ラベル 西山形 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 西山形 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年10月4日日曜日

荒沼(あれぬま) [西山形]



釣り人でにぎわう、荒沼の朝


〜現地・案内板より〜


荒沼(あれぬま)


県民の森の中では二番目に大きな湖沼である。荒沼は大沼と同じく、今から570年前(1470年、室町時代)ころ、村木沢の住人、石沢与一・遠藤久七の両名が、相州箱根権現にお参りして分神を頂き、神社を建て、北沼を作り始めた。この北沼を「大沼」「荒沼」と云う。この沼によって数百町歩の田を開拓した時の領主最上直家(二代)が先の神社を沼明神(ぬまみょうじん)と名付けた。

慶安年中(1648〜1655年)に、この沼の水が不足したため、笹原五良右エ門と言う人が独力で改修・拡大し、干ばつから救った。それ以来、下流の村民が時々沼の修理をしたが、年とともに沼の破損がひどくなった。これを領主堀田公が哀れみ、郡奉行に命じ、安政四年(1857年)秋7月から安政五年秋九月にかけて、藩費をもって再度改修が行われてつくられたものである。

水利権 門田水利組合
魚類 コイ・フナ・ワカサギ等
昆虫 ハッチョウトンボ・カオジロトンボ等
表面積 132,600m2
最大水深 7.2m
貯水量 186,600m3



荒沼大明神


〜現地・説明板より〜


荒沼大明神


応永(1394〜)年間、領主・最上直家が荒沼に奉られていた箱根権現の分霊を沼明神と名づけ、ここから荒沼大明神として祀られるようになりました。荒沼は田に水をひく灌漑池として作られ、この沼の出現によって西山形の数百町歩の田が開墾されました。



荒沼碑



荒沼碑

荒沼の起源と経歴を記す安政荒沼碑は、祖先の辛苦経営と神水一如の信仰を伝へて炳手たり。茲に安政以降の事績を尋ねるに文久二年、名主市右エ門、清兵工伝四郎、百姓総代茂右エ門久六等、捨水利用に付、柏倉村と折衝を重ね入堰千八百米を開設、年々貯水増大の基を開く。

降って昭和九年、大字門伝八代総代斉藤宇一熊の胴新設を発起、大字の総力を結集、旧胴より二米掘下げ、旱魃時水利の方途を拓き、旧胴を最新ハンドル式に改良、堤塘を牢固たる現況に改修。同四十九年、熊の胴老朽漏水あり。十三代総代飯野貞一、之を機に潜水胴抜式熊の胴をハンドル式に改良。同五十年、市議飯野貞雄、山形市少年自然の家誘致に奔走。同五十四年、荒沼の高台に落成を見る。同五十一年、県民の森地域指定を受くるや十四代総代坂本元次郎、地区民と諮り荒沼関係諸施設の改善に付、関係当局に鋭意陳情の結果、県及び市の同意取付けに成功。同五十二年、胴の尻底樋改良工事施工。同五十三年、荒沼隔間沼線林道開通。同年十一月、荒沼入堰。翌五十四年、乗鞍井堰の両堰U字溝工事完成し、諸施設の整備万全と為る。

是等諸事業の遂行に当り特に率先尽力せられしは、県民の森造成事務所長沢内公男県議、沼沢善栄同、峯田吉郎市長、金沢忠男市林務課長、山川五朗の諸氏なり。受益者一同、之に感謝し、安政碑以降百二十幾星霜、代々荒沼の保守改良に挺身刻苦せし諸先達の事績と共に碑に刻み後世に伝承、併せて荒沼萬代の御守護を祈願し、荒沼大明神の大前に謹んで狛犬一対を献納す。

昭和五十五年五月
大字門伝 飯野幸雄撰
大字村木沢 吉田七兵衛書
大字門伝第十四代総代 坂本元次郎





献納された狛犬



安政の荒沼碑



荒沼碑

夫原荒沼之濫觴應永中有石沢與一遠藤久七者郷
里憂水之乏而祈誓於相州筥根権現蒙神勅以帰初
□此沼也大沼荒沼之二沼是也爾来数百町之民田
開發干時羽之探題最上直家□感其奇瑞称号沼
明神也而年祭不怠下民氏子帰□□久□至寛永□
保中領主世々分村邑之□納米以賜之也□四百年
間也然慶安中此沼猶憂水之不足笹原五良右衛門
獨立心力□山□水以□□□憂□領主松平総州候
見賞其功米穀繁多賜之也且貞享中之領主松平和
州候新田畑及畝歩附属之新恩亦不浅也由来□□
之村民時々雖加條造此沼経数百之星霜破□亦□
□於此安政丁巳秋七月
邦君隣之命郡宰而下賜八木百五十俵使監造小吏
修造之到午秋九月之□堰浚及樋埋築立之功就□
数年蒙
主之恩澤仁恵不可勝計也因以立碑於社□傳于
不朽□

