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2016年11月29日火曜日

南無阿弥陀佛碑と見返り滝[蔵王]



南無阿弥陀仏碑


嘉永二年(1850)五月吉日





〜現地・案内板より〜


南無阿弥陀仏碑
嘉永二年(1850)
初代 孫七 書


川沿いに建つこの古い石碑は、旧高湯村入口に建立されたもので、村人・旅人の安全を祈願したものです。

「一切衆生平等利益」
Wishing for fairness and goodness of people

当時の面影を残し、現在も温泉街と人々の安全を願っております。



高湯温泉(蔵王温泉)のパンフレット絵図


蔵王三山


温泉街


龍山



〜現地・案内板より〜


どんどんびき(見返り滝)
Dondon-biki(Mikaeri-taki)

この川(酢川)は、温泉と山水が混ざり、温かい川になってどんどんと音を立てて流れており、この場所は通称「どんどんびき」と呼ばれています。

This river water consists of quite a bit of hot spring water and mountain water, and it becomes rapid stream around this area. This place is known as Dondon-biki, by the local people, because the stream makes a roaring noise sounds Don-Don.

その昔、子供たちが悪いことをすると「ここから放り投げるぞ」と言われた場所です。

In the past, when the children misbehave, the parents used to say "You will be thrown out to the Dondon-biki so behave yourself" to their kids.

また、元来この滝のあるところが温泉街の玄関口であったので、お客様が帰り際にもう一度温泉街を振り返る場所ということから、この滝が「見返り滝」と呼ばれていました。

Also, a long time ago, this area was the gateway of Zao-Onsen, the river used to called "Mikaeri-Taki (Turning around Water Fall)" as people turn around the Onsen village one more time before leaving.



どんどんびき(見返り滝)


大正8年 電燈が灯ったころ


羽州村山郡 最上高湯村 温泉之図 (弘化二年)




2015年10月8日木曜日

三本木沼 [山形市西蔵王]



山形市西蔵王、三本木沼



〜現地・案内板より〜


三本木(さんぼんぎ・ぬま)と野草園


 山形市の学校の遠足地として市民の行楽地として親しまれている三本木沼は、中桜田と桜田が管理する溜井である。この付近からは縄文期の赤焼土器が採集され、住居跡も確認され、上代の住民の生活を知る貴重な資料となっている。

 瀧山山麓には、三本木沼をはじめ二十有余の湖沼が点在して、田圃の灌漑等に利用されているばかりでなく、以前は凍結した氷を切り出し、雪むろに蓄え、夏に山形市の病院や魚店などに売り出したものである。即ち、採氷湖の役割をもっていた。今では人造氷の出現により、氷雪も雪むろもすっかり姿を消してしまった。

 この湖沼群の湿地帯を活用した一大野草園が、山形市によって造営され名所が一つふえた。また、三本木沼周辺には、県立西蔵王公園がつくられ、一大レクリエーション基地として、大きな役割を担っている。

歴史の散歩道
滝山地区町内会連合会



水面に映るは、西蔵王のテレビ塔


釣りのメッカでもある


石碑「西蔵王観光 発祥の地」
山形県知事 高橋和雄 謹書



〜現地・石碑より〜


 この三本木沼は、元禄八年(1695)山形藩主松平下総守により、桜田一帯約58ヘクタールの田畑を潤す灌漑用水として築かれました。以後部落民の生命の源として、現在は桜田水利組合に依って維持管理されております。

 戦前戦後の頃から、西蔵王観光の拠点となり、山の精気を求め学校の遠足やハイキング等、市民の憩いの地として広く親しまれて今日に至りました。

 この碑の建立にあたり、尾原儀助氏の絶大なるご支援とご配慮を賜り又、西蔵王高原開発の祖として尽力された左記の方々に永く敬意を表し名を刻します。

峯田良藏 前田光雄 荒井貞雄 丹野保信 鈴木萬一 大内小一郎 小野博好
梅津初雄 山口藤雄 佐藤吉助 中根正昭 塩野政太郎 羽角喜代春 佐藤正

平成十一年四月吉日 建立
西蔵王観光協会々長 佐藤小太郎



西蔵王の詩 佐藤小太郎

”唐鍬を手に耕し続けて幾百年自然の織りなす風土の中で

竜山下しの冷たい風と情熱が美味な野菜を育てます

おらが自慢の高原野菜”




