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2016年11月8日火曜日

千年の「ひいらぎ」[山形市平清水]



天然記念物
「平清水の柊(ひいらぎ)」



〜現地・説明板より〜


県指定天然記念物
平清水のひいらぎ
昭和28年2月13日指定


「ひいらぎ(柊)」は暖かい地方の常緑の小高木で、昔から庭木として広く植えられています。福島県のいわき市が自生の北限とされています。山形にこのような老巨木が生育したことは、極めて珍しいことです。

平清水家は、慶長・元和(1610年代)には山形最上氏の客臣として四千石を賜り、徳川時代には大庄屋をつとめた家柄です。この「ひいらぎ」は、その先祖が邸内の魔除けとして植えたものと伝えられています。

根周(ねまわり)は3.5mあり、根元で二幹に分かれています。東側の幹周(みきまわり)は2.2mで、高さ約11mを測ります。西側の幹はさらに分岐して西方に大きく傾き、枝張りは約10mに達し、地面すれすれに垂下しています。

なお、樹齢は千年を越えるものと推定されています。

平成4年3月
山形県教育委員会
山形市教育委員会



樹齢は千年をこえる



~『わがさと平清水』より~


大和政府は植民政策をおこない、全国より移民をはじめました。年代は不明でありますが、天童市の西沼田、酒田市の城の輪の遺跡などから、山形県地方への移住がうかがえるのであります。

平清水地区でも、平清水家(現第74代、平清水久左衛門氏)は奈良時代の神亀年間、家祖、黒金穆弥(くろがね・ぼくや)公が朝命により下野国(栃木県)から里人数十人を従えて、千歳山南麓に移住し草庵をむすび、飲料水を探しまわり、やや湿地のところを見つけて杖で土地を掘ったところ、突然、清水が湧き出したといわれています。それから自分の家の姓を「平清水」とし、村の名も平清水と呼ぶようになったといわれています。

道家の邸内には柊(ひいらぎ)が樹齢1,000有余年の威容を誇っています。このヒイラギは家祖、黒金穆弥公故郷の山野に生い茂る幼木を移住の地までもってきて屋敷の鬼門に植えたと伝えられています。暖帯性の植物が主家を見守るように、気候的に寒さの厳しい東北地方の山形に土着したことは珍しい。このヒイラギは昭和28年に山形県天然記念物に指定されました。



『わがさと平清水』より




2015年5月21日木曜日

山寺の「根本中堂」と「日枝神社」 [山形]



根本中堂


〜現地・説明板より〜


山寺 立石寺と根本中堂

 山寺は、正しくは宝珠山(ほうじゅさん)立石寺(りっしゃくじ)といい、貞観二年(860年)清和天皇の勅願によって、慈覚大師が開いた天台宗のお山である。慈覚大師は、辺境の東北各地に多くの寺院を建立したが、立石寺の創建には特に力を入れ、明るく正しい人間を養成する道場を確立し、鎌倉時代には東北仏教界の中枢をなして、山上山下(さんじょうさんげ)三百余の寺坊に一千余名の修行者が居住、盛況を極めた。

 戦国時代、山内が兵火をあびて一時衰退したが、江戸時代には御朱印二千八百石を賜わって再び隆盛を見、宗教文化の殿堂を築きあげた。現在の立石寺は、境内三十五万坪(150万5,000平方メートル)の自然の岩山に、四十余の堂塔を配し、平安初期以来の山岳仏教の歴史を物語る、日本を代表する霊場である。

 正面の大きな建物は、国指定重要文化財の根本中堂(こんぽんちゅうどう)である。延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建した、入母屋造(いりもやづくり)・五間四面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。

 堂内には、慈覚大師作と伝える本尊の木造薬師如来坐像をはじめ、文殊菩薩、飛車恩典などが安置され、伝教大師が中国から比叡山に移した灯(ひ)を立石寺に分けたものが、今日も不滅の法灯として輝いている。織田信長の焼打で延暦寺を再建したときには、逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を堂内で拝することができる。

