2016年12月1日木曜日

宿屋十七軒[蔵王]



〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


話:安斎徹(元山形高等学校教授)


高湯温泉革新の思い出


昭和十六年五月二日の日刊山形に次のような記事が載っていた

高湯の旅館増設
警察部は強腰
衛生課も湧出量調査

既報、高湯温泉三百年の伝統を破って同温泉地区に旅館を新設することは県警察部の肝煎りで着々実現せんとしつつあったが、既報旅館業者は死活の問題として全面的反対の機運濃厚となり、所轄上ノ山署では説得運動に奔走中である。

「警察部では衛生的見地と、投宿客一般の待遇に対する不評等から是非新設の方針である。一方旅館側では温泉湧出量の不足を楯に新設に反対しているが、過日県当局の斡旋で安斎山高教授が実地調査を行ったが、五日頃には県衛生課からも係官が出張して湧出量その他専門的な調査を行い最後の断案を下すことになり、現在湯花を採取して研究しているが、温泉上部地面に共同浴場を新設する計画も立案されている」



私はこの新聞のあと五月五日、高湯温泉旅館香各戸の浴槽につき毎分の湧出量と温度とを測定調査し、詳細の状況を知ることが出来た。後五月十三日県にて小鷹技師及び衛生部長と会談し、更に三十日県警察部長室にて高湯の関係者一同を集めて対談を行った。

要は伝統的温泉経営は物資販売と宿泊営業とは分離し来って両者を混同しないという慣例にある。然るに戦争の進展するにつれ世は自由販売の出来る物資が欠乏し、高湯の物売りは売る物が無くなり商売不能になったというのが原因で、商売人六軒が旅館に転業しようと企てたことにある。これら商売人は、共同浴場の温泉量について其の半分を使用する権利を持って居ったので、その元湯を半分分湯して下方に引湯し新共同浴場を設置することを強調したのであるが、これ等分湯を旅館側は拒否したので騒動状態になった次第である。



県警察側は衛生上、営業上から新旅館の増設を目論見、警察権を高圧的に強調したため状勢は硬化して不穏の状態となり、温泉を道路の中に掘さくするような気配を見せたものであった。然し温泉は温泉法によって警察権により勝手に掘さく出来るものではない。旅館業者は頑として屈しなかったが、戦時中旅館の主婦が示した態度は将に男性の及ぶところではなかった。

斯くして、警察も反省にせまられ、其の解決に対し私に仲介の労をとるよう求めたのであった。それは日頃高湯温泉と蔵王山開発とに骨折っていた私への信頼から、正常な方案を考えるであろうとの世論がもたらしたものと思われる。

私が業者達と警察との間に入ることを旅館側も納得したので、先ず私は無理押しは両者よく考慮して慎むべきこと、凡て自然の真実に従うべきことを述べ、誠意をもってこれにのぞむことにした。即ち旅館の新設は伝統の破壊ではあるが、社会の状勢により共存せざるを得ない今日に於いては致し方がないであろう。



只共同浴場を二分する問題は別である。たとえ商売側に五分の権利があるとしても、この温泉は二分すれば療養温度が四十三度以上を浴槽内で常に保持出来るか否かにかかる問題であって、二分したため温泉がこれ以上に下るなら分けられないことである。これより源泉を掃除整備してその実験をやるから、その結果泉温を確保出来たら分設を承認し、確保出来なかったら源泉は分けないことにしては如何か、それが承知なら実施にかかるであろうと宣言した。

高湯の温泉は決して高温の湯ではない、互いにこの心配が勝負なので快く私の提案を容れてくれた。この提案を基本として先ず共同浴場の泉源を大掃除して湧出量を正確にし、温度の測定を行った後、その半量を旧浴槽に入れ、更に新設しようとする浴槽への半量を流し、実際的に旧浴槽の中の温度を測定して見たのである。

