2014年10月5日日曜日

つぶて石 [山形・西山形]


つぶて石


〜現地・案内板より〜

つぶて石

 今は昔、仙台市の近くに力持ちの大男がいました。その男が山寺に向って大きな石を投げると、空高く飛んだ石は山寺を越えて、西に高くそびえる山の中腹に落ちました。その石がここに残る「つぶて石」なのです。

 古代、「つぶて」は戦争の道具でした。この話の力持ちは源氏再興に寄与した朝比奈三郎だと言われています。

西山形振興会



仙台から飛んで来たのだとか


〜現地・説明板より〜

礫(つぶて)石 由来

 昔むかしのこと、仙台市の近くの村に朝比奈三郎という豪傑が住んでいました。体太く、手足は大きくたくましく、すごい力持ち。

 特に三郎の引く弓は強く、村人十数人が力を合わせてようやく引くことができるほどのものでした。三郎が射た矢は草木をなぎたおし、岩をくだき、山の形を変えてしまうほどでした。その跡が宮城県の七ツ森なのです。黒川郡の富合町から大和町にかけての山々なのです。富士山を小さくしたような美しい山が「薬来山」、高さは553mで「加美富士」と呼ばれる。松の木の多い山が「松倉山」、とがった山が「遂倉山」、次に「大倉山」「蜂倉山」「鎌倉山」「撫倉山」と並んでいます。

 ある日、三郎は自分の力を試すことにしました。大きな石をどこまで飛ばせるかと…。目標を山形県の山寺に決めました。なにしろ奥羽山脈のむこう山寺まで大石をとばすというのですから、たくさんの村人が見学がてら応援にいきました。三郎は大張りきりです。大石を肩に深く息をすいこみ、目を見開き「エイ・ヤアー」掛声勇ましく飛ばしたのです。

 石は空高くまい上り、ぐんぐんのびて、山寺どころか山形の町を越え、その西にひときわ高くそびえる白鷹山の中腹に「ドッシーン」、大きな音をたてて落ちました。山は大きく揺れ動き、大木はざわざわと風をおこし地震のようでした。恐ろしさに動物たちも大さわぎ。にわとりは卵を生むことを忘れ、山羊や牛はおちちを出すことを忘れ、ねこや犬はたださわぐだけでした。

 村人たちは、石の落ちたところを礫石というようになりました。

山形市少年自然の家
運営委員会 後藤留吉



朝比奈三郎の伝説が残る。


〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

つぶて石伝説

大岩を投げ飛ばした朝比奈三郎義秀


 西山形には少年自然の家の近くに礫石(つぶていし)というところがあります。ここに伝説の「つぶて石」があります。優しくて話好きの高野好さんは、高野家に代々伝わる西山形の「つぶて石」の話を子供たちに語り伝えて来ました。さて、その物語は…


 むかし、あったけど。今の仙台市の近くの村に朝比奈三郎義秀という体の大きな、若くてたくましくて力持ちの男がいたんだと。力自慢の三郎が大石を肩さ持ち上げて声勇ましく山寺に向って石を投げたんだと。大石を肩さ担いで深く息を吸い込み、目を見開き、エイ、ヤアーと掛け声勇ましく飛ばしたと。

 ぐんぐん飛んで、山寺へ落ちるどころか山形の町を越え、西にひときわ高くそぴえ立つ白鷹山の中腹さ、ドッシーンと大きな音を立てて落ちたど。山は大きく揺れ動いて、まるで地震のよう。木々はザワザワと揺れて風をおこし、大騒ぎしたと。鶏は卵を生むのを忘れ、山羊と牛は乳を出すのを忘れ、猫と犬は騒ぎまわったど。

 騒ぎが収まったところで山の中腹を見ると、大きな石が突き刺さって、その石には三郎の手形が残っていたど。それで大石の落ちたところが礫石(つぶていし)と呼ばれるようになったんだと。今度、礫石さ行ったら見てけらっしゃい。

 どっぴん


 西山形の礫石には今も、朝比奈三郎義秀の投げた巨石の塊があり、大事に祀られています。その空を飛んで来たという大岩というのは、蔵王連峰の火山が爆発して飛んで来たのだろうとも言われています。

 朝比奈三郎義秀の力自慢の話は西山形ならではの興味深い話です。と言うのも、この怪力の主は、実は鎌倉幕府を開いた源頼朝と縁の深い武将、鎌倉幕府初代侍所別当・和田義盛の子なのです。西山形は平安時代末期から鎌倉時代にかけて頼朝の側近・藤九郎盛長が治めた大曽根庄にあり、鎌倉と深くかかわるからです。

 朝比奈三郎義秀には海に潜るのが上手だったという話が伝わっています。それと共に、彼の怪力ぶりは後世に語り伝えられ、江戸の浮世絵にも多く描かれました。朝比奈三郎は寺山伝説の藤九郎盛長とも関係する武将ですから、西山形に伝わる「つぶて石伝説」はきっと、この土地の歩んだ歴史と関係があるのでしょう。ここでも西山形は中世日本の歴史と深くかかわるのです。



すぐ横の稲荷神社



「つぶて石」の緯度経度
38°14'04.6"N 140°12'55.6"E
38.234599, 140.215444




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