2016年11月19日土曜日

上湯と水車[蔵王温泉]



蔵王温泉「上湯」共同浴場


朝6:00~


入浴料金 200円



〜現地・案内板より〜


上湯 共同浴場


蔵王温泉の中心に位置し、蔵王温泉に湧出する温泉源の一つで、昔から地域住民をはじめ蔵王を訪れる方々に広く共同浴場として利用していただいております。

付近より湧出する温泉は、平均温度47℃、流量は毎分4,000リットルを越え、下湯共同浴場や旅館の内湯として利用しております。

泉質はきりきずやあせも、健康増進などに特効のある温泉で、採取する蔵王の湯花は好評で、今もお土産として店頭を賑わしております。昔は樽に入れ、山形のベニバナとともに京都大阪の薬種業と商いしていた江戸時代の記録があります。

蔵王温泉は古くは「高湯」「最上高湯」と呼ばれ、景行天皇の御 代(西暦110年頃)日本武尊の 臣・吉備多賀由により発見されたと伝承され、三代実録(901年)には西暦837年、酢川温泉神社に従五位下を授けたと記録されており、県内はもとより日本でも有数の永い歴史をもつ温泉場と言えます。

素晴らしい蔵王の四季の景観とともに心行くまで堪能して下さい。

蔵王温泉
この説明板は、チタンで作られています(株)チタニウム協会提供



上湯の裏手にある「水車」


その昔、米を挽いて「いが餅」をつくったという


〜現地・案内板より〜


大湯と水車


蔵王温泉は西暦110年に日本武尊(やまとたける)東征の際、従軍した吉備多賀由により発見され開湯したと言われております。

強酸性の硫黄泉は、肌と血を若返らせるといわれており、美肌効果もあることから「美人の湯」「子供が丈夫に育つ湯」として、多くの人々から長年親しまれてきました。

明治以前は、それぞれの自宅にお風呂がなかったので、住民のために共同浴場を設けました。それが住民の憩いの場となり、文字通り裸の付き合いで、住民の絆が深まりました。今は、3カ所の共同浴場(上湯、川原湯、下湯)がありますが、上湯は元々「大湯」と称し現在に至っております。

水車は、蔵王温泉名物「いが餅」(いが餅の里)の原料である米(うるち米、もち米)を挽くため、湯量豊富な温泉の廃湯の集まる「どんどんびき」(湯本屋裏)にあったものを復元したものです。



昭和20年代の上湯付近



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜





温泉が近くなるにつれて谷も深くなり、道は崖をめぐるつづら折りとなるのだが、やがて滝となって落ちる湯尻(ゆじり)の音が樹間から聞こえてくるころには、きつい香が鼻をつく。硫黄泉のにおいである。そこでいよいよ高湯に着いたのだという実感を味わう。 〈今は湯の香の深くただよふ〉のを、ぼくら蔵王の麓に育ったものはみな記憶している。

酸性がつよいため、浴槽は木組みでつくられ、湯の中には白い湯花(ゆばな)が浮いている。宿によっては窓に五色のガラスをはめているところもあった。その色ガラスが光をうけて湯を染める。少年たちはそんなとき、宝石の中へ飛びこむ気持で湯ぶねにつかったのである。

高湯は皮膚病や外傷にきく湯なので、ふきでものにおかされる子どもを幼年時に連れていく湯治場であった。共同浴場の近くには、病馬を養う場所などもあり、湯川に馬を引き入れた飼主が背に湯を浴びせていたものである。湯花は饅頭のように堅めて売っていた。

ここの名物は稲花餅(いがもち)で、青笹の上に餡(あん)のはいった餅を三つのせたもの。餅には黄に染めて蒸した米粒が五つ六つのっている。それが稲の花の象形というものなのだろう。湯治客のいる部屋に、岡持に入れた稲花餅を売りにくる。こけしや鳴独楽(なりごま)のような木地玩具のほかは、それだけが手にはいる食べものであった。

書きのこされてはいないが、この湯治場の一種独特の雰囲気は茂吉幼少時のふるさと体験の一つであったとぼくは思う。





山形へ出るぼくらは、稲花餅(いがもち)の一箱を抱えてバスに乗った。最後部に席をとってそれを頬ばった。昨日もこんがりと煮しまった玉コンニャクの匂いにつられて、串を横に持ちながら、店先で立ち食いをした。

いま、青い笹の葉にくっついた餅を口先ではがしとりながら食べている。こんな行儀のわるい食べ方の仲間になったのは、永井ふさ子もはじめてのことにちがいない。






稲花(いが)餅




〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


いが餅誕生


昔はどこでも伊勢詣りと言う講が流行ったものである。数人が一組となり、世話人がいて、金の無い者には金の世話までしてくれたもので、親が許さなければ、抜け詣りと言って、世話人はその責任まで負っていたと言うことである。伊勢詣りの道中日記と言うのが又実に面白かった。百日もかかる旅なので、それはいろいろな事があったと思う。

六十年程前に私は、堺屋さんにあるその道中日記を見せて貰ったことがある。その道中日記には絵まで書いてあって中々面白いものであった。明治になってからでも、東北人が関西地方まで歩くのだから、第一言葉が異うし、物に依っては頼んだものと全く異う物を持って来たり、女と別れを惜しんだりする時も、金が失くなって様々の芸当に及んだり、後になっては皆面白い話である。

当時村に郡会議員をしていた斎藤惣治郎と言う人が居られた。此の方が若い時に伊勢詣りに行かれ、伊賀と言う町を通った時の事である。目に止ったのは、青笹に白い餅を三つ付けて売っているのを見て、青い笹に白い餅、仲々綺麗である。食べて見ると甘くてうまい。

これを一つ高湯(蔵王)でやって見よう思い、帰るとすぐに、聞いて来た通りにして餅を作ってみた。売り出して見ると大変うまくて評判がよい、之が今日の”いが餅”の元祖で、伊賀上野という処で覚えて来た餅なので、伊賀餅と言ったというのであるが、現在の稲花餅は其の後研究された結果、名実共に稲の花を象徴し、米の山形に相応しい稲花餅となったのであろう。何事にも先鞭を付けられた斎藤惣治郎氏は、湯花の製造にも苦心せられ、製造方法を改善して良質の物を造り、これも大いに発展して今日に及んでいる。






〜黒木衛『山形の蔵王』より〜


いがもち


蔵王温泉入口から右、酢川・蔵王橋を渡るとすぐに、まるしち商店がある。

当主・斎藤惣爾氏が語るところによると、曽祖父が、明治の中ころ、伊勢参りでヒントを得て伊賀餅を作ったものが、のちに栄華餅と呼ばれ、今の、稲花餅に変って来ているもので、笹の葉もかぐわしい蔵王名産の随一。

伊賀には、ちまき風の伊賀餅が残っているという。




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