七松山主荒沼院宥照記




~西山形の散歩道(双葉地区編) より~


荒沼碑に沼のいわれが次のように刻まれている。

…荒沼の起源を尋ねなに、今から約570年前のころ、石沢与一、遠藤久七の両名が御里の水が少なくとぼしいので、相州箱根権現にお参りして、分神を頂いてきて神社を建て、北沼を造り始めた。この北沼を大沼、荒沼二沼と言う、この沼によって数百町歩の田を開発した、時の領主最上直家(二代)が先の神社を沼明神と名付けた。この沼明神を村民、氏子が忘れることなく久しく年祭を行い信仰してきた。 寛永正保ごろ、領主たちはおよそ400年もの間収米を沼明神に献納した。

ところで慶安年中(320年前ごろ)北の沼の水が不足しているのを笹原五良右ェ門という人が一人で山を抜き水を引き干ばつから救った。これをみた領主松平総州候が、その功績をたたえて米穀を数多く贈った。又貞享中頃領主松平和州候も新田畑地を贈ってその功を讃えた。

それ以来、下流の村民が時々沼の修理をしたが、年と共に沼の破損が年々少なくなく、ところが邦君(掘田氏)がこれを見てあわれみ、安政4年7月郡奉行に命じて惨造のため米150俵を贈らせたり、又普請奉行達を派遣して修理工事に当たらせた。  安政5年(午)秋9月にセキザライ、トイウズマリや堤防の修理が終わった。  以上のことから邦君(堀田氏)の施した恩恵は計り知れないものがあり、これをたたえて社の前に立碑し、永く伝えるものである。






結城哀草果の歌碑




羽交なす尾根の
まなかに峯高く
白鷹山は大空を
飛ぶ

哀草果



結城哀草果 本名光三郎

明治二十六年十月十三日、山形市下条町一○三一番地、黒沼作右衛門(妻ナカ)五男に生る。生母の乳不足のため南村山郡本沢村大字菅沢三四六番地、結城太作(妻なみ)の里子となる。

明治四十年二月二十日、結城家の養子に入籍し、小学校高等科卒業後、農に従事す。読書により独学し、短歌に心を寄せ、大正三年、アララギ短歌会に入会し、隣村金瓶出身の歌人、斎藤茂吉に師事し、短歌道に入る。

歌業大いに進み、昭和四年六月、第一歌集「山麓」を発行し、農民歌人としての地位を占め、「すだま」「群峰」「まほら」「おきなぐさ」「樹蔭山房」「樹蔭山房以降」等の歌集を発行し、昭和十年二月、随筆集「村里生活記」の発行により一躍名随筆家として喧伝され、「續村里生活記」「小風土記」「農村歳時記」その他の名著を発行す。

昭和二十二年八月十六日、上山町村尾旅館にて天皇陛下に師斎藤茂吉と共に拝謁し、短歌につき御進講す。昭和三十五年一月、河北文化賞受賞。同四十一年十一月、紫綬褒章受賞。同四十四年十一月三日、勲四等旭日小綬章を授与され、同四十六年七月、山形市名誉市民の称号を贈らる。

同四十九年六月二十九日、自宅にて長逝。享年八十二歳。法名 峭峻院達翁道淳居士

勲三等瑞宝章を贈らる 西村直次撰

昭和五十七年十月十三日 建之







2015年9月21日月曜日

菅谷大聖不動明王 [山形県門伝]



菅谷大聖不動





菅谷 大聖 不動明王

〜現地・案内板より〜


菅谷大聖不動明王


不動明王は大威力あり、大悲徳のゆえに金剛の磐石に座し、大智徳のゆえに大火焔を現じ、大智の剣をとって貪瞋痴(とんじんち)を害し、三味の索をもって難伏の者を縛す。

不動明王は大日如来の化身という。眼病を治すご利益があると信じられてきた。


<不動真言>

なうまく さあまんだ ばあざらだん せんだ
まかろしやだそわたや うん たら たあかんまん



清らかな湧水






2015年7月2日木曜日

水方不動尊 [山形市柏倉]



かつての参道は草木に埋もれている

石柱「姥ノ神」



〜鹿間廣治『奪衣婆―山形のうば神』より〜

水方不動尊参道 山形市柏倉

 ここにお参りに来た人の何人に一人が奪衣婆のいることに気づくだろうか。百人に一人? いやいやもっと少ないに違いない。「姥ノ神」と彫った石柱があるが、それさえも目につかない。参道から大して離れていないが、杉と雑木の暗い林の斜面に座っている奪衣婆は、よほど注意して探さないと見つからない。かつては、きちんとした階段か道がついていたのだろうが、今はその跡すら無い。

 でも、奪衣婆はこれを悲しんでいるのだろうか。ひょっとしたら、かえってせいせいしているのではないだろうかとも思った。心にもない見せかけだけの人には会うだけでも煩わしく、それよりはたった一人でもいい、本当に会いたい人だけが来てくれればいい。そう思っているようにも見えた。口元には笑みさえ浮かべている。


