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2016年11月9日水曜日

平泉寺と大日堂[山形市平清水]




平清水 平泉寺

山門扁額「千歳山」



〜現地・説明板より〜


歴史の散歩道
平泉寺と大日堂


慈覚大師の開祖と伝えられる平泉寺は、天台宗の古刹であり、当寺には重要文化財に指定されている鉄鉢があり、陶祖・小野藤治平の碑がある。

また、夏椿と称する「沙羅の木」が白い花を咲かせる。天然記念物の枝垂れ桜の下には結城哀草果の歌碑がある。

大日堂は胎蔵界大日如来を本尊とし、大仏殿の復興を願ってつくられた千嵗山大仏の仏頭が安置され、裏山には四国八十八ヶ所霊場を勧請した石仏が並び、また、白山権現には宝篋印塔があり、修理の折、仏舎利の納められているのが発見されている。

なお境内には阿古耶姫の遺歌や、風五の句碑が建っている。


夜や更けて おぼろの中に 松の声
風五

消し世の 跡問う松の末かけて 名のみは千々の 秋の月影
阿古耶

滝山地区振興協議会
平成三年 宝くじ助成品



山形市指定天然記念物「紅しだれ桜」


~『わがさと平清水』より~


平泉寺縁起
山形市史資料第五十七号より


天台宗の古刹・平泉寺は、大日堂を本堂として奉祀し、明治維新まで無檀の祈祷寺として、代々山形城主や柏倉陣屋をはじめ、近郷近在の信仰が厚かった。

天保11年の同寺の『由緒分限御改張』によると、天平9年(737)行基菩薩の開山と伝え、仁寿2年(852)慈覚大師が東北巡錫の折、中興開基となり、その後、鎌倉時代には源頼朝から祈祷所に仰せつけられ、寺領36町歩を下付されたと伝え、当時、一山の塔頭は12坊あったと記している。



また同書には、慈覚大師が山寺にある立石寺を開山する以前に、瀧山に龍山寺を開山したが、今の三百坊跡に三百坊があって、平泉寺はその龍山寺三百坊の本坊として「龍山貫主」と称した由を記している。

さらに同書は、最上氏時代には代々270石の寺領を寄進され、山形東郷三十三ヶ村の総鎮守に定められたと記しているが、最上家の改易後は、寺領も召し上げられ、その後、松平大和守が山形城主のときに、諸社寺は幕府の御朱印領を申請して、御朱印寺になったが、平泉寺は当時無住だったので、その願いを出さなかったため、御朱印寺にはならなかったと記している。

また同書は、寛文頃に、松平下総守、奥平美作守が山形城主時代に、祈祷所に仰せつけられ、初穂米として毎月2俵ずつ、正月・九月には3俵ずつを下賜されたが、それらの文書は、今も数通所持していると書き上げている。



かくの如く平泉寺は、江戸時代まで無檀の祈祷寺として、山形藩主や、その他私領の尊敬を集めていたが、現在は有壇の天台寺院となっています。



結城哀草果 歌碑「栗のいがの青きがおちし裏庭を いがをぬらして雨はふりをり」


ころり観音



〜現地・説明板より〜

山形市指定文化財
氏家相模守光房寄進 鉄鉢 壹個
昭和40年3月5日指定


千歳山平泉寺は、遠く奈良時代に僧・行基が開創し、のち天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)が再興したと伝える古寺で、仏像、仏具、絵馬など多くの文化財を伝えているが、そのなかに山形城主・最上氏の家臣、氏家相模守光房が大日堂に寄進した鉄鉢がある。

鉄鉢は洗米鉢ともよび、これを神仏の宝前に置き、参詣者の浄財や米穀を納れたものであるが、県内に遺っておるものは非常に数が少ない。

この鉄鉢は高さ27.5cm(九寸一分)、口径50.0cm(一尺六寸五分)あり、一度火中したらしく黒ずんでいるが、次の銘文を陽刻している。

敬白 大日御宝前
奉寄進御鉢
藤原朝臣 氏家相模守光房
請願成就所
于時 慶長六年辛丑 閏月廿八日

慶長六年(1601)は山形城主・最上義光が関ヶ原余波戦の功により、庄内、由利の諸郡をも加増されて五十七万石の大名に飛躍した年である。

昭和四十年三月
山形市教育委員会


氏家相模守「鉄鉢」



~『わがさと平清水』より~


平泉寺の宝物

大般若経 写本


岩波の石行寺に南北朝時代の大般若経の写本があって、山形県の有形文化財に指定されていますが、その中の第三十六巻の一冊が平泉寺にあります。

それはなぜかと言うと、その写本の奥書に「文和二年五月九日、於平泉寺客欄之下書之、出羽州石行寺常住一筆写百巻之内第三巻也、云々」との記があるのを見つけ、平泉寺先代覚田代に石行寺から特に譲り受けたものであります。



