2014年10月5日日曜日

蔵王地蔵尊 [山形・蔵王]


蔵王地蔵尊

〜現地・案内板より〜

蔵王地蔵尊

 このお地蔵さまは、今から二百余年の昔、安永四年(1775)八月に建てられたものであります。

 その昔、麓の東沢村の庄屋に、跡継ぎが幼くして没し育たなかったことから、男子の長命を祈願して建てられたものと伝えられております。

 もともと、この蔵王山はけわしい山で遭難者が絶えなかったのが、ここにお地蔵さまが祀られてから不思議と遭難者が少なくなり、またこのお地蔵さまにお参りすれば願いごとがかなえられ不慮の災難からものがれられるところから、災難よけ地蔵尊とか、諸願成就の地蔵尊とよばれて、年ごとに信仰者がふえ、いつとはなしに右手の円い山まで地蔵岳とよばれるようになりました。

昭和四十二年六月
蔵王地蔵尊保存会





〜山頂駅舎内、説明板より〜

蔵王地蔵尊のいわれ

 蔵王は険しい山として遭難者がたえなかったので、六道能化を主眼とする地蔵菩薩がまつられたのには大きな意味があった。

 この地蔵尊は江戸時代の中期、安永四年(1775)八月に建立されたが、不思議にそれ以降は遭難者が少なくなり、誰いうともなく「災難よけ地蔵」とよばれるようになった。また、この地蔵尊に祈願すればあらゆる願いがかなえられ、殊に不慮の災難をのがれると云われて、年毎に信仰者がふえ、いつとはなしに山そのものを地蔵山とよぶようになった。

 安山岩に刻まれ、二百余年もの長いあいだ風雪に堪えて来たこの地蔵尊像は、全高236cm(七尺八寸)という堂々たるもので、これだけのものを天候の激変する高い山頂に運び上げたことを思い合わせるとき、驚異と同時にいかに建立者の悲願が大きかったかがしのばれる。

蔵王地蔵尊保存会



子地蔵群

〜山頂駅舎内、説明板より〜

尊像の左右に、いわゆる「子地蔵群」がありますが、いつの頃からか、そのうち二体の頭部が欠損しておりましたので、一段とご利益が高まりますように山形市の石材業石駒さんに修復依頼いたしました。

 様々な資料を参考にして衣装・立居等の観点から右側は観音様、左側は不動明王ということが判明し、彫像が完成・修復されました。

平成二十年五月



観音さま

〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

 地蔵尊は、高さ2m、肩幅1.20m、膝幅1.80m、台座の高さは0.34mの坐像で、像は五個、台座は二つの巨石で組み合わされ、材石はこの山にもみうけられる同じ安山岩である。

 側面には「安永乙未年(1775)八月吉日 上宝沢村施主 為吉他数名 あかし町妙栄 妙見寺村施主 九兵衛」などと刻まれているから、その造立は今から213年前になる。また、「昭和三年七月一日 高湯青年会再建」という刻字もある。これは現在の蔵王温泉の青年たちが、当時台座が崩れ、地蔵様の頭が脱けて地面に落ちていたのを修復したもので、もともとこの辺一帯は樹氷を形成するほどの猛吹雪が荒れるところであるから、登山口の宝沢や高湯(蔵王温泉)の心ある人たちによって、幾度か修復が重ねられてきたのである。昭和四十年になって、蔵王地蔵尊保存会が発足し、現在のような錫杖を持った地蔵尊の姿となり、周辺の整備もゆきとどくようになった。

 宝沢をはじめとする馬見ヶ崎川筋にある地蔵尊の調査にあたっている東沢郷土研究会、会長横川啓太郎氏によれば、蔵王地蔵尊は「子安地蔵」とみているが、昔は天候急変による遭難者も多く出たので、遭難供養の地蔵であろうという説もある。いずれにせよ、この周辺を山頂とする八方沢は、急峻な深い渓谷となっており、迷いこめばなかなか出られない難所であり、地蔵尊修復にあたって、付近にあった供養とみられる五、六体の石仏を台座のところに集め祀っている。やはり、2mを越す大きな地蔵尊の出現によって、悪天候でのよき道しるべともなったので、遭難者も少なくなったに違いない。だから、いつの頃からか、誰いうとなく「災難よけ地蔵」とも呼ばれるようになった。

 横川氏の調査によれば、下宝沢の蔵王権現を祀る三乗院に、地蔵尊の造立発願に際して、奉行所に差し出された古文書がある。それによると、天文三犬午年(1738)とあるから、地蔵尊ができあがるまでには三十七年もの長い歳月をかけていることになる。たしかに、巨石を山頂まで運びあげるのは容易なことではなかっただろう。村の古老に語り継がれた話によれば、力自慢の藤吉という者が、地蔵の頭だけを背負い、二、三人のものが綱を曳いて登ったということである。それ以来、この藤吉の家を”頭藤吉”と呼んだということで、その子孫の家が上宝沢に現存する。

 また、先年亡くなった上宝沢の山川つまさんが生前、横川氏に語ったところによれば、生家である鈴木九兵衛家(地蔵尊造立の施主・妙見寺)の祖先に子宝にめぐまれないものがいて、子供を授かるように祈願して地蔵尊をつくった、といういい伝えがあったということである。

 春秋二回の大祭は四月二十四日と九月二十四日挙行されるが、春の大祭はスキーシーズンが終わった直後のことで、全国からスキーヤーが集まって、古スキーを焼き清めて供養も行われる。



地蔵の図像
現在、蔵王ロープウェイ山頂駅に掲げられている。

〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

蔵王山に結びついた地蔵尊信仰のいい伝えはいろいろ残っているようだ。その一つに山形市七日町、大風茂雄氏宅に地蔵の図像がある。昔から四月二十四日と九月二十四日の祭日には、この図像を蔵王地蔵尊のある山頂に持参して祀ることになっている。図像に蔵王山とあるうえ、左下に貼付されている古文書に「妙見寺九兵エ」とあるので、蔵王地蔵尊の下絵図か写し図像ではないかとみられているが、不明な点が多い。古文書には


弘化四年未三月
地蔵大菩薩寄附
御酒造一升 妙見寺 九兵エ
青銅拾疋 棒原 松四郎
青銅拾疋 館 清蔵
青銅拾疋 施主 茂平治


とある。弘化四未年は1847年であるから、蔵王地蔵尊が造立されてから72年後のことである。造立に当たっての施主九兵衛と図像にある九兵エとは同一人ではなくて、襲名したものではなかろうか。いずれにせよ蔵王地蔵尊の信仰が深かったことには変わりない。施主茂平治とあるのは大風氏の祖先である。



蔵王スキー場のロープウェイを二基乗り継いで、地蔵尊に至る。


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