2014年9月6日土曜日

荷渡地蔵 [山形・東根市]









〜現地・案内板より〜

荷渡地蔵の由来

大むかしは現在の最上川を中心にここから見える田圃のある広い平地が湖であった。ここを「藻が湖」と呼び、東の山岸を東根と呼び、西の山岸を西根と呼んだ。

東の山岸を通るこの道は当時重要な交通路であった。そして、この所は東根と楯岡の境で、東根から楯岡へ、楯岡から東根への荷物を受け渡して運搬の安全を祈ったことから、この地蔵様が建立されたものだろう。

昭和十二年十一月五日、東根町振興委員会から出版された「家庭教化伝」によると、約1,500年前の創設で幸神社と呼ばれ、猿田彦命を祀り祭事は毎年三月と六月の二十四日と記されております。

尚、百日咳を防ぐ神とされ、祈願されていたことも伝えられております。この地蔵様は本当に霊験あらたかなる地蔵様で、むかしから遠方より参詣者が絶えません。

平成十五年十月三十一日
東根市観光協会
有志一同




〜ブログ「遠い声」より〜

茨城・福島・宮城・山形の各県に、にわたり神社・みわたり神社などと呼ばれているものがあります。漢字では、二渡・荷渡・庭渡・三渡・見渡などと色々に書いているようです。

山形では内陸部に60ヶ所ほどありますが、荷渡と書くのが多いようです。にわたり様とか、おにわたり様とも呼んでいて、そのため鬼渡となっているところもあります。
ほとんどの神社が、百日咳を治す流行神になった事があるようで、にわとり権現と呼ばれていたりします。これは百日咳が「とりしわぶき」「とりしゃびき」と呼ばれていて、咳が鷄の鳴き声に似ているからだそうです。こけこっこ・こけこっこと紙に沢山書いて奉納するとか、鷄の絵馬を奉納する、治ったら赤飯を上げる、とか、納豆を上げるというところもあります。

山形では川の傍にある例が多く、その場合、荷渡神社は川運の荷物の安全を祈った神社だ、と理解されています。田んぼの真ん中や、山の中、街道から外れた場所に位置するものもあるのですが、むかしの道があった、とか、川の流れが変わった、と説明されています。




父母報恩寺 [山形・村山市]



石鳥居

山形県指定有形文化財
石鳥居
昭和30年8月1日指定

山形県には石造文化の代表的な石鳥居が約10ヶ所にあるが、推定600年といわれ全国にも誇りうる存在である。この石鳥居もその一つで、通称「古鳥居」といい、古図には最上義守(最上義光の父)の寄進、あるいは鳥居左京亮忠政の寄進とも伝えられるが定説がない。他から移転されたものだといい、その建立の対象は甑岳か小松沢かまだ決定をみないが、保護を加えて永く保存すべきものである。
村山市教育委員会


〜山形の宝より〜

 この石鳥居は石英粗面岩製で、高さ2.24m、両柱の間2.09m、柱の太さ周囲1.7mである。柱の上に載る笠木と島木は、直線で一石からなり、両端にわずかであるが、反りをあらわしている。貫穴は貫通せず、柱の両側から穴を掘っている。貫の外側と束は失われてしまっているが、両方に痕跡が残っている。 この石鳥居は、笠木と島木が非常に短く、鳥居としての形態は、あまり整っていない感じがある。ある時代に、修繕あるいは改造されたものであろう。

 父母報恩寺のすぐ北側で、札所の小松沢観音に通じる道路上に、西面して立っている。 鳥居の建立について、村山市喜早図書館蔵の元和8年(1622年)前の『楯岡事跡略図』に、「最上義光公建立」と朱書されている。様式から見て、鎌倉時代頃のものである。







雪の観音




雪の観音 御縁起

御本尊は恵心僧都(西暦1602-1677)