あきらけく のちのほとけのみよまでも
ひかりつたえよ のりのともしび


招福 布袋尊
布袋尊のからだをなでて、願いごとをお祈りする。




日枝神社


〜現地・説明板より〜


日枝(ひえ)神社

 貞観二年(860)、慈覚大師の開山にあたり、釈迦・薬師・阿弥陀三尊を安置し、守護神とした。江戸時代までは山王権現(さんのうごんげん)といわれ、明治維新で村社となって、大山咋尊(おおやまぐいのみこと)を祭神としており、五月十七日に祭礼がおこなわれる。

 右側の大きな碑は、この地に行幸された大正天皇と、貞明(ていめい)皇后の記念碑である。後方の大銀杏(おおいちょう)は、慈覚大師お手植えと伝えられ、一千百余年の樹齢というその下には、高浜虚子・年尾の親子句碑がたっている。

いてふの根床几斜に茶屋涼し  高浜虚子
我もまた銀杏の下に涼しくて  高浜年尾


山寺の大イチョウ



〜現地・説明板より〜


市指定天然記念物
山寺の大イチョウ
昭和40年3月5日指定

 史跡名勝「山寺」の山内、山寺日枝(ひえ)神社境内の南東隅にあるイチョウの雄株です。根元の周りが約10m、地上1.5mのところの幹周りが9.6mを測ります。山形県内では、南陽市宮内熊野神社の大イチョウ、鶴岡市湯田川の乳イチョウなどと肩をならべるほどの巨木で、市内では最大のイチョウの木です。

 以前は、樹高およそ30mの主幹がありましたが、昭和47年9月17日未明の暴風によって、地上4mほどの上部で折損し、樹冠の大半を失いました。その後、数十年の歳月を経て現在のように樹勢は挽回し、山寺一円の守護神である日枝神社のご神木として、歴史の年輪を刻み続けています。

平成22年7月
山形市教育委員会




2015年4月18日土曜日

貫津(ぬくつ)の「種まき桜」 [山形・天童市]


















~現地・説明板より~


貫津の種まき桜


樹名 エドヒガンザクラ

樹齢 400年以上(推定)

幹回り 地上1.5m以上で4.21mの太さ

根回り 6.40m







2014年9月30日火曜日

5代目、鍋掛松 [山形・中山町]


中山町長崎「鍋掛松」



〜現地・石碑文より〜

鍋掛松

舟運栄えたる最上の河畔、樹令三百の松影と芋煮の宴を偲ぶ
月山、蔵王の秀峰、正に雄大なり

昭和五十二年十月
最上川伝承遺跡 鍋掛松復元実行委員会




〜現地・説明板より〜

「鍋掛松(なべかけまつ)」
〜芋煮会発祥の地〜

 最上川舟運が中山町長崎から荒砥まで通じたのは、元禄七年(1694)のこと。それまでは、長崎港が舟運の終点であり、米沢方面へ船荷の積み換えが行なわれた要地でした。内陸からは米、紅花などを運び、一方京都からの帰り荷には衣料、蚊帳や雛人形など上方文化を積み帰ってきました。

 船頭や水夫たちは船着場で風待ちの逗留の間、京都から運ばれた棒だらと地元の里芋を材料に河岸の松の枝に鍋を掛けて煮て食べました。これが山形名物「芋煮会」の始まりであり、ここに立つ松が「5代目鍋掛松」なのです。






2014年9月26日金曜日

蔵王、中央高原 [山形市]




紅葉峠の「弁天さま」

高松宮妃の歌碑」

朝日さして くれなゐにはゆ雪ふかき

蔵王の山の樹氷のはやし


高松宮宣仁親王妃、喜久子殿下が昭和29年、歌会始めでご詠唱なさった歌だとか。



鳥兜山頂の「大黒天」
日本神話の大国主命

蔵王温泉の「由来碑」

〜石碑文より〜

由来碑

時の第十二第景行天皇の世、西暦110年の頃、日本武尊の東征に従った吉備多賀由が矢の毒を癒しているうち、温泉を見つけて入浴したところ、たちまち全快したので、日頃信仰している大国主命のおかげと蔵王山頂にこれを祀ったと伝えられており、佛教の大黒天が後に日本神話の大国主命と同一視され、七福神の一神として信仰されて来たもので、蔵王温泉は発見者の名をとって、多賀由温泉から高湯温泉に変り、今に至っている。



