2014年10月3日金曜日

柏倉八幡神社 [山形・西山形]


西山形「柏倉八幡神社」

〜現地・案内板より〜

柏倉八幡神社

 当社境内から旧石器時代(約1万2,000年前)の「石斧」が出土。山形市最古の住民遺物です。ここは地形的にも古代からの「聖地」で、後に八幡神社が祀られたと考えられます。

 由緒に、康平六年(1063)源義家の創建とあり、慶長の戦火にあい最上義光が再建し社領360石を献じたという。特に正月田から十二月田その他の御供田が確認されており、このように整った御供田を持った神社は、米沢成島八幡、酒田市条八幡のみで、県内有数の古社であることを示しています。

 なお、鉄砲町八幡神社は当神社から御分霊されたと古書にあり、また山形市指定文化財「女神像」は平安末期と推定され、当神社の古い歴史を物語っています。

西山形振興会





〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

柏倉八幡神社

遠く古代にさかのぼる「祭り」の場

 全国でも特に古い神社は、何等かの意味で特に神聖な「まつり」の場にあり、それがやがて時代と共に神殿が建ち、社名や御祭神が固定してきた、というのが多く、当神社も多分そうでしょう。最初から城下町形成などで人為的に特定の場所に社殿が建てられた神社とは違うのではないかと思われるのです。

 その証として我が西山形地区は、旧石器時代から縄文・弥生の遺跡が多数出土し、古墳時代(五世紀)大之越胡粉(七世紀)条里制跡の確認もあります。また、当八幡神社も山形市指定文化財の「女神坐像」は平安末期と推定されていることでもわかりますが、この土地は古くから摂関家の支配する、いわゆる「王化」が特にあったと言う史実がそれを証明してくれるでしょう。

 大体、八幡様が歴史に登場するのが八世紀。奈良の大仏建立に九州宇佐八幡宮が協力したということで、奈良に手向山(たむけやま)八幡宮が祀られ、平安遷都と共に王城鎮護神として京都男山に石清水(いわしみず)八幡宮が、そして鎌倉幕府成立と共に、政治の中心地であり源氏の守護神とした八幡神を石清水宮から鎌倉鶴岡八幡宮へと勧請され、次第に八幡神は源氏一党の東北支配と共に祀られ、山形県でも主として政治の中心地に奉祀されました(例、山形・寒河江・谷地・成島などは皆城館跡)。

 当八幡神社の創建もそのように、石清水八幡宮で元服し八幡太郎を名乗った源義家が、康平六年(1063)この地に奉祀したと由緒書にあります。






〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

時代と変遷

 当八幡神社に来られた方は、みんな「本当に神社らしい神社だ。清々しくていいなぁ」とおっしゃる。考えてみると、これだけの環境は百年や二百年で出来るものではなく、先人たち大変な積み重ねの結果、今日があるわけでしょう。

 代々神主の土屋家に伝える「湯殿山大権現(写本)」には永正十八年(1522)に当社が存在し、また慶長五年(1600)出羽合戦で被災したが、最上義光は戦勝の報恩に社殿を再建、社領三百五十石を献じたという。しかし最上家没落と共に社領も召し上げられ、灯明油料として蔵米六石を明治維新まで時の領主から受けていました。

 慶安三年(1650)社殿焼失、明暦元年(1655)再建。その時の「棟札」があります。また、その際の寄付帳「勧進帳」が土屋家にあり、驚くのは今山形市街地の有力社寺二十九ヶ寺から多くの寄付があり、当社の権威の高さを物語っています。

 また特筆すべきは、中世所領の正月田から十二月田、閏月田、八講田、射手分田、甘酒田、小豆田、鈴振田、油料田などの御供田を持っていたという事実です。山形県内でこれだけ整った御供田が確認されているのは、米沢成島八幡、飽海八幡町(現酒田市)市条八幡と当社の三社だけで、いずれも地域を代表する古社です。だから土屋家文書に、山形鉄砲町の八幡様は当社から分祀されたとあるのを、県史も市史も注目すべきとしているのも当然です。

