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2014年9月30日火曜日

高房神社の石鳥居 [山形・高畠町]



高房神社の石鳥居


〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜



高房神社の石鳥居


所在:高畠町北和田
様式:明神系八幡鳥居
年代:平安後期〜室町時代
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:総高3.23m、柱径0.72m、柱間2.27m
指定:県指定有形文化財
位置:37°57'27.0"N 140°12'11.0"E


 山形県の南端に置賜盆地が位置し、その中央部を飯豊山脈に発する最上川が北に向かって流れだす。盆地の東側の山麓には日本三大文殊として有名な亀岡文殊堂がある。そして、亀岡文殊堂から東南2kmほど離れたところに、優美な曲線をした山がそびえ立つ。地元では堂山と呼ぶ聖なる山である。

 高房神社はこの堂山の南面に鎮座し、石鳥居は神社の南の入り口に建てられている。高房神社の現在の宮司によると、本来の鎮座地は福島県方面の山奥で、今の上和田高房と字窪と呼ばれるところに鎮座していたという。その後、現在の地へ遷座したわけで、以前のところを一ノ宮と二ノ宮、そして現在地を三ノ宮と称しているという。


 一材からなる笠木と島木を太い柱が支える石鳥居は、村山地方における古式石鳥居群と同じく横に長いかたちをしている。笠と島木部分が船のような緩やかな反りを示すのは、天童市荒谷の清池の石鳥居とに類似する。また、貫の外は島木の端よりも短く、柱の上段部に台輪を設けている。この台輪は室町以降の鳥居に見られる八幡鳥居の特徴的な要素と見るべきであろう。

 だが、柱には転びがなく、左柱は二材つなぎの構成となっている。この他、台輪の彫りが浅いうえ、貫は笠木と島木を合わせた高さに近い。このため、一般的な鳥居の様式と比べて相対的に太い印象を与える。台輪部を除いてこれらの特徴は、村山地方の石鳥居に通じる、横長のどっしりとした古い様式を覗かせている。


二材つなぎの「左柱」

 これに加えて、左材が二材つなぎとなっているのは修理の跡なのか、それとも製作当初のものと見るべきなのか。接合面は精巧に削られ、高い平滑度を保っているうえ、左柱上段の貫刺し部分の風化が比較的に少ない。これに対して反対側の右柱では、貫刺し部はすでに大きなヒビが入り、風化による痩も進行している。これだけ両柱の風化の度合いが違うのは何故だろうか。

 さらに、通常の石鳥居では、組み立て易くするために貫穴の方を貫より幾分大きく掘りだす。しかし、ここでは真ん中の刺し穴よりも寸法が大きく、差し込み部分だけ細くしている。また、左右の貫と中央の貫の寸法がだいぶ異なっており、構造的なバランスに欠けている。このような不自然な形状や異なる寸法は、すべての部材が同一時期のものではない可能性を示唆している。つまり、時代変遷にともなって部分的な改変があったのではなかろうか。


島木前面にみられる「等間隔の3つの穴」

 鳥居の形状と関係して目を引くもう一つのところは、島木の前面に見られる、同間隔の直径10cmほどの三つの穴である。凝灰岩は火山灰の堆積した岩石で、運搬された岩石粒子を多く包含する。運搬環境や条件が揃っていた場合だと、等間隔の岩石包含状態を示すこともある。凝灰岩が平地で形成した場合だと、岩石は水平の堆積方向を示す。通常はこれを水平方向に沿って切り出して鳥居の部材に用いる。この際、表面に露呈した大きい岩石粒子は、比較的に容易く剥落を生じ、三つの穴は岩石自身の素性に由来する可能性が十分にある。

