2014年9月10日水曜日

成沢の石鳥居 [山形]


成沢の石鳥居

〜現地・案内板より〜


国指定重要文化財
八幡神社の石鳥居
昭和27年11月22日指定


凝灰岩製、総高436cm、柱は直径95.5cmの直立円柱で、その上に一石よりなる、島木と笠木をのせている。和様建築のこの石鳥居は平安時代末期の造立と推定されている。

その頃に、この東方の龍山に興隆した仏教文化の遺物と考えられ、同様の石鳥居が、元木地区にものこっており、共に重要文化財に指定されている。

この石材については、龍山の空清水(うつぼしみず)から、天仁二年(1109年)に採石したという古文書が、この地区にのこっている。

本県のみならず、わが国でも最古に属する、貴重な石鳥居である。
平成18年4月
山形市教育委員会





〜安彦好重『山形の石碑石仏』より〜


成沢八幡神社の石鳥居

成沢盾の南麓の成沢八幡神社の参道入口に、雄大な石鳥居が立っている。地表総高4.37m、柱はやや角張った円柱で、直径99.4cm、円い礎石に差し込んで直立してる。

笠木と島木は一石で彫成し、笠木は薄く直線をなし、島木は厚く下面の両端は舟肘木状に上に反っている。笠木の長さは約5m、貫は円柱を貫き直線的に両端が外に出ていて、後補のものと思われる。島木と貫との間隔は狭く、撥状の束が入っている。これも後補であろう。

この鳥居の造立年代について川崎浩良著『出羽文化史料』には「同部落の羽黒派修験三蔵院に残る文書に、この鳥居は天仁二己丑年(1109)造立で、造石材は竜山空清水(ウツボスズ)から採掘したとあり、同所には長さ7m程の余材が今の残されている」と述べ、その手法から天仁と合致すると結論されている。

この鳥居も竜山参道に立てたものと思われ、元木の鳥居と同様で、角張った円柱、一石からなる笠木と島木の形状、高さに比して横幅が広いなど同時代の造立と推定されている。元木の鳥居とともに「最上三鳥居の一」と称され、国重要文化財に指定されている。



道路わきの案内

〜清野春樹『瀧山と恥川の秘密』より〜


成沢八幡神社には大きな石鳥居があり、これは八幡神社の正面にあるようにされているが、かつての瀧山の参道(成沢、空清水、塔前、日なくぼ、神尾を経る裏別口参道)が側にあり、参道に沿って建てられたものであったろう。かつては盛んだった瀧山信仰の象徴となっていた。

この成沢の石鳥居のある場所から、瀧山の方向へ向かって1.5kmほど上ると、空清水(うつぼすず)の採石場へ出る。ここは蔵王上野へと至る道路と交錯する場所で、周囲は果樹畑となっているが、やや傾斜のある坂となっている。

現在も、掘り出された大きな石材がそのまま横たわっている。途中で折れて放置されてしまったのだろうか。茨木光裕氏の「中世山寺の一例」『草ぶえの考古学』によると、この石材は幅1m、高さ1.5m、長さ約15mとなっている。また「一帯には多くの石材片が散布し、板碑や石鳥居の採石・加工の場であったと考えられる」と記されている。


空清水に転がる石材

〜成沢城跡・説明板より〜

空清水(うつぼすず)の石材採石場
市指定文化財

かつての石造物の採石場と伝えられ、重要文化財の八幡神社鳥居もここから採取したといわれています。


〜東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センターより〜

空清水遺跡は蔵王成沢にある重要文化財「八幡神社の石鳥居」の採石地と伝承される場所で、岩盤から切り離す直前の柱が残っています。






〜東北芸術工科大学 文化財保存修復研究センター『日本最古の石鳥居群は語る』より〜

成沢八幡神社の石鳥居

所在:山形市蔵王成沢
様式:明神系古式春日鳥居
年代:平安後期
材質:頁岩質凝灰岩
寸法:露呈礎石を含む総高4.63m、礎石を除く高さ3.8m、柱間隔2.45m、柱径最大0.99m
指定:国指定重要文化財
位置:38°12’8.57”N 140°19’13.48”E



 山形市から南の上山市へ下る境界の近くに蔵王成沢地区がある。この地区の舘山の南斜面に八幡神社が鎮座し、その門として立つのが成沢八幡神社の石鳥居である。しかし、現在の地に八幡神社が鎮座するようになったのは14世紀頃とされる(『大正元年改八幡神社臺帳』)。それ以前は瀧山信仰における裏参道の山門として立ち、表参道の元木の石鳥居とともに現存する日本最古の石鳥居の代表格を担っている。