鐘楼

「前鐘は昭和十七年、大東亜戦争に供出しましたが
各地区民の執意により
部落平和学校進学交通安全商売繁盛を祈念して奉納されました
昭和五十一年十二月十八日」


水方不動尊

〜現地・説明板「西山形の散歩道」より〜

水方不動尊

柏倉陣屋の御典医・中村文哉が文政12年(1829)、屋敷に奉っていた不動尊を現在の地に移して村人の病気平癒を願いました。その子・周七は法印の修行を積み修験となり与勝海と名乗り明治9年、水方不動尊の行屋を建てなおし、父の意志を継ぎました。水方不動尊は特に目の病に効き目があると言われています。

ご縁日 毎月18日

西山型振興会



石碑「不動尊縁起」
不動尊縁起

明治廿七年旧十月十八日

文政十二年中村文哉…
尊像ヲ得テ彼ノ處ニ安
置シ奉リ而シテ永ク天下
泰平志願成就ヲ祈…
二世安楽ノ為ノ諸…
結縁ヲ仰ギ□ヲ祈…

行者…


本堂

本堂奥の水場

線刻・不動明王


〜西山形振興会『西山形の散歩道』より〜

水方不動尊

のうまく さんまんだ ばさらだんかん

 不動尊は昔から不動明王とも呼ばれて民衆の信仰を集めてきましたが、火焔を背にして右手に剣を持ち、誓願によって素生と苦楽を共にすると言われてきました。

 文政十二年(1829)堀田藩柏倉陣屋の御典医であった中村文哉が同家に安置していた不動尊の古い木造を村民の信仰と病気平癒のためこの地(大森山北東の谷間)に遷座を発願したと伝えられています。

 文哉の息子、周七(結城家に婿養子に入る)は五十歳のとき病気にかかり、その回復のため明治三年、大井沢の湯殿山道場に出掛け祈祷を受けて自分の病気の癒されたのに深く感動して、其処で引き続き厳しい法印の道の研鑽と修行を重ね、ついに与勝海という名を頂くようになった。また、彼は大井沢滞在中、六里もある朝日登山道を開き、その道が今も顕然として残っていると言われております。

 こうして健康を取り戻し柏倉に帰った周七は、父・文哉が遷座した不動尊を奉戴し、明治九年には其処に行屋を新築して、民衆のために諸願成就や病気の平癒・安産などの祈祷の社としたのであった。近隣の村々から多くの信者や参詣の人々で賑わっていたが、明治三十八年、周七は二男・周助に法印の道を授けて湯殿山に帰るのであるが、同四十年九月二十六日、八十六歳の天寿を全うして大往生を遂げた。戒名を与勝海善行天徳という。

 水方不動尊は明治十九年、世話方ができ多くの信者からの浄財で三間四面の回廊付きの拝殿が建立され、益々信仰者の参詣を多くしたのであります。周助は大正五年に老齢の為この世を去った。その後に勘五郎という法印が着座したが、わずか二年で退座したとか。

 また大正十三年、柏倉宿の黒田清次郎は行屋の倒壊したのを嘆き、これを再建すると共に翌十四年には立派な鐘楼堂を建て、大きな梵鐘を吊って国家の安泰を願った。其の後、時代の変遷にともないながらも村人や近村の方々に支えられては来たが、何せ戦前戦中の長いこと多湿地の社屋は雨雪風に晒され、いたみは烈しく荒廃の一途を辿るわけですが、昭和四十六年になって宿部落の志田義男・斎藤正志・斎藤繁・結城和諸氏をはじめとする庚申講の方々の、ひたすらな願を込めた努力は大衆の心を動かさずにはおらず、多くの浄財のご寄付をいただき本堂と拝殿を再建することができたわけです。

 拝殿の南斜面に文哉と其の妻(周屋文哉居士、月光正円大姉)の墓が残っている。参道を少し登り始めた右側の山中に姥神も祀られている。祭日は四月十八日です。

(結城義吉『水方不動尊縁起と記録』より)




2014年11月12日水曜日

巡見使の宿 [山形・畑谷]


「巡見使の宿」跡

〜現地・説明板より〜

山辺町指定文化財 第十三号
巡見使の宿
吉田作兵衛氏邸宅

 徳川幕府は、新しい将軍になると全国に巡見使を派遣し、その政情を報告させた。そこで、各大名や幕府直轄地の天領では丁寧にもてなし、何事もなく巡見使一行が通過するように願った。上山の宿を出立した一行は長谷堂から門伝、そして畑谷と回り、畑谷では三軒に分かれて昼食を摂り、休憩するのが例であった。

 宝永七年(1710)五月、幕府巡見使一行を迎えるために山形城主堀田正虎公は、畑谷で接待に当たる作兵衛、作蔵、助右衛門の三軒の家の改修を命じ、大工・木挽二十五人、左官三人等が来て工事に当たっている。畑谷には店がないので、山形から肴屋、青物屋、菓子屋、餅屋等を派遣している。こうした努力により幕府巡見使一行を無事に通過させることができたのである。

