平清水の集落内にのこる道標 喜兵衛地蔵尊 「右ハ大日ミち 左ハ平清水」 |
平清水からのびる林道「新山線」をゆく |
林道の深まったところに突如あらわれる石鳥居 |
左柱の銘:
明治三十年酉年 三月大吉日
世話人(八森村)
石沢重右エ門
布川久右エ門
安部藤吉
国井裕次郎
石沢菊松
石沢庄三郎
石沢久助
伊藤○○
石沢○○
「登山口 移転碑」 |
南瀧山不動尊登山口を
砂防堰堤構築の為
現在地に移転す
昭和四十四年七月
渡辺誠泉書
裏銘:
別当 千歳俊田
発起人 浅野長次郎 佐藤昌一(地区総代) 宮館正一(副総代)
石工 石沢進
「南瀧山開基供養碑」 明治27年(1894) |
南瀧山開基供養碑
當山開基釋妙現比丘尼者平清水村農夫善助之婦也性孝而貞亦深歸于佛来矣明和六年蒙不動明王霊應披創棘挙崔嵬詣此靈瀑爾來霊験如響應云遂為尼號稱妙現安永九年十月五日寂茲有稀有之信者鈴木宇右衛門號曰義尊山形三日街之人也奮投義賛造營堂舎完備佛器事無細大無不竭其眞意可謂功徳偉矣天明四年六月五日卒二氏逝而于茲一百有餘年也頃者諸有志者相謀修追福之法會旦建一碑以傳不朽云
明治二十七甲午年十二月台嶺沙門釋覺田識 千歳要書
(概訳)
当山開基の釋妙現比丘尼は平清水村の農夫善助の 婦なり。 孝にして貞、深く仏に帰し、明和六年(1769)不動明王の霊応を蒙(こうむ)り、棘を披(ひら)き崔嵬を奉じこの靈瀑を詣ず。それ以来、霊験〜 遂に尼と成り号を妙現と称すと云う。安永九年(1780)十月五日、稀有の信者鈴木宇右衛門ここに有り、号して義尊と曰う。三日街の人なり。奮授義賛、堂舎を造営し仏 器を完備し、事細大なく不竭なし。その真意は功徳偉というべきかな。天明四年(1784)六月五日、二氏卒し逝く。ここに百有余年なる頃、諸有志相い謀りて追福の法会を修し、かつ一碑建つるをもって伝を不朽にすと云う。
「南瀧山之碑」 天明七年(1787) |
南龍山之碑
天明第七丁未秋八月
南瀧山者距山形城六里許也西峯都千嵗山而林樹蓊村澗
道賛屹實神人所宅也百丈懸泉如瀑布十部聚溚因下流為
浩□矣是天之牗民如□如箆焉相傳在昔行基上人者従回
錫於斯山基趾千有餘年于此矣顧乎刻毘盧舎那佛今安□
平泉寺裏也明和己丑夏四月始□□光於□□使妙眼尼者
感託神符除容民之病患故過迩攀□譫礼者□□如蟻終者
一場霊昵矣於是太守□堀田□使其大夫挿内則恒再建稲
荷神社尚欲耀佛光於芫季被慈且恭黎□也何謂□民事也
因之四方或負擔或技背終経数□諸宮□然悉成矣是天之
牗民如𡐚如箎焉有市隠鈴木義尊者來而□力自始無□其
功亦不鮮也妙尼将死而以所得之符形納□於平泉寺傳
大者家古県始至有感謁除将勅之于石銘曰
南山飛泉 □據崔嵬 不騫不崩 佛光千載
平泉寺三十世
沙門昌雲謹識
「百万遍供養塔 南無阿弥陀」 安永三(1774)甲午歳七月吉祥日 |
石碑石像群の一石 「右 不動道 左ハ 山道」 |
〜『わがさと平清水』より〜
南滝山(なんりゅうざん)不動明王のこと
「お不動さまの道そうじ」
春と秋、地区民は人足として奉仕してやってきている、あの山の不動様であります。今は訪れる人とてありませんが、むかしは参詣する人が多く、まいにち祭りのような賑わいで、茶店なども数軒できたとのことで、そこは「茶屋の前」という名で呼ばれ、小字名として今も残っています。
南滝山不動尊の縁起書によれば、明和六年(1769)村の農夫・善助の妻おゆき(八森から嫁にきたという)は若年より眼を患い、不動明王を信仰していました。ある夜、夢に不動明王が姿を現し、神符三粒をあたえて言われるには、
「三日の間、これを水に入れて眼を洗うべし。吾は大日堂に納まる不動明王で、四月三日に南滝に示現す」
と告げて消えてしまった。おゆきは言われたとおりに精心潔斎して、南滝の水で洗眼をつづけたところ、旬日にしてきれいに開眼したといわれます。このことが人から人に、村から村へ、町へと伝わり南滝に集まる人が多くなりました。
