

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 同寺境内に「仏足石」がある。仏足石とはお釈迦様の足跡を印したもので、もとは印度において仏像が作られる前に信仰の対象とした。日本には近世(徳川時代)からで、僧侶や庶民の厚い信仰がある。平石に両足(双足)、立石に片足(必ず左足)および立石に両足の三種があり、日本には百余、山形県には17(うち村山地方13)を数える。法来寺の仏足石は天保十三年(1844)施主石井孫兵衛(唐松観音別当)が霊苗(長源寺住職)を導師として造立した。立石に片足のもので県内では三番目に古い。


〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

釈迦堂法来寺 仏足石

 釈迦堂法来寺境内に立つ右足片足の仏足石である。下部に自然の盤岩で基台を据え、その上に六角形の基礎を置き、その上に小さな敷茄子を置き、その上に蓮座を置いているので、やや不安定に見える。蓮座に枘を彫って、その上に高さ72cm、巾40cmの板状の自然石に、上部に「仏足石」と刻み、その下に長さ47cm、上部巾20cmの右足を刻んでいる。足裏には中央に千輻輪、踵や指腹には三宝章、魚、虫などが刻まれている。「天保十五年甲辰孟秋 導師長源廿五世霊苗 施主石井孫兵衛」の年紀銘が刻んでいる。但し、天保十五年は弘化元年に当たる。


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

 法来寺の仏足石は、大きさ約100cmの油石に片足立に刻され、天保十五年造立、県下17の仏定石のうち第三番目に古く、曹洞宗系に属している。谷地町和田家の出で、長源寺等の住職をした霊苗が導師、唐松観音の別当で石工だった石井孫兵衛が施主となって造立したものである。



大日板碑

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

大日板碑(室町時代)

 法来寺の境内内に永享二年(1430)造立の種子「ア」の大日碑がある。これは約900年前、現法来寺の筋向い(笹谷街道北側)にあった南光屋敷(修験宗)の大日堂前から移したものである。


〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

釈迦堂法来寺 永享四年板碑

 釈迦堂法来寺境内に大小の丸石に囲まれて立つ砂岩の自然石の板碑である。地表総高1.36m、下部巾1m、厚さ下部40cm、正面上部一ぱいに円を刻み、その中に胎蔵界大日の種子アを刻んでいる。その下に「奉永享四□□十一月十九日」と判読できる年紀が刻まれている。円は日輪を表わし、密教の影響によるものであろうが、山形地域では珍らしい。


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

 約900年前、法来寺の門前の笹谷街道の向側に「南光屋敷」があった。ここに真言宗南光坊があり、源栄という修験が住んでおったという。源栄は天徳二年(958)沼原村の郷士、沼木綾之助の招きにより、同地に大日堂建立の際、其の堂守となった。後、富中(とみのじゅう)明覚院に移り、また鉄砲町の八幡神社の社僧となり、其の後代々その後を継ぎ明治に至ったという。

 この南光屋敷にあった大日堂前に、高さ150cm、幅100cm、花剛岩の自然石の大日碑があった。碑面は風化しているが、大きな円内に大日如来の種子アが刻され、永享二二年(二は横並び)と刻されている。今は法来寺に移されている。



縁起 苦集滅道

〜基台の刻文より〜


 縁起(えんぎ)とは釈尊の悟りの内容のことです。他と関係なしに単独で存在するものはなく、必ずいろいろな原因や条件によって成立しているということで、相互依存の世界をいいあらわしているのです(因果の道理)。

 因果の道理とは、原因があれば結果があり、因果の教えを人間の問題からみると、四諦(したい)の教えとしてとらえることができます。諦(たい)とは真理という意味です。


「八正道」
四諦(したい)の教え


苦諦(くたい)
人生は苦で四苦八苦

集諦(じったい)
苦しみの原因、煩悩や執着から愛の苦しみ

滅諦(めったい)
苦の滅した状態、涅槃の境地

道諦(どうたい)
苦を滅するための実践方法



座禅石


仏足石

人の生を
受くるはかたく
やがて
死すべきものの
いま生命あるは
有り難し

法句経




ものみなうつり
惣ておのれなく
このことわりを
信ずれば
心は常に
安らかなり

三法印




弟子たちよ
なんじらに告げる

自らを依り所として
法を依り所として
努め励めよ

長阿含経





境内を離れ、裏手の山へと向う。



西国三十三観音
奥の祠は「白山妙理大権現」







高台から山形県庁をのぞむ。



白馬にて

御法(みのり)の来る

いにしへを

聞くとうれしき

縁(えにし)なりにけり


法来寺 和歌三
読み人しらず



寺門前の案内地図


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

御釈迦堂
堂篭りの奇習

 法来寺の裏山に元禄年間、御釈迦堂が建てられていたが、その当時から伝わったと推定される旧正月十五日の堂篭り行事がある。これは民俗学的にみても珍しい行事で、女人のみならず関係者以外は立入り禁止で、お釈迦様のお祭り行事の中に、各家々の男子(後継者が主)が十五才になった年、大人の仲間入りをすること、即ち成人式と過古一年間の初婿のお祝儀を兼ね行う行事であった。