絵馬


もともとは大日堂に奉納されたものであります。華鬘(けまん)型の小さな絵馬がたくさんあります。元禄、宝永、正徳年代の素朴な木版画が多い。

特記すべきものとしては、奥平美作守昌章が奉納した武者絵であります。縦1m、横1.2mの大きなもので、表面に「奉掛御宝前、所願成辨之所」、裏面に「武運長久之所、元禄七甲戌歳八月朔日作州、昌章、敬白」とあります。

昌章は一代の守護仏が大日如来なので、その信仰が特に篤く、平清水大日堂への参詣が34回に及んだと平泉寺の記録にあります。


奥平美作守「武者絵馬」



参道よりのぞむ大日堂


千歳山「大日堂」


~『わがさと平清水』より~


本堂 大日堂


現在の御堂は貞享元年(1684)、二十五世愛慶代(棟札が保存されている)に再建されたもので、四間四面の宝形造で桧造である。

正面の「覚王殿」と書かれた扁額は寛延三年、佐倉に移封して間もない堀田伊豆守正虎公の筆になるものである。

宮殿内の本尊は、行基菩薩の作と伝える胎蔵界の大日如来(秘仏)という。昭和54年の屋根替工事の落成祝賀の際、一世一度の御開帳が執行されました。さらに内陣には脇侍として持国天、増長天をはじめ火伏の牛(慈覚大師作という)、飛地蔵(秘仏)、南滝山不動の本地仏が祀られている。

周りの板壁には花図、竜、象、鳳凰の図絵が極彩色で描かれ、外陣の格天井にも見事な絵が描かれています。

また、大きな仁王像(左右二体で、もとは外の仁王門にあったという)と、約1.90cmの木造大仏頭(千歳山大仏の復元用に造られたもの)、また針子たちが奉納した特大の絵馬、技能の上達を祈願して奉納した数々の絵馬や実物作品などが堂内いっぱいに飾られています。



扁額「覚王殿」堀田伊豆守正虎公筆


針子絵馬(大日堂内)



〜現地・説明板より〜

千嵗山 大日堂
別当 平泉寺


当山は人皇四十五代、聖武天皇の御 宇、天平九 丁丑年(737)行基菩薩の草創にして、のち仁寿壬申年(852)六月十二日、慈覚大師完興の霊場なり。

もとは当山より四粁ばかり奥の字新山という処に、行基菩薩御自作による大日如来の尊像が安置されてあったのが、のち慈覚大師、東北巡錫のみぎり尊像の風雨に犯せらるるを悲しみて、現在の地に移し祭られたものであります。元の新山の旧蹟の地には古碑(薬研堀りのह्रीःキリクを刻してある)一基が残されている。

建久年間(1190〜1199)鎌倉右大将軍・頼朝公よりは、東北の祈願所の一として三十六町の庄園を賜り、一山塔中十二坊、十二末社などを字寺ヶ入りという処に扣え、天下泰平、五穀豊穣などの祈祷の道場であった。



その後、国司・斯波兼頼公、御入部より祈願所として寺領二百七拾石を賜り、本尊・大日如来は川東三十三ヶ村の鎮守と定められた。さらに松平下総守、奥平美作守、旧領の節は、本尊献膳用御初穂として毎月弐 俵、正、五、九月には三俵づつ奉納された書類など現存している。

また承応二年(1653)五月五日、改めて千嵗山のうち大日山、竪二町三十二間、横一丁四十間、絵図面入りの寄附古文書ならびに、当大日堂、屋根普請の祈りには、その都度、萱三千把、葭二百束、足代木三十本、ほかに人足などの寄附書類および寄進札など、今なお保存されている。



本堂、坂の石段、東の池は、慈覚大師、本尊奉移のみぎり閼伽水を求め錫杖にて穿ち給うところ、突然、白蛇があらわれ清水が湧き出た。

現在の平清水という字名、平泉寺という寺号は、皆これより起きたものであると伝えられている。



本尊:胎蔵界・大日如来(行基菩薩御作)

