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2015年6月6日土曜日

請雨塔・普潤碑 [山形市・羽竜沼]


請雨塔

普潤碑



普潤碑

羽州最上之地累 嵗旱魃而耕種不登百穀苗稼悉欲枯増也 矣因茲當地民生 杓愁攅肩也
依 請萬松全牛和尚嗣子鐡山具壽合請雨具壽來于斯數 回祈雨毎祈雲雨忽□山陸普潤石
穀穫登依是建於斯碑遺功于千載也予此嵗來于茲祭神龍如在之供證共功蹟者也

銘云

累嵗旱魃 百穀不登 苗稼枯稿 民生誰憑
山老斯來 祈雨雲興 雲雨霶霈 普潤丘陵

維時安永七嵗戊戌(1778)八月穀且 千嵗山萬松現住叟俊記焉


出岫閑雲絶所求 無心片々倚山頭 降甘雨有神龍力
一□灑時邱海流     前萬松 牛鐡叟書
            請雨武州人事鐡山建焉


※千嵗山萬松寺 第拾八世 鐡面全牛和尚 寛政四年八月九日寂
※千嵗山萬松寺 第拾九世 寂叟知俊和尚 天明二年四月朔日寂


瀧山、羽竜沼のほとりに建つ




2015年6月2日火曜日

南瀧山不動尊 [山形市平清水]



平清水の集落内にのこる道標
喜兵衛地蔵尊
「右ハ大日ミち 左ハ平清水」


平清水からのびる林道「新山線」をゆく

林道の深まったところに突如あらわれる石鳥居

左柱の銘:

明治三十年酉年 三月大吉日

世話人(八森村)
石沢重右エ門
布川久右エ門
安部藤吉
国井裕次郎
石沢菊松
石沢庄三郎
石沢久助
伊藤○○
石沢○○







「登山口 移転碑」

南瀧山不動尊登山口を
砂防堰堤構築の為
現在地に移転す

昭和四十四年七月
渡辺誠泉書

裏銘:
別当 千歳俊田
発起人 浅野長次郎 佐藤昌一(地区総代) 宮館正一(副総代)
石工 石沢進



「南瀧山開基供養碑」
明治27年(1894)


南瀧山開基供養碑

當山開基釋妙現比丘尼者平清水村農夫善助之婦也性孝而貞亦深歸于佛来矣明和六年蒙不動明王霊應披創棘挙崔嵬詣此靈瀑爾來霊験如響應云遂為尼號稱妙現安永九年十月五日寂茲有稀有之信者鈴木宇右衛門號曰義尊山形三日街之人也奮投義賛造營堂舎完備佛器事無細大無不竭其眞意可謂功徳偉矣天明四年六月五日卒二氏逝而于茲一百有餘年也頃者諸有志者相謀修追福之法會旦建一碑以傳不朽云

明治二十七甲午年十二月台嶺沙門釋覺田識 千歳要書

(概訳)

当山開基の釋妙現比丘尼は平清水村の農夫善助の 婦なり。 孝にして貞、深く仏に帰し、明和六年(1769)不動明王の霊応を蒙(こうむ)り、棘を披(ひら)き崔嵬を奉じこの靈瀑を詣ず。それ以来、霊験〜 遂に尼と成り号を妙現と称すと云う。安永九年(1780)十月五日、稀有の信者鈴木宇右衛門ここに有り、号して義尊と曰う。三日街の人なり。奮授義賛、堂舎を造営し仏 器を完備し、事細大なく不竭なし。その真意は功徳偉というべきかな。天明四年(1784)六月五日、二氏卒し逝く。ここに百有余年なる頃、諸有志相い謀りて追福の法会を修し、かつ一碑建つるをもって伝を不朽にすと云う。


「南瀧山之碑」
天明七年(1787)

