大ノ越古墳 |
〜現地・説明板より〜
山形市指定史跡
大ノ越(だいのこし)古墳
昭和53年7月26日指定
山形市大字門伝地内にあるこの古墳は、昭和53年3月、圃場整備の工事中に偶然ブルドーザーに掘り起こされ、発見されました。発見時に調査が実施された結果、直径約15mの円墳で、内部に二基の箱式石棺があることがわかりました。
石棺からは環頭大刀(かんとうのたち)、直刀などの武器や、工具・馬具・土器など様々な物が出土し、副葬品の多様さ、豊かさは県内にある古墳の中でも有数のものです。これら副葬品の内容などから、この古墳は五世紀後半に築造され、畿内政権と交流していた山形盆地一帯を支配するような有力者が埋葬されたものと考えられています。
なお、出土品は山形県の文化財に指定され、山形県立博物館に保管・展示されています。
平成六年三月
山形市教育委員会
径16mの円墳(再現) |
〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜
大之越古墳の出土遺物
大之越古墳は二つの石棺を有し、その副葬品は山形の古墳では例がないほどに多様で数も多い。遊環(馬具)、刀子(鹿角製柄の痕跡あり)、冑残欠(しころの部分か)、鉄斧、鉄鏃(長さ10cmほどで刃の部分は4cmほどある)、鉄鉗(てっかん)…。鉄鉗は金属を挟むプライヤーのような道具で、鉄を折り曲げる、赤く熱した鉄を挟んで持つなどの用途がある。
日本で鉄が作られたのは6世紀のことだとされている。5世紀に建造された大之越古墳から出土した鉄製品は、大陸からの輸入品だったのだろうか。西山形の古代は、探るほどに謎が深まる。
環頭大刀(かんとうのたち) |
〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜
大之越古墳の単鳳環頭大刀
村山盆地の南西端にあるトンガリ山、富神山のふもとで1978年、道路工事中に古墳が発見され、大之越古墳と名付けられた。古墳はすでに見当たらず、遺跡をめぐる溝により、径16mの円墳と推定された。5世紀末ころの築造で、今は整備され史跡公園となっている。
石棺は二つあり、環頭大刀、直刀、鉄剣、鍛冶具のはさみや馬具が副葬されていた。中でも、権威の象徴ともいえる単鳳環頭大刀は鉄製金装で、長さ948mmある(刀部731mm、茎部219mm)。柄頭(つかがしら)の内環には鳳凰の意匠があり、X写真でタガネ彫りによる銀象嵌(ぎんぞうがん)の様子がわかる(刃の部分には銘のないことが確認された)。鉄地に金箔を押した一級品である。この大刀がどのような人物に所有されていたのか、今もその謎は解けていない。
発掘例の単鳳環頭では日本最古式である。出土品は山形県指定文化財となり、山形県博物館に展示されている。環頭太刀は中国が起源とされ、朝鮮半島を経て日本に導入された。(「学芸員の宝物」朝日新聞2004年2月21日、山形県立博物館・学芸専門員、安部実)。
古墳上部に設けられた穴 |
〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜
大之越(だいのこし)古墳とは何か
1,500年前、郷土を支配した王とは?