不動明王:南瀧山の本尊

飛行地蔵菩薩(秘仏):元和元年(1615)三月二十四日、山形北肴町表、火行河原より飛来る。

正面扁額:覚王殿 寛延三年(1750)、老中・堀田伊豆守正虎公、筆。

千歳山大仏御頭像:高さ六尺三寸余、元千歳山公園六角堂にあったもの。

両脇仕:増長天、広目天

御縁日:正月二十八日早朝、初大護摩供修行、家内安全、厄難消除(年祝いの人)、交通安全、とくに進学成就、諸願如意、御祈祷

大祭礼:四月二十八日(もとは旧三月二十八日)、午前十時、大護摩供

例祭:毎月二十八日

文化財:鉄鉢、別当平泉寺にあり。


慈覚大師の穿ちし池


~『わがさと平清水』より~


慈覚大師は新山の地を行脚された折り、大日堂の荒廃をいたく嘆かれ、下の平清水に風光明媚な土地をさがして中興されたといわれています。いまも境内にある古い桜は大師の偉業を物語るものと思われます。

なお大日堂の坂の下の池も、大師が掘ったものであります。大師が閼伽水(あかみず、仏に供える水)を求めて錫杖で土をついたら、清水がこんこんと出てきたので、里人はこの水を飲料に供し「平清水」と呼んだと伝えられています。

平清水の名の起こりは2つありまして、古い時代のことですから何れが本名とは言いがたいのであります。



お不動さま


風五「夜や更けて おぼろの中に 松の声」


阿古耶姫「消し世の 跡問う松の末かけて 名のみは千々の 秋の月影」


蔵王に多い「山姥さま」がここにも


白山大権現と宝篋印塔

~『わがさと平清水』より~


白山大権現堂

むかし、修験道の白山信仰が北陸から東北地方に拡がったといわれ、穢れを払う神で、お山、境内を守護するから地主権現ともいわれる。



~現地・説明板より~


白山大権現:川東三十三ヶ村の地主明神であった。

宝篋印塔:仏舎利を納蔵。



白山大権現の奥からはじまる「大日山八十八ヶ所」登山口



~『わがさと平清水』より~


新四国八十八ヶ所霊場


文政年間(1818〜1830)に、紀州の人、浦若歌之助が同行者たちと協力して、東北の人々も西国八十八ヶ所の霊場を参拝することができるようにと、それぞれの土を持ってきて瓶に入れ、一つ一つの石仏の下に埋めて建てたものといわれています。

(補足)
八十八の石仏が大日山に建つ。施主は山形の人である。為○○之菩提也とある。



~現地・説明板より~

新四国八十八ヶ所霊場:
文政年中、紀州牟漏郡木ノ元浦若之助、同行三人建立。境内山内にあり。



つづら折りの登山道沿いに多数、石仏が配置されている。


一番上の石像


展望台


展望台よりのぞむ山形市内。右奥には月山。


下りの別ルートにも、多数の石仏


蔵王権現


「山寺」の文字がみえる


八十八ヶ所を山中一巡すると、大日堂に戻る




2016年11月8日火曜日

千年の「ひいらぎ」[山形市平清水]



天然記念物
「平清水の柊(ひいらぎ)」



〜現地・説明板より〜


県指定天然記念物
平清水のひいらぎ
昭和28年2月13日指定


「ひいらぎ(柊)」は暖かい地方の常緑の小高木で、昔から庭木として広く植えられています。福島県のいわき市が自生の北限とされています。山形にこのような老巨木が生育したことは、極めて珍しいことです。

平清水家は、慶長・元和(1610年代)には山形最上氏の客臣として四千石を賜り、徳川時代には大庄屋をつとめた家柄です。この「ひいらぎ」は、その先祖が邸内の魔除けとして植えたものと伝えられています。

根周(ねまわり)は3.5mあり、根元で二幹に分かれています。東側の幹周(みきまわり)は2.2mで、高さ約11mを測ります。西側の幹はさらに分岐して西方に大きく傾き、枝張りは約10mに達し、地面すれすれに垂下しています。

なお、樹齢は千年を越えるものと推定されています。

平成4年3月
山形県教育委員会
山形市教育委員会



樹齢は千年をこえる



~『わがさと平清水』より~


大和政府は植民政策をおこない、全国より移民をはじめました。年代は不明でありますが、天童市の西沼田、酒田市の城の輪の遺跡などから、山形県地方への移住がうかがえるのであります。

平清水地区でも、平清水家(現第74代、平清水久左衛門氏)は奈良時代の神亀年間、家祖、黒金穆弥(くろがね・ぼくや)公が朝命により下野国(栃木県)から里人数十人を従えて、千歳山南麓に移住し草庵をむすび、飲料水を探しまわり、やや湿地のところを見つけて杖で土地を掘ったところ、突然、清水が湧き出したといわれています。それから自分の家の姓を「平清水」とし、村の名も平清水と呼ぶようになったといわれています。