南龍山之碑

天明第七丁未秋八月
南瀧山者距山形城六里許也西峯都千嵗山而林樹蓊村澗
道賛屹實神人所宅也百丈懸泉如瀑布十部聚溚因下流為
浩□矣是天之牗民如□如箆焉相傳在昔行基上人者従回
錫於斯山基趾千有餘年于此矣顧乎刻毘盧舎那佛今安□
平泉寺裏也明和己丑夏四月始□□光於□□使妙眼尼者
感託神符除容民之病患故過迩攀□譫礼者□□如蟻終者
一場霊昵矣於是太守□堀田□使其大夫挿内則恒再建稲
荷神社尚欲耀佛光於芫季被慈且恭黎□也何謂□民事也
因之四方或負擔或技背終経数□諸宮□然悉成矣是天之
牗民如𡐚如箎焉有市隠鈴木義尊者來而□力自始無□其
功亦不鮮也妙尼将死而以所得之符形納□於平泉寺傳
大者家古県始至有感謁除将勅之于石銘曰
南山飛泉 □據崔嵬 不騫不崩 佛光千載

平泉寺三十世
沙門昌雲謹識


「百万遍供養塔 南無阿弥陀」
安永三(1774)甲午歳七月吉祥日



石碑石像群の一石
「右 不動道 左ハ 山道」




〜『わがさと平清水』より〜

南滝山(なんりゅうざん)不動明王のこと



「お不動さまの道そうじ」

春と秋、地区民は人足として奉仕してやってきている、あの山の不動様であります。今は訪れる人とてありませんが、むかしは参詣する人が多く、まいにち祭りのような賑わいで、茶店なども数軒できたとのことで、そこは「茶屋の前」という名で呼ばれ、小字名として今も残っています。



南滝山不動尊の縁起書によれば、明和六年(1769)村の農夫・善助の妻おゆき(八森から嫁にきたという)は若年より眼を患い、不動明王を信仰していました。ある夜、夢に不動明王が姿を現し、神符三粒をあたえて言われるには、

「三日の間、これを水に入れて眼を洗うべし。吾は大日堂に納まる不動明王で、四月三日に南滝に示現す」

と告げて消えてしまった。おゆきは言われたとおりに精心潔斎して、南滝の水で洗眼をつづけたところ、旬日にしてきれいに開眼したといわれます。このことが人から人に、村から村へ、町へと伝わり南滝に集まる人が多くなりました。

おゆきはいよいよ不動明王の示現した南滝を信仰され、滝の近くに小屋をつくり(善助の協力)住むことになり、村人たちも協力して道路をつくったりしました。おゆきは尼様となり、名を妙現尼といったのです。



平泉寺の記録によると、弘化四年(1847)に日本三大不動尊の一つ、越後国菅谷不動尊(村上市外・天台宗)から石像の不動尊一体を譲り受けて、六月二八日に人夫に頼んで移送し、平泉寺庭に休め参らせ、八月二日、村中が出て南滝山道掃除をなし、石像を運び行き、明三日滝にて開眼供養を行うとあります。導師は山主(栄良か)承仕(覚忍房)、施主は山形横町の山崎源兵衛です。

また、十月十五日に同人は南滝山に護摩堂を建立すとあります。三日町の鈴木宇右エ門は拝殿と籠堂を兼ねた小堂を建てたことも記されています。



大正のはじめ頃(筆者たちの小さい時)まで、鳥居場の近くに籠堂があって、法印様(バサランダといっていた)が一人で暮していて、ときどき白装束姿で村におりてくるのを見かけたものでした。だが、いつのまにかいなくなりました。

平清水の地区では、大正7年9月27日の臨時総会で、不動尊籠堂の売却が決議され、売上金のうち壱百円を銀行に預金し、その利子の半額をもって年2回、道路掃除と祭礼にあてることにしました。

この行事が現在まで続いているのですが、仏さまも世の変り方に目を白黒していることでしょう。石鳥居に刻まれた名を見ると、八森村の人が多いのはどうしたわけか、妙現尼が八森生まれであったことに関係あるのでしょう。



鳥居をくぐり、恥川をわたり、シダ深き山中へと足を踏み入れる

倒木など散乱し、道は険しい。
それでも確たる踏み跡はある。

山中右手に「和泉稲荷大神」
安永七年(1787)

万年堂:

