はだか地蔵 |
〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜
新山の延福寺参道左側の小堂に祀られている石地蔵は、裸体の坐像である。はだか地蔵は全国にも稀に見る姿であるという。奈良の伝香寺の地蔵は、ほんとうの丸裸であり、鎌倉の延命寺のはだか地蔵は、ころもも袈裟もまとっているという。
いずれにしても裸地蔵は本来、自性清浄の徳を現わし、無我無心の童身のお姿で、信者の方がいろいろ装身具をお供えする慣わしになっている。お地蔵さんに頭巾を冠らせたり、よだれかけや腹巻を着させる民間信仰も、これから始まったらしい。
延福寺(新山)の参道に祀られている。 |
〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜
延福寺の裸地蔵
延福寺参道の左側に、裸で坐っている地蔵さんが祀られている。衣を身につけない地蔵は全国でも珍しい。
地蔵信仰は人々の苦を救うというよりも、後には、苦しみで死んだ人も地蔵として祀ることによって、その苦しみを再び受けないとする信仰に変化してきたようである(たとえば地区内でも、地蔵石像の両側などに死んだ人の戒名が彫られている)。中世以降はさらに、より人間に近い形の仏に救いを求めるため、裸地蔵が作られたものであろう。
新山延福寺のお薬師さまは長禄二年(1458)、山形城主斯波頼宗(斯波兼頼の曽孫)の祈願所として薬師寺を建立し、別当の延福寺に新山村の領地百七石を寺領として与えたと伝えられる。本尊は薬壺を持った薬師瑠璃光如来で、特に眼病には霊験あらたかなこととて、村人は勿論、近郷近在からも厚く崇敬されたという。
また、延福寺本堂前に観音さまの石塔がある。側面に有耶関(うやせき)と彫られている。明治の頃までは笹谷峠の八丁平に観音さまが祀られていたとのことなので、或はここに移されたのかもしれない。
新山村は何時頃開けたものか明らかではないものの、古くは大同年間(806〜809)に荷山と称し、すでに七軒の民家があったという。古来から笹谷街道沿いにあることとて、おおよそ一千年以上を経ているものと考えられる。近世には宿場として栄えたが、前後三回(最初は弘化年間?、最後は明治十五年五月)にわたる大火災によって、全村がほとんど焼土と化している。最近まであった住居と馬小屋とを一緒にした曲屋(まがりや)も、この火災後建てられたものであるが、現在は皆無となっている。
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