背後にそびえる瀧山、旭日がのぼる




2015年9月21日月曜日

菅谷大聖不動明王 [山形県門伝]



菅谷大聖不動





菅谷 大聖 不動明王

〜現地・案内板より〜


菅谷大聖不動明王


不動明王は大威力あり、大悲徳のゆえに金剛の磐石に座し、大智徳のゆえに大火焔を現じ、大智の剣をとって貪瞋痴(とんじんち)を害し、三味の索をもって難伏の者を縛す。

不動明王は大日如来の化身という。眼病を治すご利益があると信じられてきた。


<不動真言>

なうまく さあまんだ ばあざらだん せんだ
まかろしやだそわたや うん たら たあかんまん



清らかな湧水






2015年7月2日木曜日

水方不動尊 [山形市柏倉]



かつての参道は草木に埋もれている

石柱「姥ノ神」



〜鹿間廣治『奪衣婆―山形のうば神』より〜

水方不動尊参道 山形市柏倉

 ここにお参りに来た人の何人に一人が奪衣婆のいることに気づくだろうか。百人に一人? いやいやもっと少ないに違いない。「姥ノ神」と彫った石柱があるが、それさえも目につかない。参道から大して離れていないが、杉と雑木の暗い林の斜面に座っている奪衣婆は、よほど注意して探さないと見つからない。かつては、きちんとした階段か道がついていたのだろうが、今はその跡すら無い。

 でも、奪衣婆はこれを悲しんでいるのだろうか。ひょっとしたら、かえってせいせいしているのではないだろうかとも思った。心にもない見せかけだけの人には会うだけでも煩わしく、それよりはたった一人でもいい、本当に会いたい人だけが来てくれればいい。そう思っているようにも見えた。口元には笑みさえ浮かべている。


鐘楼

「前鐘は昭和十七年、大東亜戦争に供出しましたが
各地区民の執意により
部落平和学校進学交通安全商売繁盛を祈念して奉納されました
昭和五十一年十二月十八日」


水方不動尊

〜現地・説明板「西山形の散歩道」より〜

水方不動尊

柏倉陣屋の御典医・中村文哉が文政12年(1829)、屋敷に奉っていた不動尊を現在の地に移して村人の病気平癒を願いました。その子・周七は法印の修行を積み修験となり与勝海と名乗り明治9年、水方不動尊の行屋を建てなおし、父の意志を継ぎました。水方不動尊は特に目の病に効き目があると言われています。

ご縁日 毎月18日

西山型振興会



石碑「不動尊縁起」
不動尊縁起

明治廿七年旧十月十八日

文政十二年中村文哉…
尊像ヲ得テ彼ノ處ニ安
置シ奉リ而シテ永ク天下
泰平志願成就ヲ祈…
二世安楽ノ為ノ諸…
結縁ヲ仰ギ□ヲ祈…

行者…


本堂

本堂奥の水場

線刻・不動明王


〜西山形振興会『西山形の散歩道』より〜

水方不動尊

のうまく さんまんだ ばさらだんかん

 不動尊は昔から不動明王とも呼ばれて民衆の信仰を集めてきましたが、火焔を背にして右手に剣を持ち、誓願によって素生と苦楽を共にすると言われてきました。

 文政十二年(1829)堀田藩柏倉陣屋の御典医であった中村文哉が同家に安置していた不動尊の古い木造を村民の信仰と病気平癒のためこの地(大森山北東の谷間)に遷座を発願したと伝えられています。

 文哉の息子、周七(結城家に婿養子に入る)は五十歳のとき病気にかかり、その回復のため明治三年、大井沢の湯殿山道場に出掛け祈祷を受けて自分の病気の癒されたのに深く感動して、其処で引き続き厳しい法印の道の研鑽と修行を重ね、ついに与勝海という名を頂くようになった。また、彼は大井沢滞在中、六里もある朝日登山道を開き、その道が今も顕然として残っていると言われております。