 一方で、等間隔、同径という側面から、意図的な穴の可能性も排除できない。岩石の素性に合わせて意図的なデザインの可能性も検討すべきであろう。これに関しては、伊東忠太(1867〜1953)という地元出身の建築家が戦前に残したスケッチがあり、一つの参考資料となる。彼のスケッチを見る限りでは、同間隔の穴が記載されていない。このうえ、現在は付いている左右の貫の外部が描かれていない。絵具を用いて彩色を施している丁寧な表現からすると、スケッチは現状を忠実に描写していると考えられる。しかし、穴と貫外も描かれていないのは何故だろうか。このスケッチを鵜呑みにすれば、同間隔の穴は戦後から出来たもので、この場合は意図的なデザインの可能性が高い。

 ただし、何時、何の目的で掘られたかが分からない現段階では結論を急ぐべきではない。また、貫外が描かれていない点から、現在の貫外は一時期ながら地面に落ちていたか、もしくはそれ以降に修繕されていた可能性が考えられる。石鳥居は凝灰岩という軟らかい材質であり、ホゾ差し込み構造という要因から、貫外の欠損を生じ易い。外貫の欠損は、村山地方の古式石鳥居においても多く見られる現象である。


 建立年代に関しては、向かって左柱の中央部に刻まれている銘文が重要な鍵をにぎる。地域の郷土史研究家たちの間では「天文七戊戌九月十八日」と解釈され、このことが『郷土史叢書』などに記されている。天文七年(1538)は室町末期であり、台輪のある鳥居の様式編年とおおむね合致すると言えよう。

 ただし、凝灰岩製の古式石鳥居のほとんどが柱に銘文を刻んでおらず、縁起書上での神社の成立は中世以前に遡る。そして、台輪を覗いた鳥居の様式は、村山地域の古式石鳥居と類似する。こういった点を踏まえると、建立年代は天文年間よりさらに遡る可能性は排除できない。また、石鳥居の建立年代と、銘記年代は必ずしも一致するとは限らない、という点も考慮すべきであろう。

 これを示すかのように、地元の研究家の間では「天元二年」、「天永二年」、「天永元年」など、異なる見方で銘文を読んでいるのが現状であり、定説を得るまではしばらく時間を待たざるを得ない。多孔質で脆い凝灰岩表面に銘文を刻むこと自体が難しく、風化が進んでいる場合は、解読そのものが困難を極める。今後、さらなる研究成果を踏まえた上で、銘文の年号について論じる必要がある。


 こういったなか、高房神社の創建などを記す文献記録の存在が沙汰され、歴史家の間で注目を集めている。現職の宮司である八巻喜教氏が近年手書きで写した「羽州置賜郡和田村総鎮守高房大明神縁起」という写本がそれである。原本の縁起書は本来神社に保管されていた巻物状のものだが、いま現在は地元の白石家に原本が保管されている。

 縁起書は江戸時代に書かれたものであり、「神社ヲ造営シテ二ノ宮ヨリ遷座シ奉リ、同所ヨリ桜樹ヲ移シテ神ノ御前ニ植エタリ、又其後天永元年ニ至リ桜樹ノ辺江石似テ一門ノ華表ヲ献リ」と記されている。縁起書そのものは文久年間(1861〜1863)と新しいが、神社の遷座に関する具体的な伝承を記録している面で、一定の資料的価値が認められる。恐らく以前の口伝などを基に作製されたものであろう。

 ここには天永元年(1110)、桜の木の近くに門として石造の「華表」を献じたとしている。この記述のままだと、神社は天永元年以前から存在し、「華表」が新たに建てられたことになる。すなわち、日本最古の石鳥居とされる山形の元木、成沢の石鳥居とほぼ近い年代にまで遡り、従来の天文年間とは大分隔たりを生じる。歴史変遷からしてみれば、村山と置賜地方との差はほとんど見られない。というのを前提にすると、それほど違和感のない年代推定かも知れない。ただし、両者ともに明確な裏付けが少ない現状においては、いずれも可能性の一つとして残しておくのが精いっぱいと言える。