ドッコ沼



 ドッコ沼は周囲約350m、平均水深2m、沼底から湧き出る水は枯れることはない。山形市の水瓶ともいうべき源泉。


沼のほとりに祀られた「水神さま」

〜案内板より〜

水神様

 この沼に住んでいた竜を静めるため、覚山法師が呪文を唱えながら、金剛杵の独鈷(ドッコ)を投げいれたことから、この沼を独鈷沼と呼び、竜を水神様として祀りました。

 安政三年(1857)に至り、蔵王火山活動の鎮静と雨乞いを併せ祈願し、村人達がこの石碑を建立しました。それ以来、寛政六年(1794)から繰り返していた噴煙噴火もなくなり、ふたたび静かな山に戻りました。


銘「安政三丙辰五月大吉祥日」



〜案内板より〜

独鈷(ドッコ)沼の由来(いわれ)

 覚山法師が修行の為、金剛杵(こんごうしょ)を手に蔵王山に入り、この沼にさしかかったところ、にわかに竜が現れた。呪経を唱え、金剛杵の独鈷(ドッコ)を水面に投げ入れると、竜は静かに沼に沈み再び姿を現さなかった。

 それ以来、この沼を独鈷沼と呼び、竜を水神様として祀りました。



「炭焼き窯」跡

〜案内板より〜

炭焼き窯

 此の窯は昭和初期ごろに造られたもので、ほぼ当時のままでの復元です。

 木炭の造り方は、窯のなかに生木をいれて、これに点火し、入口を密閉する。その後、昼夜におよび蒸し焼きにした状態で取り出し、砂灰(すばい)をかけて消火して仕上げるものです。

 窯の種類。この窯は東山窯といい、一回分の仕上がりでは炭俵(15kg)4俵分を焼いていたものです。



長命の松

双龍の松



羽州蔵王権現本縁別当
第二世 覚山行者伝記
(宝沢・三乗院文書)


清浄の水を求めんがために独鈷をもって池を掘るに、清水たちまちに湧出せり。今においてなお絶えず。ゆえに独鈷の池と名づく。この水をもって法華経を書写して大峯になぞらへて山中に埋む。その地を赤飴の経ガ峯と号す…


紅葉峠の花彩は、色即是空の匂い鮮やかに

独鈷池の月の影は、空即是色の光濃(こまや)かなり







2014年9月18日木曜日

賀茂雷神社と大ケヤキ [山形・下宝沢] 


大欅(ケヤキ)
推定樹齢500年、山形市内最大

睨むが如し

銘「村社 賀茂雷神社」
左側面「明治四十二年 旧七月十五日」
右側面「施主人 會田金五郎 世話人 當所 横山清太郎」






〜現地・案内板より〜

延文五年(1360年)山形初代城主、斯波兼頼が京都上加茂明神の分身を祭った。神木(ケヤキ)は推定樹齢500年といわれており山形市内で最も太い(目通り周囲、7.35m)。本殿内に横3.08m、縦1.48mの大絵馬(蔵王登拝)が明治33年3月15日、三人の崇敬者によって奉納されている。

東沢地区振興会
東沢郷土研究会
東沢観光協会






〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

賀茂神社(通称:雷神社)

「あーめんたんもれ雨たもれ

 雷神さまから雨もらた」

 と叫びながら筵旗(むしろはた)を押立てた農民達の雨乞い行事を、子どもの頃にはよく目にしたものである。雷神さまとは即ち下宝沢の賀茂神社(通称:雷神社)で、日照り続きの旱魃の年には近郷、近在の農民達が、必ず雷神さまに参拝して雨乞いをした(その範囲は、馬見ヶ崎川の水利により耕作している村々)。

 賀茂雷神社の祭神は「分雷神(わけのいかづちのかみ)」で、伝えられるところによれば、延文五年(1360)山形城主、修理大夫斯波兼頼(しば・かねより)が城の東南方(鬼門)にあたるこの地に、京都の上加茂明神を勧請したのが始りと伝えられる。馬見ヶ崎川は京の鴨川にやや似ており、山の形状なども上加茂と同じこの土地を選んだという。

 水神として農民の崇敬が深いことは勿論であるが、昔から武士の尊崇も厚く、殊に明治維新までは領主の堀田藩の祈願所として庇護され、造営や屋根替などすべてに経費の寄進を受けてきた。昔は狭小な堂宇に過ぎなかったが、現在の社殿の荘厳なことは近隣にも類をみない稀なものである。