 この吉田作兵衛家は巡見使の使用する玄関を始め、身分によって入り口が三つに分けられ、各部屋もそれに対応していた。その後は基本はそのままであり、山形城主堀田公の命による改修以前の時期を考えても、建築されて以来、約三百年を経過している。これだけの長い歴史のはっきりしている民家は東北地方では例が無いし、基礎・基本等がしっかりしているので、貴重な文化財として丁寧に永く保存したいものである。なお、その庭園も見事なものがあり、東黒森山を借景とし、小さいながらも雄大な感じを与えるものである。

山辺町教育委員会

山形の宝より
「旧吉田家住宅」

2014年11月現在、300年来の邸宅はすでに無くなっていた。




2014年10月25日土曜日

菅沢山、古墳と合戦跡 [山形・菅沢]


菅沢(すげさわ)古墳への入口
ここから狭く急な山道を登っていく(車進入可)。

〜現地・案内板より〜

菅沢(すげさわ)古墳 二号墳 入口

本古墳は、東北地方では最大級の円墳で、山形県の指定史跡です。



菅沢古墳 二号墳

〜現地・説明板より〜

県指定史跡
菅沢(すげさわ)古墳 二号墳
昭和48年6月21日指定

 山形市菅沢地内にあるこの古墳は、地形の高まりを利用して造られた二段構築の円墳です。直径は約52mで、高さが約5mあります。そして、下段の周囲には幅8m前後の周湟(しゅうこう、溝)が回っています。

 また、これまでの調査から、円筒埴輪や家・盾・靱(ゆぎ、矢を携行する容器)・甲冑形などの形象埴輪を持つ古墳であることが判っています。円墳としては、規模や内容ともに県下に例を見ないものであり、東北地方においても有数のものです。

 被葬者については明らかではありませんが、古墳の規模や内容から考えると、相当の権力者が埋葬されたものと推察されます。なお、築造年代については、出土した埴輪から、五世紀後半頃と考えられています。

平成四年三月
山形県教育委員会
山形市教育委員会



自然地形を利用したという円墳
直径52m、高さ5mという巨大さ



円墳のてっぺんからの景観
山形市街が一望される。





菅沢古墳からすぐの場所に「直江山城守本陣跡」がある。


直江兼続が本陣を敷いた跡
現在は史跡看板がそれを示すのみ。

〜現地・説明板より〜

直江山城守 本陣跡

 慶長五年(1600)の秋九月、上杉景勝の命をうけた米沢城主・直江山城守兼続は、二万といわれる大軍で山形城へ攻め寄せた。その主力は直江が指揮する精鋭部隊で、旧九月十三日、畑谷城を陥し、勢いに乗った直江軍の物見役は、早くも菅沢山に入っていた。

 時は十三夜、おどろいた村の衆は餅を喰わず逃げたので、「十三夜の餅は早く喰え」と、いまでも伝えられている。

 翌十四日には、総大将山城守が到着して、本陣を構えて半月。長谷堂城主・志村伊豆守勢と史上に残る激しい戦いを繰り返したが、頑強な長谷堂城と勇敢な長谷堂勢の抵抗で城を陥すことが出来ず、ついに関ヶ原の西軍敗報を受けて、十月一日、深い朝霧の中を全軍引き上げた。

平成八年七月
本沢振興協議会
本沢郷土研究会


本陣跡からは、対峙した山形勢の「長谷堂城跡」が望める。
画像右手にみえる黒い小山が、城跡の残る城山である。

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

出羽合戦の古戦場
十三夜の餅を搗いたが…

 その時わが地区の民家では、名月十三夜の餅を搗いたが、それを食うどころではなく命からがら逃げ出した、と。押し寄せた敵に、臼の餅は全部くわれたと云う。

 時は慶長五年(1600)九月の出来事であった。二万の大軍にものを云わせた上杉勢は、畑谷の城をひと朝にして陥れ、なお長谷堂城への攻撃をなさんと菅沢山に布陣する途中の出来事だった。

 だがしかし、天下分け目と云われた関ヶ原の戦いはすでに九月十五日に徳川方が圧勝に帰していたのに、その報が二百里(約800km)も離れていた昔の情報は、ただちに出羽に届くはずはなかった。その間、多少の小争があったことも事実だが、双方の睨み合いが数日つづき、二十九日に至っても長谷堂城への攻撃をからめた上杉勢、新影流の剣豪・上泉主水が戦死したのもこの日だった。そしてその日に至って、ようやく関ヶ原の戦いの勝負の報せが届いたのであった。

 上杉の兵を率いた直江兼続は戦いの無意味を察知、いち早く撤退を命じて、攻め来た道を引き返すのであるが、徳川側に身をおいて勝報を知った最上軍は、時を得たりとばかり追い討ちをかけて戦いを挑んだ。畑谷まで引き上げていた上杉の主流軍は、逃れて交戦している兵どもを救おうと再び富神山の麓や七ツ松周辺に下り、この地では壮絶なまでの激戦になったと云われております。ことに双方の犠牲者は二千とも二千五百とも云われ、出羽合戦のすさまじさを推察しながら、仏の供養に合掌してゆきたいと思います。