 重量感あふれる鳥居のかたちは曲線的な要素がほとんどなく、古式春日鳥居に類似するとも言われる。地元に産する軟らかい凝灰岩を材料としているため、肉厚の形状に仕上がったのだろうか。貫と島木の長さを同じくしている上、笠の反りが無く柱の転びもない。これは明神系の古式春日鳥居に最も近い様式を示す。ただし、島木の水切が傾斜角をもち、端の底辺も幾分上向へ持ち上がっている。また、笠と島木の厚みに比して額束が小さく、貫と島木の間取りが狭い。こういった要素は元木の石鳥居との相違点と言えよう。しかし、全体的な構造や用材の産地、さらには瀧山に帰属する点などにおいて、両者の共通関係を疑うことはできない。



 この鳥居の最大なる価値は、制作年代と関わる古文書の記述が見られる点である。制作年代を記す古文献は、地元の羽黒波修験三蔵院の文書と、奥山家家伝記がある。前者は大正時代の書き写し本として伝わり、後者の家伝記を参考にしている様子が見受けられる。これに対して『寛永九年家伝記』は、石鳥居の年代を記す最古の文献記録であり、そのなかに「天仁二巳丑年造立」という記述が見られる。この文献記録と時代様式を合わせることにより、銘文を持たない石鳥居の制作年代が割り出される。

 天仁二年(1109)は平安時代後期を示す。昭和27年11月、国指定重要文化財として認定された背景には、こういった文献的な裏付けが幾分影響を及ぼしていたのだろうか。その真意はともかく、この文化財指定は、当時日本における石造美術の最高権威である川勝政太郎氏によるものである。同氏は認定にあたって制作年代の考証が重要であったこと、さらにその価値は国宝級に劣らないとの認識を表わしていたという。



 一方、村山地域に残る古式鳥居群の多くは、時代変遷にともなって本来的な信仰形態を失っている。元木の石鳥居においても同じ現象を見ることができるが、これに対して成沢八幡神社の石鳥居は注連縄が地域住民によって掛けられ、篤い信仰心が時代を超えて継承されている。文化遺産の本質は人々とともに時代を生きるところに意義がある。こういった面で成沢の石鳥居は文化遺産のあるべき姿を提示していると言えよう。

 この背景には地域を束ねる神社信仰の伝承がある。現在の地に成沢の八幡神社が遷座したのは14世紀頃とされ、舘山に成沢城が築造されることを期に降りたとする。この八幡神社が成沢城から南麓にあらたに鎮座する際に、石鳥居は解体され、神社の門として現在地に移動されたと伝わる。本来は瀧山信仰に帰属していた石鳥居だが、八幡神社の鳥居として改変されることになり、東西方向に立っていた向きは、神社の向きに合わせて南北方向に変えられた。露出した礎石はこの改変を表し、元木の石鳥居より総高が約1mも高いのはこのためである。

 石鳥居の改変の前に立った場所はどこなのか。そして改変の程度はどれくらいだったのか。これらに関する文献記録は残っておらず、その詳細も闇の中に眠っている。ただ、現在も瀧山に登る参道がこの石鳥居の前を通っていることから、現在地からそれほど位置移動はなかったものと考えられる。裏参道的な成沢街道沿いには、六面憧や石塔など多くの石造文化財が分布しており、かつて瀧山にまつわる山岳信仰の痕跡を今に伝えている。






山形の石鳥居:

元木の石鳥居 [山形]

三百坊の石鳥居 [山形・龍山]

父母報恩寺 [山形・村山市]

清池(しょうげ)の石鳥居 [山形・天童]

谷地中(やちなか)の石鳥居 [山形・天童市]







2014年9月9日火曜日

蔵王山、中興の祖「覚山」


〜東沢郷土研究会『苅田嶺神社(蔵王神社)縁起』より〜



白雉二年(651)

