2016年11月9日水曜日

平泉寺と大日堂[山形市平清水]




平清水 平泉寺

山門扁額「千歳山」



〜現地・説明板より〜


歴史の散歩道
平泉寺と大日堂


慈覚大師の開祖と伝えられる平泉寺は、天台宗の古刹であり、当寺には重要文化財に指定されている鉄鉢があり、陶祖・小野藤治平の碑がある。

また、夏椿と称する「沙羅の木」が白い花を咲かせる。天然記念物の枝垂れ桜の下には結城哀草果の歌碑がある。

大日堂は胎蔵界大日如来を本尊とし、大仏殿の復興を願ってつくられた千嵗山大仏の仏頭が安置され、裏山には四国八十八ヶ所霊場を勧請した石仏が並び、また、白山権現には宝篋印塔があり、修理の折、仏舎利の納められているのが発見されている。

なお境内には阿古耶姫の遺歌や、風五の句碑が建っている。


夜や更けて おぼろの中に 松の声
風五

消し世の 跡問う松の末かけて 名のみは千々の 秋の月影
阿古耶

滝山地区振興協議会
平成三年 宝くじ助成品



山形市指定天然記念物「紅しだれ桜」


~『わがさと平清水』より~


平泉寺縁起
山形市史資料第五十七号より


天台宗の古刹・平泉寺は、大日堂を本堂として奉祀し、明治維新まで無檀の祈祷寺として、代々山形城主や柏倉陣屋をはじめ、近郷近在の信仰が厚かった。

天保11年の同寺の『由緒分限御改張』によると、天平9年(737)行基菩薩の開山と伝え、仁寿2年(852)慈覚大師が東北巡錫の折、中興開基となり、その後、鎌倉時代には源頼朝から祈祷所に仰せつけられ、寺領36町歩を下付されたと伝え、当時、一山の塔頭は12坊あったと記している。



また同書には、慈覚大師が山寺にある立石寺を開山する以前に、瀧山に龍山寺を開山したが、今の三百坊跡に三百坊があって、平泉寺はその龍山寺三百坊の本坊として「龍山貫主」と称した由を記している。

さらに同書は、最上氏時代には代々270石の寺領を寄進され、山形東郷三十三ヶ村の総鎮守に定められたと記しているが、最上家の改易後は、寺領も召し上げられ、その後、松平大和守が山形城主のときに、諸社寺は幕府の御朱印領を申請して、御朱印寺になったが、平泉寺は当時無住だったので、その願いを出さなかったため、御朱印寺にはならなかったと記している。

また同書は、寛文頃に、松平下総守、奥平美作守が山形城主時代に、祈祷所に仰せつけられ、初穂米として毎月2俵ずつ、正月・九月には3俵ずつを下賜されたが、それらの文書は、今も数通所持していると書き上げている。



かくの如く平泉寺は、江戸時代まで無檀の祈祷寺として、山形藩主や、その他私領の尊敬を集めていたが、現在は有壇の天台寺院となっています。



結城哀草果 歌碑「栗のいがの青きがおちし裏庭を いがをぬらして雨はふりをり」


ころり観音



〜現地・説明板より〜

山形市指定文化財
氏家相模守光房寄進 鉄鉢 壹個
昭和40年3月5日指定


千歳山平泉寺は、遠く奈良時代に僧・行基が開創し、のち天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)が再興したと伝える古寺で、仏像、仏具、絵馬など多くの文化財を伝えているが、そのなかに山形城主・最上氏の家臣、氏家相模守光房が大日堂に寄進した鉄鉢がある。