 古社にかかわる文書は散逸して残っておらず、しかも、別当三明院(さんみょういん)も昭和初年に廃絶し(最後は金井三好法印)、現社殿の建立年月もはっきりしない。ただ、延享三年(1746)十一月の造営には、堀田藩(同年四月、佐倉に移封。その後も宝沢は堀田領)より三十両の寄進がなされているので、この時に建立されたのではなかろうか。


佐倉藩(堀田藩)の寄進状

宝沢村雷神宮造営に就き金参拾両御寄付被成(なされ)候、後裔社頽廃に及ばざるよう致さるべく候、仍而(よって)御寄付の状 如件(くだんのごとし)

従四位侍従 紀正亮群吏(紀正亮とは佐倉藩主堀田備中守正亮のこと)
延享三丙年十一月 平尾一郎大夫

雷神宮別当 三明院



註1:宝沢十二坊と三明院
宝沢には十二の坊があったといわれ、慶安元年(1648)のご朱印状には雷宮の別当が林蔵坊とあるので、後の三明院とは異なる坊であったとも考えられる。

註2:神社名の改称
第二次大戦の終了前までは国家神道による加茂雷神社の名称であったが、戦後は政教分離による宗教法人、賀茂神社として届出登録した。



蔵王信仰 大絵馬(明治三十三年)

〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 本殿内に横3.80m、縦1.48mの大絵馬が明治三十三年(1900)三月十五日、三人の崇敬者によって奉納されている。この大絵馬は蔵王信仰の盛んなときに、現在の防原町の東端の大鳥居(現:蔵王権現の参道に移転)から熊野岳の頂上まで、白衣姿の行者の列が続いており、その描かれている人数も500人を超え、それに出身地や氏名が記入されてあり、お東さま参りの盛時が偲ばれる。


〜横川啓太郎「唐松観音とその周辺」より〜

 宝沢の里は蔵王信仰の発祥の地といわれ、蔵王登山の宝沢口として知られており、山岳宗教の華やかな時は、宝沢十二坊と称し、山伏の栄えたところでもあった。むかし宝沢の枝郷であった防原も、蔵王信仰者の坊のあった名残りの地名である。

 現在に残る坊を挙げれば、蔵王開山の伝説の残る蔵王大権現(刈田嶺神社)の「三乗院」、義家が清原武衡・家衡を討伐した際、軍神として当地に聖徳太子を祀ったと伝えられる太子の宮の「宝蔵院」、延文五年(1360)山形城主、修理大夫斯波兼頼が神夢により、京都上加茂明神を勧請したと伝えられる「加茂雷神社」がある。

 この加茂雷神社には、蔵王信仰(お東詣)の大絵馬が奉納されている。昔は旱魃のとき近郷の農民が多勢筵旗を立て「雨(あーめ)たもれ、雨(あめ)たもれ」と叫びながら、この神社に参拝するのが常であった。この神社の別当は三明院といったが、昭和初期になくなった。



神社前の石碑群
左から「巳待供養塔」「金華山」「愛染明王(線刻像)」「湯殿山大権現」

線刻「愛染明王」

〜安彦好重「山形の石碑石仏」より〜

下宝沢には雷神社の前に立っている愛染明王碑がある。高さ1.10m、巾70cm、厚さ28cmの川原石の正面に、像高一ぱいの日輪を背に、一面六臂の忿怒相の愛染明王の坐像を線刻している。下には宝瓶の上に蓮座を重ねている。上宝沢・養福寺の愛染明王と同じ形式であるが、年紀銘は不明である。

愛染明王とは何か

金剛薩埵が姿を変えた仏で、浄化された人間の愛欲を尊格化した明王といわれている。仏体ははげしい愛欲を表す赤色で、赤い日輪を背にして、獅子冠を頂き、三目忿怒相をなし、一面六臂かあるいは一面四臂で、金剛杵、鈴、弓矢、蓮華などを持っている。宝瓶に乗る姿であるが、異像も多い。不動明王と共に両脇侍とされる場合もある。