 毎年旧正月十五日の夕刻になると、寺の鐘が鳴り響く。これを合図に村の若者は思い思いに手作りの「すし」「煮しめ」「田作り牛蒡」「酢物」「果物」「菓子」等を詰めた重箱やびん酒を下げ、寺をさして雪道を急ぐ。びん酒とは若者中に入会する者や初婿が初集会のとき出す一升びんの酒のことである。梵鐘の無い時代は、初婿が太鼓をたたいて、村中を三度ふれ歩いたといわれている。寺の門前には提灯が暗闇に赤々とともしてある。客間にはいると上座から会長、役員、若年寄、中年、小若衆の各集団が指定の座に坐る。

 そこで各人の重箱やびん酒が記録され、役割が定められ約200m離れた裏山の御釈迦堂に篭るのである。ただし、忌中、産日中のものは不浄の者として寺篭りとして止められる。忌中は三親族の血族で三十五日間、産日は妻が出産後二日以内である。御釈迦堂は四間四方の宝形(ほうぎょう)造りであった。


 若者中が裏山のお釈迦堂に篭る頃は、すっかり寺の境内は暗につつまれ、寺の門前には「おさいと」の焚火が焚かれる。この日は三国伝来の釈迦尊木像の年一回の御開帳とあって、近郷近在の多勢の善男善女が集った。山形の町からも多数、遠い雪道を徒歩でお参りに来たものである。

 鐘を合図に、天をこがす炎の周囲に集まった多勢の参詣人の間をぬうて、寺の御宝蔵から四尺二寸の釈迦尊木像が寺僧に抱かれ、手に手に提灯を持ち、振鈴の音を響かせながら、世話人、村役、若者代表などを伴ない、御釈迦堂へ向う。その厳かな行列が、焚火の薄明かりの雪道を通る風情に神々しく、合掌してこれを拝する信者の姿とともに、炎の光にあかあかと輝り映えて、この時代に生きた人々の心に焼きつき、永遠に忘れ得ぬ郷愁をさそってやまない。


 御釈迦堂に篭った若衆は、行列の見え初めと、お堂の戸を開く直前に、一斉に歓声を挙げながらお堂の側板をたたいて歓迎する。その音は昔の印役村の小四郎家(約6km)までも聞こえたという。お堂の戸を開くと同時に、一同は一瞬の内にお堂の中の所定の座に坐り静粛になる。

 西方の玄関から入った寺僧は、正面の壇上に釈迦尊像を安置する。直ちに寺僧のお経が誦えられる。やがて寺僧のお経が終り一同礼拝を終えると、寺僧は内陣に坐り、一同は堂内の中央を空けて周囲に坐る。世話人・村役はお神酒を頂戴して引き上げる。

 新入の若者は、かすりの着物を着て初婿と一緒に役員の前に坐る。まず、会長によって議定証文(後世は消防団会則も)が読まれ、新人の若者が署名・指印をおすのであった。次に初婿と新入の若者の紹介が終って、婿祝儀が始まる。まず一同お祝いの謡を三つ謡う。一つ謡うごとに役員と初婿がお神酒を取り交し、おなじょうぶが酒を注ぐ。

 次に「さんそつき」という行事を行う。それは初婿の頭を南に向けて仰むけに寝かせ、その周りを若者が取りまき若衆は左廻りに三回廻る。続いて皆んなで初婿を持ち上げ「さんそ、さんそ、さんそ」と掛声勇ましく初婿を胴上げする。続いて、昔は「おっつけます」という行事を行ったという。それは若衆が釈迦堂村と枝郷の唐松村の二手に分かれて、押し合いをやることで、勝った方から名主を出したという言伝えがある。後にはこれが角力に変り、また腕角力に変り、やがて消滅したという。

 最後に「神盃(じんぱい)」という行事にうつる。「神盃」は、黒い大椀を役付等七人が各一個づつ持ち、会長は大声で「神盃一回」と音頭を取ると、一斉に大椀を転がす。自分の前に大椀が転って来ると、その大椀になみなみと「おなじょうぶ」に酒を注がれて一気に飲みほさねばならぬ。下戸は近くの者に助けてもらうことになる。神盃は七重・八重といって七回・八回位転がされ、一同はいい気嫌になるころお開きとなる。その後は自由に無礼講の酒盛となる。歌も出れば踊りも出る。太鼓もたたく。徹夜で飲み明かすのである。

 翌朝暗いうちに世話人、村役が迎えに来ると、また朝の神盃を繰返し、暗いうちに行列をつくってお釈迦さまは帰って行き、行事は終わるのである。朝帰りの行列を途中で迎え、礼拝する参拝者も多数あった。


 なお、昔は住持が新人の若者に対して「あんもらやー、きんもらやー、あかすぢはったか、どきん、どきん、云云」とかいう呪文を唱えて、男性のシンボルを「おのがら」で挟んでくれたと言い伝えられている。これは外国の宗教行事の「割礼」に似ているし、前記「さんそつき」は、南洋の土人の行なう婿いじめの行事にも似ている。

 なお「おのがら」とは青苧(あおそ)の茎のことである。呪文はおそらく梵語であったと考えられるが、後で若衆が替文句を作ったのだろうと考えられる。農村の若衆らしい素朴さが感じられて面白い。

 昭和十年頃この行事の為、文化財の釈迦尊木像が傷むのをおそれ、行事は簡略化されてしまった。