2014年10月1日水曜日

清水観音 [山形・西蔵王]


西蔵王高原ラインから
少し山に入ったところに

清水観音への鳥居がある。

「奉拝 清水観世音」
「右 観世道 左 山道」

「明治四十五年七月吉日 施主 石沢弥三郎 石工 荒井永三郎」

山道をしばらく進む

右手の谷下には
清流が流れている。

お堂が見えてきた。

「清水観音堂」


〜現地・案内板より〜

清水観音と八森

 源頼義が前九年の役の勝利を祈った清水観音像を、この地に残して凱旋したと伝えている。とくに蚕の安全飼育を祈って大勢の参拝者を迎えたという。

 本尊は故あって平清水観音に移ったと伝え、現在の本尊は地区の有志によって奉納された観音菩薩である。京都の清水寺に照会したところ、本尊は秘仏であるから分からないが、伝えるところでは「清水式十一面千手観世音菩薩」と言われていると、写真を添えた返書があった。

 また、下八森の山神神社からは、寛正四年(1463)医王山瀧山寺で祈攸した板札が発見されており、近くには水月庵・山境坊三蔵院などの寺跡・坊跡を伝え、また近くの山中には風穴があり、近年まで養蚕家の人達に利用されていた。

滝山地区振興協議会
平成三年度 宝くじ助成品





御堂の左手に水場

岩づたいに清流がしたたる。



八森清水観音 御詠歌

松風や
音羽の滝は
清水の

むすぶ心は
涼しかるらん



西蔵王高原ラインから
清水観音入口の風景

〜滝山地区町内会連合会「滝山地区 歴史の散歩道」より〜

清水観音

 清水(きよみず)観音は、源頼義(義家の父)が前九年の役(永承六年〜康平五年、1051〜1062)に勝利を祈願した清水観音像をこの地に祀り凱旋したと伝えられている。

 本尊は、京都清水寺と同じ系列の「十一面千手観音菩薩」という。故あって平清水観音堂に移ったと伝えられている。現在の本尊は、地区の有志によって奉納安置されたものである。蚕の安全飼育を祈る養蚕家の信仰が篤いといわれている。

 ここは宝沢越えの道が通っているが、いまは利用されていない。




〜『わがさと平清水』より〜


平安もなかばの頃になりますと、東夷の大酋長(陸奥の六郡を支配していた)安倍頼時は協定をやぶって、衣川を越えて南進をはじめ官物などをかすめるようになります。

国守・藤原登任は永承六年(1051)、安倍頼時を討伐をこころみるも、あえなく敗退したので、政府は源頼義を陸奥守に任命し、討伐のために急ぎ下向させました。安倍一族は軍兵を率いた新国守におどろき、しばらくは平穏でありました。

しかし国守になれてくると、乱暴をはたらく者があらわれましたので、捕えてみれば安倍頼時の子、貞任(さだとう)でした。源頼義は法にもとづき貞任を処罰しようとしたところ、安倍頼時は大いに怒り、一族郎党をあつめ衣川の柵によって国守に反抗したのであります。

官軍は苦戦をしたが、政府は討伐の命令をくだしたのであります。これが天喜丙申四年(1056)八月のことで、その年の12月、源頼義をふたたび陸奥守に任じました。そして九年のあいだ、奥羽は戦乱の日々となります。家を焼かれ田畑は荒れ、住民は飢えるという生き地獄さながらであったと思われます。



源頼義は幾度か敗退しましたので、出羽の酋長・藤原武則に助けを求めましたところ、一万の軍勢を引きつけて参加したといわれます(官軍はたった三千の軍)。

その結果、源頼義によって衣川柵は落され、安倍頼時は流れ矢にあたって討死し、安倍貞任(さだとう)と宗任(むねとう)は辺境の厨川柵まで押され、貞任は敗死、宗任は捕えられて京の都で見せ物にされたあと、四国へ流されたのであります。国史にいう

年を経し 糸の乱れの苦しさに 衣の盾は綻びにけり

宗任(むねとう)は京の人々に梅の花を差しだされ、「蝦夷の鬼にはわかるまい」とからかわれたが、

故里の 梅の花とは思えども 大宮人はいかがいうらん

と答えたので、感じ入ったといわれています。



この戦役の後、源頼義将軍は平清水の新山に、賊徒平定、官軍の大勝、民衆の平穏を祈って、京都の清水観音を勧請(神仏を遷し祭る)し堂宇を建てたといわれています。現在は耕龍寺観音堂に安置されている十一面観音像が「新山以来の御仏さまである」と伝えられています。

また、このときに従軍してきて平清水にとどまったといわれる、浅野、丹羽、渡辺、奥山の各氏があって、のちの後三年の役でとどまった高橋、佐藤、斎藤の各氏をあわせて「平清水七軒家」と呼んだといわれていますが、比較的に新しい時代の姓氏もあるので、当時の土着説には疑問点もおおいと思われます。



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