道家の邸内には柊(ひいらぎ)が樹齢1,000有余年の威容を誇っています。このヒイラギは家祖、黒金穆弥公故郷の山野に生い茂る幼木を移住の地までもってきて屋敷の鬼門に植えたと伝えられています。暖帯性の植物が主家を見守るように、気候的に寒さの厳しい東北地方の山形に土着したことは珍しい。このヒイラギは昭和28年に山形県天然記念物に指定されました。



『わがさと平清水』より




2016年11月6日日曜日

八幡神社[山形市平清水]




平清水「八幡神社」


〜現地・案内板より〜


八幡神社
御由緒略

祭神 誉田別尊(ほむたわけのみこと)



寛治元年(1087)陸奥守(むつのかみ)源義家(みなもとのよしいえ)、奥羽の逆徒・清原武衡(きよはらのたけひら)追討の時(後三年の役)、この地に陣を構え八幡宮を勧請、祝い申しあげるや見事逆徒を亡ぼす。

後にこの勝利まさにこの宮の神徳なりとて鎧刀の二品を奉納あり。また朝臣の帰依により無税地にし、山地八段八畝、耕地一町五段を賜る。そのほか村内より寄進に係る因となす。



慶長15年(1610)出羽守(でわのかみ)最上義光(もがみよしあき)公、由緒正しく神徳の高きを敬い、大破せる本殿を再建し祈願所を定めらる。

天保3年(1832)二月、別当慈照院、大災にあい八幡宮宝物ら鳥有に帰す。

古人の言い伝えによれば、義家公の奉納にかわる鎧刀のほか、足利将軍義昭公寄進の品、最上義光寄進の品、宝物なども火災により消失す、と。



明治維新に土地官有に属し、神仏混合廃止つづいて別当慈照院、廃寺となる。

明治12年(1879)10月30日、村社に列せられしが、戦後は一宗教法人として今日にいたる。



昭和57年10月
平清水 氏子


八幡神社 拝殿


〜『わがさと平清水』より〜


平清水八幡神社


言い伝えによると、第73第堀川天皇の御代、寛治元年(1087)源義家朝臣、藤原武衡、家衡を亡ぼさんと、出羽国・平清水の地に来てここを本陣に構え、京都岩清水八幡宮を勧請して平清水八幡宮と申し上げ、戦勝を祈願、出陣した。途中、その甲斐があって、破竹の勢いで敵を破った。戦い終わって凱旋するにあたり、八幡宮の神徳と、義家の所持品である鎧・刀などを奉納され、現在地に祀ったといわれています。

八幡神社の別当には天台宗自性院(のちに慈照院と改む)を平清水右門が建立したといわれているが、明治に入って廃寺となり、その後、平清水部落の管理となり今日に至っています。

現在の社殿は、享保年間、乞食の火の不始末により消失。後、文化年間に建立されたものであります。






〜『山形市史編集資料 第二十八号 山形神仏分離関係史料』より〜


八幡神社
調査書
昭和10年6月4日

所在地:
山形県南村山郡
瀧山村大字平清水
八幡山三番 官有地第一種

神社名:村社 八幡神社

祭神:誉田別尊



由緒:


人皇七十三代、堀川天皇、御字寛治元年、源義家朝臣、奥州逆徒等追討として下向の時、此の処に陣を構え戦功を祈りし為、この八幡宮を勧請祝い申せしに、御守の違ひなく速に逆徒を亡ぼし、目出度く帰京ありて叡感の儘厚く恩賞を蒙り、子孫永く栄暉を残し玉へりは此社の神徳なりとて、鎧刀二品を奉納あり。外に宝物数品および縁起など委しく之れあり。

また源義家公の帰依により無税地にして山地八 反八畝歩、耕地一町五反歩を賜り、其のほか村内より寄付に係る耕地九反五畝歩の土地を有し、平清水八幡宮と申し奉る。



人皇百六代、正親町天皇の御字元亀二年、足利十五代将軍・義昭公、戦乱の砌り侍女・佐久間政長の女に曰く、

「汝すでに懐妊せり、今や都は戦乱の巷となり身危かるべし。出羽国村山郡平清水村には先祖八幡公の帰依厚き八幡宮あり。又かの地には源氏家臣の裔、数多ありと聞く。早々出羽に下りて時を待つべし」

と侍女、佐久間政長などと共に此地に下り平清水家に属し、男子を出生す。政長ら養育申し上げるが、義昭公再興の事もなかりければ、国主・最上義光公に謁し、下野守義行と改め、足利の姓を預かり平清水佐久間の両姓を名乗るを許され、禄を扶持し客将に遇せらる。義行公は殊のほか八幡宮を崇敬せらる。