自作の本体御立像にて御丈壹寸八分の正観世音菩薩なり。浄土宗名越派再興の傑僧、松岡白雄僧正御、御持仏なりしが昭和五年五月十六日じつに宿縁あって雪害問題提唱者の予に帰す。予は昭和五年秋すべての繋縛を断ってただ御仏の本体を奉持し、東北六県および越後国の各町村落を雪中行脚し遊説に努むること三ヶ年、しばしば危難苦境に遭いしも不思議に加護を垂れさせ給ひ、今日のごとく大目的を貫徹せり。所願成就の名ここに因めり。

御宮殿(御本尊奉安)

第一第二建白書は雪害運動史上真精神を成すものなり。予は謹みて之を自書し、御仏の御供願上度く之を納め御宮殿に奉るものなり。

御堂天平勝宝八年(西暦756)

聖武天皇の孝謙天皇勅願により建立されたる奈良の唐招寺金堂(政府の特別保護建造物)を模倣縮型したるものなり。御堂下地中には大聖釈尊御誕生の地上塊を甕中に納めて埋没す。

昭和十年乙亥十月十日
松岡俊三
御本尊 正観世音菩薩
 雪の観音 御詠歌

かかげずば ちよもやちよも うずもれん
かかげててらせ のりのともしび

作:松岡俊三
額寄付:矢矧八郎



父母報恩寺













2014年9月5日金曜日

住吉神社と炭焼藤太 [山形・上宝沢]



住吉(すみよし)神社

宝沢に住む炭焼藤太と、京都一条殿の豊丸姫の伝説がある。境内には、本殿(藤太夫婦の霊)と奥の宮(豊丸姫と三人の子供の像)がある。藤太の藁(わら)打ち石や黄金池などは当時を語り伝えるものである。
東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会


〜現地案内板より〜

住吉神社

祭神 炭焼藤太夫婦の霊、大山祇命、須佐之男命
例祭 五月五日〜七日
月次祭 毎月七日

由緒

建久二年(1190年)四男喜藤太信正、父母の霊を住吉大明神として奉斎。文和元年(1352年)斯波兼頼公より黒印を、慶安元年(1648年)家光公より朱印を賜う。寛政九年(1797年)社殿を再建。明治七年(1874年)村社となる。大正五年(1916年)熊野神社、山神社合祀する。

伝説

鳥羽天皇の御代(1100)頃、羽州金井の荘、宝沢の里に炭焼藤太という炭焼きを業とする人がいた。京都一条殿に住む豊丸姫は、日ごろ信仰している清水観音のお告げにより、はるか宝沢の地に住む炭焼藤太と夫婦になった。金の産出に恵まれた宝沢で、藤太夫婦は大金持ちになったという。

藤太夫婦には、吉次、吉内、吉六の三人の子供があった。長男吉次は源義経に仕えた金売吉次である。三人兄弟は京都に金を運び商いをしていたが、奥州白坂で盗賊熊坂長範に殺害された。その墓はいまも白河市白坂皮籠にある。

藤太夫婦は大変悲しまれ、清水観音に祈願し、四男喜藤太信正が生まれた。子孫がいまの宝崎家である。藤太83歳、豊丸姫78歳で亡くなられた。



「奥の宮」への登り口

石段が長く続く


〜現地案内板より〜

奥之宮 由来

この地に住む人々、豊丸姫の徳をしのび、清水観音の化身なりと敬ひ、また熊坂のために殺害された金売吉次、吉内、吉六の御子たちをも祭り冥福を祈らんと、裏山に二百余段の石段を造り御堂を建立して祀った。観音堂と称した。外に二体の観音像(十日町丹波屋奉納)が安置されていたが、明治初年神仏分離により二体を養福寺に奉納。当社の奥之宮として奉斎した。
住吉神社 宮司