 しかし、このような建立年代より興味深いのは、文末に見られる「華表」という文句である。この縁起書では「華表」を門として立てたとしている。「華表」とは、中国の宮殿や陵墓などの参道に立つ日本の標柱を指し、一般には「神道柱」または「石望柱」とも呼ばれる。その代表例は、北京の紫禁城の門の前に立つ花崗岩製の「華表」がある。

 この華表が江戸時代になると、確実に「鳥居」のことを指すようになる。聖なる空間の入口に立つことを勘案し、中国の「華表」を「鳥居」に見立てたのだろうか。それとも、天にそびえる両柱のイメージから鳥居としたのか。その真意については詳細が分からないにしても、「華表」という表記を「鳥居」に用いたという事実は、鳥居の起源と変遷を探るうえで重要な意味をもたらす。


安久津八幡神社の「じじばば石」

 この二本の鳥居の柱にまつわる重要な石造文化財が近隣に伝わる。安久津八幡神社の「じじばば石」と呼ばれる両柱石である。現在は神社入口に立つ木造鳥居のすぐ後ろ側に横たわっている。鳥居に向かって右側の石柱が「ばば石」であり、左柱が「じじ石」と呼ばれる。

 地元の高畠層から産する凝灰岩製であり、直径は約90cmで、長さは7mもある。何時、どういう経緯でここに置かれたのかについてははっきりしない。その位置が今の鳥居のある場所であることから、石鳥居を建てる目的から運ばれていたことは容易に想像できる。このあたりの古い地名が鳥居と呼ばれているのもそれを裏付ける。柱の直径や長さからすれば、村山地方に見られる古式鳥居群よりも大きい規模の石鳥居を建てようとしたに違いない。だが、どういう理由だか建てることを放棄して今のように横たわるままとなっている。

 もう一つ面白い点は「じじ石」と「ばば石」という名にある。何時からか地元の人々のあいだで付けられたであろうこの名からは、民間信仰で多く見られる陰陽的な考え方が覗かれる。伊勢信仰の聖地の一つである二見浦(三重県伊勢市二見町)の二見興玉神社の前に夫婦岩があり、この場合も陰陽を表す両柱のイメージと重なる。夫婦岩は注連縄でつながり、結界としての鳥居を表徴している。このような類型は全国の至るところから見ることができ、安久津八幡神社の「じじばば石」も、そういった象徴体系を示しているのではなかろうか。







2014年9月23日火曜日

安久津八幡神社 [山形・高畠町]




鳥居裏に置かれた「じじばば石」

片葉の葦


〜現地・案内板より〜

片葉の葦

 1062年(前九年の役)八幡太郎源義家が奥州の豪族、安倍一族討伐の戦いで、義家の武将、鎌倉権五郎景政が敵の弓矢で目を射たれ負傷しました。戦い勝ち奥州を平定した帰途この地で休み、この池の源泉たる弘坊水にて眼を洗い治療したというが、権五郎は片眼となる。この池に生えている葦も、片葉になったと伝えられております。



子育地蔵尊


山中神明宰

〜現地・案内板より〜

山中神明宰

 当地屋代郷一帯は宝暦、明和年間、水害旱害冷害で大不作でした。それに天明三年の大凶作で餓死者も出るほどの不況でした。この民苦と窮状を案じて、当地代官、山中太郎右衛門が独断で上米蔵を開き、施米として郷土の村民を救いました。

 代官、幕府への上申のため江戸に旅立つ時、一切の責任は我にあり、我もし帰らずば、念佛一遍も唱えてほしいと申された。山中代官の民情対する至誠は幕府当局を動かし、免租の恩命さえ下りました。その恩を称して、安久津村、新宿村、竹森村、深沼村の村民が感激し、後世に遺すべくの報恩碑です。



舞楽殿

〜現地・案内板より〜

舞楽殿(ぶがくでん)と安久津延年(あくつえんねん)

