菅沢(すげさわ)古墳への入口 ここから狭く急な山道を登っていく(車進入可)。 |
〜現地・案内板より〜
菅沢(すげさわ)古墳 二号墳 入口
本古墳は、東北地方では最大級の円墳で、山形県の指定史跡です。
菅沢古墳 二号墳 |
〜現地・説明板より〜
県指定史跡
菅沢(すげさわ)古墳 二号墳
昭和48年6月21日指定
山形市菅沢地内にあるこの古墳は、地形の高まりを利用して造られた二段構築の円墳です。直径は約52mで、高さが約5mあります。そして、下段の周囲には幅8m前後の周湟(しゅうこう、溝)が回っています。
また、これまでの調査から、円筒埴輪や家・盾・靱(ゆぎ、矢を携行する容器)・甲冑形などの形象埴輪を持つ古墳であることが判っています。円墳としては、規模や内容ともに県下に例を見ないものであり、東北地方においても有数のものです。
被葬者については明らかではありませんが、古墳の規模や内容から考えると、相当の権力者が埋葬されたものと推察されます。なお、築造年代については、出土した埴輪から、五世紀後半頃と考えられています。
平成四年三月
山形県教育委員会
山形市教育委員会
自然地形を利用したという円墳 直径52m、高さ5mという巨大さ |
円墳のてっぺんからの景観 山形市街が一望される。 |
菅沢古墳からすぐの場所に「直江山城守本陣跡」がある。
直江兼続が本陣を敷いた跡 現在は史跡看板がそれを示すのみ。 |
〜現地・説明板より〜
直江山城守 本陣跡
慶長五年(1600)の秋九月、上杉景勝の命をうけた米沢城主・直江山城守兼続は、二万といわれる大軍で山形城へ攻め寄せた。その主力は直江が指揮する精鋭部隊で、旧九月十三日、畑谷城を陥し、勢いに乗った直江軍の物見役は、早くも菅沢山に入っていた。
時は十三夜、おどろいた村の衆は餅を喰わず逃げたので、「十三夜の餅は早く喰え」と、いまでも伝えられている。
翌十四日には、総大将山城守が到着して、本陣を構えて半月。長谷堂城主・志村伊豆守勢と史上に残る激しい戦いを繰り返したが、頑強な長谷堂城と勇敢な長谷堂勢の抵抗で城を陥すことが出来ず、ついに関ヶ原の西軍敗報を受けて、十月一日、深い朝霧の中を全軍引き上げた。
平成八年七月
本沢振興協議会
本沢郷土研究会
本陣跡からは、対峙した山形勢の「長谷堂城跡」が望める。 画像右手にみえる黒い小山が、城跡の残る城山である。 |
〜西山形振興会「西山形の散歩道」より〜
出羽合戦の古戦場
十三夜の餅を搗いたが…
その時わが地区の民家では、名月十三夜の餅を搗いたが、それを食うどころではなく命からがら逃げ出した、と。押し寄せた敵に、臼の餅は全部くわれたと云う。
時は慶長五年(1600)九月の出来事であった。二万の大軍にものを云わせた上杉勢は、畑谷の城をひと朝にして陥れ、なお長谷堂城への攻撃をなさんと菅沢山に布陣する途中の出来事だった。
だがしかし、天下分け目と云われた関ヶ原の戦いはすでに九月十五日に徳川方が圧勝に帰していたのに、その報が二百里(約800km)も離れていた昔の情報は、ただちに出羽に届くはずはなかった。その間、多少の小争があったことも事実だが、双方の睨み合いが数日つづき、二十九日に至っても長谷堂城への攻撃をからめた上杉勢、新影流の剣豪・上泉主水が戦死したのもこの日だった。そしてその日に至って、ようやく関ヶ原の戦いの勝負の報せが届いたのであった。
上杉の兵を率いた直江兼続は戦いの無意味を察知、いち早く撤退を命じて、攻め来た道を引き返すのであるが、徳川側に身をおいて勝報を知った最上軍は、時を得たりとばかり追い討ちをかけて戦いを挑んだ。畑谷まで引き上げていた上杉の主流軍は、逃れて交戦している兵どもを救おうと再び富神山の麓や七ツ松周辺に下り、この地では壮絶なまでの激戦になったと云われております。ことに双方の犠牲者は二千とも二千五百とも云われ、出羽合戦のすさまじさを推察しながら、仏の供養に合掌してゆきたいと思います。
史跡看板の裏 長谷堂合戦 古戦場図 |
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