祭神
大正十一年三月
佐久間治右エ門


左右の燈籠2基:

右側
○○○稲荷○天
五月建立
奉納 施主

左側
安永七戊戌歳 矢野氏
奉納御寳前 鈴木氏
七月吉日 大沼氏



そのすぐ先に不動明王像

「奉参詣百日大願成就」
安永六(1777)丁酉 正月廿四日
天童原町村峯元坊

「西国巡礼供養」



不動尊像
「奉納 山形市宮町」

茂るシダを踏みながら、さらに奥へと

不思議な文様をもつ幹

まさかの姥神さま

瀧山参道には、これで6体の姥神さまが現存することになる。
この尊像は蔵王・瀧山信仰および不動尊との縁がよほどに深い。

姥神像わきの巨石

なおも戸石山沢をさかのぼっていくと
背丈ほどの岩瀧に行く手をはばまれる

岩を越え、沢を踏みつ

ついに辿りつきたる「南瀧山不動尊」

渇水期ゆえに水量は乏しい
岩肌を伝う瀧は上にもう一段

瀧の前庭におわします不動さま

瀧下をまもる不動さま
「奉拝 大聖不動明王」
「千歳山大日堂作尊像」

線刻石碑不動明王の右方にも一体の不動尊像が祀られてある
しかし全身を苔草におおわれ、そのさま定かならず


〜『わがさと平清水』より〜

奥の院
石仏 不動尊像
滝壺のなかに三体あり


平泉寺文書(山形市史資料57号)に「弘化四年(1847)六月二八日、覚忍坊良海発頭人にて、越後国菅谷不動尊を遷し当南滝山に奉納す」とある。

滝壺中の尊像のどちらかであると思われるが、石像を背負って遠路、山道を運んだものかと驚かざるを得ない。記録はなおつづく。

八月二日、村中於南滝山道掃除、右像当寺之庭より南滝山え持行、明三日開眼供養可仕処廿八日に日延す。道師山主(栄良房)承仕、覚忍房、施主山形横町、山崎源兵衛、以下略



瀧下から空をあおぐ
鬱蒼とした濃い林に間隙はすくない

遡行してきた清らかな沢をくだり、帰路につく

林道わきの石鳥居へともどる

恥川に築かれた堰堤
その可憐な川名に似合わず、その昔は暴れる川だったという。
さもありなん、峻嶮たる瀧山の膨なる水をあつめては

南瀧山不動尊は、恥川へと注ぐ支流「戸石山沢」に位置する。
地形としては、千歳山と猿岡山の隘路にあたる。







2014年11月2日日曜日

白州正子と瀧山


〜話:白州正子〜




 ただ一つ付け加えておきたいことがあった。やはり連載を終った後、『白い国の詩』という東北地方のPR雑誌で読んだのであるが、西行の歌に「瀧の山」というところで詠んだものがある。

またの年の三月に、出羽(いでは)の国に越えて、瀧の山と申す山寺に侍りけるに、桜の常よりも薄紅(うすくれない)の色濃き花にて、波たてりけるを、寺の人々も見興じければ

たぐひなき思ひいではの桜かな
薄紅の花のにほひは

 という歌で、東北地方へ取材に行った時、訪ねたいと思っていたが、どこだかわからないので果たせなかった。その雑誌にも「現在地未詳」としてあったが、大体の見当はついたので、雑誌の編集者に案内をお願いした。彼もたしかなことは知らなかったが、西行がわざわざ平泉から出羽の国へ越えて見に行ったほどの桜なら、よほど美しいに違いない。少くともその痕跡ぐらいは残っているだろうと探してみたのである。



 東京の桜は既に終っていたが、東北の山は今が花盛りで、私を勇気づけてくれた。その夜は山形県の上の山(かみのやま)温泉に泊り、翌朝早く蔵王連峰へ行く。山家集の註釈には、瀧の山というのは蔵王の龍山(りょうぜん、霊山とも書く)のことで、新しい地図で見ると、龍山ではなく、「瀧山」と記してある。だが、実際に行ってみると、そこは千数百米(メートル)もある高山で、荒々しい岩肌は、とても桜が自生するようなのどかな山容ではなかった。