民俗信仰では、愛染の「愛」は「藍」と同音であることから、「あいそめ(藍染)」の神となって染物業の神となってしまった。また「愛染」は「愛情」と解釈して愛情の神として、女性、特に遊女たちに信仰された。




〜東沢地区振興会「東沢の歴史散歩道」より〜

 境内には雷神さまの御神木である樹令500年以上と思われる欅(けやき)の大木がある。本来ならば山形市の保存木として保護されるべきものであるが、下を県道(272)が走っており、枯れ枝の落下などもあって惜しいかな指定されていない。



大ケヤキ関連記事:

東根の大ケヤキ [山形・東根市]




2014年9月6日土曜日

東根の大ケヤキ [山形・東根市]








〜現地・案内板より〜


東根の大ケヤキ

この地は、正平二年(1347)、小田島長義が築いた東根城(小田島城)の本丸跡にあたる。

その昔、「雄槻」「雌槻」と呼ばれた二本の大槻があったが、明治十八年に雄槻が枯れてしまい、雌槻だけ現在に残っている。これが「東根の大ケヤキ」である。

山形県立林業試験場の場長、大津正英氏(農学博士)によれば樹齢1,500年以上で、地上1.2mの幹周は16mあり、さらに直径は5mである。主幹は地上5.5mの高さで大きく二股に分かれ、西南側のものがやや直上して枝を分け、東側も大きく三枝を分けて天空をおおい、その高さは約28mに達する。

平成元年五月、植物学の権威者である金沢市の里見信生氏が大相撲の番付表を模した「日本欅見立番付」を発表したが、「東根の大ケヤキ」は東の横綱に位置し、名実ともに日本一である。

東根市教育委員会

昭和三十二年九月十一日 国指定特別天然記念物
昭和六十一年 山形新聞社・山形放送主催「グリーン山形110景」選定
平成二年六月 読売新聞社と国際花と緑の博覧会協会主催「新・日本名木100選」選定








2013年8月22日木曜日

大淀「羽黒神社」 [山形]

苔むした石段が長く続く

石段の傍らに

いよいよ社殿の屋根がのぞく

江戸時代創建と伝わる「羽黒神社」
現地説明板より

羽黒神社の由来

祭神 稲倉魂命(いなくらのみこと)



 羽黒神社は、当羽黒山(標高171.9m)の頂上に鎮座し、創建は明暦年間(1655〜1657)と伝えられている。氏子の住む大淀・長島は当時大淀村・下長崎村といい、幕府領であった。現在の社殿は、嘉永3年(1850)に造営したものである。

 当地は三方を最上川が流れており、南側は三ヶ瀬に、北側は早房の瀬に面している。頂上の神社境内からは、東方に大淀、遥かに霊山・甑岳(こしきだけ)を、西方に長島そして霊山・葉山が眺望できる。さらに、その間を蛇行して流れる最上川の景観を一望できる景勝の地である。

 この神社は天正の頃に航路が開かれ、その後さかんになった舟運の安全を祈って創建されたといわれている。元禄・享保の盛時には、250俵ほどの年貢米を積んだ艜船(ひらたぶね)が一日に30〜40艘も下り、上り舟で綿・古着・塩などの生活物資が運ばれていた。

 その舟運で最も恐れられた所が三難所で、船頭や水夫たちが通るたびにこの神社に航行の安全を祈って詣でたという。

 この神社は、もとは観世音菩薩を祀る観音堂で、代々一乗院(鈴木家)が別当を勤めていた。明治になって神社となり、明治6年8月、村社として格付けされ現在に至っている。


平成元年7月30日

羽黒神社



三方を最上川に囲まれる「羽黒山(標高171.9m)」
この辺りは、川行く舟にとって「三難所」と呼ばれるほど危険な箇所が続く。そのためこの羽黒神社は、その舟運の安全を祈願するために創建されたのだという。

天然記念物のイタヤカエデ
推定樹齢300年
現地説明板より
村山市指定文化財 天然記念物
羽黒神社のイタヤカエデ指定 平成2年10月24日


村山市大字大淀、村社・羽黒神社に自生しているイタヤカエデの老木で、根元廻り4.2m、幹廻り2.9m、樹高18mのもので、地上5mの部位で主幹が三方向に分岐し大枝となり、よく繁茂し旺盛な生育を示している。