〜斎藤林太郎『馬見ヶ崎流域の変遷』より〜


 上宝沢に住吉神社がある。神仏混合時代は、真言宗石宝山藤太寺吉蔵院であった。

 別当の宝崎家には足利尊氏の手紙がある。「丹波国しの村の八幡宮別当…(読めず)…あるに候」と達筆で書かれている。「観応二(1351)、十月二十六日、尊氏、花押、三宝院僧正御房」と書かれているが、まだ誰も解読した人がいないという手紙である。どうして尊氏の手紙がそこに来たか、これも住職の国替えかと思うが不明である。

 住吉神社の祭神は、藤太夫婦の霊、熊野神社、山ノ神で祭日は五月七日である。由緒は「藤太はこの地の人々に鉱業採金の業、農業、製炭の業を教え、炭焼藤太とも云う。京都一条院殿より豊丸姫と号す姫が尋ね来て後夫婦となる。天治元年(1124年)長男吉次信高誕生、康治二年(1143年)二男吉内信氏誕生、久安元年(1145年)三男吉六信吉誕生、京都三条に宅地を求め、当地より金のあらがねを運び商いをした。その後、奥州白坂(福島県)で熊坂長範のため兄弟三人殺される。藤太夫婦は子なきを悲しみ、神に祈念し、その願いが報いられ、豊丸姫57歳で四男喜藤太信正誕生、現在宝崎家はその子孫である。藤太夫婦は深山に入ると言い伝え、その後行くえ知れず、喜藤太信正は両親を祭った。この地の人々、藤太夫婦の偉徳をしのび住吉明神と称し、また氏神として奉斎し今に至る。人皇九十九代後光厳院御宇、文和元年(1352年)出羽国大主修理大夫兼頼公黒印を受け、慶安元年(1648年)三代将軍家光公より御朱印に改められ、明治六年(1873年)上地になり、同七年(1874年)村社に列せらる」と記されている。吉次、吉内、吉六三兄弟の墓がいまも福島県白坂の八幡宮裏に在ることを別当の宝崎氏が語っている。

源平の戦いでは源義経に従って、金売吉次としていっしょに歩いたが、平泉で義経が討たれてから吉次はもとの金売り商人となって京都に行き来したとも考えられる。父の藤太は豊丸姫を京都からつれて来たのだと思う。釈迦堂に京都の清水寺を真似て、唐松観音を私財で建立したことは確かである。藤太が鉱山業のために東北の各地を廻っていることも確かであり、昔から東北は金・銀・銅を産し、馬産地としても確固とした地域であった。それが農業と深く結ばれておったわけである。






〜黒木喜久治『馬見ヶ崎川の流れとともに 防原町の歴史』より〜


炭焼藤太=住吉神社

 炭焼藤太(または炭焼小五郎として)の伝承は、全国各地に様々な形で語られている。大方は、神のお告で高貴な家の娘が嫁にきて、持ってきた小判(平安末期のその頃は小判はまだない)を藤太が無造作に取り扱うのをみてたしなめると、「こんなものは裏の山や沢にいくらでもある」という。その価値を知らなかった山の男がやがてその金や銅または鉄を採って長者になるという筋書である。

 ここ住吉神社の社伝でも、藤太はこの地に居住して製炭や採鉱を始め住民にも教えたという。金や鉄で長者になるということは、金山師、鉄穴師(かんなし)※、タタラ師などである。しかも「タタラ」という溶鉱炉は沢山の木炭を必要とし、生活様式が進むにつれて鉄文化が発展し、一つのタタラに砂金や砂鉄、銅鉱を採る人、木炭を焼く人、木炭を炉に入れるとか炉に風を送る人など多勢が集団で働いたに違いない。

※鉄穴師(かんなし)とタタラ…鉄穴師とはタタラ製鉄などの原料となる砂鉄(または山を崩した土砂や砕いた鉱石)を水路や河川の流れを利用して土砂から分離する方法。

 ただ、これらの人達はそこに資源がなくなると、新しい場所を求めて移動する漂白民、流浪民または山の集団となり、やがてこれらの産鉄(金)民は消え細り、木地師や「サンカ」「マタギ」という山の集団あるいは山岳修験者などに変わっていったのではなかろうかと。