 石畳の参道をふさぐように阿弥陀堂(跡)に向かい東向きに立つ建物が舞楽殿です。舞楽殿は、方一間の宝形造(ほうぎょうづくり)、茅葺きで、西側に小さなおろし下げがあり、屋頂には石造の露盤(ろばん)と宝珠が置かれます。舞楽殿では、安久津八幡神社春の例大祭で田植舞が、秋の例大祭で延年がそれぞれ舞われます。建物は、室町末期のものと考えられています。

 本来延年は、平安時代の終わり頃より寺院の法会・法要などに舞われたといわれています。安久津では九月十五日の秋の例大祭で、神社に奉納されます。それゆえ地元では長い間「神楽舞(かぐらまい)」として継承され、舞楽殿も神楽殿の名で呼ばれていました。

 舞は「振鉾式(ふりほこしき、燕舞式)」「拝舞(おがみまい)」「三躰舞(さんたいぶ)」「太平楽(たいへいらく)」「眺望楽(ちょうぼうらく)」「蛇取舞(へびとりまい)」「姥舞(うばまい)」の七曲が伝えられ、「振鉾式」と「姥舞」の二曲を舞師が、他の五曲を稚児(男児)が舞います。そのため一般には「稚児舞」とも呼ばれます。

 舞は、舞師である大地権太夫家に、一子相伝の世襲制のもと、四十四代にわたり代々受け継がれてきました。かつては、奥州名取郡熊野神社や宮内熊野大社に舞師として招かれ、舞を指導していました。安久津延年は、比較的古式をとどめている舞として、昭和六十三年に町指定無形民俗文化財として指定され、平成五年には国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されています。

山形県指定有形文化財「八幡神社舞楽殿」昭和三十年八月一日指定
高畠町指定無形民俗文化財「安久津延年」昭和六十三年三月十八日指定
高畠町教育委員会



耳の神様

安久津八幡神社 本殿






〜現地・案内板より〜

安久津八幡神社 本殿

 安久津八幡神社は、その長い歴史の中で、幾度となく火災に見舞われています。度重なる火災により宝物や記録は失われましたが、わずかに残る神社縁起書や棟札(むなふだ)などの記録から、明応九年(1500)伊達尚宗により社殿が再建された記録を最古として、七度焼失し、その度ごとに再建されてきました。

 現在の本殿は、寛保三年(1743)に焼失した社殿を、米沢藩上杉氏九代重定の代、宝暦五年(1765)に再建されたものです。三間社流造、茅葺き、軒組は和様平三斗(わようひらみつと)といいます。棟の両端には鬼板があげられ、屋根が半円形に張り出す特異な形状をしています。本殿は、近世建築ながらその手法が優れ、江戸時代を代表する建物として、昭和30年県指定有形文化財に指定されました。

 もともと本殿は、現在地の北、八幡山の中腹に近いところにあり、現本殿の背後に参道やその両脇の堀、旧本殿などの跡を見ることができます。また、八幡山の中腹や山麓には、神社を囲むように十数基の古墳が点在しています。この古墳群は、鳥居町古墳群と呼ばれるもので、いずれも横穴式石室を有する七世紀後半から八世紀にかけての円墳です。本殿左手裏に見ることができる古墳は、鳥居町三号墳、四号墳です。

山形県指定有形文化財「八幡神社本殿」
昭和三十年八月一日指定
高畠町教育委員会






奥の院へと続く山道

志安知生(しあわせ)の石

奥の院




さらに登った展望台より

置賜盆地







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愛宕山の石鳥居 [山形・高畠町]


愛宕山の石鳥居

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜


愛宕山の石鳥居


所在:高畠町高畠
様式:明神系台輪付き八幡鳥居
年代:近世
材質:凝灰岩
寸法:露出総高2.78m、柱間隔(礎石面から1m)1.45m、柱径(礎石面から1m)0.69m(左)0.59m(右)
指定:なし
位置::38°00'36.5"N 140°12'08.9"E