慶長十五庚申年、国主・侍従少将出羽守、最上義光公、この八幡宮の由緒正しく神徳の高きを敬い、大破に属せる社殿を再建し、祈願所と定めらる。

寛文年間、奥平大膳亮公、享保二戊丁年、堀田伊豆守公、御参詣あり。

天保三年二月中、別当自性院、火災に罹り宝物縁起ら鳥有に帰す。

明治十二年十月三十日、村社に列せらる。



祭日:
祈年祭 三月十五日
例祭 九月十五日
新嘗祭 十一月二十七日

基本財産:
基本金 金 弐千圓

境内所有地:
南村山郡 瀧山村
大字 平清水 八幡山 千六十二番

山林 弐反四畝四歩
賃貸価格 金 参円参拾七銭

氏子:百三十八戸



八幡神社 児童遊園




2016年11月2日水曜日

『わがさと平清水』より



『わがさと平清水』

編集:わがさと平清水刊行会
発行:平成四年四月五日

『わがさと平清水』表紙・裏表紙

表紙について:
この版画『千歳山風景』は万松寺に所蔵されている。

筆者の霞峰は、明治の初期ごろまで湯殿山参詣の行者の先達をしていた法印(僧)で、画を宇野義川(小橋町)について学び、霞峰の名で多くの作品を残している。

着色は平清水の住人、橋本晶夫氏によるものです。


平成四年(1992)頃の千歳山周辺
写真の田畑は現在(2016)、すでに宅地化されている


阿古耶姫(万松寺)

源顕兼の説話集『古事談』(健暦2年〜建保3年、1212〜1215年)のなかに、「あこやの松」「雀になった実方」として藤原実方(平安の歌人、左近衛中将)のことを記しています。『古事談』の阿古屋の松について、つぎに原文(教育社新書版・志村有弘訳)の中から一部をのせます。

実方(さねかた)が奥州を経廻していた時、歌枕(古くから歌に詠まれた名所)を見るために毎日出歩いていた。ある日、あこやの松を見に出ようとしたところ、国人(土地の人々)が申すには、

「あこやの松と申す所は、この国の中にはありません」と。

その時、一人の老翁が進み出て

”陸奥(みちのく)の 阿古屋の松に木隠れて 出づべき月のいでもやらぬか”
と申す古歌をお思いになっておっしゃられたのでありますか。それでしたら、その歌は出羽と陸奥がまだ分かれていない時に詠まれた歌です。両国が分けられた後は、あの松は出羽の方に入っているのです。

と申された。


その他に、藤原長清選の延慶3年(1310)頃に編集された『夫木和歌抄』(夫木集)という歌書があって、このなかに巻二九に一三、七八八番和歌として

「みちのくの 阿古屋の松に木隠れて 出づべき月のいでやらぬかな 読人知らず」

と載っていますので、『古事談』の阿古屋の松と照らし合わせて、千歳山に伝わる阿古屋の松物語は古くよりあった史実と信じてよいでしょう。



また、この和歌は、承久から仁治(1219〜1240)のあいだに成ったといわれる『平家物語』(平曲の軍記物語)にも、二之巻、阿古屋の松としてみられ、丹波少将成経(鹿ケ谷の陰謀に参加し、鬼界ヶ島に流刑。のちに許された)の島送りの日、涙ながらに、昔、実方(さねかた)中将奥州へ流されたことを思い出して、

「みちのくの 阿古屋の松に木隠れて 出づべき月のいでもやらぬか」

という古歌を口ずさみながら流されていったと記されています。



針子絵馬(大日堂内)


平清水家の柊(ひいらぎ)樹齢1,000年を越えるといわれる
県指定天然記念物

大和政府は植民政策をおこない、全国より移民をはじめました。年代は不明でありますが、天童市の西沼田、酒田市の城の輪の遺跡などから、山形県地方への移住がうかがえるのであります。

平清水地区でも、平清水家(現第74代、平清水久左衛門氏)は奈良時代の神亀年間、家祖、黒金穆弥(くろがね・ぼくや)公が朝命により下野国(栃木県)から里人数十人を従えて、千歳山南麓に移住し草庵をむすび、飲料水を探しまわり、やや湿地のところを見つけて杖で土地を掘ったところ、突然、清水が湧き出したといわれています。それから自分の家の姓を「平清水」とし、村の名も平清水と呼ぶようになったといわれています。

道家の邸内には柊(ひいらぎ)が樹齢1,000有余年の威容を誇っています。このヒイラギは家祖、黒金穆弥公故郷の山野に生い茂る幼木を移住の地までもってきて屋敷の鬼門に植えたと伝えられています。暖帯性の植物が主家を見守るように、気候的に寒さの厳しい東北地方の山形に土着したことは珍しい。このヒイラギは昭和28年に山形県天然記念物に指定されました。