宝沢に井上太郎大夫、居住す。

孝徳天皇の白雉二年の頃、宝沢の里に井上太郎大夫という人が、住んでおって、夏は田畑を耕し、冬は狩りをやって生活しておった。今の三乗院の先祖である。



持統帝七年(693)十月十八日

乙鶴(おとづる)、生る。

宝沢の里の井上太郎大夫は、家が富み栄えたが、年老いて子供がなかった。それで天に祈ったところ、ある夜、妻が「一僧来り胎中に入る」夢をみて妊娠し、朱鳥八年十月十八日亥の刻、男の子を生んだ。両親は、乙鶴(おとづる)と名付け大変可愛がった。乙鶴は、生まれながらに智と徳がそなわっており、容姿端正、天性明敏で、八歳の頃から法華経を誦読し続け、学問と修行を怠らなかった。



和銅五年(712)三月

覚山(乙鶴)吉野の金峯山(きんぷせん)に登る。

元明天皇和銅五年春三月、乙鶴は家を出て山伏となり、覚山と名を改め、諸国の名山や霊地に修行した。まづ羽黒権現に詣で、あるいは富士山の頂上に登った。ある時は大和の国、奈良の都に行き帝城を拝し、摂州箕輪山に入った。また熊野三山、葛城にも入峰した。

おわりに吉野の金峯山に行って蔵王権現を拝して、御堂の辺(ほとり)に草庵を建ててしばらく此の山に止った。ある夜、夢に権現が現れて覚山に言った。「お前の生まれた奥州に、むかし役の小角が羽黒山に登ったとき、蔵王権現を勧請した霊山がある。早く本国に帰って此の山を再び開きなさい…」と。



和銅五年(712)十月八日

覚山行者、蔵王山を再び開山す。

覚山は急いで大和の国から故郷に帰って、霊跡を尋ねたが知っている人はいなかった。ところが、最上の辰巳の方の高山に毎夜、竜燈が輝いた。覚山は之をみて十月八日、弟子道山と共にこの山に登った。

麓から三〜四里を過ぎた頃に、高さ四〜五丈の滝があった。覚山行者が慈救(じきゅう)の呪を誦えると、たちまち不動明王が現れた。明王が行者に云った。「よく来てくれた。お前がこの山を開くための努力は、仏にも通ずるであろう。そもそも金剛蔵王権現は、本地は釈迦如来であって、一山皆黄金土であるから金峯山浄土というのである。参詣の行者はよく精進・勤行にはげむがよい。我は後の世までこの山の修行する人々を守るであろう」と言い終わると滝穴に隠れた。覚山は歓喜の涙で袖をぬらしながら、なお頂上へ登った。

険しい峯を登ると山頂は平らかであるが、路はなお険しかった。また、左側に二人の老翁が手に弓矢をもって現れた。覚山は、あなた達はどなたですかと問うたところ、「我々は、白山妙理権現、熊野三所権現である。開山以前からこの山に来て、慈民が現れるのを待っておった」と答えた。二人とも本地の姿にかえって、岩陰に隠れた。そこを弥陀原(みだがはら)と名付けた。そこで両社をこの山の鎮守の神と崇め奉った。

しばらく行くと、長髪の僧が現れた。「どなたですか」と問うたところ、「我は此の山の権現である。役氏が入唐してから、お前の来るのを久しいあいだ待っておったぞ」と答えた。覚山は重ねて問うた。「それでは、本地の御尊体を拝し奉りましょう」と。そのとき僧は、たちまち金色の姿に変身し、瓔珞(ようらく)荘厳な衣をひるがえして、幽谷に飛び去った。

覚山は、なおその跡を追って下ると、御沢八万八千仏が並んで坐っておった。また、右側に白衣(びゃくい)の女が一人おった。覚山が怪しんで問うた。「私は、むかし遊女であった。姿が綺麗だったので、人々はこれに迷った。その罪で、今は地獄におちたのです。私だけではありません。他の人々も同様です。どうぞ行者さま、みんなを救って下さい」と答え、腹ばいになって幽谷に入っていった。

覚山は、なお谷に下って見ると、地の底に数百人、悲しみ泣き叫び、その声が谷間にひびき渡っておった。これを聞いて哀しさのあまり、加持をして秘宝呪を唱えた。なお苦しむ衆生を救うために、山中に岩石を刻んで地蔵菩薩の本尊を安置した。

焦熱地獄から人々を救い、その身心を洗い清めるために、清浄の水を求めて独鈷(どっこ)で地を掘ったところ、たちまち清水が湧き出た。それで、この地を独鈷の地と名づけた。この水で法華経を書き写して、大峯の例にならって山中に埋めた。そこを赤飴の経ヶ峯と名づけた。


