釣り人でにぎわう、荒沼の朝 |
〜現地・案内板より〜
荒沼(あれぬま)
県民の森の中では二番目に大きな湖沼である。荒沼は大沼と同じく、今から570年前(1470年、室町時代)ころ、村木沢の住人、石沢与一・遠藤久七の両名が、相州箱根権現にお参りして分神を頂き、神社を建て、北沼を作り始めた。この北沼を「大沼」「荒沼」と云う。この沼によって数百町歩の田を開拓した時の領主最上直家(二代)が先の神社を沼明神(ぬまみょうじん)と名付けた。
慶安年中(1648〜1655年)に、この沼の水が不足したため、笹原五良右エ門と言う人が独力で改修・拡大し、干ばつから救った。それ以来、下流の村民が時々沼の修理をしたが、年とともに沼の破損がひどくなった。これを領主堀田公が哀れみ、郡奉行に命じ、安政四年(1857年)秋7月から安政五年秋九月にかけて、藩費をもって再度改修が行われてつくられたものである。
水利権 門田水利組合
魚類 コイ・フナ・ワカサギ等
昆虫 ハッチョウトンボ・カオジロトンボ等
表面積 132,600m2
最大水深 7.2m
貯水量 186,600m3
荒沼大明神 |
〜現地・説明板より〜
荒沼大明神
応永(1394〜)年間、領主・最上直家が荒沼に奉られていた箱根権現の分霊を沼明神と名づけ、ここから荒沼大明神として祀られるようになりました。荒沼は田に水をひく灌漑池として作られ、この沼の出現によって西山形の数百町歩の田が開墾されました。
荒沼碑
荒沼の起源と経歴を記す安政荒沼碑は、祖先の辛苦経営と神水一如の信仰を伝へて炳手たり。茲に安政以降の事績を尋ねるに文久二年、名主市右エ門、清兵工伝四郎、百姓総代茂右エ門久六等、捨水利用に付、柏倉村と折衝を重ね入堰千八百米を開設、年々貯水増大の基を開く。
降って昭和九年、大字門伝八代総代斉藤宇一熊の胴新設を発起、大字の総力を結集、旧胴より二米掘下げ、旱魃時水利の方途を拓き、旧胴を最新ハンドル式に改良、堤塘を牢固たる現況に改修。同四十九年、熊の胴老朽漏水あり。十三代総代飯野貞一、之を機に潜水胴抜式熊の胴をハンドル式に改良。同五十年、市議飯野貞雄、山形市少年自然の家誘致に奔走。同五十四年、荒沼の高台に落成を見る。同五十一年、県民の森地域指定を受くるや十四代総代坂本元次郎、地区民と諮り荒沼関係諸施設の改善に付、関係当局に鋭意陳情の結果、県及び市の同意取付けに成功。同五十二年、胴の尻底樋改良工事施工。同五十三年、荒沼隔間沼線林道開通。同年十一月、荒沼入堰。翌五十四年、乗鞍井堰の両堰U字溝工事完成し、諸施設の整備万全と為る。
是等諸事業の遂行に当り特に率先尽力せられしは、県民の森造成事務所長沢内公男県議、沼沢善栄同、峯田吉郎市長、金沢忠男市林務課長、山川五朗の諸氏なり。受益者一同、之に感謝し、安政碑以降百二十幾星霜、代々荒沼の保守改良に挺身刻苦せし諸先達の事績と共に碑に刻み後世に伝承、併せて荒沼萬代の御守護を祈願し、荒沼大明神の大前に謹んで狛犬一対を献納す。
昭和五十五年五月
大字門伝 飯野幸雄撰
大字村木沢 吉田七兵衛書
大字門伝第十四代総代 坂本元次郎
荒沼碑
夫原荒沼之濫觴應永中有石沢與一遠藤久七者郷
里憂水之乏而祈誓於相州筥根権現蒙神勅以帰初
□此沼也大沼荒沼之二沼是也爾来数百町之民田
開發矣干時羽之探題最上直家□感其奇瑞称号沼
明神也而年祭不怠下民氏子帰□□久□至寛永□
保中領主世々分村邑之□納米以賜之也□四百年
間也然慶安中此沼猶憂水之不足笹原五良右衛門
