2013年7月24日水曜日

蕃山 [宮城]


夏目漱石「草枕」の書き出し



山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。

とかくに人の世は住みにくい。



蕃山登山は、この名文とともに幕を開ける。
というのも、参道わきにこの文を刻んだ石碑があったのだ。



登山道の入口、恭しくも迎えられる

杉木立を見上げる

清らかなる朝仕事

その葉、しんしん

覚えず拝む

寂光を浴びて

蕃山(標高356m)山頂
開山堂
震災の影響か
石碑割れ、灯籠倒れたそのまま

堂内に閑居する雲居禅師


以下、山頂の説明書きよりの引用


常寂光塔(大梅寺奥院・蕃山開山堂)

大梅寺の開山「雲居禅師(うんご・ぜんじ)」の塔所。禅師は諸国の山野を行脚し、全国に173ヶ寺を開山。天皇にも禅を講じ、のちに朝廷から「大悲円満国師」と諡名された京都妙心寺の禅宗の高僧である。

藩祖・伊達政宗が瑞巌寺を創建し開山に懇請されたが固辞して請けず、27年間も待ち続けた政宗の遺言に心を打たれ、ついに松島に来て瑞巌寺の開山となり、その誠意に報いた。

慶安三年(1650)の冬、蕃山の麓に来て庵を結び終焉の地に定めた。この蕃山をこよなく愛で、いつも大梅寺から登ってきてはここで坐禅を組んだ。「熊や鹿がよく遊びに来てくれた」と自ら漢詩に書き残している。

万治二年(1659)入滅。78歳。この山頂に葬る。遺命により墓石を建てず。元禄13年(1700)、四代藩主・伊達綱村によって、その上に堂を建て「常寂光塔」と称す。現在の堂は嘉永六年(1853)の建立。
堂内の正面は「雲居国師」、右は蕃二、左は蕃三郎の像である。


蕃二(ばんじ)
蕃三郎(ばんさぶろう)


蕃二・蕃三郎の伝説はこうである。


昔、弘法大師(空海)が蕃山を霊場にしようとうしたが、天狗の群れに邪魔されて、やむなく高野山へと去った。

のちに瑞巌寺の雲居禅師がここに大梅寺を建てようとしたが、やはり天狗に邪魔された。だがその時は、蕃二(盤二)、蕃三郎(盤三郎)兄弟が天狗を追い払ったのだという。

そして今でも開山堂の中では、蕃二・蕃三郎兄弟が弓矢を手に、雲居禅師の左右両脇を固めている。


世にも繊細なる織物が至るところに

梅雨に目覚め、梅雨に輝く若葉



終わりに、登山道のはじまりに記されていた看板を引用する。


蕃山(ばんざん)について

蕃二・蕃三郎の伝説にちなんで蕃山という(盤山とも書く)。

山腹の竹藪の巨石の下から、こんこんと清澄な泉が豊かに湧いていた。その美味に、この山の白鹿を巻狩に来ていた藩祖・伊達政宗が、唐の詩人・韓愈(かんゆ)の詩の一節「盤谷の間、泉甘くして土沃ゆ」から、「盤山」「甘泉筧(かけい)」と名付けた。以来、茶の湯として有名であったが、折立団地の造成で惜しくも涸れた。

蕃山は昔から信仰の山、御野掛け(ハイキング)の山として、権現森や太白山とともに仙台市民に親しまれてきた山である。

山腹の臨済宗「大梅寺」は、松島・瑞巌寺を退山した「雲居禅師」がここの白鹿堂跡に来て庵を結び終焉の地に定めた寺で、慶安三年(1650)に創建された禅宗の古道場である。

なお、平安時代に弘法大師(空海)が蕃山に霊場を開こうとして天狗に妨げられ、高野山へ去ったという伝説も残っている。




大きな地図で見る

0 件のコメント:

コメントを投稿