〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜
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その日は午後になっていたが、刈田の駐車場まで車で行き、お釜のふちの馬の背を熊野岳をめざしてのぼった。さいわい、よく晴れていて、さわやかな新秋の日差しを浴びながら、ゆっくり溶岩の山肌をのぼった。
ぼくらは茂吉歌碑の手前に建っている熊野神社に礼拝した。石垣に囲まれた祠の境内は、荒天の場合の避難所でもある。この社におまいりをするのは久しぶりのことであった。ぼくらは礼拝を終ってから、祠のぐるりに立っている小さな石碑石仏を一つずつ見てまわった。
蔵王山神社 [熊野岳] |
蔵王山は古くは金峰山とよばれ、不忘山(わすれずのやま)ともよばれた。刈田嶺(かるたね)というのも古い呼び名であろう。その変化の順序はともあれ、山名や神名は石に刻まれてのこっている。刈田岳の山頂にいま祀られている刈田嶺(かるたね)神社は、本尊が降三世明王で本地は釈迦如来といわれる。この神社ももとは熊野岳にあったのだが、元禄七年の夏、噴火があってから移されたと『上山見聞随筆』などには書かれている。
昔から死者のよみがえる山と信じられてきた。古くは火の山として畏れられ霊山として遥拝される山であったが、修験道がおこってからさかんに登攀される山となり、山岳斗擻の修行場となった。鎌倉時代のころから修験道は全国的にとくに盛んになり、蔵王の峰々もまた東北の諸山とともに有数の修験の山となった。
開祖は、どこでもそうであるように、役行者(えんのぎょうじゃ)小角(おづぬ)であるとされ、小角が修行者を守護する神を勧請祈願したときに蔵王権化があらわれ給うたのだと伝えられている。それに先立って、寿永二年(1182)に『蔵王御釜噴火』という記録もあるので、蔵王の名を冠したのも、決して新しいことではない。
蔵王権現信仰がひろまるにつれ、修行者や信仰者の登る参道もひらけ、その登山口にはそれぞれ口の宮がおかれた。口の宮は表口別当が陸奥国遠刈田(とがつた)の嶽ノ坊、裏口別当が出羽国中川口金谷(かなや)の安楽院、脇口別当が出羽国半郷(はんごう)の松尾院と宝沢(ほうざわ)の三条院の四ヶ所におかれた。それらはみな金峰山の山号を掲げ、蔵王権現像を祀っていた。
これらの像は、三眼怒髪の大憤怒相(ふんぬそう)を示している。左手は剣印にして腰にあて、右手は三鈷杵(さんこすい)を握ってかざしながら右脚はつよく岩座を踏まえ、左足は伸ばして虚空に張っている。この勇猛不屈の相貌は強烈で、悪霊調伏の表象とされている。金剛蔵王なのである。
山麓の村々に数えきれないほど遺っている板碑には、蔵王権現の本地である釈迦如来を表わす「バク」の梵字のほか、大日如来を表わす「ア」「アーンク」「バン」の梵字を刻んだものが多い。これは『蔵王山の金石文』を研究した武田好吉氏の調べによるものである。すると、蔵王の大日如来は金剛界大日如来であると思われる。それは、湯殿山の本地が胎蔵界大日如来であるのと相照相受の関係にあるのではないのか。
ぼくらは金峰水分(みくまり)神社だの金日命だの春日社だのと刻んだ十数 基の石碑や、役行者像らしい浮彫りなどを見ているうち、狗犬(こまいぬ)の前に倒れている小さな石碑をみつけた。起こしてみるとそれには、「蔵王」「湯殿」と並べて刻んだ下に「対面石」と彫ってある。これにはおどろいた。蔵王の金石文の研究者がだれもこれをとりあげていないのはどうしたことか。
対面といえば、おもてに合わせて向きあうことであり、対話することだ。むつみあいでもある。山神争闘の民話は多い。けれども山のむつみあいの話をぼくは知らなかった。高さを競いあうのなら、対立してだれにも目につくのはアスピーテの曲型のような月山である。湯殿山はその左肩に瘤(こぶ)のように見えるだけで、月山の褶曲(しゅうきょく)の中にかすんでいる。しかも湯殿の神は、その山のはるかに下にある仙人沢のはざまに祀られているのだから見えるはずもない。
蔵王・湯殿「対面石」[熊野岳] |
しかし湯殿は昔から恋の山として知られている。ご神体そのものが赭ら肌の巨岩で全身を湧きでる湯の泉で濡らしている女体である。荒ぶる神、雄々しさにおいて無双の男神たる金剛蔵王が、月明の夜などにふと心優しくなって、はるかに対向する女神の名を呼んだのであろうか。
ぼくは一基の小さな石碑を台石の上に据えながら、これを刻んだ人の心を思った。神々の名でエロスへの情念をひそかに祈ろうとした悲願は、ひろくて切実なものであったとみられる。それは豊穣をいのる性神への信仰にもむすびついていると思われる。ここで、いちばん大切にされなければならないのは、この対面石なのだ。ぼくはそうひとりで決めてしまった。
ぼくらの地域では、蔵王山を「おひがし」と呼び、出羽三山を「おにし」と呼ぶ。茂吉のふるさとをふくめて、山形の町や村山平野は、この東と西の山にはさまれ、まもられてきた。蔵王は農民にとって、修験道の起こる前から水の源であった。だから旧暦五月二十一日は、水神としての蔵王を祀り、農民も水車業者も、水の使用を休み、餅をついてささげた。
さてぼくらは石室を出て、すぐ西方に建っている茂吉歌碑に近づいて行った。しばらくぶりでみる歌碑は、石肌が鉄いろにくすんでいっそう剛度(ごうど)を増しているように見えた。長い冬のあいだ、硬い水晶が貼りついて凍結するのだから、脆く風化していくのではないかと前に思ったのはまったくの素人考えで、蔵王の安山岩はその密度を年ごとに高めるのではないか。
そう思いながら、雄勁重厚とでもいうべき茂吉の書風をしばらくは見つめていた。気がつくと、郷里金瓶(かなかめ)の頭越しに、湯殿と対面しているのは、いしぶみとなった茂吉である。そうだ、茂吉は十五歳のとき、父につれられて湯殿参りをし、あの女神の前で成人式を挙げている。それからあとも湯殿山信仰は消えなかった。信仰は、蔵王と結びつき、蔵王を通した相称の神への信仰であると見られよう。
茂吉は、いや歌碑は、あちらの方を向いている。もうふりむくこともない。
斎藤茂吉 歌碑 [熊野岳] |
出典:真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』
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