鉄鉢は洗米鉢ともよび、これを神仏の宝前に置き、参詣者の浄財や米穀を納れたものであるが、県内に遺っておるものは非常に数が少ない。

この鉄鉢は高さ27.5cm(九寸一分)、口径50.0cm(一尺六寸五分)あり、一度火中したらしく黒ずんでいるが、次の銘文を陽刻している。

敬白 大日御宝前
奉寄進御鉢
藤原朝臣 氏家相模守光房
請願成就所
于時 慶長六年辛丑 閏月廿八日

慶長六年(1601)は山形城主・最上義光が関ヶ原余波戦の功により、庄内、由利の諸郡をも加増されて五十七万石の大名に飛躍した年である。

昭和四十年三月
山形市教育委員会


氏家相模守「鉄鉢」



~『わがさと平清水』より~


平泉寺の宝物

大般若経 写本


岩波の石行寺に南北朝時代の大般若経の写本があって、山形県の有形文化財に指定されていますが、その中の第三十六巻の一冊が平泉寺にあります。

それはなぜかと言うと、その写本の奥書に「文和二年五月九日、於平泉寺客欄之下書之、出羽州石行寺常住一筆写百巻之内第三巻也、云々」との記があるのを見つけ、平泉寺先代覚田代に石行寺から特に譲り受けたものであります。



絵馬


もともとは大日堂に奉納されたものであります。華鬘(けまん)型の小さな絵馬がたくさんあります。元禄、宝永、正徳年代の素朴な木版画が多い。

特記すべきものとしては、奥平美作守昌章が奉納した武者絵であります。縦1m、横1.2mの大きなもので、表面に「奉掛御宝前、所願成辨之所」、裏面に「武運長久之所、元禄七甲戌歳八月朔日作州、昌章、敬白」とあります。

昌章は一代の守護仏が大日如来なので、その信仰が特に篤く、平清水大日堂への参詣が34回に及んだと平泉寺の記録にあります。


奥平美作守「武者絵馬」



参道よりのぞむ大日堂


千歳山「大日堂」


~『わがさと平清水』より~


本堂 大日堂


現在の御堂は貞享元年(1684)、二十五世愛慶代(棟札が保存されている)に再建されたもので、四間四面の宝形造で桧造である。

正面の「覚王殿」と書かれた扁額は寛延三年、佐倉に移封して間もない堀田伊豆守正虎公の筆になるものである。

宮殿内の本尊は、行基菩薩の作と伝える胎蔵界の大日如来(秘仏)という。昭和54年の屋根替工事の落成祝賀の際、一世一度の御開帳が執行されました。さらに内陣には脇侍として持国天、増長天をはじめ火伏の牛(慈覚大師作という)、飛地蔵(秘仏)、南滝山不動の本地仏が祀られている。

周りの板壁には花図、竜、象、鳳凰の図絵が極彩色で描かれ、外陣の格天井にも見事な絵が描かれています。

また、大きな仁王像(左右二体で、もとは外の仁王門にあったという)と、約1.90cmの木造大仏頭(千歳山大仏の復元用に造られたもの)、また針子たちが奉納した特大の絵馬、技能の上達を祈願して奉納した数々の絵馬や実物作品などが堂内いっぱいに飾られています。



扁額「覚王殿」堀田伊豆守正虎公筆


針子絵馬(大日堂内)



〜現地・説明板より〜

千嵗山 大日堂
別当 平泉寺


当山は人皇四十五代、聖武天皇の御 宇、天平九 丁丑年(737)行基菩薩の草創にして、のち仁寿壬申年(852)六月十二日、慈覚大師完興の霊場なり。

もとは当山より四粁ばかり奥の字新山という処に、行基菩薩御自作による大日如来の尊像が安置されてあったのが、のち慈覚大師、東北巡錫のみぎり尊像の風雨に犯せらるるを悲しみて、現在の地に移し祭られたものであります。元の新山の旧蹟の地には古碑(薬研堀りのह्रीःキリクを刻してある)一基が残されている。

建久年間(1190〜1199)鎌倉右大将軍・頼朝公よりは、東北の祈願所の一として三十六町の庄園を賜り、一山塔中十二坊、十二末社などを字寺ヶ入りという処に扣え、天下泰平、五穀豊穣などの祈祷の道場であった。