推定樹齢はおよそ300年。


村山市教育委員会



周辺情報:

河島山「白山神社」 [山形]




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2013年8月17日土曜日

鹿島神宮 [茨城]

鹿島神宮へと向かう大通りにて
 現地説明板より
常陸国風土記万葉ライン

和銅6年(西暦713年)に編纂された常陸国風土記に「高天原より降り来たまひし大神、名を『香嶋天之大神(かしまあめのおおかみ)』と稱す。天にては香嶋之宮といひ、地にては豊香嶋之宮と名づく」とあり、鹿島神宮のご祭神「武甕槌命(たけみかづちのかみ)」が日本建国の昔、天降られて関東地方の開拓と鎮撫に当たられたことが書かれてある。

奈良時代に九州の防備に「鹿島立ち」した防人(さきもり)は、鹿島神宮に武運の長久と道中の平安を祈り、那珂郡上丁・大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)は

霰(あられ)降り 鹿島の神を祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に吾は来にしを」と詠んだ。

現在、鹿島神宮の境内は坂戸・沼尾の両摂社また往古の郡家(郡役所)跡を含めて、国の史蹟「鹿島神宮境内附郡家跡」として指定され、周辺地区には風土記、万葉集に詠まれた史蹟名勝が数多く見られる。



本来あった大鳥居は、東日本大震災にて倒壊したとのこと
現地説明板より
大鳥居再建へ向けて

東日本大震災で倒壊した大鳥居は皆様の御浄財により、境内御用材にて以前の鳥居と同等の大きさで再建が進められています。来る平成26年6月1日に竣工祭が斎行され、鹿島鳥居本来の木製の鳥居が披露されます。

大鳥居 身替りになり倒れしと 会ふ人ごとに無事を喜ぶ」牟根天


鹿島神宮「大鳥居」
平成26年6月完成予定
高さ:約10.2m
笠木巾:約14.6m
材料:杉(境内御用材)



重要文化財「楼門」
この楼門の秀麗な造りは、九州の阿蘇神社、筥崎宮とともに「日本三大楼門」に数えられている。

「三木宗策」彫刻による随身像

現地説明板より
重要文化財「楼門」

寛永11年(1634年)に水戸初代藩主「徳川頼房」公の奉納。頼房公は水戸黄門・光圀公の父君。

左右の随神像は東京・荻原捷奉納、彫刻は三木宗策(日展審査員)。



摂社「高房社」
現地説明板より
摂社「高房社」

祭神 健葉槌神(たけはづちのみこと)

鹿島の大神に従い、香々背男(かがせお)を討つ。常陸国二の宮「静神社(しずじんじゃ)」の祭神。

本社参拝の前に詣でるのが古例である。



鹿島神宮「本宮」
現地説明板より
鹿島神宮「本宮」

御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

創祀 神武天皇ご即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が遣わして勅祭されたと傳える。

御神徳 神代の昔、天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ、建国功労の神と稱え奉る。また「韴霊剣(ふつのみたまつるぎ)」の偉徳により武道の祖神、決断力の神と仰がれ、関東の開拓により農漁業、商工殖産の守護神として仰がれるほか、常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名である。さらに「鹿島立ち」の言葉が示すように、交通安全・旅行安泰の御神徳が古代から受け継がれている。



「宝物館」
国宝「直刀(ちょくとう)」展示
パンフレットより
「直刀」金銅黒漆塗平文拵附刀唐櫃

日本最古最大の直刀で、制作年代は今から約1,300年前と推定されます。常陸国風土記に、慶雲元年、国司等が鹿島神宮の神山の砂鉄で剣を作ったとあり、その剣であろうともいわれております。

古くは本殿内に納められていた神刀で、御祭神の神剣「韴霊剣(ふつのみたまつるぎ)」の名も伝えられています。神武天皇はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。



鹿島神宮御座舩の船首
現地説明板より
平成26年 式年大祭「御船祭」
12年に一度の絢爛壮麗な一大神事


 鹿島神宮の「御船祭(みふねさい)」の起こりは、大神を奉ずる船団による大昔の関東開拓の時代にまでさかのぼり、当神宮にとりましては最大の祭典であります。この御船祭が、来る平成26年9月1日より3日間にわたり行われます。