 編集者のKさんは、方々走りまわって「瀧の山」の在処(ありか)をたずねて下さった。やはりこういうことは、土地の人に訊いてみるに限る。やがてそれは昨夜泊った上の山温泉の北の方に位置することが判ったが、道がこみ入っているので中々はっきりしない。行きつ戻りつ何度同じところを右往左往したことか。何時間もそうして迷ったあげく、やっとそれらしいところに辿りついた。

 道ばたに瀧の山の歌を記した西行の歌碑があり、そこで道は二つに分れて山へ入って行く。車は行かないので、暗い山道を歩いて登って行くと、1キロ半ほどで山ぶところの開けた大地へ出た。と、思いもかけず裏の山から下の谷へかけて、全山桜に埋もれているではないか。「常よりも薄紅の色濃き花にて、波たてりけるを」の形容にふさわしく、新緑にまざってもくもくと湧き上がってくるように見える。瀧の山とは、花の瀧の別名ではないかと思われるほどの眺めであった。

 かつてはここに寺があったらしく、五輪塔のかけらや礎石がちらばっており、桜の根元には小さな祠(ほこら)が建っている。その中には平安時代の神像が二体、風化したままで祀ってあり、水など供えてあるのは里人に信仰されているのであろう。東の方には木立ちを通して雪を頂いた蔵王の瀧山が望まれ、無言のうちにこの廃寺が経てきた歴史を語るようであった。



 帰宅した後、大日本地名辞書を読んでみると、龍山は修験道の霊場で、「又、桜田村に瀧山寺あり、是古の山寺なりしが、後世此村に引かれしといひ伝えたり」と記し、龍山が廃滅した後、現在の地に移されたように書いてある。桜田村がどこだかわからないし、「後世」がいつ頃のことだか不明だが、周囲の環境から見て、西行の「瀧の山と申す山寺」は、ここ以外にはないように思われた。

 人里離れた山奥にあったために、訪れる人もなく、農家の人々のほか知るものもなかったので、崩れたままで残ったに違いない。それとて絶対に正しいというわけではないが、薄紅の花にかこまれた廃寺の風景は、私にとってもたぐいなき思い出として永く心に残るであろう。その美しさに比べたら、瀧の山の詮索など、もうどうでもいいような気がしてくる。







出典:白州正子「西行 (新潮文庫)



2014年9月24日水曜日

瀧山・旧参道 [山形・成沢林道]


成沢林道
山形市「成沢地区」と「西蔵王高原ライン」をつなぐ林道。



今回は、いったん林道を登りきり、上から下へと瀧山信仰の史跡をめぐる。すべてのポイントは林道沿いに位置するが、少し山に入らなければならない箇所もある。


「毘沙門堂」「御熊野堂」「隆勝寺」「鐘撞堂」跡
それらしき平地はあるが、すべては深い草のなか。

林道のまわりは深い森





「滝の前」


水場のほとりに祠(ほこら)



ひなくぼ板碑と墓地

〜成沢城跡・案内板より〜

ひなくぼの板碑
市指定文化財

 ここはかつての僧侶の墓地と称されています。この板碑も2mを越す大型のものです。



「ひなくぼ板碑」
背丈をこえる大きさ。刻まれた文字はほとんど磨滅している。

板碑かたわらの石積み
墓であろうか



沢内「燈の前」
杉林の奥に層塔が見える。


沢内「層塔」

〜成沢城跡・案内板より〜

沢内(さわうち)燈の前 層塔
市指定文化財

 本来の姿かどうかは不明ですが、6重の層塔があります。元は参詣人が献灯したところと伝えられています。



造園屋さんの門前に

林道わきのブドウ畑


ブドウ畑の下手にある「地蔵堂」

木像のお地蔵さまが大切に祀られていた。

お堂まえの手水鉢

地蔵堂の右手すぐ「六面幢」と2基の「板碑」

〜成沢城跡・案内板より〜

地蔵堂の
板碑(いたび)と六面幢(ろくめんどう)