ドッコ沼


これに加えて、八箇の大石を集めて胎蔵の峯をあらわし祖母石と名づけ、九本の樹木を植えて金剛山をあらわし祖母堂と称した。鰐口は開山役の行者である。紅葉峠の花の彩りは色即是空の匂が鮮やかで、独鈷(どっこ)の池の月影は空即是色の光が濃(こまや)かである。

毎年五月二十一日は、国泰安民のために祭礼を行う。



天平の頃(730〜)

覚山、国守の命によって旱魃に雨を降らす。

天平年中、三年間旱魃が続き、近国飢饉で苦しんだ。国守は山の行者に命じて、当山で雨乞いを命じた。行者はさっそく滝の前で柴火を焚いて一日一夜祈祷したところ、不思議やその夜、子の刻、丑寅の方から黒雲が広がり、峯をおおい国中に雨を降らせた。その雨によって五穀たちまち潤って、国土は豊作になった。



天平の頃(730〜)

覚山、万福寺を建立

覚山は、蔵王山の麓に万福寺という寺を建てた。三乗院の原祖である。

覚山行者の御詠歌

おふせなく てらすべくなり 峯高き
我が立つ杣(そま)を出づる月影



天平勝宝六年(754)二月十六日

覚山、入寂(にゅうじゃく)す。

覚山行者は、昼は法華経を誦え、夜は止観の床に坐し、ある時は嶽に登った。足に鉄履をつけて、手に金剛杖をもち、その足は獣や鳥よりも早かった。峯には二匹の駒狗がおって、山に行くときは駕となった。深山幽谷を過ぎるときでも狼や鬼神も害を加えることが出来なかった。

勤行の功を積み、苦行の年を重ねて天平勝宝六年になり、行年六十歳、二月十六日、安らかに入寂した。弟子道山は遺誡によって阿古耶(あこや)の辺(ほとり)に火葬した。

小角は当山の開闢であり、覚山は中興の開祖である。






関連記事:

蔵王大権現(山形宝沢)


頭加智地蔵 [山形・小白川]


頭加智地蔵


〜安彦好重『山形の石碑石仏 〜無言の野の語部たち〜』より〜


小白川町にある天台宗白雲寺の門前のお堂内にまつられている山形市内最大の地蔵石像である。坐像で総高約3m、仏高2.36m、座張1.70m、座の奥行1.40m、肩張1.40m、頭長1.10mと、頭長が総仏高の約3分の1を占めている。

面相は柔和であるが力が弱く形式的である。頭は僧形で赤い頭巾をかぶっている。体形も固く、両手は小さく形式的に彫っていて、錫杖と宝珠は失われている。俚伝では、このように頭が大きいことから「頭勝(あたまかち)地蔵」と呼ぶようになったという。

『山形風流松の木枕』に「新白雲寺という寺の鳥居のそばに石の延命地蔵が造立している。この地蔵は頭が大きく手ちいさく、腹をかかえるほどおかし。この石像を造っていた信濃国の石工があまりに不都合なため、細工を止めて国へ逃げ帰ってしまったので、彼の国まで人を遣って、是非是非完成するようにいって、造らせた。ある人の歌に『絵本にも終に見なれぬから天窓(あたま)石きり逃げてしなのわるさよ』と詠んだという」というようなことが記してある。



最上地蔵尊 第九番霊場

御詠歌

くるしみも
かわるちかいの
あらたなる

みのりをここに
しらくもの
てら

〜山形市観光協会『山形十二花月』より〜

愛宕神社参道入口(小白川町通り)に巨大な地蔵尊が鎮座している。戦国末期から軍に勝利をもたらすという“勝軍地蔵信仰”があり、武家を中心として広まったのが地蔵信仰の形で現在に至っている。 当地蔵尊は、最上三十三観音の札所としても知られており、県内各地から多くの巡拝者が訪れ、詠う御詠歌に

「くるしみも、かわるちかいの新たなるみのりをここに白雲寺」

があり、講中の人々による大祭は地蔵尊前に参列し行われる。 この行事には“地蔵尊を信仰する縁で結ばれたひとびと”ということでだれでも参加できる。 また、お念仏で終わると“地蔵尊一緒に飲食する会”の直会が行われ多数の講中の人々が参加する。