 山形県南部の置賜地域は、朝日飯豊と奥羽山脈の連峰に囲まれている盆地である。愛宕山の石鳥居のある高畠町は、盆地のほぼ中央に位置し、東の宮城県につながる七ヶ宿街道(現国道113号)に沿って羽山と愛宕山につらなる。この山系には安久津八幡宮をはじめ、縄文の住居遺跡、石室古墳群などがあり、歴史的にも重要な地域であったことが読み取れる。

 石鳥居は愛宕山の西麓の緩やかな傾斜地に立ち、周囲にはブドウ畑が広がる。山頂には地蔵信仰の先駆けとなる愛宕地蔵菩薩堂があり、鳥居の愛宕山への帰属を裏付ける。いま現在この愛宕山は、羽山の麓に位置する青竜寺の管理となっている。東光山青竜寺は羽黒修験の流れをもつ天台宗系の寺院として、愛宕地蔵菩薩、薬師如来、秋葉権現をまつる。創建は平安中期とされるなか、明和五年(1768)に入部した高畠城主の織田左近将監信浮の祈願所として栄えていたとされる。

 愛宕山信仰は火伏せに霊験のある神として中世頃から信仰されていたが、近世からは修験道における道場の一つとして、全国に広がったという経緯がある。いま現在も愛宕信仰に関係する社寺は全国に千を数えるが、とくに東北地方に多いとされる。山岳信仰とのつながりを考えるべきだろうが、この一体の山々は標高が低く、山岳信仰の霊場など影が薄い。しかし、標高300数mしかない愛宕山は置賜盆地全域が一望できるなど、近世に盛んだった高畠修験の痕跡を今に伝えている。石鳥居はその象徴的な存在として、建立年代はこういった歴史的な背景に因んで近世と見るのが妥当であろう。


 一方、石鳥居の材質は俗に「高畠石」と言われる凝灰岩である。この凝灰岩は比較的に均質な産状を示し、古くから汎用的な地元の石材として名高い。高畠石を産するこの周辺の地質は、新第三紀中新世の凝灰岩層が中心となり、採石場は至るところに散在する。この状況から一定の石加工技術の伝承も古くからあったと思われる。

 が、しかし愛宕山の石鳥居の形状は通常の鳥居様式からかけ離れ、独創的な様式を見出している。表面は粗く削り落とされ凸凹が激しく、柱は四角に近く笠は丸い船首をもつ船型を示し、丁寧な表面仕上げによる端正なかたちは何処にも見当たらない。高さ約3mにも満たない小規模の鳥居だが、柱は両足を広げるかのように柱一本分の転びをもち、堂々と立ち尽くすその姿はみる人に豪傑感さえ与える。もはや細かい様式云々の世界をはるかに超えている。加工技術や経済的な理由から生み出されたかたちとは考え難い。どちらかと言えば、石工感性的な面が目立つかたちと言えよう。もし、その感性が信仰心の範疇に入るものとすれば、宗教と芸術が一体化した優れた石造作品として、新たな価値認識が必要かも知れない。

 いずれにせよ、愛宕山という銘文が刻まれた額束が設けられ、台輪が柱から削られていること。柱には転びがあり、笠と島木に見られる著しい反りなど。これらの様式的な特徴はすべて鳥居の建立年代を物語っており、前述した寺院と愛宕信仰の歴史を合わせて、近世の中でも後期に属する建立年代を示すものと考えられる。


 愛宕山の石鳥居の価値は一に独創的なかたちにある。そして、もう一つはその空間性にあるように思える。石鳥居の前景は高畠の大地が広がり、そのなかに幾つかの森山が鎮座する。冬至の頃、この大地に沈む夕日は鳥居の中央を通る。このとき、石鳥居は夕日に照らされ眩しい光を放つ。鳥居と暦が交差する瞬間である。




高房神社と石鳥居 [山形・高畠町]