史跡看板の裏
長谷堂合戦 古戦場図




2014年10月24日金曜日

大ノ越古墳 [西山形]


大ノ越古墳

〜現地・説明板より〜

山形市指定史跡
大ノ越(だいのこし)古墳
昭和53年7月26日指定

 山形市大字門伝地内にあるこの古墳は、昭和53年3月、圃場整備の工事中に偶然ブルドーザーに掘り起こされ、発見されました。発見時に調査が実施された結果、直径約15mの円墳で、内部に二基の箱式石棺があることがわかりました。

 石棺からは環頭大刀(かんとうのたち)、直刀などの武器や、工具・馬具・土器など様々な物が出土し、副葬品の多様さ、豊かさは県内にある古墳の中でも有数のものです。これら副葬品の内容などから、この古墳は五世紀後半に築造され、畿内政権と交流していた山形盆地一帯を支配するような有力者が埋葬されたものと考えられています。

 なお、出土品は山形県の文化財に指定され、山形県立博物館に保管・展示されています。

平成六年三月
山形市教育委員会


径16mの円墳(再現)

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

大之越古墳の出土遺物

 大之越古墳は二つの石棺を有し、その副葬品は山形の古墳では例がないほどに多様で数も多い。遊環(馬具)、刀子(鹿角製柄の痕跡あり)、冑残欠(しころの部分か)、鉄斧、鉄鏃(長さ10cmほどで刃の部分は4cmほどある)、鉄鉗(てっかん)…。鉄鉗は金属を挟むプライヤーのような道具で、鉄を折り曲げる、赤く熱した鉄を挟んで持つなどの用途がある。

 日本で鉄が作られたのは6世紀のことだとされている。5世紀に建造された大之越古墳から出土した鉄製品は、大陸からの輸入品だったのだろうか。西山形の古代は、探るほどに謎が深まる。



環頭大刀(かんとうのたち)

〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

発掘史上、日本で最も古い
大之越古墳の単鳳環頭大刀

 村山盆地の南西端にあるトンガリ山、富神山のふもとで1978年、道路工事中に古墳が発見され、大之越古墳と名付けられた。古墳はすでに見当たらず、遺跡をめぐる溝により、径16mの円墳と推定された。5世紀末ころの築造で、今は整備され史跡公園となっている。

 石棺は二つあり、環頭大刀、直刀、鉄剣、鍛冶具のはさみや馬具が副葬されていた。中でも、権威の象徴ともいえる単鳳環頭大刀は鉄製金装で、長さ948mmある(刀部731mm、茎部219mm)。柄頭(つかがしら)の内環には鳳凰の意匠があり、X写真でタガネ彫りによる銀象嵌(ぎんぞうがん)の様子がわかる(刃の部分には銘のないことが確認された)。鉄地に金箔を押した一級品である。この大刀がどのような人物に所有されていたのか、今もその謎は解けていない。

 発掘例の単鳳環頭では日本最古式である。出土品は山形県指定文化財となり、山形県博物館に展示されている。環頭太刀は中国が起源とされ、朝鮮半島を経て日本に導入された。(「学芸員の宝物」朝日新聞2004年2月21日、山形県立博物館・学芸専門員、安部実)。


古墳上部に設けられた穴



〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

大之越(だいのこし)古墳とは何か
1,500年前、郷土を支配した王とは?

 大之越古墳の発掘によって、私達の祖先を身近に感じられるようになったのも、地元の人として偽りのない心情と思われます。考古学の権威・小林行雄さんが書かれた『古墳の話(岩波新書・昭和39年)』の中に、こんな事が触れられていました。

…私どもが、各地の古墳の研究に出かけた時に、土地の人からかならずたずねられることが二つある。それは、「この古墳はいつ頃のものか」ということと「だれの墓か」ということである。いつ頃かについては、古墳の規模・副葬品から推定して答えは出せるが、だれの墓かについては、「わかりませんね。多分、この地の有力者だったはずですが」と答えると、はっきりと失望の色が顔に表れます。土地の人の最も聞きたい事だったからでしょう。

 大之越古墳も例外ではなく、築造されたのは五世紀の後半で、被葬者は山形盆地を支配した首長と推定されると、発掘にあたった県の教育委員会が調査結果を出しております。1,500年前に、我々の祖先としてこの郷土を支配したのは誰だったのか…。

 たまたまそのような話の時に、「越族(こしぞく)」との関係があるのではないかと話が出ましたが、恐らく「大之越(だいのこし)」という地名から推測されてのことと思われるのです。大之越古墳の疑問を解く一つの足掛かりになるとして、越族についての資料を探し求めることにしました。





〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

大之越古墳と越族(こしぞく)は、どんな関係にあるのか?