〜斎藤林太郎『馬見ヶ崎川流域の変遷』より〜

 小白川街道に面した愛宕神社参道の入口に、頭加智地蔵が建っている。大きさでは石地蔵として県一ではなかろうか。頭部よりも胴体、台座はずっと古く、蔵王山地蔵岳の石地蔵とよく似ており、蔵王参道としての関係があると思われる。

 また最上義光が山形城改築の際、馬見ヶ崎川上流から石を運んだ時の、犠牲者の供養の為に建造されたものだなどともいわれ、ほかに二、三の伝説もあるが定かなことは解らない。昔から子供らの遊び場となり、頭に智を加え、安産子育ての地蔵として多くの信仰をあつめている。



地蔵尊の東側にある石造物

光明真言の曼荼羅

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

山形の光明真言供養塔

 小白川頭勝地蔵堂の東側に立っている碑で、川原石の平面に、蓮座の上に光明真言の曼荼羅を刻んでいる。

 光明真言というのは、不空大灌頂光真言、略して光言ともいい、真言宗で最も重要視される真言(神聖な呪句)で、これを二、三べんから七へん誦すれば一切の罪障が滅するとされている。

 曼荼羅とは、サンスクリット語で、「マンダ」は「真髄、本質」の意味であり、「ラ」は接尾語で「得る」の意味である。すなわち曼荼羅は「本質を得る」最高の悟りの境地を表しているものである。それを円輪で表すのは「円い輪のように、過不足なく、充実した境地」を意味している。真言密教では「悟りを開いた場所、道場」を意味し、「道場には、壇を設け、如来、菩薩が集まるところから、如来、菩薩の集合像を描いたもの」を曼荼羅と称するようになったといわれている。曼荼羅の主尊に大日如来がはじめて出現するのは七世紀から八世紀ごろにかけてで、以後胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅、金胎両部曼荼羅が完成する。

 この小白川の光明真言碑は、胎蔵界大日を主尊とし、それを四仏が囲み、その周囲を光明真言「オン、アボギヤ、ベイロチャノウ、マカボダラ、マニハンドマ、ジンバラ、バリタヤ、ウン」が囲んでいる。その意味は「オーム、不空なる者よ、ベイローチャナよ、摩尼と蓮華の総合状態にある者よ、光焔を放て、フーム」という大日如来への呼びかけと解している。曼荼羅の下には「光明真言供養塔、奉漸読」と刻んである。

 山形地区の光明真言碑は『山形市史別巻 生活文化編』によると、総数で21基ある。



大日碑

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

小白川 大日碑

 小白川頭勝地蔵堂の東側に光明真言供養塔と並んで立っている。

 川原石の表面中央に円輪を彫り、その中に蓮座の上に、胎蔵大日の種子アを刻んでいる。蓮座は浮き彫りに写実的に彫っているのが特徴である。円輪の下に「定立阿字浮図之旨趣者為雙全離苦 沙界得楽也 塔主 法印光賢」と刻まれている。



六地蔵幢





〜蔵王地蔵尊保存会「蔵王地蔵尊」より〜

頭加智地蔵(邪恋の懺悔)
小白川町三丁目

 山形の市街から旧笹谷街道(国道286号線)を東へ歩くと小白川三丁目に、坐像の高さ300cm、台座の間口160cm、総高360cm、馬見ヶ崎河畔最大の石地蔵が鎮座している。数個の安山岩自然石を加工して組み合わせたものである。

 頭の高さが100cm、頭があんまり大きいので、俗に「アタマガイヅ地蔵」と呼ばれ、庶民に親しまれている。頭加智の宛名は、西光寺四十五世鳳隋の命名という。文字の記入はなく、製作年代など一切不明である。ただ「山形風流松木枕」に「其地蔵首(あたま)大きく腹なく、手ちいさく、いやはや腹筋かかいて可笑(おかしき)尊像にて御座候。信濃国石工切り余り不図合(ふつかう)故にや、細工止め国に逃帰りしに、彼地迄人を遣、是非是非造立するように申付しが、有人の歌に”絵本にも終に見なれぬから天窓(あたま)石きり逃てしなのわるさよ”」とある。


 また、この地蔵には次のような伝説が人々の口から口へ、秘かに伝えられてきた。何時の頃か、一人の六部がこの地にやって来た。夕方近くであった。空腹をかかえてあるそば屋に入った。そばを食べながら、そば屋のおかみに、問わず語りに諸国廻遊の話に花をさかせた。他に客は誰もいなかった。