平泉寺の紅しだれ桜市指定天然記念物

慈覚大師は新山の地を行脚された折り、大日堂の荒廃をいたく嘆かれ、下の平清水に風光明媚な土地をさがして中興されたといわれています。いまも境内にある古い桜は大師の偉業を物語るものと思われます。

なお大日堂の坂の下の池も、大師が掘ったものであります。大師が閼伽水(あかみず、仏に供える水)を求めて錫杖で土をついたら、清水がこんこんと出てきたので、里人はこの水を飲料に供し「平清水」と呼んだと伝えられています。

平清水の名の起こりは2つありまして、古い時代のことですから何れが本名とは言いがたいのであります。



青磁香炉 小野藤治平作 平泉寺蔵


中皿 定五郎窯製
花立 佐久間瓶屋 明治12年製

平泉寺所蔵品



『平清水郷土史』発刊に寄せて

山形郷土史研究協議会会長 小形利吉


「最上(もがみ)」は山形の古名であるが、その文化発祥の地は平清水である。平城宮跡から出土した奈良時代初期の木簡には「裳上」、承平年中(931〜937)源順が編纂した『倭名類聚抄』には「毛加美」の字を宛ているが、和銅5年(712)出羽国が建置された時、それまでの陸奥国から出羽国に移され、その後から中世・近代まで「最上(もがみ)」の字を宛てきた。

古代の五畿七道制の時代は東山道に属し、行政単位としては近江・美濃・飛騨・武蔵・上野・下野・陸奥・出羽の諸国が所属し、諸道を行政単位とはしなかったが、各国府を連ねる官道を設けてその呼称に用いられ、東山道(あずまのやまみち)は東国経営の重要な交通路であった。

延喜式が完成したのは延長5年(927)で、それが施行されたのは40年後の康保4年(967)であるから、それによって笹谷街道が官道に指定され双月・山家附近に最上駅が置かれるはるか以前のことである。



寛平4年(892)源能有が編纂した『三代実録』の貞観9年(867)12月29日の条に「出羽国最上郡霊山寺預之定額寺」という記事があって、この霊山寺は応保元年(1161)10月、信阿という天台僧が『和漢朗詠集私註』を書いた隴山寺と同一の寺と考えられ、また、岩波の石行寺や平清水の平泉寺と同じく行基開創、慈覚大師再興と伝える龍山寺(あるいは瀧山寺とも書く)とも同一寺院と推定されている。

久安4年(1148)頃、西行法師が瀧の山を訪ねて桜の歌を残したことについては、瀧山説と長谷堂説があって今のところ定かではないが、東山道の要衝として早くから開けた土地であることは間違いなく、平清水久左衛門宅のヒイラギ(柊)をはじめ、阿古耶姫や中将姫の伝説、歌枕としての「阿古耶の松」などは、延喜式以前の東山道時代にもたらされたもので、都との交流が盛んに行われていたことを示す貴重な資料でもあると思う。



このようにして山形市周辺では最も早く開けた「平清水の歴史」がまとめられ、公刊されることは誠に喜びに堪えないことで、多くの方々のご一読をこい願って推薦の辞とする次第である。



飯はち 平吉窯製(山田香亭画)


大すず七右衛門窯


陶風呂桶製
新瓶屋窯製

平泉寺所蔵




一本脚の鳥居


大字平清水小字名


明治34年測図「山形」1/2万地測図

私たち平清水の集落は、東に奥羽山脈が走っていて、その一山である新山(にいやま)高さ約560mを起点に、南の境界は左沢山(あてらざわやま)南滝山(なんりゅうざん)猿岡山(さるおかやま)大林山(おおばやしやま、前田山ともいう)鬼越(おにごえ)戸神山(とかみやま)約311mと連なって、南の境界(嶺境い)になっています。

北の境界は、新山から観音山(かんのんやま、護摩山ともいう)船ヶ沢(ふながさわ)高戸屋山(たかとややま)千歳山(ちとせやま)約471.1mの線であります。

平清水は、この狭い山あいに開けた小さな扇状地で、地質的には第三紀層(約700万年〜100万年ぐらい、新生代第三紀層)を基盤にしています。東に走る奥羽山脈は比較的に若い地質年令の山ですから壮年期の山容をあらわしていますので、大雨の時など山崩れや洪水に十分注意する必要があり、並行して走る那須火山脈にある蔵王山(滝山はその外輪山)も、思い出したように鳴動することがあるかもしれません。



出典:『わがさと平清水』


2015年6月2日火曜日

南瀧山不動尊 [山形市平清水]