 このような優秀な採金(鉄)技術を身につけた集団に対する古代の王権政府(大和朝廷)は、如何なる手段をとったのであろうか。王権政府はこれらの集団を攻撃し、または懐柔したのではなかろうかという。坂上田村麻呂の蝦夷征伐もこのようなことではあるまいかと(井口一幸著『古代山人の興亡』より)。すれば平安時代の藤太は大和朝廷に帰順し、定住した集団の子孫と考えられないこともない。

 また金売吉次も藤太の長男で宝沢に生まれたとの言い伝えであるが、宝沢(ホウザワ)は本来は「タカラサワ」であったのかもしれない。明治から大正にかけて馬見ヶ崎川上流では多くの銅鉱山(あわせて金や銀も)が開発された。

 上宝沢の古老(佐藤亀之助、明治45年生まれ)の話によれば、上流の「村木」地内坑口傍から古いタタラの鉱滓が出たというし、また、防原の金光鉱山を開発した五十公野一氏(山形市七日町)もやはり釈迦堂の「梅の木」から同じくタタラの鉱滓が出たという。したがってその溶鉱炉→タタラからタタラサワ→タカラサワとなった可能性もあるのではなかろうか。

※タタラ(踏鞴)…粘土で造った角形の炉で、原料の砂金(鉄)や鉱石と木炭をいっしょに入れ、下から風を送って燃焼させ溶解し製成する。






〜東沢の歴史散歩道「住吉神社本殿」より〜

上宝沢 住吉神社(昔は藤太宮)

 平安時代の末期、出羽国宝沢の里に藤太という炭焼が住んでおり、炭を焼いては遠く白岩や寒河江の里まで炭売りに行くのを仕事としていた。

 その頃、京の一条院の豊丸姫が日頃信仰する清水の観音さまから夫となる人は、宝沢の住人藤太であるとのお告げがあり、京から宝沢まではるばる遠い旅路を辿ってきた。途中あられもない姿をうつした「恥ずかし川」、行きつ戻りつ思案にくれた「五度坂」、立ち登る煙を見て訪ねた「姫沢」、長旅の疲れをいやした「股旅の清水」などの説話を留めながら、ようやく藤太の住まいに辿りつき夫婦になった。

 或るとき、妻の豊丸姫は藤太に小判を渡して来て味噌を買ってくるようにたのんだ。炭を背負った藤太は途中国分寺(薬師寺)の近くの池で鶫が泳いでいるのを見かけ、この鳥を獲ろうと思い小判を投げつけたが、鳥にあたらず水中に沈んでしまい、米も味噌も買わずに帰った。

 姫から小判は値うちあるものと教えられ、これまで見向きもしなかった裏山の金で藤太は大金持ちになった。






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2014年9月4日木曜日

蔵王大権現像(三乗院) [山形・下宝沢]




蔵王大権現

苅田嶺神社に三眼二臂の高さ3.6mの木造の蔵王大権現が鎮座する。
蔵王開山伝説の地、蔵王大権現大木造

山形市市町村合併50周年記念事業
東沢観光協会・東沢郷土研究会・東沢振興会




〜黒木喜久治『馬見ヶ崎川の流れとともに —防原町の歴史』より〜

この鳥居は明神鳥居の一種で、最初は木造で立てられたが、安永六年(1777年)九月、三乗院住職七代義重時代に石造に立て替えられたものである。

材質は安山岩、柱・貫などすべて継目なし(島木は二本)の一本の石材で造られている。総高さ4m、幅(柱内)2.5m、笠木の幅5.6mと、近辺にない大鳥居である。

この鳥居は200年以上にもわたって、防原追分(三叉路)にあったことを知っている人は、現在、何人かはいるものの、だんだん数少なくなっている。当初、この鳥居は防原追分の道路(宝沢道、現在の佐藤慶三郎氏と武田正司氏の車庫にはさまれた道路)上にまたがっていたが、交通上の邪魔となり、道路の南側に移され、さらに第二次世界大戦後の昭和30年代に道路改良工事(県道防原、蔵王ダム線)のため、現在の刈田嶺神社の参道入り口に再移転された。