 9月1日、まず勅使参向例大祭が斎行され、翌2日早朝、御分霊された御神輿は陸路を一の鳥居の大船津河岸までとり、そこから御神輿を奉戴した御座船は、数多の供養船を従えて一路香取市加藤洲へと進みます。そこで香取神宮の御迎祭を受けて後、再び同じ水路を行宮まで戻るという絢爛壮麗なる水上絵巻が繰り広げられるのです。

 例年の御神幸は門前町の大町通りに限られておりますが、12年に一度のこの御船祭は鹿島の大神が陸路と湖上を御神幸する人々の幸せと平安をもたらす一大神事であり、今回この大祭をあわせて東日本大震災の復興を中心とする日本再生の「鹿島立ち神事」とすべく準備に取りかかっております。



重要文化財「仮殿」
現地説明板より
仮殿(重要文化財)

本殿を修復する時など、一時的に神様をお遷しする社殿です。現在、下記の摂末社所管社の御分霊をお祀りしております。

摂社:奥宮、高房社、三笠社、跡宮、鳥栖神社、沼尾神社、坂戸神社

末社:須賀社、熊野社、津東祝詞社、稲荷社、潮社、阿津社、熱田社、御厨国主社、海辺社、鷲社、押手社、年社

所管社:大国社



旧東神門跡
現地説明板より
石灯籠

元和5年(1619)に社殿造営に関係した安藤対馬守が奉納(茨城県指定文化財)



国歌にも歌われる、巌(いわお)となった「さざれ石」
現地説明板より
さざれ石の由来

さざれ石(石灰質角礫岩)は、石灰岩が長い年月の間に雨水で融解し、その粘着力の強い乳状液が次第に小石を凝結し、段々と大きくなりついには巌となり、河川の侵蝕により地表に露出し苔むしたものであります。

国歌「君が代」は天皇の御代の弥栄をさざれ石に託して詠んだ歌がもととなっており、天皇大御代が千代に八千代に年を経て、さざれ石の巌となって苔のむすまで永く久しく栄えますようにという祈りの込められた歌であります。

古今和歌集・巻七賀歌に、題知らず読人知らずの歌として「わが君は 千代に八千代に細れ石の巌となりて 苔のむすまで」とあります。

「君が代」は神事や宴席で最後に歌われる祝歌として各地に広がり、浄瑠璃や謡曲にも取り入れられ、朝廷から一般庶民に到るまで全国津々浦々で歌われる歌となっていきました。

国歌「君が代」は明治26年、日本国歌に制定され、大正時代にニューヨークで開催された世界の国歌コンクールで特等となりました。


国歌「君が代」
君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで


国旗について

古来、日本人は太陽を信仰の対象としており、国名「日本」も国旗「日章旗」日の丸も太陽崇拝に起源するものと思われる。

日章旗が国旗として扱われるのは明治以降で、平成11年施行の国旗国歌法により正式に国旗として定められた。


「日の丸の旗」明治44年(1911)高野辰之 作詞岡野貞一 作曲

一、白地に赤く日の丸染めて ああうつくしや日本の旗は

二、朝日の昇る勢い見せて ああ勇ましや日本の旗は



神宮境内、21万坪の樹叢は「神の森」といえる荘厳さ
現地説明板より
樹叢(じゅそう)

鹿島神宮境内、約70ヘクタール(70町歩)に繁茂する植物は1,000種の多種にわたり、特に南限北限の植物が同生して植物学上貴重なため、県の天然記念物の指定を受けている。



照葉樹林の北限、フウランなどの北限をなす
現地説明板より

天然記念物
鹿島神宮の森について

最近、森林浴という言葉が話題になっています。これは緑豊かな森の樹木や草花などが発散する殺菌力のある芳香性の物質(フィトンチッド)が人間にも良い影響を与えることから、林野庁が提唱しているものです。

鹿島神宮の森は、その上に「極相林(きょくそうりん)」といって森が到達する極限の状態でありますので、人の心を和らげ、活動を促す精神的な働きもあります。このような姿を昔の人は神々しい森という言葉で讃えましたが、和らぎと明日への活力づくりに皆さんもゆっくりと森の香気にふれて下さい。