その結果は全量を入れた時と殆んと浴槽の状態が変わらないので只驚くのみであった。即ち浴槽の大さに対し過大量の温泉を流し込んで居ったため、その半量を減じても温度の低下がなかったわけで、全く共同浴場増設による心配が無くなったので商店側の権利に半量を流すことに決まった。只新設旅館には内湯が無いだけである。



このような調査の結果、五月二十九日の日刊山形には次のような記事が載せられた。


高湯騒動解決
新たに旅館六軒、共同浴場を建設
我意を捨て開発に邁進

既報蔵王山麓の高湯温泉に現代的共同浴場を新設しようとする案は、既報の如く一部業者の感情の行違いで旅館側が反対し、改革に乗り出した県当局も慎重を期していたが、高橋代議士の斡旋と長岡上ノ山署長の奔走によって、旅館業組合員も新たに建設される共同浴場を中心に旅館を開業する、従来旅館出入商人も白紙にかえり高湯温泉発展のため一切の私情をさらりと捨てて協力することになり、二十七日長岡署長が高湯温泉に赴き最終的な妥協に成功した。

共同浴場は乗合自動車停留場前の元駐在所跡に建設し、分湯は現在の共同浴場で不用のため河に流されているものを導くことになり、旅館は新たに許可される六軒と、従来の十七軒を合わせて二十三軒となり、夏期、冬期の旅客の雑沓も緩和されることになるが、旅館組合では旅館経営に必要なる物資を共同購入によって便宜を図るべく商業組合の結成をも計画している。


以上のように報告されている。

時恰も蔵王山はお釜の新活動三年目にあたり私はお釜の研究に専念の時であった。従って御釜の活動は冬の樹氷と共に蔵王の宣伝に効果著るしく、高湯発展はこの騒動によって今日への覚醒を行ったと言うことが出来よう。

以上の経過に依り高湯温泉の開発問題に当っては、部落会長の伊東久一氏の一方ならぬ御苦労を思いやられ、当時の事情を偲びここに追憶の記事を認めたものである。






〜黒木衛『山形の蔵王』より〜


1940年(昭和15)5月30日
山形県警察部長増原恵吉、高湯部落会長伊東久一に分湯指示。

1941年(昭和16)
山形県衛生課、湧出量・泉質調査。
既設17軒に加え、新設6軒に分湯きめる。



既設17軒:

海老屋(江戸時代創業)・近江屋(創業1,000年以上)・岡崎屋(元禄年間創業・2014年破産)・柏屋(1983年、火災により廃業)・川原屋(2010年の火災により、現在日帰り温泉)・寿屋(2015年廃業)・堺屋(2015年廃業、ヴァルトベルクへ)・高見屋(1716年創業)・瀧見屋辻屋(明治初年創業、現大平ホテル)・鶴屋中村屋(2011年廃業)・松金屋山形館山形屋(2015年廃業、現すずのや)・吉田屋若松屋(1655年創業)



新設6軒:

伊藤屋(元湯花、稲花餅販売)・昭栄館(元米穀販売、運送業。現花ゆらん)・招仙閣(元木地製造)・高砂屋(元農業、運送業、建具屋)・堀久(元稲花餅製造販売)・三浦屋(元稲花餅、湯花販売。2015年廃業)



商人より旅館に転業せる六軒、うち「伊藤屋旅館」


「招仙閣」


「高砂屋旅館」



1941年(昭和16)7月5日
下湯共同浴場、山形市永野喜一郎請負着工、翌年8月竣工。建設費8,478円23銭。

1954年(昭和29)
米沢市後藤源次郎、配湯事業開始。分湯先、16年新設6軒中の分湯されていない伊藤屋・堀久・三浦屋の3軒、他の旅館2軒、保養所20軒。41年、蔵王エコーホテルに分湯。

1983年(昭和58年)
利用源泉数30、未利用源泉数20。最高地点1,000m。湧出量1万5,000l/m、泉温45〜66℃。大湯共同浴場源泉で、水素イオン濃度1.5、泉質、含硫化水素強酸性明礬緑礬泉。

温泉利用、共同浴場3軒、宿泊施設66軒。






話:長岡万治郎(元上山警察署長)