 江戸時代は、神主土屋家、社僧修験玉照山行善院宝釈寺(吉田家)を中心に護持され、特に当地へ堀田分領四万石支配の「陣屋」が置かれると、治下四十六ヶ村の総鎮守となり須川西一の大社として旧南村山郡筆頭の格式でありました。




2012年、火災により全焼。
いまだ再建ならず。


〜柏倉八幡神社、再建委員会より〜

 ふるさとの象徴、懐かしい思い出がいっぱいの柏倉八幡神社が、去る平成24年5月7日未明の火災に遭い、本殿・拝殿・幣殿を全焼しました。幸いにして山形市指定の「木造女神坐像」は残りましたが、この神社焼失は、地区民はじめ多くの方々にとって、大きな落胆と悲しみとなりました。

 この柏倉八幡神社を再建すべきだという願いが高まり、「再建委員会」を設立して、平成27年完成を目指して準備を進めてきました。建設費用は7,000万円余を見込んでおり、地元の団体、会社、個人の方々の寛大で多大なご協力をいただいて、ようやく6,300万円が調達できるところまでこぎつけました。

 あと700万円というところから地元のご協力だけではなかなか進まない状況となり、この「柏倉八幡神社再建」の趣旨をご理解いただける方々に、広くインターネットで呼びかけてご協力をお願いすることといたしました。どうぞこの神社再建達成の趣旨をご理解いただき、格別のご協力を賜りますようお願い申し上げます。


火災後の様子(ゆわゆわネットより)

〜柏倉八幡神社、再建委員会より〜

ご寄付は、下記の郵便振替にてお受けしています(払込料金は加入者負担)。
口座記号番号:02260-5-127263
加入者名:柏倉八幡神社再建委員会




八幡様の森

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

特異な山容をもつ富神山(とかみさん)。その前面の高みに黒々とした「八幡様の森」。これが我がふるさとの原風景。

 この特徴のある地形は、大昔から随分遠くからでも目立った所であったに違いない。今から約一万二千年くらい昔(旧石器時代の末期)の人が使った「石斧」がこの八幡様の森から出土して、山形市では現存する最古の遺物だと「市報・山形市史探索1」にあります。

 八幡様の小高い森(明治期、学校敷地予定として今のゲートボール場の平地が作られたので、以前は付近の古地名「宮林(みやばす)」の示す如く、全体が丘状の森であった)。この森は一万二千年以上の太古から、恐らく八幡様を祀る遥か以前から特別の場所で、人々が集い「まつり」などを行なう「聖地」ではなかったろうか。それは、境内から四方を見渡し、古代の人々に思いをはせると自然とそう思えます。


「八幡様の森」から山形市をのぞむ。




〜現地・説明板より〜

山形市指定文化財
木造女神坐像 壹躯
昭和四十年三月五日指定

 柏倉八幡神社は縁起によれば、康平六年(1063)源義家が山城国石清水八幡の分霊を勧請して戦勝を祈願したと伝えられる当地方きっての古社であるが、慶長五年(1600)九月十五日、米沢の城将直江山城守兼続が山形を攻めた際、兵火に罹って焼失したが、その戦争の直後、山形城主最上義光によって再建された事を伝えている。その後も歴代の山形城主があつく信仰した事は今なお伝承される数々の宝物や正月田より十二月田までの地名のあった事でもうかがわれる。

 此の神社の宝物の一つである木造の女神像は惜しくも下部が腐朽しているが、現長32.3cm(一尺六分五厘)を有する一木造り内割りの坐像である。左右に振り分けた髪、長い眉の下に豊かな上瞼の眼、下ぶくれした豊かな頬等は、簡素な衣装とその中に拱手する姿など、いづれも王朝時代の女官の姿をあらわしている。もともと此の女神像は此の神社の本殿深く祀られて来たもので、其造顕は平安時代(十二世紀)と推定されている。

昭和四十年三月
山形市教育委員会






「柏倉八幡神社」の緯度経度
38°14'03.9"N 140°15'54.1"E
38.234412, 140.265026




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