大之越古墳の発掘によって、私達の祖先を身近に感じられるようになったのも、地元の人として偽りのない心情と思われます。考古学の権威・小林行雄さんが書かれた『古墳の話(岩波新書・昭和39年)』の中に、こんな事が触れられていました。
…私どもが、各地の古墳の研究に出かけた時に、土地の人からかならずたずねられることが二つある。それは、「この古墳はいつ頃のものか」ということと「だれの墓か」ということである。いつ頃かについては、古墳の規模・副葬品から推定して答えは出せるが、だれの墓かについては、「わかりませんね。多分、この地の有力者だったはずですが」と答えると、はっきりと失望の色が顔に表れます。土地の人の最も聞きたい事だったからでしょう。
大之越古墳も例外ではなく、築造されたのは五世紀の後半で、被葬者は山形盆地を支配した首長と推定されると、発掘にあたった県の教育委員会が調査結果を出しております。1,500年前に、我々の祖先としてこの郷土を支配したのは誰だったのか…。
たまたまそのような話の時に、「越族(こしぞく)」との関係があるのではないかと話が出ましたが、恐らく「大之越(だいのこし)」という地名から推測されてのことと思われるのです。大之越古墳の疑問を解く一つの足掛かりになるとして、越族についての資料を探し求めることにしました。
〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜
幸い手元にある「山形県の歴史散歩道」の中に、小国町・大滝地区にある「古四王(または越王)神社」のことが載っているので、引用してみます。
…越族は、今の中国旧満州から渡来し、日本民族と融和混血し、長期間にわたって難儀した。そこで、母国をしのんで種族の祖先を祀ったのが神社の縁起とされ、日本海側の新潟、山形、秋田県に多く分布されている。その中で荒川渓谷沿いに小国に入り、大滝の地に越王神社を残し、宇津峠を越えて置賜盆地に入り、長井、西根、高玉、鮎貝にもそれぞれ越王神社を残した。ここから更に長谷堂を通って山形方面に達し、他は更に最上川を下って北上する進路が考えられる…。
とすると、この資料を見る限り、越族が山形盆地に入ったことは確かなことであり、大之越古墳の被葬者も越族と関係がないとはっきり言い切れるものでもないと思われます。大之越古墳の被葬者は、大いなる越の人という民族としての誇りのなかで眠り続ける我々の祖先なのかも知れない。
参考:
大之越古墳は昭和53年4〜5月にかけて発掘調査が行われた。「畿内の政権はもとより、古代東アジアの動きや文化とも何らかの関係があった」(「大之越古墳の調査概要」山形県教育長文化課・昭和53年5月)と調査の概要が報告されている。
トンガリ山、富神山を背景に |
古墳の隣りには、豊かな果樹園が広がる。 |
〜司馬遼太郎「街道をゆく 10 佐渡のみち」より〜
…
ある時期までの日本人は、黄金が通貨であるという世界経済の歴史からみれば、まことに”うぶ”である期間が長かった。
むろん、黄金が貴金属であることは、上代から知っていたらしい。上代、新羅において黄金がよく採れた。新羅貴族の装身具に黄金がふんだんに用いられたことは、文献によっても知ることができるし、げんにそれらの出土品をこんにち見ることができる。そういう新羅国についての上代倭人(わじん)の印象は、まさに黄金の国ということであった。
欽明天皇十三(552)年に、百済の聖明王が仏像などをもたらしきたったとき、日本の宮廷のおどろきは、「西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)れる仏の相貌(かほ)、端厳(きらきら)し。(『日本書紀』)」ということばで尽くされている。きらきらしという驚きには、彫像がすぐれているという芸術的衝撃のほかに、鍍金(めっき)がかがやくようであったということも、当然ふくまれている。
その時期までの日本の彫刻はなお太古の古拙をひきずっていて、人間の像をあるがように造形したものを見ることがなかった。さらには黄金の存在は古墳の埋葬品からみて十分知っていたことはまちがいないが、仏像ことごとくが黄金のかたまり(鍍金とはいえ)であるということは、衝撃以上のものであったにちがいない。たしかに、古墳から金製や鍍金製の耳飾りなどがよく出土する。しかしそれらの黄金が国内の河川などで採取されたものであるのか、それとも朝鮮渡来のものか、よくわからないのである。
その後、仏像が国家規模でつくられるようになってから、金がふんだんに必要になった。金の多くは、朝鮮半島からの輸入品だったであろう。八世紀ごろ、新羅との貿易は、先方から貢(みつぎもの)をもたらし、日本からみやげを渡すという朝貢貿易のかたちをとっていた。当方はいつも絹のたぐいをわたすわけだが、新羅の貢物の品目には必ずといっていいほどに、金や銀がある。仏像の盛んな日本にとってそれが必要だったからであろう。
おなじ八世紀の半ば近く、聖武天皇が大仏を鋳造するということになって、日本にもさがせば金というものがあるだろうということで、さがさせた。探鉱のしごとをしたのは、多くは朝鮮からの渡来人であった。やがて奥州で百済王敬福(きょうふく)が見つけて都にもたらしてきたとき、聖武天皇がわざわざ大仏の宝前でそれを告げた。その文章に「この大倭国は、天地開闢よりこのかた、黄金は人国より献ることはあれども、この地にはなきものと念(おも)へるに」ということばがある。推して、上代のこの国が、黄金には縁が薄かったことがわかるであろう。
…
こんにちわ。大ノ越、地元の言葉ではないみたい。越後の弥彦神社の神紋が丸に大です。
返信削除なにかつながりがあるかも。