天照
蔵王寺
国土
天地権現書


〜現地説明板より〜

蔵王大権現 由来

伝説によれば、当社本尊、蔵王大権現は、役の行者小角(おづぬ)が吉野金峯山において、一千日の苦行と修練のすえ、感得せる金剛蔵王権現にして、朱鳥四年(689年)三月、小角57歳の時、出羽国羽黒に来り、近峯を遍歴、四月八日、当地苅田嶺に勧請したるものなり。以来、苅田嶺を蔵王山と称す。

当時、宝沢に井上太郎大夫という農夫あり、子なく天に祈る。その妻、一夜、一僧胎中に入るを夢み、男子を生む。朱鳥八年(692年)十月十八日のことなり。乙鶴と名づく。乙鶴長じて、才徳人に優れ、和銅五年(712年)、19才の春三月山伏となり、名を覚山と改め、諸国の名山霊地を巡り修業を重ね、吉野金峯山に至り蔵王権現を拝す。霊夢に、蔵王の霊山あるを知り、その山の中興を志し、帰国して登山の道路を開き、信者の利便を計る。天平年中(729〜749)、三年の旱魃あり、覚山国主の請に応じ、祈祷して雨を降らせ、五穀実りしことあり、麓に当社を建立し、萬福山と号す。これ当社蔵王大権現の創始にして、覚山は別当三乗院の原祖なり。

蔵王大権現は、苅田嶺神社とも称し、承和十一年(844年)、朝廷より従五位下に叙され、貞観十一年(869年)、従四位下に昇叙せらる。降って延文元年(1356年)、山形城主斯波兼頼、前殿を創建、黒印壱石壱斗寄進。慶長年間(1596〜1615年)、最上義光、再建。寛永十一年(1634年)、鳥居忠政、改築。慶安元年(1648年)、徳川家光より宝沢四社へ先規の通り、蔵王社領として三石八斗を寄進せらる。

当社本尊は、高さ364cmの巨大な蔵王権現にして、三眼、青黒色の忿恕身。右手は三鈷杵を振り上げ、左手は剣印を腰に安ず。左足を盤石上に踏まえ、右足を高くけり上げ、魔障降伏の相なるが、本地仏は釈迦如来なり。

蔵王山は、古来東のお山と称し、人々、権現に延命息災、増福円満を祈り、農民は水神として五穀豊穣を祈願。山形近郷に於ては、往昔より、春祭の旧五月二十一日は権現さまのお田植と称し、田に入ることを忌み、秋の旧十月八日には権現さまに収穫感謝の祭りをはすを常とせり。蔵王大権現の御神木は桜なりという。現在当社の祭典は六月十日なり。

蔵王大権現保存会
昭和五十三年六月十日



井上家の敷地内にある


おばあちゃんが電気を付けてくれた

社神王蔵



〜黒木喜久治『馬見ヶ崎川の流れとともに —防原町の歴史』より〜

このほとけは奈良県吉野の金峰山(きんぷせん)如意輪寺(にょいりんじ)の本堂(一般に蔵王堂という)に祀られ、修験道の本尊で日本独特の仏であり、インドにも中国にも見られない。役の行者(えんのぎょうじゃ)が金峰山で修行中に感得したという。平安以後、修験道の発展につれて全国的に信仰された。

