「義家橋」 柏倉八幡神社境内 |
〜現地・案内板より〜
義家橋
この石は、東から神社に登る道の川に架かっていた橋石です。昔、安倍貞任(あべのさだとう)を平定に、八幡太郎義家が馬にのってきた。その時の馬足跡が付いているので「義家橋」と言います。右に、その訳を記した縁起石標があります。
西山形振興会
〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜
石橋のいわれ
柏倉八幡神社の拝殿前に「義家橋」という大きい、いわゆる富神山石が建っている。その縁起を刻した石碑がそばにある。昭和三年、村の在郷軍人分会第二班の建立で、土屋東太郎の書、文は西村久次郎、石工和田吉照で、大意は次の如くである。
「この石は昔から義家橋と云われ、大門坂の北百余歩先のT字形の川に架かっていた石橋(奥山忠道さんの前あたり)である。康平年間(1058〜1065)、安倍貞任の反乱(前九年の役)を平定に来た源八幡太郎義家が、馬に乗ってこの橋の上から敵状を見た。その時の馬の足跡がこの石に付いているから義家橋と云う。また南には貞任橋もある。昭和二年秋、橋の架換えがなされ長く埋まっていたこの石をここ神社に移して由来を記す」
このような石は、実は全国的にあり、民俗学的には「馬蹄石(ばていいし)」と云われ、大体その地に由緒深い英雄と結び付いている。注意すべきは「馬の足跡」と云っていることで、馬は古来神様の乗物とされ、殊に八幡神は馬に乗ったお姿で描かれてきた(これに対して、春日神は鹿、稲荷神は狐などという例がある)。だから、このような石は特別神聖なもので、特に八幡様への登山口辺りに在ったという深い意味があって、後に源義家と結び付いたものであろう。
貞任橋 |
貞任(さだとう)橋
この三叉路の堰に架かっていた橋石で、むかし八幡太郎義家に追われた安倍貞任(あべのさだとう)が渡ったので「貞任橋」と言います。だから、この辺一帯を今でも「さだ」と言うのだと伝えています。八幡神社の東登道の「義家橋」と一対の伝承です。
貞任橋
柏倉八幡神社から南へ下ると中林(なかばやし)への道と三叉路になる。そこに西村力三さんの屋敷にあった風車(戦後ワラ打にも利用された)への水口辺りの堰に架かっていた石橋を「貞任橋」と云い、義家橋と一対の約1.5mの直径の巨石である。これも近年の道路改修の際、西村さんの屋敷の元の位置近くに保存され、この辺一帯を「さだ」という由来のしるしとして大切にされている。
さて、この「さだ」と云う地名であるが、大槻『大言海』に狭田・長田・真田のいづれもが「さだ」とある。また、『日本書紀』には「あめのさだ」が高天原の神田を指している。案ずるに地形からも稲作りの原初となり得た古い地名ではなかろうか。
八幡様と義家、貞任と絶妙の伝承であるが、この「さだ」道も古い八幡様への道筋で、また、古来三叉路は特別の場所と信じられ、道祖神、賽神(さいのかみ)、後に馬頭観音や地蔵様などをまつることと深い関係があると思われる。
「義家橋」の緯度経度
38°14'03.8"N 140°15'54.2"E
38.234379, 140.265063
「貞任橋」の緯度経度
38°13'54.7"N 140°15'55.0"E
38.231859, 140.265283
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