平清水の集落内にのこる道標
喜兵衛地蔵尊
「右ハ大日ミち 左ハ平清水」


平清水からのびる林道「新山線」をゆく

林道の深まったところに突如あらわれる石鳥居

左柱の銘:

明治三十年酉年 三月大吉日

世話人(八森村)
石沢重右エ門
布川久右エ門
安部藤吉
国井裕次郎
石沢菊松
石沢庄三郎
石沢久助
伊藤○○
石沢○○







「登山口 移転碑」

南瀧山不動尊登山口を
砂防堰堤構築の為
現在地に移転す

昭和四十四年七月
渡辺誠泉書

裏銘:
別当 千歳俊田
発起人 浅野長次郎 佐藤昌一(地区総代) 宮館正一(副総代)
石工 石沢進



「南瀧山開基供養碑」
明治27年(1894)


南瀧山開基供養碑

當山開基釋妙現比丘尼者平清水村農夫善助之婦也性孝而貞亦深歸于佛来矣明和六年蒙不動明王霊應披創棘挙崔嵬詣此靈瀑爾來霊験如響應云遂為尼號稱妙現安永九年十月五日寂茲有稀有之信者鈴木宇右衛門號曰義尊山形三日街之人也奮投義賛造營堂舎完備佛器事無細大無不竭其眞意可謂功徳偉矣天明四年六月五日卒二氏逝而于茲一百有餘年也頃者諸有志者相謀修追福之法會旦建一碑以傳不朽云

明治二十七甲午年十二月台嶺沙門釋覺田識 千歳要書

(概訳)

当山開基の釋妙現比丘尼は平清水村の農夫善助の 婦なり。 孝にして貞、深く仏に帰し、明和六年(1769)不動明王の霊応を蒙(こうむ)り、棘を披(ひら)き崔嵬を奉じこの靈瀑を詣ず。それ以来、霊験〜 遂に尼と成り号を妙現と称すと云う。安永九年(1780)十月五日、稀有の信者鈴木宇右衛門ここに有り、号して義尊と曰う。三日街の人なり。奮授義賛、堂舎を造営し仏 器を完備し、事細大なく不竭なし。その真意は功徳偉というべきかな。天明四年(1784)六月五日、二氏卒し逝く。ここに百有余年なる頃、諸有志相い謀りて追福の法会を修し、かつ一碑建つるをもって伝を不朽にすと云う。


「南瀧山之碑」
天明七年(1787)

南龍山之碑

天明第七丁未秋八月
南瀧山者距山形城六里許也西峯都千嵗山而林樹蓊村澗
道賛屹實神人所宅也百丈懸泉如瀑布十部聚溚因下流為
浩□矣是天之牗民如□如箆焉相傳在昔行基上人者従回
錫於斯山基趾千有餘年于此矣顧乎刻毘盧舎那佛今安□
平泉寺裏也明和己丑夏四月始□□光於□□使妙眼尼者
感託神符除容民之病患故過迩攀□譫礼者□□如蟻終者
一場霊昵矣於是太守□堀田□使其大夫挿内則恒再建稲
荷神社尚欲耀佛光於芫季被慈且恭黎□也何謂□民事也
因之四方或負擔或技背終経数□諸宮□然悉成矣是天之
牗民如𡐚如箎焉有市隠鈴木義尊者來而□力自始無□其
功亦不鮮也妙尼将死而以所得之符形納□於平泉寺傳
大者家古県始至有感謁除将勅之于石銘曰
南山飛泉 □據崔嵬 不騫不崩 佛光千載

平泉寺三十世
沙門昌雲謹識


「百万遍供養塔 南無阿弥陀」
安永三(1774)甲午歳七月吉祥日



石碑石像群の一石
「右 不動道 左ハ 山道」




〜『わがさと平清水』より〜

南滝山(なんりゅうざん)不動明王のこと



「お不動さまの道そうじ」

春と秋、地区民は人足として奉仕してやってきている、あの山の不動様であります。今は訪れる人とてありませんが、むかしは参詣する人が多く、まいにち祭りのような賑わいで、茶店なども数軒できたとのことで、そこは「茶屋の前」という名で呼ばれ、小字名として今も残っています。



南滝山不動尊の縁起書によれば、明和六年(1769)村の農夫・善助の妻おゆき(八森から嫁にきたという)は若年より眼を患い、不動明王を信仰していました。ある夜、夢に不動明王が姿を現し、神符三粒をあたえて言われるには、

「三日の間、これを水に入れて眼を洗うべし。吾は大日堂に納まる不動明王で、四月三日に南滝に示現す」

と告げて消えてしまった。おゆきは言われたとおりに精心潔斎して、南滝の水で洗眼をつづけたところ、旬日にしてきれいに開眼したといわれます。このことが人から人に、村から村へ、町へと伝わり南滝に集まる人が多くなりました。