ただ、役の行者小角(おづぬ)が蔵王権現を感得したという伝承は、小角の死後400年後の12世紀はじめの『今昔物語集』によりようやく現れる(その後、鎌倉時代中期の『沙石集』など)。また、当山派修験の祖とされる京都醍醐寺の真言の高僧理源大師聖宝(しょうほう)の伝記をまとめた承平七年(937年)作の『聖宝僧正伝』によると、「金峰山において堂を建立し、併せて居高六尺の金色の如意輪観音を造る。併せて一丈の多聞天王、金剛蔵王菩薩像を彩る」とあって、蔵王権現は本尊(如意輪観音)でなく客仏で、しかも「権現」ではなく「菩薩」と呼ばれている。平安時代の説話や貴族の日記、記録類にも、蔵王は蔵王菩薩と記される方が多く、あるいは当時の蔵王は今日のような忿怒形の姿ではなかったのかもしれない(平凡社、月刊百科339号『蔵王権現と龍神』より)。



内部


蔵王大権現の脚部



〜ブログ「扁平足」より〜

蔵王の登山口の一つ宝沢はかつて蔵王信仰の重要な拠点であり、歴史のある落ち着いた集落です。それは道端に立つ石造物の多さで分かります。馬見ヶ崎川にそって集落が切れ目なく続き、そのなかの下宝沢に木造蔵王権現があるというので訪ねました。

道路脇に立つ石鳥居から車で入るとそこは農家の庭先、ご亭主の井上氏が庭木の剪定中でビックリ。まずは駐車の許可を得て蔵王権現について訪ねると、庭奥にある土蔵造りの蔵王神社に鎮座しているという。そして気持ちよく拝観させていただきました。

その蔵王権現は天井を突き破らんばかりの大きさにまたビックリ。井上家はかつての蔵王信仰の拠点で三乗院を名乗っていた家柄。伊藤清郎著『霊山と信仰の世界』(平成9年、吉川弘文館)には「宝沢口では最盛時には十二坊があった」とし「三乗院(当山派)は覚山(宝沢出身)がこの霊地を開いて麓に寺を建立したのが始まり」とあります。そして蔵王権現の高さは364cmと紹介しています。庭奥の山際にある墓地には「法印」の銘がある墓石もありました。かつての蔵王行者のものなのでしょう。








〜黒木喜久治『馬見ヶ崎川の流れとともに —防原町の歴史』より〜

(蔵王権現の)形態としては密教の五大力菩薩中の蹴立像に近い忿怒形(ふんぬぎょう)をしており、額の左右で髪を逆立て、顔は眉間のしわの中にも目がある三つ目で、とくに左右の目は怒りに燃えてかっと見開き、唇の両端からは牙が突き出ている。右手は三鈷杵(さんこしょ)を握って振りかざし、左手は人差し指と中指を突き出す剣印を結んで腰に添える。左足はがっしりと岩を踏まえ、右足を高く蹴上げ、光背には火炎を負うて、全身これ悪魔調伏という姿で屹立する。身体の色は青黒い。蔵王権現の調伏する悪魔とは、悪病や災厄、人間の欲望や煩悩で、人は行を積み困苦に耐えることによってこれらの悪を調伏することができる。その人間の精進の姿を守護するのが蔵王権現である(『修験根本道場金峰山寺』同寺発行より)

下宝沢刈田嶺神社の蔵王大権現も、光背こそないものの全くこれと同じ形像で、背中に本尊の釈迦如来を抱いている。






余談ではあるが、山形の夏の祭り「花笠まつり」に祭神として招かれるのが、この蔵王大権現である(右手の三鈷杵を「花笠」にもちかえて)。


前夜祭では、宝沢の蔵王大権現から「御神火」をいただく儀式が毎年おこなわれている。



〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

蔵王大権現

 古代の人たちは、天変地異のすべては神のしわざであり、しかも神は大自然の中に宿っているということから、峻険な嶺が畏敬尊崇の対象となり、鳥海山、月山などと共に蔵王山も位階勲等を授けられるほど尊ばれた。ただ、古くは刈田嶺神といわれていたもので、蔵王山と称するようになったのは七世紀以後のことであるようだ。