高湯温泉のころ


私が蔵王温泉に交渉をもつようになったのは、まだ高湯温泉と言い、現在の蔵王温泉の姿からは想像もつかない、療養本位の湯治場であった頃である。昭和十六年三月、私は上山警察署長になった。高湯温泉が当時、上山警察署の管轄であったのである。

高湯温泉は山の中の湯治場であったが、私の赴任する二、三年前頃から、支那事変が深刻化し、非常時態の様相を増して来た頃、国民の体力増進のための健民運動として夏期に蔵王山と高湯温泉に行くものが多くなり、殊に冬期の閑散至極の湯治場は、スキーの普及と、蔵王がスキー場として適地であることが一般に宣伝されてからは、冬期の来客も激増して来たのである。私の赴任した頃は、高湯に来るもの、夏は六万人、冬は四万人と急増し、ために既存の高湯温泉の宿屋のみでは如何とも収容し切れなくなり、収容施設の増加が各方面から強く要望されるにいたったのである。

高湯には、何年位前からのことか判らぬほど昔から宿屋は十七軒、商人その他三十二軒、合計四十九軒よりは部落内に増加させない。二、三男であっても、高湯に一家を構えることは許さないという固い掟というか不文律があった。しかし、時勢は高湯温泉の収容能力にお構いなく来客は益々急激に増えて来るし、これに相応する宿屋の増加を要望されてきたが、この掟と、温泉の権利をもっている宿屋側は頑として耳を傾けず、ために高湯部落は、この宿屋側と、宿屋を増して温泉の権利を分けるべきであるとする側とが抗争反目を続けていたのであった。



この抗争が、私の赴任する前年頃より続けられ、利害と感情から益々深刻化し、また大小の政治家や弁護士が介入して複雑化していたのである。この間にあって、これを解決するため、部落会長伊東久一さんは苦労していたのであった。伊東さんは極めて公平無私な方であり、当時部落内の第一の有力者であって、解決に当たる人としては最も適任者であった。

警察は、宿屋営業の許可と取締上、また、温泉場の風紀、衛生、保安上の立場から、この抗争を放任することができず、部落会長である伊東さんに協力して事に当ったのである。そして解決の第一歩として、新らしく宿屋営業者六人に許可し、このために共同浴場を新設し分湯することにしたのである。

顧みれば、古い昔の話である。現在の大規模の旅館が数多く立ち並び、年間四季を通じて来客絶えない「天下の蔵王温泉」からは、到底想像も出来ないであろうが、しかし、この高湯温泉の宿屋十七軒、商家等三十二軒以外は絶対に増さないとする長い長い歴史、掟を変えたことは、当時としては大問題であり、保守的な、山間の湯治場から、現在の蔵王温泉に到る端緒を開いた一大変革であると言うも過言ではないのである。そして、部落民、当時の高湯温泉の人々は、何れも血族、姻戚関係にあると言われる。それだけに陰性な抗争が三年前後続いたものであったが、解決に努力された当時の伊東久一さんの姿と顔とが、大きく私の眼に浮んでくるのである。



下湯 共同浴場



〜黒木衛『山形の蔵王』より〜


蔵王温泉 来訪者数

1757年(宝暦7)
年間入湯者、7,000人。

1789年〜(寛政)
慶応年間まで、年平均入湯者、7,162人。
慶応3年(1867)まで、季節別入湯者、春28%、夏53%、秋12%、冬7%。

1896年(明治29)
年度入湯者、2万人

1928(昭和3)36,900人
1929(昭和4)36,800人
1930(昭和5)41,900人
1931(昭和6)48,300人
1932(昭和7)50,700人
1933(昭和8)72,100人
1934(昭和9)48,900人
1935(昭和10)55,200人
1936(昭和11)45,359人
1937(昭和12)22,446人