おゆきはいよいよ不動明王の示現した南滝を信仰され、滝の近くに小屋をつくり(善助の協力)住むことになり、村人たちも協力して道路をつくったりしました。おゆきは尼様となり、名を妙現尼といったのです。
平泉寺の記録によると、弘化四年(1847)に日本三大不動尊の一つ、越後国菅谷不動尊(村上市外・天台宗)から石像の不動尊一体を譲り受けて、六月二八日に人夫に頼んで移送し、平泉寺庭に休め参らせ、八月二日、村中が出て南滝山道掃除をなし、石像を運び行き、明三日滝にて開眼供養を行うとあります。導師は山主(栄良か)承仕(覚忍房)、施主は山形横町の山崎源兵衛です。
また、十月十五日に同人は南滝山に護摩堂を建立すとあります。三日町の鈴木宇右エ門は拝殿と籠堂を兼ねた小堂を建てたことも記されています。
大正のはじめ頃(筆者たちの小さい時)まで、鳥居場の近くに籠堂があって、法印様(バサランダといっていた)が一人で暮していて、ときどき白装束姿で村におりてくるのを見かけたものでした。だが、いつのまにかいなくなりました。
平清水の地区では、大正7年9月27日の臨時総会で、不動尊籠堂の売却が決議され、売上金のうち壱百円を銀行に預金し、その利子の半額をもって年2回、道路掃除と祭礼にあてることにしました。
この行事が現在まで続いているのですが、仏さまも世の変り方に目を白黒していることでしょう。石鳥居に刻まれた名を見ると、八森村の人が多いのはどうしたわけか、妙現尼が八森生まれであったことに関係あるのでしょう。
鳥居をくぐり、恥川をわたり、シダ深き山中へと足を踏み入れる |
倒木など散乱し、道は険しい。 それでも確たる踏み跡はある。 |
山中右手に「和泉稲荷大神」 安永七年(1787) |
万年堂:
祭神
大正十一年三月
佐久間治右エ門
左右の燈籠2基:
右側
○○○稲荷○天
五月建立
奉納 施主
左側
安永七戊戌歳 矢野氏
奉納御寳前 鈴木氏
七月吉日 大沼氏
そのすぐ先に不動明王像 |
右
「奉参詣百日大願成就」
安永六(1777)丁酉 正月廿四日
天童原町村峯元坊
左
「西国巡礼供養」
不動尊像 「奉納 山形市宮町」 |
茂るシダを踏みながら、さらに奥へと |
不思議な文様をもつ幹 |
まさかの姥神さま |
瀧山参道には、これで6体の姥神さまが現存することになる。 この尊像は蔵王・瀧山信仰および不動尊との縁がよほどに深い。 |
姥神像わきの巨石 |
なおも戸石山沢をさかのぼっていくと 背丈ほどの岩瀧に行く手をはばまれる |
岩を越え、沢を踏みつ |
ついに辿りつきたる「南瀧山不動尊」 |
渇水期ゆえに水量は乏しい 岩肌を伝う瀧は上にもう一段 |
瀧の前庭におわします不動さま |
瀧下をまもる不動さま 「奉拝 大聖不動明王」 「千歳山大日堂作尊像」 |
線刻石碑不動明王の右方にも一体の不動尊像が祀られてある しかし全身を苔草におおわれ、そのさま定かならず |
〜『わがさと平清水』より〜
奥の院
石仏 不動尊像
滝壺のなかに三体あり
平泉寺文書(山形市史資料57号)に「弘化四年(1847)六月二八日、覚忍坊良海発頭人にて、越後国菅谷不動尊を遷し当南滝山に奉納す」とある。
滝壺中の尊像のどちらかであると思われるが、石像を背負って遠路、山道を運んだものかと驚かざるを得ない。記録はなおつづく。
八月二日、村中於南滝山道掃除、右像当寺之庭より南滝山え持行、明三日開眼供養可仕処廿八日に日延す。道師山主(栄良房)承仕、覚忍房、施主山形横町、山崎源兵衛、以下略
瀧下から空をあおぐ 鬱蒼とした濃い林に間隙はすくない |
遡行してきた清らかな沢をくだり、帰路につく |
林道わきの石鳥居へともどる |
恥川に築かれた堰堤 その可憐な川名に似合わず、その昔は暴れる川だったという。 さもありなん、峻嶮たる瀧山の膨なる水をあつめては |
南瀧山不動尊は、恥川へと注ぐ支流「戸石山沢」に位置する。 地形としては、千歳山と猿岡山の隘路にあたる。 |
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