 こうして健康を取り戻し柏倉に帰った周七は、父・文哉が遷座した不動尊を奉戴し、明治九年には其処に行屋を新築して、民衆のために諸願成就や病気の平癒・安産などの祈祷の社としたのであった。近隣の村々から多くの信者や参詣の人々で賑わっていたが、明治三十八年、周七は二男・周助に法印の道を授けて湯殿山に帰るのであるが、同四十年九月二十六日、八十六歳の天寿を全うして大往生を遂げた。戒名を与勝海善行天徳という。

 水方不動尊は明治十九年、世話方ができ多くの信者からの浄財で三間四面の回廊付きの拝殿が建立され、益々信仰者の参詣を多くしたのであります。周助は大正五年に老齢の為この世を去った。その後に勘五郎という法印が着座したが、わずか二年で退座したとか。

 また大正十三年、柏倉宿の黒田清次郎は行屋の倒壊したのを嘆き、これを再建すると共に翌十四年には立派な鐘楼堂を建て、大きな梵鐘を吊って国家の安泰を願った。其の後、時代の変遷にともないながらも村人や近村の方々に支えられては来たが、何せ戦前戦中の長いこと多湿地の社屋は雨雪風に晒され、いたみは烈しく荒廃の一途を辿るわけですが、昭和四十六年になって宿部落の志田義男・斎藤正志・斎藤繁・結城和諸氏をはじめとする庚申講の方々の、ひたすらな願を込めた努力は大衆の心を動かさずにはおらず、多くの浄財のご寄付をいただき本堂と拝殿を再建することができたわけです。

 拝殿の南斜面に文哉と其の妻(周屋文哉居士、月光正円大姉)の墓が残っている。参道を少し登り始めた右側の山中に姥神も祀られている。祭日は四月十八日です。

(結城義吉『水方不動尊縁起と記録』より)




2015年6月10日水曜日

蔵王権現 [山形市・蔵王ダム]









〜現地・銘板碑より〜

蔵王ダム水神碑

 霊峰蔵王に源を発する馬見ヶ崎川は山形市文化の象徴である。この水によって豊かな扇状沃野が展開し住民の生産と福祉が築かれてきた。

 自然の威力は時によって洪水となり旱魃となって我々の先祖は水を治め水源を護るために多くの苦労を重ねて来た。幸い蔵王ダムの完成によって近代水利の基盤が確立された。

 ここに山霊を静め水を護るために古来尊崇された宝沢蔵王権現の分霊を勧請して水神に奉祀し永く神の恩恵に感謝を捧げ将来の鎮護を祈念する所以である。

後藤嘉一謹拱
昭和四十九年五月十日

世話人

御神体奉納者 佐藤清三郎
笹堰水利組合 代表 富塚忠左エ門
御殿堰城濠土地改良区 理事長 鈴木忠一郎
八ヶ郷堰土地改良区 理事長 斎藤信雄
宮町堰土地改良区 理事長 長岡弥四郎
双月堰水利組合 組合長 荒井良三
御神体製作者 鈴木孝佳
工事請負 羽黒建設 武田登
銘板製作鋳造 鈴木綱一








2015年6月6日土曜日

請雨塔・普潤碑 [山形市・羽竜沼]


請雨塔

普潤碑



普潤碑

羽州最上之地累 嵗旱魃而耕種不登百穀苗稼悉欲枯増也 矣因茲當地民生 杓愁攅肩也
依 請萬松全牛和尚嗣子鐡山具壽合請雨具壽來于斯數 回祈雨毎祈雲雨忽□山陸普潤石
穀穫登依是建於斯碑遺功于千載也予此嵗來于茲祭神龍如在之供證共功蹟者也