 蔵王地蔵尊にまつわる古文書のある宝沢の三乗院は、蔵王山宝沢口にあって、松尾院の半郷口、安楽院の中川口(上山)よりも古くから栄えたようである。三乗院の門前に掲示されている説明によれば、役の行者小角(すづぬ)が吉野金峯山(きんぶせん)において、一千日の苦行と修練のすえ感得したのが金剛蔵王権現で、朱鳥四年(690)三月小角57歳の時、出羽国羽黒に来り近峰を遍歴、四月八日当地刈田嶺に勧請した。以来、刈田嶺を蔵王山と称したと伝えられている。

 また、この三乗院には蔵王山信仰を象徴する巨大な蔵王権現の像がある。いい伝えによれば、役の行者が刈田嶺で勧請をしていた当時、宝沢に井上太郎大夫という農夫がいて、子なく天に祈っていた。その妻が一夜、一僧胎中に入る夢をみて、朱鳥八年(694)十月十八日男子を生んだという。乙鶴と名づけた。この乙鶴が長じて才徳人にすぐれ、和銅五年(712)十九歳の春三月に山伏となり、名を覚山と改め、諸国の名山霊地を巡り修行を重ね、吉野金峰山に到り蔵王権現を拝した。霊夢に蔵王の霊山があることを知り、その山の中興を志して帰国、登山の道路を開き信者の利便をはかった。天平年中に三年続きの旱魃があって、覚山は国主の請に応じて祈祷し、雨を降らせて五穀を実らせたという。やがて、蔵王山麓にあたるこの地に社を建立し、万福山と号し、蔵王大権現を創始した。

 別当三乗院にある権現像は、高さ3.64m、三眼青黒色の忿怒神で、右手は三鈷杵を振りあげ、左手は腰にあて剣印をあらわしている。左手を盤石に踏まえ、右足を高くけりあげ、魔障降伏の相をしている。三乗院の入口に石の鳥居がある。これは先年、宝沢街道の道路整備に際して、防原の三差路にあったものを移したもので、蔵王山宝沢口の一の鳥居である。



蔵王大権現 常夜燈





近隣(宝沢地区)の周辺情報:



蔵王大権現像(三乗院) [山形・下宝沢]



参考映像:
NHK「新日本風土記アーカイブス」
蔵王権現〜山形・下宝沢 恵みをもたらす蔵王への信仰




2013年10月17日木曜日

吹浦「十六羅漢像」 [山形]


十六羅漢像

羅漢さんは、釈迦が仏法を説かれたとき集まった仏弟子

海禅寺、21代目「石川寛海」大和尚による

元治元年(1864)より明治初年(1868)に刻まれたという


釈迦・文殊・普賢の三尊はじめ
全部で22体

現地説明版より

名勝「羅漢岩」の由来


現・曹洞宗海禅寺、21代目の石川寛海大和尚が、日本海の荒波の打ち寄せる奇岩の連る数百メートルに点綴して刻んだ、十六羅漢がある。

奇岩怪岩に富んだこの岩石を利用して巧みに仏像22体を彫刻した和尚の努力と精進のほどに敬虔の念を捧げます。

また和尚は作仏発願以来、喜捨金を酒田に托鉢し、一両を求めると一仏を刻し、元治元年(1864)より明治初年(1868)までのあいだ、石工とともに彫刻したのが羅漢像である。

正面に釈迦・文殊・普賢の三尊と、その周囲に十六羅漢そのほかの仏像を配し、全部が半身仏である。

像は岩形に応じてその姿態を羅漢にしたのは自然の景観に一段の奇観を添え、接する人々の庶民信仰を培う和尚の慈悲心のあらわれである。

昭和50年3月

遊佐町
福浦海禅寺


出羽二見


胎内くぐり

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

芭蕉



吹浦も鳥海山も鳥曇

漾人(ようじん)