石鳥居

〜現地・案内板より〜


羽州 置賜郡和田村
総鎮守 高房神社 縁起


由緒・沿革

御祭神 武甕槌神(たけみかづちのかみ) 経津主神(ふつぬしのかみ)

合併御祭神 天照皇大御神(あまてらすおおみかみ) 別雷神(わけいかづちのかみ)



 天照大神の命で、孫の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が大伴・中臣らを連れて日向国・高千穂の峯に天下る。大伴氏は武力を以って畿内王朝に仕え、最高官職の大連(おおむらじ)に任ぜられ代々その職を世襲した。「大伴部(大伴軍団)」は南は九州まで全国各地に配置されていた。

 「高房神社縁起」によると、大伴氏は阿武隈の里(信夫)より合子(豪士)の嶺へ登って此の地方を眺められ、「実に和田の景色なり」と言われたので、当時の里人等はそのことを知り、此の時より和田の里となったという。「和田の里となった」とは、「和田は大伴氏の領土だった」と言われている。

 一方、中臣氏は神官の長官として仕えていたが、鎌足は「大化の改新(645)」の功績で「藤原」の姓を賜る。高房は「日本で一番栄えた藤原北家」の出身だった。仁明天皇承和七年(840)の正月三十日に「出羽守(山形・秋田両県知事)」に任ぜられ、豪士峠を経て和田村に至る。

 前年よりの旱魃と蝦夷の反乱で、村人は大いに苦しんだ。若者は戦場に駆出され、食料は供出で底をつき餓死寸前にあり、村邑の崩壊は迫っていた。村人の窮状を見た高房は、持ち前の義侠心で即刻徴兵の中止、食料・医薬品の配布を行なった。高房の帰郷に際し、村人(十七戸)は沢村の地まで見送り最後の別れを惜しんだ。村人は高房の恩を子々孫々に伝えるべく、此の記念の地に三年後の承和九年(842)に約三尺四方の石の祠を建立し、御霊を祭り「高房宮」と称し奉る(現在の高房沢本宮とも言う)。

 高房の任務は「御領和田」の創始であったとの学説がある。帰京後に高房は死亡するが、日本国正式歴史書の「文徳実録」に「越前守高房は参議(大臣)の第三子で身長六尺(二米)任侠心に富む。三十三才で美濃国介(岐阜県副知事)を拝命。その後、備後・肥後・出羽・越前守を歴任して任地先でいつも村人の利益を何よりも重んじて行動をした」と書かれている。

 和田村ではその後、参拝するに不便を感じ天元二年(979)に現在の上和田窪の地に、二宮高房大明神として新たに衣冠馬上の尊像二体を安置して遷座す。其の後、里人等の議(はか)らいで和田の中央地にと、猪野与三兵衛氏の寄進を以って現在の北和田堂山を霊場と定め、天仁元年(1108)に三宮高房大明神として二宮の衣冠尊像二体を遷座す。現在の拝殿は貞享元年(1684)に再建する。本殿は天保十四年(1843)に再三にわたる造営であり、地元の欅一本で建立したと伝えられる。

 また此の石鳥居は此の地に鎮座して二年後の天永二年(1110)七月に一昼夜で建立されたと伝えられる(また石鳥居材が折石の所で折れたので、折石という地名となる)。昭和二十七年(1952)七月一日、山形県有形文化財に指定された。尚、明治七年(1874)に高房神社と改名。明治十年(1877)に郷社に指定される。

宮司謹書



祭事・行事

一月一日 歳旦祭
一月十五日 星祭
四月二九日 祈年祭
七月二八・二九日 例大祭
毎月一日 月次祭
平日 交通安全(車お祓い)、厄除、地鎮祭

平成十二年四月吉日



高房神社 社務所

万徳院

ペット供養





高房神社 拝殿



高房神社 本殿



高房の石鳥居(神社側から)


庚申講



六面幢(ろくめんどう)






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