銘云

累嵗旱魃 百穀不登 苗稼枯稿 民生誰憑
山老斯來 祈雨雲興 雲雨霶霈 普潤丘陵

維時安永七嵗戊戌(1778)八月穀且 千嵗山萬松現住叟俊記焉


出岫閑雲絶所求 無心片々倚山頭 降甘雨有神龍力
一□灑時邱海流     前萬松 牛鐡叟書
            請雨武州人事鐡山建焉


※千嵗山萬松寺 第拾八世 鐡面全牛和尚 寛政四年八月九日寂
※千嵗山萬松寺 第拾九世 寂叟知俊和尚 天明二年四月朔日寂


瀧山、羽竜沼のほとりに建つ




2014年10月29日水曜日

玉虫沼 [山形・山辺]


玉虫沼

〜現地・案内板より〜

 玉虫沼は、応永年間(1394〜1428)に高楯城主・武田信安公により溜池(ためいけ)として築堤され、約600年間、山辺の里をうるおしてきました。一帯は山辺西部湖畔自然休養林に指定され、春の新緑から秋の紅葉と、四季折々の自然を満喫でき、ヘラブナ釣りのメッカとしても有名です。また、地元放牧場では生ラム肉ジンギスカン用のサフォーク種緬羊が飼育されています。玉虫沼からは、湖畔の遊歩道、玉虫森林公園のせせらぎ広場を通り、作谷沢「民話の里(まんだらの世界)」へと続いています。



玉虫明神

明神さまと「笠松」

沼ごしに笠松

周遊歩道

朝日に輝く



〜現地・説明板より〜

伝説
玉虫姫物語

 昔々のこと、山野辺(やまのべ)のお城に、玉虫(たまむし)という大変美しく動作もしとやかな娘が奉公していた。玉虫は働き者で、殿様からも奥方様からも非常に気に入られ、台所の仕事を仰せつかった。とくに玉虫の炊いたご飯は、良い香りがしておいしいのでした。また、玉虫の美貌は、お城勤めの若侍のあいだで評判がたち、「誰が彼女を射とめるだろうか」などと、大した人気でした。

 玉虫があまりにかわいがられるので、他の女中たちは妬むようになった。誰が言いふらしたのであろうか、「玉虫は殿様に蛇を入れて炊いたご飯を食べさせている」との噂が立ち、たちまち城中に広がった。そんな噂が身近に漂っているとは露知らない玉虫は、朝夕の仕事もまめまめしく働いていました。奥方はどこまでも彼女の味方であったが、玉虫の疑いを晴らすためにも、はっきりした証拠を見ておこうとした。

 ある朝、奥方はこっそり台所にしのんで、彼女が炊いた釜飯の蓋をとって見た。釜の中には白い蛇がとぐろを巻いたままで湯気を立てている。今までは信じ切っていた奥方は、一気に気力が抜けて目がくらむばかりであった。そして、その夜のことである。玉虫の姿は城中から消えてしまった。玉虫の遺骸が玉虫沼に浮いていたのは、その翌日であった。

 玉虫沼に何時行って見ても、水面が清らかに輝いているのは、玉虫姫が毎朝早く掃除をするからだ、といわれている。五月二十一日の玉虫明神様の御縁日に、東の空のほのぼのと白むころに行って見ると、玉虫姫が御殿勤めのときの美しい姿で水面を掃いている姿を見ることができるそうです。そして、これを見た人は一生幸運に恵まれるという。

武田泰造著「山辺夜話」より



親水広場

農林水産省「全国ため池百選」平成22年6月




2014年10月1日水曜日

清水観音 [山形・西蔵王]


西蔵王高原ラインから
少し山に入ったところに

清水観音への鳥居がある。

「奉拝 清水観世音」
「右 観世道 左 山道」

「明治四十五年七月吉日 施主 石沢弥三郎 石工 荒井永三郎」

山道をしばらく進む

右手の谷下には
清流が流れている。

お堂が見えてきた。

「清水観音堂」


〜現地・案内板より〜

清水観音と八森

 源頼義が前九年の役の勝利を祈った清水観音像を、この地に残して凱旋したと伝えている。とくに蚕の安全飼育を祈って大勢の参拝者を迎えたという。

 本尊は故あって平清水観音に移ったと伝え、現在の本尊は地区の有志によって奉納された観音菩薩である。京都の清水寺に照会したところ、本尊は秘仏であるから分からないが、伝えるところでは「清水式十一面千手観世音菩薩」と言われていると、写真を添えた返書があった。