1940年(昭和15)
年度入湯者、5万人

1952(昭和27)51,000人
1953(昭和28)76,000人
1954(昭和29)73,000人
1955(昭和30)77,000人
1956(昭和31)92,000人
1957(昭和32)89,000人
1958(昭和33)88,000人
1959(昭和34)138,000人
1960(昭和35)145,000人
1961(昭和36)176,000人

1965(昭和40)332,500人
1966(昭和41)499,000人
1967(昭和42)576,000人
1968(昭和43)717,000人
1969(昭和44)718,000人
1970(昭和45)700,100人
1971(昭和46)698,600人
1972(昭和47)802,000人
1973(昭和48)884,800人
1974(昭和49)838,800人
1975(昭和50)841,500人
1976(昭和51)833,100人
1977(昭和52)871,600人
1978(昭和53)877,100人
1979(昭和54)857,800人
1980(昭和55)827,700人
1981(昭和56)756,600人
1982(昭和57)789,700人
1983(昭和58)749,500人

1983年(昭和58)
年度入湯税
旅館31軒、29,304,900円
保養所31軒、20,145,525円
民宿4軒、1,465,575円

合計66軒、50,916,000円






話:伊東久一


高湯温泉開発沿革史の一端
旅館拡張と分湯問題


昭和十五年は高湯温泉にとって画期的な年であった。当時総戸数五十戸、人口約参百名、旅館数十七軒、他は商業其の他百姓炭焼運送業など雑業で生計を営んでいた。然るに浴客は年々増大を来たし、各旅館の分館増新築と共に愈々殷賑を極め、一カ年を通じ約五万以上の来客を見るにいたった。夏冬季の混雑著しく、共同浴場は恰も芋を洗う如き状態、旅館又、部屋の不足により、客人の不平の声一段と強くなった。

村一般の生活状況は旅館のみが逐年富を増大し、商人側と比較して格段の差違を生じた。このまま捨てておくと階級斗争に発展しかねない状況だった。平和郷として多年に亘り誇りを持った我が村も、大いなる悩みの影を投ずるは明らかである。時恰も昭和十五年二月、我が国も新体制を樹立すべき初期の秋に当たり、高湯温泉組織にも、旧組織では旧態依然たる欠陥を糺弾せらるるに至り、改革の声巷に喧しくなってきた。



県或いは警察へは投書が入る事も時折り耳にしたのであった。当時山形県警察部長増原恵吉氏の指摘せられし最初の言質は、旅館増設の緊急と、共同浴場の増設を強調せられ、往年の行き懸りを捨てて時代に順応せる組織と改善を以って、一般社会に対する温泉の利用価値を高め、其の発展向上は必然的に、村民の福利を増強せしむること明らかなる旨を諭された。

当時上の山警察署長池田栄太氏の共鳴合意は愈々強い力となり、警察管轄の関係上直接其の指導と実現とに苦慮せられた。又当時の駐在巡査武田謙吉氏も、実現方に奔走せられ、部落会長伊東久一、副会長堀善六の両氏、村将来の発展を察知して時代の認識を深め、村民又協力一致して、部落民の誘導に当たり、大字及び委員会の集会も百回以上に渉り、紆余曲折幾多の難関に直面したが、現今見らるる如き発展に達するを得た。

商人より旅館に転じた者の歓び、又一般村民の喜びも、浴客の満足等も挙げて数うべからざる発展の実を結んだのである。此処にその経過を述べて後年の参考に供するものである。



五月三十日午後一時十五分、県警察部長室に呼出の通知を受け、会長伊東久一、副会長堀善六の両氏訪問す。同席したのが粟野、森山両課長、安斎高校教授、小鷹衛生課長の立合の上、増原恵吉警察部長よりの訓辞大要次の通り、


今回旧い殻を捨て相共に睦しく提携し、発展の為進む様に相成った事は誠に結構な事である。特に高湯は血族関係が深いと聞いて居るが、お互に喧嘩をして居る様では困るし、円満にやって行くならば県としても大いに発展の為に協力する。