おゆきはいよいよ不動明王の示現した南滝を信仰され、滝の近くに小屋をつくり(善助の協力)住むことになり、村人たちも協力して道路をつくったりしました。おゆきは尼様となり、名を妙現尼といったのです。



平泉寺の記録によると、弘化四年(1847)に日本三大不動尊の一つ、越後国菅谷不動尊(村上市外・天台宗)から石像の不動尊一体を譲り受けて、六月二八日に人夫に頼んで移送し、平泉寺庭に休め参らせ、八月二日、村中が出て南滝山道掃除をなし、石像を運び行き、明三日滝にて開眼供養を行うとあります。導師は山主(栄良か)承仕(覚忍房)、施主は山形横町の山崎源兵衛です。

また、十月十五日に同人は南滝山に護摩堂を建立すとあります。三日町の鈴木宇右エ門は拝殿と籠堂を兼ねた小堂を建てたことも記されています。



大正のはじめ頃(筆者たちの小さい時)まで、鳥居場の近くに籠堂があって、法印様(バサランダといっていた)が一人で暮していて、ときどき白装束姿で村におりてくるのを見かけたものでした。だが、いつのまにかいなくなりました。

平清水の地区では、大正7年9月27日の臨時総会で、不動尊籠堂の売却が決議され、売上金のうち壱百円を銀行に預金し、その利子の半額をもって年2回、道路掃除と祭礼にあてることにしました。

この行事が現在まで続いているのですが、仏さまも世の変り方に目を白黒していることでしょう。石鳥居に刻まれた名を見ると、八森村の人が多いのはどうしたわけか、妙現尼が八森生まれであったことに関係あるのでしょう。



鳥居をくぐり、恥川をわたり、シダ深き山中へと足を踏み入れる

倒木など散乱し、道は険しい。
それでも確たる踏み跡はある。

山中右手に「和泉稲荷大神」
安永七年(1787)

万年堂:

祭神
大正十一年三月
佐久間治右エ門


左右の燈籠2基:

右側
○○○稲荷○天
五月建立
奉納 施主

左側
安永七戊戌歳 矢野氏
奉納御寳前 鈴木氏
七月吉日 大沼氏



そのすぐ先に不動明王像

「奉参詣百日大願成就」
安永六(1777)丁酉 正月廿四日
天童原町村峯元坊

「西国巡礼供養」



不動尊像
「奉納 山形市宮町」

茂るシダを踏みながら、さらに奥へと

不思議な文様をもつ幹

まさかの姥神さま

瀧山参道には、これで6体の姥神さまが現存することになる。
この尊像は蔵王・瀧山信仰および不動尊との縁がよほどに深い。

姥神像わきの巨石

なおも戸石山沢をさかのぼっていくと
背丈ほどの岩瀧に行く手をはばまれる

岩を越え、沢を踏みつ

ついに辿りつきたる「南瀧山不動尊」

渇水期ゆえに水量は乏しい
岩肌を伝う瀧は上にもう一段

瀧の前庭におわします不動さま

瀧下をまもる不動さま
「奉拝 大聖不動明王」
「千歳山大日堂作尊像」

線刻石碑不動明王の右方にも一体の不動尊像が祀られてある
しかし全身を苔草におおわれ、そのさま定かならず


〜『わがさと平清水』より〜

奥の院
石仏 不動尊像
滝壺のなかに三体あり


平泉寺文書(山形市史資料57号)に「弘化四年(1847)六月二八日、覚忍坊良海発頭人にて、越後国菅谷不動尊を遷し当南滝山に奉納す」とある。

滝壺中の尊像のどちらかであると思われるが、石像を背負って遠路、山道を運んだものかと驚かざるを得ない。記録はなおつづく。

八月二日、村中於南滝山道掃除、右像当寺之庭より南滝山え持行、明三日開眼供養可仕処廿八日に日延す。道師山主(栄良房)承仕、覚忍房、施主山形横町、山崎源兵衛、以下略



瀧下から空をあおぐ
鬱蒼とした濃い林に間隙はすくない

遡行してきた清らかな沢をくだり、帰路につく

林道わきの石鳥居へともどる

恥川に築かれた堰堤
その可憐な川名に似合わず、その昔は暴れる川だったという。
さもありなん、峻嶮たる瀧山の膨なる水をあつめては

南瀧山不動尊は、恥川へと注ぐ支流「戸石山沢」に位置する。
地形としては、千歳山と猿岡山の隘路にあたる。