 やがて、おかみは問うた。「あなたは、まだお若いのに、何んの仔細があって結婚もなさらずに、六部になどなって諸国を巡り歩いておられるのですか」。すると六部は「そのことですよ。私のは、よその男のと比べてあまりにも大きいので、結婚するような女人が見つからんのです。それで、これも前世の因果とあきらめ、六部となって諸国を巡り歩いているのです」と答えた。おかみは、これを聞き「それは、気の毒なことです。それには秘伝がございます。お教え致しましょう」ということになり、二人はつい、懇になってしまった。そば屋の亭主は長い旅をしていたのである。

 数日を経て、六部は立ち去った。人の口に戸は立てられぬ。そば屋の亭主が旅から帰る途中、笹谷峠の茶屋でその噂を耳にしたから大変。亭主は家に帰るなり大声でどなった。「嬶、酒を一升買って来い」といって、五合徳利を、おかみにつきつけた。「それは無理でしょう」と、おかみが言った。「お前なら出来るだろう。ごまの油をつければよいではないか」と、また亭主はどなりつけた。おかみが六部に教えた秘伝は、ごまの油だったのである。おかみは居たたまれなくなって、馬見ヶ崎川に身を投げた。

 幾歳か過ぎて、件の六部がまたやって来た。おかみの悲業の死を知った六部は前非を悔い、その冥福と罪障消滅を祈願して、この石地蔵を造立し、何処ともなく立ち去ったという。




瀧山 [山形・蔵王]


瀧山(標高1,362m)

平安時代、慈覚大師が開山した山岳信仰の山。
「瀧の山」と呼ばれるほど龍山四十八滝からの豊富な良水に恵まれている。
(『山形県の山』より)


夜明け直前の月


龍山川

龍山川源流。入水(いりみず)
修業場であった堂庭まで水を引いてきた水源(山形十二花月)。




唐滝(からたき)
龍山川水源(入水)の上にあり、常には水の流れのない滝で、大雨や雪解けの時だけ水の流れが見られる滝(山形十二花月)。


霊山神社(慈覚大師護摩堂)
瀧山権現の社(龍山神社)が山頂にあって毎日の修業に不便なため、一段下に護摩堂が建てられ日々の修業の場とされた。この中には慈覚大師の石仏像が奉ってある(山形十二花月)。


姥神さま
昔から山岳宗教の山は女人禁制とされ、入山できない女人のために姥神が祀られ、山頂の瀧山権現の代わりに姥神を参拝した(山形十二花月)。


瀧山大権現

姥神が立っていた石に、大正時代この山で暮らす炭焼きたちが瀧山大権現の石碑を建立。しかし、姥神は何者かに持ち去られ瀧山大権現の石碑だけが残る(山形十二花月)。



わらじぬぎ石
「慈覚大師の休み石」とも呼ばれ、この石に腰を下ろし、下界の汚れを落とすため新しい草鞋(わらじ)に履き替えてから堂庭(修業場)に入った(山形十二花月)。


穴(岩)小屋
穴小屋の天井より垂れる水で目を洗えば「目薬」に、飲めば「腹薬」になると伝えられ、ここに泊まって修業した岩穴(山形十二花月)。


赤石 

三百坊の石鳥居

畜魂供養(千手観音堂)

2014年9月8日月曜日

白鬚神社 [山形・滑川]


天保年間の石鳥居

白鬚神社

16世紀の中頃(室町時代後期)、大暴風雨で馬見ヶ崎川上流の「よし沼」が決壊し大洪水になったとき、荒れ狂う白波の流れに乗った白髪白鬚の老翁が忽然と現れ、洪水を鎮め郷民を救ったという。後に老翁を祀り、白鬚神社と称したのではないかと伝わる。神殿には白鬚を生やした珍しい神像が祀られている。

東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会



本殿を覆い隠すほどの杉木立

2014年9月現在、修復中






 〜斎藤林太郎『馬見ヶ崎川流域の変遷』より〜

次に滑川部落の氏神として祀られている白鬚神社について書いておこう。祭日は五月九日で、祭神は倉稲魂命(くらいねたまのみこと)である。

縁起は、天文五年(1536)大雨が降り、蔵王山の「よし沼」が決潰して大洪水となったとき、山に住む翁と姥がいち早く山を下りて来て、危急を里人に知らせた。里人は総出して水防に当り、大洪水の難をのがれたのであった。その洪水を「白鬚洪水」と呼び、村人たちは翁と姥の二人の霊を祭神として祀ったのであった。蔵王山系を背後にして、急流な河川の傍らに村々をつくって住む人々の、切実な願いと祈りがこめられている神社である。