なお、境内の宮水である御手洗の湧水も昔から長命水といわれておりますので、この真清水をも賞味され、健康で活力ある毎日をお送り下さい。






重要文化財「奥宮(おくのみや)」


現地説明板より
重要文化財「奥宮」

祭神 武甕槌大神 荒魂

本宮御祭神の「荒魂(あらみたま・分け御魂のことで躍動する魂のこと)」を奉祀する。


社殿 慶長10年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるにあたり、現在地に引遷して奥宮社殿となった。

明治34年国宝指定、現・重要文化財。



「此松の 実生せし代や 神の秋」

俳聖・松尾芭蕉が当神宮に参拝したおり詠んだ句(1687)。「神前」の前書がある。



地震を起こす「大鯰(おおなまず)」の頭を押さえる

「要石」を祀る
大鯰(おおなまず)を押さえているという説話により、当地方は大地震にも被害が少ないという

意外にも、「要石」は子供の頭ほどに小さい
現地説明板より
要石(かなめいし)

神世の昔、鹿島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも。あるいは古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。

この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まるところ知らずという。

水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても掘っても掘り切れずと書かれ、地震押さえの伝説と相まって著名である。信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。


大地震(おおなゑ)に びくともせぬや 松の花」 一茶

小林一茶は文化14年5月26日、鹿島へ詣で右の句を詠みました。


芭蕉句碑

枯枝に 鴉(からす)のとまりけり 秋(穐)の暮



潔斎の池「御手洗(みたらし)」

池の水温は一定して夏は冷たく冬は温かく感じられるという
現地説明板より
御手洗(みたらし)

池水清冽にして四時滾々とし、一昼夜約2,400〜2,500石(432〜450キロリットル)を湧出す


古来、神職ならびに参拝者の潔斎の池である池の水は、清く美しく澄み四時滾々と流れ出て、どのような旱魃にも絶えることのない霊泉で、神代の昔、御祭神が天曲弓(あめのまがゆみ)で掘られたとき、宮造りの折一夜にして湧水したと伝えられ、大人小人によれず水位が乳を越えないという伝説により七不思議の一つに数えられている。

大昔は当神宮の参拝がこの御手洗を起点としてこの池で身を清めてから参拝するので御手洗(みたらし)の名が今に残るのである。



涼しさや 神代のまゝの 水の色

松露庵雪才



古くは御手洗のあたりが参道の起点であったという。
その名残りか、今は裏口のような園の入口にも大きく土が盛られている。



神の使いの子孫「神鹿」

鹿園には、およそ30頭が飼育されている
現地説明板より
神鹿について

鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)様のところへ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)様のご命令を伝えに来られたのが「天迦久神(あめのかぐのかみ)」という方で、鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっています。

神護景雲元年(西暦767年)に、藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建しましたが、そのとき、御分霊を神鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れて一年がかりで奈良まで行きました。

その鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨(ししぼね)をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っています。また、鹿島は古くは香島と書いていましたが、養老7年(723)頃から鹿島と書くようになったのは、この鹿との縁によるものでしょう。

神鹿は長い間大切に保護されてきておりますが、幾度か新たに導入され、現在の神鹿はかつて鹿島から移った奈良の神鹿の系統を受けています。



鹿島八景「鹿島山の晴嵐(せいらん)」

朝ぼらけ 近くききしは鹿島山 松のあらしの さそう鹿の音

吉澤義則



「稲荷社」
現地説明板より
末社 稲荷社

祭神 保食神(うけもちのかみ)

俗に「銚場の稲荷様」と呼ばれ、霊験あらたかで多く人々の信仰を集めている。なお、「銚場」とは直会場(なおらいば)のことで、江戸時代以前はこの広場で祭典の後、直会(なおらい)を行っていたのである。



鹿島七不思議

要石:その根底深くて図り知れずという

御手洗:池の深さ大人・小人によらず乳を過ぎずという

末無川:川の水、流れ行くほど追々かれて行末知らず

藤の花:御山の藤の花の多少により、その年の豊凶を予知すること

海の音:浪の響が上(北)の方に聞こえれば日和、下(南)に響けば雨降るという

根上りの松:すべて御山の内の松、幾度伐れども伐り跡に芽出て枯れることなし

松の箸:鹿島の松で作る箸は、松脂の出たことなしという