温泉も新体制下、手を取り合って進まなければならぬ。一個人の都合が少々悪いとしても、社会国家に益する様なら我慢しなければならぬ。高湯温泉は非常に効めもある上、特に小児に良いので広く一般に利用されれば保健上からも国の為になることであるから、県としても大いに指導もし、又分湯技術については小鷹技師より発表させる。


大略以上の如き内容であった。

昭和二年に源泉と温度の調査発表が小鷹技師により行われたが、当時は一分間二石六斗が今日三石になっているのは、お山の活動によることだと思うから、調査は時々やって見るべきだと言われた。尚分湯するには源泉を整理しなければならないが、共同浴場の湯量を幾分でも増し、現在温度四十三度六分のものを分湯しても四十三度より低下させぬようにし、下湯は四十二度位のものになると思うとの言質を受けた。当時分湯の結果、旧温泉四十三度八分、下湯四十二度五分。


十二月十三日 商人側委員会結果

委員 斎藤駒吉 伊藤作兵エ 斎藤松助 堀文雄 堀久次 伊東重次郎 伊東久一 岡崎三郎 斎藤源吉 以上九名

第一案

高湯開発上を了承の上、一戸分五間に七間の敷地に区割することになった。中央に道路、水道、温泉等を設置し、村の不利の場所にある者の希望に依り優先的に入れるようにした。土地は商人組合に於いて地主と契約し、旅館経営は個人の自由にせんとするものである。源泉の配湯分合を元湯六分、下湯四分とすること。源泉はお湯の増量を図るべく現在の地盤より下げる様交渉する事。

以上を翌十四日宿屋側に申入れる。

商人側委員九名、午前九時大字事務所へ集合

昨日来の話合いに基づき此処まで落付くことを得た過程を会長より説明する。即ち引湯可能の場所を選定、全温泉部落の協同経営に依る簡易ホテル経営の建設計画(利益の平等分配を得んがため)。

右は出資上と経営担当者の困難なる為め設立不可能となった。



第二案

一、中央及び下方の二カ所に共同浴場を増設し簡易なる宿泊を実現せんとするもの。ところがこれは村はづれにある者何十人かの、恩恵に預からざる者の反対のため成立困難となる。



第三案

一、(岡崎金蔵案)商人一同の比較的平等の利益を受け得るためには、若松屋の山(元学校裏地)約三千坪を開発共同浴場二カ所を造り、其の周囲に三十二軒が旅館を建設し理想の温泉郷を作らんとする案。

これも委員現地調査高台に付引湯不可能により成立せず。



第四案

一、中川道路開発の件、これも冷温なるが故考慮不成立。

一、堀利兵エ氏裏畑開発案(再検討)この経過を委員各人より説明す。昨夜の商人側決定せるものと、これ迄の各案に対し宿屋側に於いて検討して、良案を得て貰う事。其の相談は重大問題なので警察への廿日までの回答を、二十五日迄日延べ方願う事となり、次回折衝十八日とす。



十二月十六日委員会

開発問題種々の論議が交され、土地区割に依る救済移住開発は、其の実行、今日の物質払底と価格高騰によりして容易ならざる事となる。

先に七名割当の件の中、岡崎喜作、岡崎勇、堀伝次郎の三氏は、既に棄権の申入れとなり、空地の処分又検討を要し、皆行詰った状態となった。結局、同地に大字一同一丸となって簡易ホテル経営に邁進することになり、決議文を作成一同満場一致にて決定御神酒を挙げて散会す。



十二月十八日大字集会

警察署長の意を体し大字一同一丸の下に簡易ホテル経営する事を、大字集会にて決議す。以上決議文を県に答申書として差出した。右実行に就いては各組より委員の外、別に委員四名づつを挙げ、二十名の委員を選任す。

十二月二十二日開発問題の件に付き、久一、善六の両名上の山警察署に出頭、日帰り。先に選定した場所、「利久」裏一帯六反歩の処へ、資金十万円に依る合同簡易ホテルを経営することに決定せるに依り。

後日池田署長の注意により、金参万円以上の資金を要する場合、臨時資金調整法令に依り、大蔵大臣の認可を要することが判明した。其の内容研究を部落会長及び副会長、委員中より岡崎三郎氏等に依嘱した。