 幸い手元にある「山形県の歴史散歩道」の中に、小国町・大滝地区にある「古四王(または越王)神社」のことが載っているので、引用してみます。

…越族は、今の中国旧満州から渡来し、日本民族と融和混血し、長期間にわたって難儀した。そこで、母国をしのんで種族の祖先を祀ったのが神社の縁起とされ、日本海側の新潟、山形、秋田県に多く分布されている。その中で荒川渓谷沿いに小国に入り、大滝の地に越王神社を残し、宇津峠を越えて置賜盆地に入り、長井、西根、高玉、鮎貝にもそれぞれ越王神社を残した。ここから更に長谷堂を通って山形方面に達し、他は更に最上川を下って北上する進路が考えられる…。

 とすると、この資料を見る限り、越族が山形盆地に入ったことは確かなことであり、大之越古墳の被葬者も越族と関係がないとはっきり言い切れるものでもないと思われます。大之越古墳の被葬者は、大いなる越の人という民族としての誇りのなかで眠り続ける我々の祖先なのかも知れない。


参考:
大之越古墳は昭和53年4〜5月にかけて発掘調査が行われた。「畿内の政権はもとより、古代東アジアの動きや文化とも何らかの関係があった」(「大之越古墳の調査概要」山形県教育長文化課・昭和53年5月)と調査の概要が報告されている。



トンガリ山、富神山を背景に

古墳の隣りには、豊かな果樹園が広がる。




〜司馬遼太郎「街道をゆく 10 佐渡のみち」より〜




 ある時期までの日本人は、黄金が通貨であるという世界経済の歴史からみれば、まことに”うぶ”である期間が長かった。

 むろん、黄金が貴金属であることは、上代から知っていたらしい。上代、新羅において黄金がよく採れた。新羅貴族の装身具に黄金がふんだんに用いられたことは、文献によっても知ることができるし、げんにそれらの出土品をこんにち見ることができる。そういう新羅国についての上代倭人(わじん)の印象は、まさに黄金の国ということであった。

 欽明天皇十三(552)年に、百済の聖明王が仏像などをもたらしきたったとき、日本の宮廷のおどろきは、「西蕃(にしのとなりのくに)の献(たてまつ)れる仏の相貌(かほ)、端厳(きらきら)し。(『日本書紀』)」ということばで尽くされている。きらきらしという驚きには、彫像がすぐれているという芸術的衝撃のほかに、鍍金(めっき)がかがやくようであったということも、当然ふくまれている。

 その時期までの日本の彫刻はなお太古の古拙をひきずっていて、人間の像をあるがように造形したものを見ることがなかった。さらには黄金の存在は古墳の埋葬品からみて十分知っていたことはまちがいないが、仏像ことごとくが黄金のかたまり(鍍金とはいえ)であるということは、衝撃以上のものであったにちがいない。たしかに、古墳から金製や鍍金製の耳飾りなどがよく出土する。しかしそれらの黄金が国内の河川などで採取されたものであるのか、それとも朝鮮渡来のものか、よくわからないのである。

 その後、仏像が国家規模でつくられるようになってから、金がふんだんに必要になった。金の多くは、朝鮮半島からの輸入品だったであろう。八世紀ごろ、新羅との貿易は、先方から貢(みつぎもの)をもたらし、日本からみやげを渡すという朝貢貿易のかたちをとっていた。当方はいつも絹のたぐいをわたすわけだが、新羅の貢物の品目には必ずといっていいほどに、金や銀がある。仏像の盛んな日本にとってそれが必要だったからであろう。

 おなじ八世紀の半ば近く、聖武天皇が大仏を鋳造するということになって、日本にもさがせば金というものがあるだろうということで、さがさせた。探鉱のしごとをしたのは、多くは朝鮮からの渡来人であった。やがて奥州で百済王敬福(きょうふく)が見つけて都にもたらしてきたとき、聖武天皇がわざわざ大仏の宝前でそれを告げた。その文章に「この大倭国は、天地開闢よりこのかた、黄金は人国より献ることはあれども、この地にはなきものと念(おも)へるに」ということばがある。推して、上代のこの国が、黄金には縁が薄かったことがわかるであろう。






2014年10月5日日曜日

つぶて石 [山形・西山形]


つぶて石


〜現地・案内板より〜

つぶて石

 今は昔、仙台市の近くに力持ちの大男がいました。その男が山寺に向って大きな石を投げると、空高く飛んだ石は山寺を越えて、西に高くそびえる山の中腹に落ちました。その石がここに残る「つぶて石」なのです。

 古代、「つぶて」は戦争の道具でした。この話の力持ちは源氏再興に寄与した朝比奈三郎だと言われています。

西山形振興会



仙台から飛んで来たのだとか


〜現地・説明板より〜

礫(つぶて)石 由来

 昔むかしのこと、仙台市の近くの村に朝比奈三郎という豪傑が住んでいました。体太く、手足は大きくたくましく、すごい力持ち。

 特に三郎の引く弓は強く、村人十数人が力を合わせてようやく引くことができるほどのものでした。三郎が射た矢は草木をなぎたおし、岩をくだき、山の形を変えてしまうほどでした。その跡が宮城県の七ツ森なのです。黒川郡の富合町から大和町にかけての山々なのです。富士山を小さくしたような美しい山が「薬来山」、高さは553mで「加美富士」と呼ばれる。松の木の多い山が「松倉山」、とがった山が「遂倉山」、次に「大倉山」「蜂倉山」「鎌倉山」「撫倉山」と並んでいます。