本尊は約40cmぐらいの木彫で、白鬚を生やした翁の座像であり、他の神社では見られない本尊であった。神社のまわりは山麓の杉木立に囲まれ、参道には、享保、嘉永の板碑があり、鳥居は天保の建立であった。昔から幾たびか繰りかえした馬見ヶ崎川の洪水を、しみじみと思いかえさせる神社である。






東澤三十四観音
第三番 白鬚山

しらひげの おいもわかきも さだめなく
ついにゆくみを すめるとうとき

昭和十六年春 梵行寺東澤講
平成二十年二月再奉納 丹波屋






〜東沢の歴史散歩道「白鬚神社」より〜

白鬚神社

滑川地区の神保土にうっそうと生い茂った杉林の中、白鬚神社がある。祭神は水神とも或いは水除神とも申すが、文書等もなく詳細不明という。境内には元禄十年(1697)と正徳四年(1714)の庚申塔がある。さらに享保十一年(1726)に三乗院の六代住職が導師となって造立した巳待塔もある。

御斎灯

神社恒例のお斎灯が1月の第三日曜日午後7時から行われる。当日、薪などを奉納するため朝7時までに自宅前に準備したものを、滑川消防団で神社へ運び準備する。地区民、及び地区外からの参詣者が、古くなった御札や、〆飾り、子供らの学習の成果を持ち寄り集う。燃え盛る炎であったまり、その火でタバコをすったり、餅を焼いて食べたりすると、風邪をひかないとか…。「今年もよろしく」と、一年の初めの顔見せで始まる。







2014年9月7日日曜日

三百坊の石鳥居 [山形・瀧山]



三百坊の石鳥居


〜現地・案内板より〜


瀧山

その昔、慈覚大師が仁寿元年(851年)三月十七日、瀧山を開山し、頂上に薬師如来をまつり瀧山大権現とあがめまつったと伝えられている。

しかし頂上は生活に不便なので、一段下の風静かなる所を選び霊山寺と名付け、護摩修業の道場にしたと伝えられている。今は堂庭は護摩堂趾という。お堂には慈覚大師の石像が祀られている。近くには一大湧水場があり、堂横には天然石を利用した板碑が祀られている。

三百坊の鳥居や、鳥居から堂庭までの杉並木は往時の信仰をあらわし「瀧山塔」には杉並木の奉納のことが記されている。山腹の大滝には不動尊が祀られており、山麓には水月庵(八森)、山境坊(岩波)、三蔵院趾(現地蔵堂、神尾)などの寺跡を残している。

滝山地区振興協議会
平成三年度 宝くじ助成品




〜安彦好重『山形の石碑石仏』より〜


土坂 三百坊の石鳥居


土坂三百坊の竜山旧参道に立っている石鳥居がある。たぶん西蔵王産の石材らしい粗い凝灰岩で造成されている。

総高4m、基台は自然石にほり、中太の円柱をやや下広がりにさし込んで建てている。両柱の太さは径60cm、その間隔は3m、両柱の上に台輪を設け、その上に一石で造った笠木・島木をのせている。笠木は長さが5mほどで両端に反転があり、斜めに切り、中央部で接いだ二石で造っている。貫は円柱の外に出る両端は別石らしく、今は欠失して、円柱に穴だけが残っている。貫と島木の間には束が最初から無かったのか、柄穴も見えない。全体を赤く塗っていたらしく、円柱にまた朱色が残っている。

紀銘は見当たらないが、鳥居の1mほど上手に鳥居造立の際に建てたと思われる1mほどの石柱が参道を挟んで立っていて、その一本に「奉納 岩清水村 □□」の文字が刻まれている。造立年代はその形式から見て江戸期のものであろう。



赤石原の赤石(凝灰岩)


〜現地・案内板より〜 

瀧山大権現 柴燈護摩供 願文

謹み敬って修験教主摩詞毘盧遮那如来、理智不二界会諸尊聖衆、殊には十二大願薬師瑠璃光如来、大悲垂遮龍山大権現、當山開祖慈覚大師大勇金剛、並びに西行房圓位大徳尊霊等、総じては瀧山山麓一切の三寶に白して言さく。