一月十三日右三氏福島日本銀行支店へ調査の為め出張。その結果資金調整法令に依り金参万円以上の資金借入れは大蔵大臣の申請認可を要し、これは高度国防国家上の見地より、旅館、ホテル、料理業、カフェー、飲食店等の業種は絶対不許可とのこと言い渡された。

ここに於いて再び合同ホテル建設案は挫折を見るに到った。改めて一般民間の個人経営旅館案を提唱するに到った。



一月二十五日午前十一時半、上の山池田署長来泉し、午後一時から小学校裁縫室に於いて、大字全員に対し左の要項の話があった。

高湯開発問題につき、大字に於いて決定せる合同体による簡易ホテル経営は、先に研究の結果資金調整法令に依り、主務省の認可おぼつかなきを確め決行し難きを以って、別の方法を執るの外なきことを諭した。県の計画せる機構は、商人側の到底免れ難き打撃にして、これが緩和策は共同浴場を増設して旅館業に転向する外、一面浴客の緩和と商人救済の目的達成に邁進する外なきことを説いた。

座談会に移り種々意見交換を見たが、結局引湯の可能場所と、旅館経営に適せる場所を選定する外なきに到った。


引湯場所の選定方法

小学校長、部落会長、伊東久一、前区長、斎藤藤左エ門、警察官の四氏に依頼しることとなった。総ての事情を勘案して、大字の下部三○番地と決定した。(元巡査駐在所跡)

分湯は上六分、下四分と決定。

工事委員として左の各氏を決定。

岡崎三郎、斎藤駒吉、堀文雄、伊東重次郎、堀五郎左エ門、斎藤源吉の六氏。浴場建設に就いては一切山形市下条町の永野喜一郎氏へ、基礎一切及び工事用石鈴木清一氏へ、石工山田、荒井定吉氏へとそれぞれ請負させることに取り決めた。

昭和十六年七月五日下湯浴場建設着手

一金八千四百七拾八円弐拾参銭也 建設費総額


右請負者山形市永野喜一郎氏へ請負し落成したのは、昭和十七年八月であった。

県警察部としては旅館十三戸の設定と温泉浴場二カ所位の要望あったが諸般の実情と経済の緊迫等により結局次の如く決ったことを銘記して置く。


商人より旅館に転業せる者左の六名
当時の職業及び個人の土地保有調(参考迄)(但し宅地関係除く)

元農業 湯花販売 稲花餅製造販売業
現 旅館業 伊藤屋旅館 伊藤安助
当時一、田 高湯字駒鳴セ参反弐畝 廿八 歩 畑合計 四反五畝廿六歩 雑地 壱町八反壱畝十六歩

元 木地製造販売業 外雑業
現 旅館業 招仙閣 斎藤松助
一、畑合計 弐畝拾弐歩 雑地 九歩

元 農業 運送業 建具屋
現 旅館業 高砂屋 岡崎冨佐
当時一、田 高湯駒鳴セ参反四畝○九歩 畑 弐反○弐拾弐歩 雑地 壱町九反九畝弐拾八歩

元 米穀販売業 運送業
現 旅館業 昭栄館 庄司市次郎
当時 田 壱反六畝弐拾四歩 畑 壱反○拾七歩 雑地 弐町五反拾六歩

元 稲花餅製造販売業
現 旅館業 堀久旅館 堀久治
当時 畑 弐反歩 雑地 壱町九反九畝弐拾六歩

元 稲花餅製造販売業 湯花販売業
現 旅館業 三浦屋 堀伊勢松
当時 畑 壱町七反弐拾八歩 雑地 壱町弐拾六反弐参参歩

以上



県警察部として旅館十三戸の増設と温泉浴場二カ所位の設置に持ち込む予定の様であったが、諸般の事情と経済の緊迫等により結局以上の如く決ったことを銘記して置く。

一面残りの商人側に依り消費組合を造り高湯温泉全域の消費物を此の組合より提供することも話合って見た。然し何んせ運搬する自動車も中々むずかしい時、物資も配給品となったので此の話は遂に纏らなかった。伊藤作兵エさんなんか自主的に馬を利用して物資運搬を試みたこともあった。