その後、国司・斯波兼頼公、御入部より祈願所として寺領二百七拾石を賜り、本尊・大日如来は川東三十三ヶ村の鎮守と定められた。さらに松平下総守、奥平美作守、旧領の節は、本尊献膳用御初穂として毎月弐 俵、正、五、九月には三俵づつ奉納された書類など現存している。

また承応二年(1653)五月五日、改めて千嵗山のうち大日山、竪二町三十二間、横一丁四十間、絵図面入りの寄附古文書ならびに、当大日堂、屋根普請の祈りには、その都度、萱三千把、葭二百束、足代木三十本、ほかに人足などの寄附書類および寄進札など、今なお保存されている。



本堂、坂の石段、東の池は、慈覚大師、本尊奉移のみぎり閼伽水を求め錫杖にて穿ち給うところ、突然、白蛇があらわれ清水が湧き出た。

現在の平清水という字名、平泉寺という寺号は、皆これより起きたものであると伝えられている。



本尊:胎蔵界・大日如来(行基菩薩御作)

不動明王:南瀧山の本尊

飛行地蔵菩薩(秘仏):元和元年(1615)三月二十四日、山形北肴町表、火行河原より飛来る。

正面扁額:覚王殿 寛延三年(1750)、老中・堀田伊豆守正虎公、筆。

千歳山大仏御頭像:高さ六尺三寸余、元千歳山公園六角堂にあったもの。

両脇仕:増長天、広目天

御縁日:正月二十八日早朝、初大護摩供修行、家内安全、厄難消除(年祝いの人)、交通安全、とくに進学成就、諸願如意、御祈祷

大祭礼:四月二十八日(もとは旧三月二十八日)、午前十時、大護摩供

例祭:毎月二十八日

文化財:鉄鉢、別当平泉寺にあり。


慈覚大師の穿ちし池


~『わがさと平清水』より~


慈覚大師は新山の地を行脚された折り、大日堂の荒廃をいたく嘆かれ、下の平清水に風光明媚な土地をさがして中興されたといわれています。いまも境内にある古い桜は大師の偉業を物語るものと思われます。

なお大日堂の坂の下の池も、大師が掘ったものであります。大師が閼伽水(あかみず、仏に供える水)を求めて錫杖で土をついたら、清水がこんこんと出てきたので、里人はこの水を飲料に供し「平清水」と呼んだと伝えられています。

平清水の名の起こりは2つありまして、古い時代のことですから何れが本名とは言いがたいのであります。



お不動さま


風五「夜や更けて おぼろの中に 松の声」


阿古耶姫「消し世の 跡問う松の末かけて 名のみは千々の 秋の月影」


蔵王に多い「山姥さま」がここにも


白山大権現と宝篋印塔

~『わがさと平清水』より~


白山大権現堂

むかし、修験道の白山信仰が北陸から東北地方に拡がったといわれ、穢れを払う神で、お山、境内を守護するから地主権現ともいわれる。



~現地・説明板より~


白山大権現:川東三十三ヶ村の地主明神であった。

宝篋印塔:仏舎利を納蔵。



白山大権現の奥からはじまる「大日山八十八ヶ所」登山口



~『わがさと平清水』より~


新四国八十八ヶ所霊場


文政年間(1818〜1830)に、紀州の人、浦若歌之助が同行者たちと協力して、東北の人々も西国八十八ヶ所の霊場を参拝することができるようにと、それぞれの土を持ってきて瓶に入れ、一つ一つの石仏の下に埋めて建てたものといわれています。

(補足)
八十八の石仏が大日山に建つ。施主は山形の人である。為○○之菩提也とある。



~現地・説明板より~

新四国八十八ヶ所霊場:
文政年中、紀州牟漏郡木ノ元浦若之助、同行三人建立。境内山内にあり。



つづら折りの登山道沿いに多数、石仏が配置されている。


一番上の石像


展望台


展望台よりのぞむ山形市内。右奥には月山。


下りの別ルートにも、多数の石仏


蔵王権現


「山寺」の文字がみえる


八十八ヶ所を山中一巡すると、大日堂に戻る




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