 地蔵堂の境内に板碑2基、六面幢1基が立っています。3基とも2mをこえる大型の石造物です。



中央、笠つきの「六面幢(ろくめんどう)」


〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

成沢沢内
地蔵堂の六面幢

 成沢から竜山(瀧山)への旧参道の沢内地蔵堂の境内に2基の板碑と並んで立っている。礎石は土中に埋まっているが、枘穴があってさし込んでいるものと思われる。総高2.7m、幢身は2.35mで、一面の巾32cmであるが、幾分中太ですらりと高い。各面には地蔵の彫刻はない。磨滅のため年紀銘も不明である。

 笠は六角で上部に露盤が刻んであり、おそらく相輪か宝珠が立っていたと見えるが、現在は別石が置いてある。軒先に反転があり、全体的に瀟洒で品位がある。この塔は元の姿で相輪が立っていたすばらしく美しい六面幢であったと思われる(安彦好重)。



六面幢の右の「板碑」

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

成沢沢内地蔵堂 板碑

 成沢字沢内の竜山参道にある沢内地蔵堂近くの杉林の中に、前記六面幢を中に挟んで二基の板碑が立っている。

 手前の板碑は地表総高2.30mで、頭頂は梯形のような角形をしていて、額部は全体に比して小さく庇のように出て、太い二本線が刻まれている。額部の深さ15cm。幢身は上部が54cm、下部が65cmで下に基部が出ている。種子、銘は磨滅して不明である。幢身部の厚さ30cmである。凝灰岩で頭頂、額部に欠損が見られ、優美な線に欠けるが雄大な板碑である。竜山の参拝者が供養のために参道に建てたものであろう(安彦好重)。  




六面幢の左の「板碑」

 もう一基の方は、地表総高2.25mで、頭頂は角張った台形をしていて額部は小さく浅く蒲鉾形をしている。額部の深さ9cmで磨滅のためか二本線は見えない。幢身は上部は35cm、下部は65cm、厚さ27cmである。基部は見えないが、地表に直かに立っているからないのかもしれない。種子、銘等は磨滅のため不明、凝灰岩で、石質は前者と同様であるが、頭頂、額部の形態がやや異なるところから、建立者は別人であろうが、竜山信仰の供養のためのものであろう(安彦好重)。



空清水(うつぼすず)
岩盤から切り離す直前の「石柱」

〜成沢城跡・説明板より〜

空清水(うつぼすず)の石材採石場
市指定文化財

 かつての石造物の採石場と伝えられ、重要文化財の八幡神社鳥居(成沢)もここから採取したといわれています。


〜東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センターより〜

 空清水遺跡は蔵王成沢にある重要文化財「八幡神社の石鳥居(成沢)」の採石地と伝承される場所で「岩盤から切り離す直前の柱」が残っています。


〜清野春樹『瀧山と恥川の秘密』より〜

 成沢の石鳥居のある場所から、瀧山の方向へ向かって1.5kmほど上ると、空清水(うつぼすず)の採石場へ出る。ここは蔵王上野へと至る道路と交錯する場所で、周囲は果樹畑となっているが、やや傾斜のある坂となっている。

 現在も、掘り出された大きな石材がそのまま横たわっている。途中で折れて放置されてしまったのだろうか。茨木光裕氏の「中世山寺の一例」『草ぶえの考古学』によると、この石材は幅1m、高さ1.5m、長さ約15mとなっている。また「一帯には多くの石材片が散布し、板碑や石鳥居の採石・加工の場であったと考えられる」と記されている。



「山の神」

〜成沢城跡の案内板より〜

山の神社(やまのかみしゃ)

成沢城の東側の坂道を登ってすぐの所にあります。昔、参詣者が登山の無事を祈った場所といわれています。




成沢城跡にあった地図(一部)