 また、下八森の山神神社からは、寛正四年(1463)医王山瀧山寺で祈攸した板札が発見されており、近くには水月庵・山境坊三蔵院などの寺跡・坊跡を伝え、また近くの山中には風穴があり、近年まで養蚕家の人達に利用されていた。

滝山地区振興協議会
平成三年度 宝くじ助成品





御堂の左手に水場

岩づたいに清流がしたたる。



八森清水観音 御詠歌

松風や
音羽の滝は
清水の

むすぶ心は
涼しかるらん



西蔵王高原ラインから
清水観音入口の風景

〜滝山地区町内会連合会「滝山地区 歴史の散歩道」より〜

清水観音

 清水(きよみず)観音は、源頼義(義家の父)が前九年の役(永承六年〜康平五年、1051〜1062)に勝利を祈願した清水観音像をこの地に祀り凱旋したと伝えられている。

 本尊は、京都清水寺と同じ系列の「十一面千手観音菩薩」という。故あって平清水観音堂に移ったと伝えられている。現在の本尊は、地区の有志によって奉納安置されたものである。蚕の安全飼育を祈る養蚕家の信仰が篤いといわれている。

 ここは宝沢越えの道が通っているが、いまは利用されていない。




〜『わがさと平清水』より〜


平安もなかばの頃になりますと、東夷の大酋長(陸奥の六郡を支配していた)安倍頼時は協定をやぶって、衣川を越えて南進をはじめ官物などをかすめるようになります。

国守・藤原登任は永承六年(1051)、安倍頼時を討伐をこころみるも、あえなく敗退したので、政府は源頼義を陸奥守に任命し、討伐のために急ぎ下向させました。安倍一族は軍兵を率いた新国守におどろき、しばらくは平穏でありました。

しかし国守になれてくると、乱暴をはたらく者があらわれましたので、捕えてみれば安倍頼時の子、貞任(さだとう)でした。源頼義は法にもとづき貞任を処罰しようとしたところ、安倍頼時は大いに怒り、一族郎党をあつめ衣川の柵によって国守に反抗したのであります。

官軍は苦戦をしたが、政府は討伐の命令をくだしたのであります。これが天喜丙申四年(1056)八月のことで、その年の12月、源頼義をふたたび陸奥守に任じました。そして九年のあいだ、奥羽は戦乱の日々となります。家を焼かれ田畑は荒れ、住民は飢えるという生き地獄さながらであったと思われます。



源頼義は幾度か敗退しましたので、出羽の酋長・藤原武則に助けを求めましたところ、一万の軍勢を引きつけて参加したといわれます(官軍はたった三千の軍)。

その結果、源頼義によって衣川柵は落され、安倍頼時は流れ矢にあたって討死し、安倍貞任(さだとう)と宗任(むねとう)は辺境の厨川柵まで押され、貞任は敗死、宗任は捕えられて京の都で見せ物にされたあと、四国へ流されたのであります。国史にいう

年を経し 糸の乱れの苦しさに 衣の盾は綻びにけり

宗任(むねとう)は京の人々に梅の花を差しだされ、「蝦夷の鬼にはわかるまい」とからかわれたが、

故里の 梅の花とは思えども 大宮人はいかがいうらん

と答えたので、感じ入ったといわれています。



この戦役の後、源頼義将軍は平清水の新山に、賊徒平定、官軍の大勝、民衆の平穏を祈って、京都の清水観音を勧請(神仏を遷し祭る)し堂宇を建てたといわれています。現在は耕龍寺観音堂に安置されている十一面観音像が「新山以来の御仏さまである」と伝えられています。

また、このときに従軍してきて平清水にとどまったといわれる、浅野、丹羽、渡辺、奥山の各氏があって、のちの後三年の役でとどまった高橋、佐藤、斎藤の各氏をあわせて「平清水七軒家」と呼んだといわれていますが、比較的に新しい時代の姓氏もあるので、当時の土着説には疑問点もおおいと思われます。