獨立心力□山□水以□□□憂□領主松平総州候
見賞其功米穀繁多賜之也且貞享中之領主松平和
州候新田畑及畝歩附属之新恩亦不浅也由来□□
之村民時々雖加條造此沼経数百之星霜破□亦□
□於此安政丁巳秋七月
邦君隣之命郡宰而下賜八木百五十俵使監造小吏
修造之到午秋九月之□堰浚及樋埋築立之功就□
数年蒙
國主之恩澤仁恵不可勝計也因以立碑於社□傳于
不朽□
七松山主荒沼院宥照記
修造之到午秋九月之□堰浚及樋埋築立之功就□
数年蒙
國主之恩澤仁恵不可勝計也因以立碑於社□傳于
不朽□
七松山主荒沼院宥照記
荒沼碑に沼のいわれが次のように刻まれている。
…荒沼の起源を尋ねなに、今から約570年前のころ、石沢与一、遠藤久七の両名が御里の水が少なくとぼしいので、相州箱根権現にお参りして、分神を頂いてきて神社を建て、北沼を造り始めた。この北沼を大沼、荒沼二沼と言う、この沼によって数百町歩の田を開発した、時の領主最上直家(二代)が先の神社を沼明神と名付けた。この沼明神を村民、氏子が忘れることなく久しく年祭を行い信仰してきた。 寛永正保ごろ、領主たちはおよそ400年もの間収米を沼明神に献納した。
ところで慶安年中(320年前ごろ)北の沼の水が不足しているのを笹原五良右ェ門という人が一人で山を抜き水を引き干ばつから救った。これをみた領主松平総州候が、その功績をたたえて米穀を数多く贈った。又貞享中頃領主松平和州候も新田畑地を贈ってその功を讃えた。
それ以来、下流の村民が時々沼の修理をしたが、年と共に沼の破損が年々少なくなく、ところが邦君(掘田氏)がこれを見てあわれみ、安政4年7月郡奉行に命じて惨造のため米150俵を贈らせたり、又普請奉行達を派遣して修理工事に当たらせた。 安政5年(午)秋9月にセキザライ、トイウズマリや堤防の修理が終わった。 以上のことから邦君(堀田氏)の施した恩恵は計り知れないものがあり、これをたたえて社の前に立碑し、永く伝えるものである。
結城哀草果の歌碑 |
羽交なす尾根の
まなかに峯高く
白鷹山は大空を
飛ぶ
哀草果
結城哀草果 本名光三郎
明治二十六年十月十三日、山形市下条町一○三一番地、黒沼作右衛門(妻ナカ)五男に生る。生母の乳不足のため南村山郡本沢村大字菅沢三四六番地、結城太作(妻なみ)の里子となる。
明治四十年二月二十日、結城家の養子に入籍し、小学校高等科卒業後、農に従事す。読書により独学し、短歌に心を寄せ、大正三年、アララギ短歌会に入会し、隣村金瓶出身の歌人、斎藤茂吉に師事し、短歌道に入る。
歌業大いに進み、昭和四年六月、第一歌集「山麓」を発行し、農民歌人としての地位を占め、「すだま」「群峰」「まほら」「おきなぐさ」「樹蔭山房」「樹蔭山房以降」等の歌集を発行し、昭和十年二月、随筆集「村里生活記」の発行により一躍名随筆家として喧伝され、「續村里生活記」「小風土記」「農村歳時記」その他の名著を発行す。
昭和二十二年八月十六日、上山町村尾旅館にて天皇陛下に師斎藤茂吉と共に拝謁し、短歌につき御進講す。昭和三十五年一月、河北文化賞受賞。同四十一年十一月、紫綬褒章受賞。同四十四年十一月三日、勲四等旭日小綬章を授与され、同四十六年七月、山形市名誉市民の称号を贈らる。
同四十九年六月二十九日、自宅にて長逝。享年八十二歳。法名 峭峻院達翁道淳居士
勲三等瑞宝章を贈らる 西村直次撰
昭和五十七年十月十三日 建之
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