〜『わがさと平清水』より〜

滝山の閉山


鎌倉、室町の時代を一般的に中世と呼んでいます。この時代は上代(または古代)と近世の中間にあり、そして上代になかった政治や社会の構造をもっています。たとえば上代(平安時代まで)の政治では、天皇を中心とした貴族の政治でありましたものが、武家(幕府)にかわり、家人(幕府の家来)を幕府が守護や地頭に任命するという分権的封建制が施かれたのであります。武士団による恐ろしい政治(武断政治)の社会となったのです。

滝山の閉山は、このような中で起こったのです。鎌倉の半ごろ、後深草天皇正嘉二年(1258)、先の鎌倉幕府の執権・北条時頼(最明寺時頼、法名道崇、または覚了坊と号した)によるものと伝えられています。

しかし滝山地区には、滝山閉山の関係文書は一つも見られません。ただ滝山は蔵王地区にも広がっていますので或は、裏参道であった沢内(さわち、成沢)口に残っているのかもしれません。それで、東北各地や県内の名山などについて調査してみました。



入道(仏門にはいった高位の人)した前(さき)の執権・最明寺(北条)時頼は民情視察のために諸国を行脚した(この話は創作で歴史的には無かったとの説もあります)。

当時の滝山には三つの山道が開かれていました。一つは元木の鳥居(御立の鳥居ともいいます)から岩波、土坂を通る参道。二つ目は中桜田、上桜田、峠を越える参道。三つ目は成沢の沢内から三本木沼(この頃は沼が無かった)を通る参道があって、それぞれ大きな石の華表(かひょう、鳥居)があり、元木の石鳥居(わが国最古のもので国の重要文化財)があり、成沢には元の向きを変え今は八幡様に向いている大きな石鳥居が残っており、中の参道には鳥居がないが鳥居座という地名だけ残っています。

入道最明寺(北条)時頼殿は、どの参道を通ったのかは不明でありますが、ある日(年月日不明)旅のやつれた僧が一夜の宿を頼んだといわれます。その時、滝山の僧たちは

「きたない乞食坊主、帰れ、帰れ」

と追いはらったといわれています。この事が元で、後日、多くの軍兵によって閉山されたと伝えられています。

多分、軍兵の大将は鎌倉殿の命により、「数々の悪業、もはや許しがたし。依って閉山申しつけるものなり」と大音声に伝えられたとき、僧のある者は、あの時のやつれた貧僧を思いうかべられたことでしょう。鎮護国家の理想によって築かれた、天台宗慈覚大師の大精舎も、こうして空しく消え去ってしまいました。



次に他所の地区の資料について少し述べてみます。五所山縁起(五所山、別名・船形山、1,500m)には次のような記事があります。

前略、間木野および鳥越には各三十三坊あり、坊中に両暁坊、両覚坊の二道士あり、幻術を行い衆人を惑わし金銭を貪る。故に北条時頼厳しく令を出して、山地三百余町歩を没収し、寺院を焼き払い山門を退散せしむ。宝治二年(1248)とあります。

また『山形県史巻一』に、「正嘉二年戊午(1258)8月20日、鎌倉府陸奥出羽両国諸郡、夜討強盗蜂起し行旅のもの甚だ苦しむことを聞き、諸地頭に命じ宿々に直屋(番所)を設置し結番警護せしむ」とあります。

東北地区での代表的な例として、松島の延福寺の祭の話があります。また秋田の名久井岳や象潟、戸沢山など北条時頼によって閉山された話があります。



現在、山形市小荷駄町の隆勝寺の東谷老師の話によれば、御本堂は滝山三百坊跡にあったものを、江戸時代初期(保科正之時代)に信徒の奉仕によって解体運搬されて移築されたといわれています。その名残りが御本堂の蟇(かえる)股に「菊の御紋」があり、柱や梁などに朱の漆塗の跡が残っています。

平泉寺にも滝山三百坊の一坊(平泉寺の由緒分限御改帳には、平泉寺は三百坊の本坊として滝山貫主と称したとあり)であったが、ここに述べた閉山には関連なく、少々年代はのぼりますが建久年中(1190〜1198)、将軍頼朝公より天下の祈願所として三十六町四方の庄園を寄進されています。当時、一山の塔中は十二坊があったと記されています。