蔵王温泉の共同浴場3湯の、ほぼ中央に位置する。 |
蔵王温泉「霊泉」碑 |
斎藤茂吉筆「霊泉」 |
〜現地・案内板より〜
斎藤茂吉
霊泉碑
"Reisen" Stone Monument
山岳信仰で名高い蔵王のお山、蔵王のお湯は神聖な山に足を踏み入れるときに身を清めたと言われる大切な湯泉です。
This monument was built in 1971. The original calligraphy was drawn by poet, Mr. Mokichi Saito while he stayed at Wakamatsuya ryokan in 1933.
アララギ派の有名な歌人、斎藤茂吉は蔵王の麓、上山市に生まれています。
昭和8年、茂吉翁50歳、旅館・若松屋に逗留時に「霊泉延年」と書いた書より「霊泉」の部分を縮小コピーし、先代・長右エ門氏が昭和46年に建立。
現・長右エ門氏の曽祖母、おわかさんは茂吉翁の養父(青山脳病院の斎藤紀一博士)の姉、おわかさんの長男・平六氏と茂吉翁は同年 輩、ともに机をならべ勉強した間柄。
昭和16年5月1日、58歳のときにも若松屋に逗留(2泊)。龍山に登りながら10首、山頂で9首の句を詠んでいます。
〜 岩波書店『斎藤茂吉全集 第3巻』「霜」より 〜
四月三十日、赤湯を立ち上山温泉山城屋に著く。
五月一日、上山を立ち山形を経て高湯温泉(蔵王温泉)なる龍山に登る。高橋重男、同道せり。
ここにして蔵王(ざわう)の山はあら山と常立(とこた)ちわたる雲(くも)見つつをり
ひさかたの天(あめ)はれしかば蔵王のみ雲はこごりてゆゆしくおもほゆ
桜桃の花しらじらと咲き群るる川べをゆけば母をしぞおもふ
春ふけむ五月一日しら雪は澤のひだりに消えのこりたる
しろ妙(たへ)の雪をかかむる遠山(とほやま)がをりをりに見ゆ木立(こだち)の間(かひ)に
うつせみの胸戸(むなと)ひらくるわがまへに蔵王は白く雁戸(がんど)ははだら
いきほひて山の奥よりながれたる水際(みぎは)しづかに雪は消残(けのこ)る
いつしかも笹生(ささふ)ひたしてこの谿(たに)の雪解(ゆきげ)の水のあつまるあはれ
消(け)のこれる雪は笹生(ささふ)のうへにして春のふかみに日ごとに解(と)けむ
雪ふみていゆく春山(はるやま)のしづかさに光をかへす雪のうへより
龍山のいただきにありて
蔵王よりなだれをなせる山膚(やまはだ)に白斑(しらふ)になりて雪消(き)えのこる
羽前(うぜん)なるあまそそる山いまだかもそともの雪かげともの雪
山の峰(みね)たかみに低くなりゆきて笹谷峠(ささやたうげ)は其處(そこ)にあるはや
雁戸(がんど)よりひだりに低くなりゆきし笹谷峠(ささやたうげ)は愛(かな)しきろかも
蔵王(ざわう)よりひくき雁戸(がんど)のあゐ色をしばし戀(こほ)しむ雪のはだらも
絲のごとき道の見えをる山越えてわきいづる湯に病(や)み人(びと)かよひき
しらじらと川原(かはら)がありてその岸にわが生(あ)れし村の杉木立(すぎこだち)みゆ
生きものの膚(はだへ)をなせる山むらにまだらに雪の白きかなしさ
斑(はだ)らにし消(け)のこる雪をさやりなく見つつやうやくに高きゆ下(くだ)る
山をくだりて若松屋長右衛門方にやどる。
瀧山山頂に立つ「斎藤茂吉歌碑」 |
「山の峰たかみに低くなりゆきて笹谷峠は其處にあるはや」 |
斎藤茂吉『霜』
昭和26年12月20日、第1刷岩波書店発行。アララギ叢書第150篇。昭和16年および昭和17年の作歌のうち、戦争に関係のないものを選んで、863首を収めてある。
著者の日記によれば、この期間の作歌は、昭和16年8月、昭和17年7月、9月およびそれ以降に整理清書され、はじめ「いきほひ」(昭和16年作)、「とどろき」(昭和17年作)の二歌集に編輯されてゐたのであるが、敗戦後の出版事情により、戦争関係の歌を削って、「霜」の一冊にまとめたのであった。
〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜
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茂吉は生涯、どのくらい山に登っただろうか。山が、茂吉にとって何であったかを考える前に、山に刻んだ茂吉の足跡をたどってみよう。
茂吉の父、守谷伝右衛門は、からだこそは小柄だが、脚は達者で「道中自慢」らしかった。茂吉は山に登るとき、かならずといっていいほど脚絆(きゃはん)をきちんとつけ、草鞋(わらじ)を穿いた。その身構えは、また心構えでもあったろうが、父ゆずりのものといえよう。
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強い山岳信仰を抱いていた父の影響で、茂吉は郷里の月山や蔵王山などを神在(い)ます山と考えてきた。そういう山々に茂吉はきまって、脚絆に草鞋ばきのいでたちで登っている。
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男の子が十五歳になると初詣をさせる慣(なら)わしがある。たいてい出羽三山つまり月山、湯殿山、羽黒山という修験の山がえらばれた。
茂吉は明治29年(1896)十五歳の七月、父に連れられて初詣をしている。このときは湯殿山に詣でただけであったが、汽車の便もなかったから、金瓶(かなかめ)の家から歩きずくめ、本導寺という村へ着いて一泊した。白い晒木綿(さらしもめん)の装束をつけた行者姿で行くのであるが、食べるものも精進料理で、納豆に豆腐汁といった簡素なものだった。宿坊では出立にあたって水垢離(みずごり)をとって身を清める。
そのとき茂吉の父は四十六歳であったが、すでに腰がまがっていた。けれどもなかなかの道中自慢で脚には自信があった。第二日には志津(しず)まで行き、そこで先達(せんだつ)を頼んで登った。折あしく天気が崩れて、風つよくどしゃ降りの雨となった。笠が飛び、茣蓙(ござ)もちぎれそうになる。その中を「六根清浄(ろっこんしょうじょう)、御山繁昌(おやまはんじょう)」と唱えながら登って行く。湯殿山神社には尾根をひとつ越えた谿間(たにま)にある。そこまでは氷の張りつめた崖があり、鎖につかまっておりる岩場がある。氷の谷にさしかかったとき、強い風が吹いてきて転びそうになった。父は後から歩いていたが、鋭い声で
「茂吉、匐(は)へ。べたっと匐へ」
と叫んだ。茂吉は氷の上に匐った。そのときのことが忘れられず、のちに『念珠集』の中に書きとどめている。
湯殿山の御神体は巨大な岩である。赭(あか)らびた岩肌からこんこんと湯が湧き出して、岩ぜんたいを濡らしながら流れおちている。雨でびしょ濡れになってたどりついた茂吉と父熊次郎は、このふしぎに妖しい岩に向かって手を合わせた。帰りは志津に泊って衣類を乾かし、荒天の初詣をすませた。
その茂吉が、昭和5年(1930)七月、自分の長男茂太が十五歳になったので、連れだって三山詣をしている。父が教えた慣わしを忠実に承(う)けついだのだ。
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