渡り鳥が北へ帰って行く頃の曇りがちの空と、長い冬を終えようやく春も来ようかという頃の吹浦の海と、まだ雪を残してそびえたつ鳥海山の景色をひとつにとらえ詠んだ句。

最上郡鮭川村生まれ
医学博士
本名、佐藤要人の作



冬来れば母川回帰の本能に目覚めて愛(かな)し鮭のぼりくる

齋藤勇

先人たちの長年の人口ふ化事業の辛苦のもと、月光川で生を受けた鮭の稚魚が、遠く北洋の旅をへて、ふたたび母なる川・月光川の清流を慕い帰ってくる姿を詠いあげた一首。

南遊佐村(現・酒田市)に生まれ育った歌人
齋藤勇氏の作

2013年10月12日土曜日

鶴岡「高館山」 [山形]


元首相・原敬の句がのこる
原敬 句碑


吹く風に

とまり兼ねてや

秋の蝶



低地標高に生育する珍しいブナ林

何の実か?
登り口にあった漢詩

落日西山の暮


蒼茫たり古戦場

寒狐廃塁に鳴き

陰燐荒塘に映ず

形勝秋気に傷み

興亡夕陽に感ず

徘徊す旧墳の上

荊露人裳を湿す


木道が整備されている箇所もある。

巨木の多さに驚く
山中の説明板より

新・奥の細道(善宝寺と高館山城のみち)

龍神伝説と観音堂跡
昔から高館山は竜の化身といわれ、その背にあたる松倉山に観音様がまつられていたといわれている。


松倉山に眠る五輪塔群
天保13年(1842年)、多くの五輪塔を発掘した。昔からその付近に武藤家の御墓所があったと伝えられている。


戦国時代の山城跡
構築年代は不明である。



新たな命は樹上からも

山頂の手前にあった祠

山頂にそびえ立つ塔

塔のなかから見える緑

円筒のなかのグルグル階段

現地説明板より

高館山 自然休養林

位置 山形県鶴岡市大字大山城山国有林192・193林班

面積 200.64ヘクタール

指定年月日 昭和49年(1974年)10月25日




特徴
山頂からは広大な庄内平野をはじめ、鳥海山・月山などの山々やクロマツ林の緑が続く海岸線、はるか海上に浮かぶ飛島・粟島などが眺められます。

この山には150種以上の樹木やそれを上廻る草本植物が生育するほか、数多くの野生鳥獣や昆虫類が棲息しており、野外観察に格好の場所であります。

とくに海岸線ちかくに見られるブナ林は低地標高に生育していることで、全国的に貴重であるといわれています。


林野庁 鶴岡営林署

2013年10月7日月曜日

湯野浜「温泉神社」 [山形]



湯野浜「温泉神社」

草、旺盛にしげる
現地説明板より

温泉神社

現在、日本海を見下ろす高台に祀られている温泉神社は、昭和51年(1976)まではレストハウスと愉快亭みやじまの間の道路際に鎮座していた。

伝説によれば、初めて温泉が発見された時に、その守り神として祀られたものといわれている。

現存の建物は、昭和52年(1977)に移築に着手し、拝殿が完成されたのは平成2年(1990)12月20日である。また、明治31年〜昭和33年までの約60年間(1898〜1958)、湯野浜小学校がここにあった。



神社への登り途中にある「喜兵衛の井戸」
現地説明板より

学校坂喜兵衛の井戸

昔の小学校、現在の温泉神社への通じる坂道の途中にあり、井戸に一番近い工藤喜兵衛氏の名にちなんで付けられた。

湧き水を枡で囲んで溜めた施設に小屋がけをしたもので、昔は、小学校でもこの水を桶で担いで運び使っていたといわれる。