 ある日、三郎は自分の力を試すことにしました。大きな石をどこまで飛ばせるかと…。目標を山形県の山寺に決めました。なにしろ奥羽山脈のむこう山寺まで大石をとばすというのですから、たくさんの村人が見学がてら応援にいきました。三郎は大張りきりです。大石を肩に深く息をすいこみ、目を見開き「エイ・ヤアー」掛声勇ましく飛ばしたのです。

 石は空高くまい上り、ぐんぐんのびて、山寺どころか山形の町を越え、その西にひときわ高くそびえる白鷹山の中腹に「ドッシーン」、大きな音をたてて落ちました。山は大きく揺れ動き、大木はざわざわと風をおこし地震のようでした。恐ろしさに動物たちも大さわぎ。にわとりは卵を生むことを忘れ、山羊や牛はおちちを出すことを忘れ、ねこや犬はたださわぐだけでした。

 村人たちは、石の落ちたところを礫石というようになりました。

山形市少年自然の家
運営委員会 後藤留吉



朝比奈三郎の伝説が残る。


〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

つぶて石伝説

大岩を投げ飛ばした朝比奈三郎義秀


 西山形には少年自然の家の近くに礫石(つぶていし)というところがあります。ここに伝説の「つぶて石」があります。優しくて話好きの高野好さんは、高野家に代々伝わる西山形の「つぶて石」の話を子供たちに語り伝えて来ました。さて、その物語は…


 むかし、あったけど。今の仙台市の近くの村に朝比奈三郎義秀という体の大きな、若くてたくましくて力持ちの男がいたんだと。力自慢の三郎が大石を肩さ持ち上げて声勇ましく山寺に向って石を投げたんだと。大石を肩さ担いで深く息を吸い込み、目を見開き、エイ、ヤアーと掛け声勇ましく飛ばしたと。

 ぐんぐん飛んで、山寺へ落ちるどころか山形の町を越え、西にひときわ高くそぴえ立つ白鷹山の中腹さ、ドッシーンと大きな音を立てて落ちたど。山は大きく揺れ動いて、まるで地震のよう。木々はザワザワと揺れて風をおこし、大騒ぎしたと。鶏は卵を生むのを忘れ、山羊と牛は乳を出すのを忘れ、猫と犬は騒ぎまわったど。

 騒ぎが収まったところで山の中腹を見ると、大きな石が突き刺さって、その石には三郎の手形が残っていたど。それで大石の落ちたところが礫石(つぶていし)と呼ばれるようになったんだと。今度、礫石さ行ったら見てけらっしゃい。

 どっぴん


 西山形の礫石には今も、朝比奈三郎義秀の投げた巨石の塊があり、大事に祀られています。その空を飛んで来たという大岩というのは、蔵王連峰の火山が爆発して飛んで来たのだろうとも言われています。

 朝比奈三郎義秀の力自慢の話は西山形ならではの興味深い話です。と言うのも、この怪力の主は、実は鎌倉幕府を開いた源頼朝と縁の深い武将、鎌倉幕府初代侍所別当・和田義盛の子なのです。西山形は平安時代末期から鎌倉時代にかけて頼朝の側近・藤九郎盛長が治めた大曽根庄にあり、鎌倉と深くかかわるからです。

 朝比奈三郎義秀には海に潜るのが上手だったという話が伝わっています。それと共に、彼の怪力ぶりは後世に語り伝えられ、江戸の浮世絵にも多く描かれました。朝比奈三郎は寺山伝説の藤九郎盛長とも関係する武将ですから、西山形に伝わる「つぶて石伝説」はきっと、この土地の歩んだ歴史と関係があるのでしょう。ここでも西山形は中世日本の歴史と深くかかわるのです。



すぐ横の稲荷神社



「つぶて石」の緯度経度
38°14'04.6"N 140°12'55.6"E
38.234599, 140.215444




2014年10月4日土曜日

上丁の観音堂 [山形・柏倉]


上丁の観音堂

〜現地・案内板より〜

上丁の観音堂

 嘉永年間(1850年頃)柏倉八幡神社の行善院から当地に遷座したと伝えられ、住民に信仰されています。御本尊は約6cmの木造で、幟旗には十一面観世音菩薩と書いてあります。





〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

上丁の観音堂

 昔、ある朝早く、お堂の中でコトコトと音がするので、「中に何かいるぞ」と近所の人々が警戒しながら見守っておりましたら、ギーッとお堂の扉が開いて、中から見たこともない旅人が出てきました。