此処まで落ち付くのに昭和十五年末期より同廿年川原湯改築に至るまで約六年間もかかり、此の間に於ける種々の難関があったことは銘記し得ないこと、言葉にあらわし得ない事実もあった。当時協力なされた大方のかたは故人となって、余と斎藤駒吉君のみとなり、駒吉君も性格は真面目の方、色々の面に於いて協力下された。私のことについては一番わかって居られる筈、当時のことを思えば私の脳裡に刻まれて居たものが彷彿として往来し涙と共に当時のことを偲びながら、故人の霊に対し感謝の意を表して御冥福を祈る次第である。



商人より旅館に転業せる六軒、うち「昭栄館」


「堀久旅館」


「三浦屋旅館」



〜黒木衛『山形の蔵王』より〜


蔵王(高湯村)の人口


1639年(寛永16)
山形城主・保科正之の検地により、166石2斗7升の、高湯村あり。

1710年(宝永7)
出羽国村山郡金井庄湯沢郷高湯村、百姓数342人。温泉あり。

1754年(宝暦4)
酒屋3軒。石高、源七150石、五郎兵衛58石3斗、新吉12石9斗。

1757年(宝暦7)
世帯数47戸、人口242人。ほかに奉公人、酒屋4人、百姓17人、酌取23人。置屋14軒。
入湯者の30%が遊びで、修験道に復帰の声も出る。冬の来訪多く、このころが、1600〜江戸時代を通じての最盛期。

1768年(明和5)
人口268人。以降減少、1851年(嘉永4)に回復して、1854〜安政年間から増加。1870(明治3)には312人となる。

1799(寛政11)
提げ売り、旅館から分離

1851年(嘉永4)
世帯数47戸。以降、昭和20年(1945)まで世帯数46〜51戸、人口400人未満。

1870(明治3)
世帯数48戸。置屋3軒。

1896年(明治29)
人口389人。旅館16軒、商家29軒。

1926年(大正15)
世帯数60戸、人口400人。旅館17軒、商家30軒。

1930年(昭和5)
共同浴場2軒、上湯と川原湯。公設診療所1軒。

1937年(昭和12)
木地屋8軒。

1940年(昭和15)
世帯数50戸、人口300人。旅館17軒。

1941年(昭和16)
共同浴場下湯建設を機に、提げ売り禁止。


1945(昭和20)旅館23軒、収容人数1,972人
1950(昭和25)旅館23軒、収容人数2,047人
1955(昭和30)旅館26軒、収容人数3,046人
1960(昭和35)旅館29軒、収容人数3,913人
1965(昭和40)旅館37軒、収容人数5,839人
1970(昭和45)旅館41軒、収容人数6,823人
1975(昭和50)旅館46軒、収容人数7,921人
1980(昭和55)旅館48軒、収容人数7,194人


1948年(昭和23)
世帯数78戸、人口482人。旅館23軒、商家24軒。

1950年(昭和25)
堀田村、蔵王村に変る。日本観光地百選山岳の部第1位の改称。

1952年(昭和27)
世帯数82戸、人口488人。

1956年(昭和31)
蔵王村、山形市に編入。

1958年(昭和33)
世帯数98戸、人口577人。旅館23軒、山小屋2軒、保養所3軒。

1965年(昭和40)
世帯数100戸、旅館30軒、保養所15軒、商家50軒。

1969年(昭和44)
世帯数255戸、人口915人。
観光関係業種世帯数、旅館35、山小屋8、保養所26、土産品店17、食堂14、バーなど娯楽施設5、置屋2、タクシー1。

1977年(昭和52)
冬期、臨時就業者、1,304人。

1980年(昭和55)
蔵王地区人口、1万2,303人。
うち蔵王温泉、946人。




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