 夫れ以れば、瀧山大権現の御体山巍々たる山塊は、深く神霊の宿るところ、朝な夕なの御尊容は山麓住民をして襟を正さしめ、帰依信仰せしめる最上の霊山たり。亦、同山塊より流れ出る清冽なる水流は、広く龍山川となりて灌漑及び飲料水を給し、密生せる山麓の樹林は唯一無二の燃料として蒔炭材を供給せり。誠にもって同山は山麓住民にとりては古より生活の根源、母なる慈愛の山たりき。

ここに於て、験乗の末資亮貫今月今日の吉辰を選びて三密荘厳の瑤壇を築き、秘密護摩の妙味を捧げて、除災授樂の深法を賛揚し奉る。仰ぎ願くば龍山大権現を始め奉り三界所有の天衆地類、神祇冥道、法力を合わせ現當二世の諸願悉く成就圓満せしめ給え。

重ねて乞う。

信心願主 息災安穏 増長福寿 家業繁栄
如意圓満 乃至法界 平等利益

于時 平成六年五月八日
石行寺 五十六世 亮貫謹白



瀧山塔
〜三百坊 その一〜より

一説よれば、貞観九年(867)瀧山寺は霊山寺と称される、定額寺(国分寺に次ぐ寺格を持ち、国家から用料を支給される寺)となり、山麓に三百の宿坊を構え隆盛を極めたと伝えられている。その瀧山寺の供奉田(神撰米を作る田)として、桜田・青田・飯田の三田が指定されていた記録がある。瀧山の破却は建長3年(1251)と 正嘉2年(1258) の二説が有る。



〜滝山地区町内会連合会『滝山地区 歴史の散歩道』より〜


三百坊


土坂観音堂より古道に入り、三百坊の鳥居の前に立つ。赤い鳥居は慶応二年(1866)に麓の信者たちによって建立された。

華表が鳥居の側にある。石材は「赤石原」からのものである。華表と並んで「瀧山塔」が立っている。鳥居建立に先立って、安政二年(1855)に建てられた。「これより堂庭まで杉並木を奉納する。切れば仏身の罰を受ける」と刻まれている。瀧山信仰の篤さが偲ばれる。今、その杉並木は切られ、点々と僅かに数えるのみである。

三百坊は、瀧山寺(霊山寺)を中核として三百の坊が建ち、瀧山修験の一大道場であったという。正嘉二年(1158)に閉山されるまで、瀧山仏教の聖地として栄えていたのである。霊山寺から龍山寺、瀧山寺と文字が変わったことについてもいくつかの説がある。

春五月八日、三百坊の桜のもとで西行祭が行われる。五月八日は「瀧山大権現=薬師如来」の祭礼の日でもある。護摩祈祷が行われ、多くの善男善女でにぎわう。瀧山大権現の護摩祈祷の火が僧侶の読経のなか、赤々と燃え盛り、人々はその火に身と心を清め、火を踏み、身体堅固、家内安全、そして平和を祈願する。

その昔、並びたつ僧房、伽藍、修験に励む僧たち、山頂へ向かう信者の列など、瀧山のにぎわいが思われる。








2014年9月6日土曜日

東根の大ケヤキ [山形・東根市]








〜現地・案内板より〜


東根の大ケヤキ

この地は、正平二年(1347)、小田島長義が築いた東根城(小田島城)の本丸跡にあたる。

その昔、「雄槻」「雌槻」と呼ばれた二本の大槻があったが、明治十八年に雄槻が枯れてしまい、雌槻だけ現在に残っている。これが「東根の大ケヤキ」である。

山形県立林業試験場の場長、大津正英氏(農学博士)によれば樹齢1,500年以上で、地上1.2mの幹周は16mあり、さらに直径は5mである。主幹は地上5.5mの高さで大きく二股に分かれ、西南側のものがやや直上して枝を分け、東側も大きく三枝を分けて天空をおおい、その高さは約28mに達する。

平成元年五月、植物学の権威者である金沢市の里見信生氏が大相撲の番付表を模した「日本欅見立番付」を発表したが、「東根の大ケヤキ」は東の横綱に位置し、名実ともに日本一である。

東根市教育委員会

昭和三十二年九月十一日 国指定特別天然記念物
昭和六十一年 山形新聞社・山形放送主催「グリーン山形110景」選定
平成二年六月 読売新聞社と国際花と緑の博覧会協会主催「新・日本名木100選」選定