 近所の人々がお堂の前で驚いていましたが、旅人は「これはどうも失礼しました。昨夜は遅くなって体も疲れて、この観音様に手を合わせてお詣りしておりました処、『旅人よ、泊まる家もないだろうから、此処に泊まって朝早く出立するがよい』と観音様が言ってくれたので、おぼしめしに甘えて、ついゆっくりさせて貰いました。お陰さまですっかり疲れが取れました。本当にお慈悲の深い観音様に頭が下がります。皆様ありがとうございました」とお礼を言って、また旅に立ちました。

 江戸時代後期の嘉永年間(1850年頃)柏倉八幡神社前にあった行善院から上丁の足立林栄さんの処の三叉路付近の一角に遷座されたと聞きますが、その後、現在地の木川氏宅近くに再び遷座し、住民の信仰を集めております。

 御本尊は木像、約6cm程、幟旗には十一面観音大菩薩と書かれております。終戦後間もなくのこと、以前の幟旗が盗難に遭い、昭和二十六年、足立佐逸先生の執筆で復元しております。


観音様の御詠歌

ありがたや 大師のちからで 身を救う
みちびき給う 弥陀の浄土へ



また、椹沢にお住まいの小林松茂さんは、夫婦延命観音菩薩三十三番霊場と銘して巡礼しておられ、この上丁の観音様はその中の十四番目で

さやさやと やま辺によりぬ 古み堂
からすのこえや やさしかんのん

と詠まれております。



観音堂前からのぞむ富神山



「上丁の観音堂」の緯度経度
38°13'50.8"N 140°15'14.5"E
38.230788, 140.254026




義家橋と貞任橋 [山形・柏倉]



「義家橋」
柏倉八幡神社境内


〜現地・案内板より〜

義家橋

 この石は、東から神社に登る道の川に架かっていた橋石です。昔、安倍貞任(あべのさだとう)を平定に、八幡太郎義家が馬にのってきた。その時の馬足跡が付いているので「義家橋」と言います。右に、その訳を記した縁起石標があります。

西山形振興会


〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

石橋のいわれ

 柏倉八幡神社の拝殿前に「義家橋」という大きい、いわゆる富神山石が建っている。その縁起を刻した石碑がそばにある。昭和三年、村の在郷軍人分会第二班の建立で、土屋東太郎の書、文は西村久次郎、石工和田吉照で、大意は次の如くである。

「この石は昔から義家橋と云われ、大門坂の北百余歩先のT字形の川に架かっていた石橋(奥山忠道さんの前あたり)である。康平年間(1058〜1065)、安倍貞任の反乱(前九年の役)を平定に来た源八幡太郎義家が、馬に乗ってこの橋の上から敵状を見た。その時の馬の足跡がこの石に付いているから義家橋と云う。また南には貞任橋もある。昭和二年秋、橋の架換えがなされ長く埋まっていたこの石をここ神社に移して由来を記す」

 このような石は、実は全国的にあり、民俗学的には「馬蹄石(ばていいし)」と云われ、大体その地に由緒深い英雄と結び付いている。注意すべきは「馬の足跡」と云っていることで、馬は古来神様の乗物とされ、殊に八幡神は馬に乗ったお姿で描かれてきた(これに対して、春日神は鹿、稲荷神は狐などという例がある)。だから、このような石は特別神聖なもので、特に八幡様への登山口辺りに在ったという深い意味があって、後に源義家と結び付いたものであろう。





貞任橋

〜現地・説明板より〜

貞任(さだとう)橋

 この三叉路の堰に架かっていた橋石で、むかし八幡太郎義家に追われた安倍貞任(あべのさだとう)が渡ったので「貞任橋」と言います。だから、この辺一帯を今でも「さだ」と言うのだと伝えています。八幡神社の東登道の「義家橋」と一対の伝承です。





〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜

貞任橋

 柏倉八幡神社から南へ下ると中林(なかばやし)への道と三叉路になる。そこに西村力三さんの屋敷にあった風車(戦後ワラ打にも利用された)への水口辺りの堰に架かっていた石橋を「貞任橋」と云い、義家橋と一対の約1.5mの直径の巨石である。これも近年の道路改修の際、西村さんの屋敷の元の位置近くに保存され、この辺一帯を「さだ」という由来のしるしとして大切にされている。

 さて、この「さだ」と云う地名であるが、大槻『大言海』に狭田・長田・真田のいづれもが「さだ」とある。また、『日本書紀』には「あめのさだ」が高天原の神田を指している。案ずるに地形からも稲作りの原初となり得た古い地名ではなかろうか。

 八幡様と義家、貞任と絶妙の伝承であるが、この「さだ」道も古い八幡様への道筋で、また、古来三叉路は特別の場所と信じられ、道祖神、賽神(さいのかみ)、後に馬頭観音や地蔵様などをまつることと深い関係があると思われる。









「義家橋」の緯度経度
38°14'03.8"N 140°15'54.2"E
38.234379, 140.265063

「貞任橋」の緯度経度
38°13'54.7"N 140°15'55.0"E
38.231859, 140.265283