2016年11月6日日曜日

八幡神社[山形市平清水]




平清水「八幡神社」


〜現地・案内板より〜


八幡神社
御由緒略

祭神 誉田別尊(ほむたわけのみこと)



寛治元年(1087)陸奥守(むつのかみ)源義家(みなもとのよしいえ)、奥羽の逆徒・清原武衡(きよはらのたけひら)追討の時(後三年の役)、この地に陣を構え八幡宮を勧請、祝い申しあげるや見事逆徒を亡ぼす。

後にこの勝利まさにこの宮の神徳なりとて鎧刀の二品を奉納あり。また朝臣の帰依により無税地にし、山地八段八畝、耕地一町五段を賜る。そのほか村内より寄進に係る因となす。



慶長15年(1610)出羽守(でわのかみ)最上義光(もがみよしあき)公、由緒正しく神徳の高きを敬い、大破せる本殿を再建し祈願所を定めらる。

天保3年(1832)二月、別当慈照院、大災にあい八幡宮宝物ら鳥有に帰す。

古人の言い伝えによれば、義家公の奉納にかわる鎧刀のほか、足利将軍義昭公寄進の品、最上義光寄進の品、宝物なども火災により消失す、と。



明治維新に土地官有に属し、神仏混合廃止つづいて別当慈照院、廃寺となる。

明治12年(1879)10月30日、村社に列せられしが、戦後は一宗教法人として今日にいたる。



昭和57年10月
平清水 氏子


八幡神社 拝殿


〜『わがさと平清水』より〜


平清水八幡神社


言い伝えによると、第73第堀川天皇の御代、寛治元年(1087)源義家朝臣、藤原武衡、家衡を亡ぼさんと、出羽国・平清水の地に来てここを本陣に構え、京都岩清水八幡宮を勧請して平清水八幡宮と申し上げ、戦勝を祈願、出陣した。途中、その甲斐があって、破竹の勢いで敵を破った。戦い終わって凱旋するにあたり、八幡宮の神徳と、義家の所持品である鎧・刀などを奉納され、現在地に祀ったといわれています。

八幡神社の別当には天台宗自性院(のちに慈照院と改む)を平清水右門が建立したといわれているが、明治に入って廃寺となり、その後、平清水部落の管理となり今日に至っています。

現在の社殿は、享保年間、乞食の火の不始末により消失。後、文化年間に建立されたものであります。






〜『山形市史編集資料 第二十八号 山形神仏分離関係史料』より〜


八幡神社
調査書
昭和10年6月4日

所在地:
山形県南村山郡
瀧山村大字平清水
八幡山三番 官有地第一種

神社名:村社 八幡神社

祭神:誉田別尊



由緒:


人皇七十三代、堀川天皇、御字寛治元年、源義家朝臣、奥州逆徒等追討として下向の時、此の処に陣を構え戦功を祈りし為、この八幡宮を勧請祝い申せしに、御守の違ひなく速に逆徒を亡ぼし、目出度く帰京ありて叡感の儘厚く恩賞を蒙り、子孫永く栄暉を残し玉へりは此社の神徳なりとて、鎧刀二品を奉納あり。外に宝物数品および縁起など委しく之れあり。

また源義家公の帰依により無税地にして山地八 反八畝歩、耕地一町五反歩を賜り、其のほか村内より寄付に係る耕地九反五畝歩の土地を有し、平清水八幡宮と申し奉る。



人皇百六代、正親町天皇の御字元亀二年、足利十五代将軍・義昭公、戦乱の砌り侍女・佐久間政長の女に曰く、

「汝すでに懐妊せり、今や都は戦乱の巷となり身危かるべし。出羽国村山郡平清水村には先祖八幡公の帰依厚き八幡宮あり。又かの地には源氏家臣の裔、数多ありと聞く。早々出羽に下りて時を待つべし」

と侍女、佐久間政長などと共に此地に下り平清水家に属し、男子を出生す。政長ら養育申し上げるが、義昭公再興の事もなかりければ、国主・最上義光公に謁し、下野守義行と改め、足利の姓を預かり平清水佐久間の両姓を名乗るを許され、禄を扶持し客将に遇せらる。義行公は殊のほか八幡宮を崇敬せらる。



慶長十五庚申年、国主・侍従少将出羽守、最上義光公、この八幡宮の由緒正しく神徳の高きを敬い、大破に属せる社殿を再建し、祈願所と定めらる。

寛文年間、奥平大膳亮公、享保二戊丁年、堀田伊豆守公、御参詣あり。

天保三年二月中、別当自性院、火災に罹り宝物縁起ら鳥有に帰す。

明治十二年十月三十日、村社に列せらる。



祭日:
祈年祭 三月十五日
例祭 九月十五日
新嘗祭 十一月二十七日

基本財産:
基本金 金 弐千圓

境内所有地:
南村山郡 瀧山村
大字 平清水 八幡山 千六十二番

山林 弐反四畝四歩
賃貸価格 金 参円参拾七銭

氏子:百三十八戸



八幡神社 児童遊園




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