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2016年11月30日水曜日

鴫の谷地[蔵王]



鴫(しぎ)の谷地(やち)沼
面積:66.888平方m
周囲:1.2Km
最大深度:6.8m





斎藤茂吉 歌碑


ひむがしに 直にい向ふ 岡に上り 蔵王の山を 見守りて下る



〜現地・案内板より〜


鴫の谷地沼
斎藤茂吉 歌碑
昭和44年 山形新聞・放送建立


昭和20年、茂吉は郷里の金瓶村(上山市)に疎開生活中に、この歌を詠みました。蔵王山は茂吉にとっては単なる精神の支柱というだけでなく、蔵王を愛する茂吉そのものの姿といえるでしょう。


ひむがしに 直(ただ)にい向(むか)ふ 岡に上(のぼ)り

蔵王の山を 見守(まも)りて下(くだ)る

『小園』昭和20年


歌碑は、自筆書を黒みかげに陰刻し、安山岩にはめ込んだもの。

雑木林の中に、銀ドロの木が2本、ひときわ明るく碑をかこんで風情をそえている。






※ 斎藤茂吉『小園』
第15歌集。歌数782首。62〜64歳まで。昭和18〜21年1月まで。
疎開先の金瓶を去って、再疎開地大石田に赴くまでの期間の歌を収録。題名は「小園(せうゑん)のをだまきのはな野の上の白頭翁(おきなぐさ)のはなともににほひて」に拠ったものである。



佐藤助雄 『振向く』



〜現地・案内板より〜


佐藤助雄『振向く』

1919(大正8)-1987(昭和62)
山形市に生まれる。後に北村西望に師事。

1955(昭和30)日展特選
1980(昭和55)日本芸術院賞受賞




瀧山に朝の光があたりはじめる


横倉瀧


大森ゲレンデ側にカモシカあらわる


啓翁桜


沼の周囲は1.5kmの遊歩道


水神


鴫ノ谷地 溜池 竣工記念碑
昭和22年


周辺地図




2016年11月29日火曜日

南無阿弥陀佛碑と見返り滝[蔵王]



南無阿弥陀仏碑


嘉永二年(1850)五月吉日





〜現地・案内板より〜


南無阿弥陀仏碑
嘉永二年(1850)
初代 孫七 書


川沿いに建つこの古い石碑は、旧高湯村入口に建立されたもので、村人・旅人の安全を祈願したものです。

「一切衆生平等利益」
Wishing for fairness and goodness of people

当時の面影を残し、現在も温泉街と人々の安全を願っております。



高湯温泉(蔵王温泉)のパンフレット絵図


蔵王三山


温泉街


龍山



〜現地・案内板より〜


どんどんびき(見返り滝)
Dondon-biki(Mikaeri-taki)

この川(酢川)は、温泉と山水が混ざり、温かい川になってどんどんと音を立てて流れており、この場所は通称「どんどんびき」と呼ばれています。

This river water consists of quite a bit of hot spring water and mountain water, and it becomes rapid stream around this area. This place is known as Dondon-biki, by the local people, because the stream makes a roaring noise sounds Don-Don.

その昔、子供たちが悪いことをすると「ここから放り投げるぞ」と言われた場所です。

In the past, when the children misbehave, the parents used to say "You will be thrown out to the Dondon-biki so behave yourself" to their kids.

また、元来この滝のあるところが温泉街の玄関口であったので、お客様が帰り際にもう一度温泉街を振り返る場所ということから、この滝が「見返り滝」と呼ばれていました。

Also, a long time ago, this area was the gateway of Zao-Onsen, the river used to called "Mikaeri-Taki (Turning around Water Fall)" as people turn around the Onsen village one more time before leaving.



どんどんびき(見返り滝)


大正8年 電燈が灯ったころ


羽州村山郡 最上高湯村 温泉之図 (弘化二年)




2016年11月19日土曜日

蔵王山と湯殿山[真壁仁]



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


…


その日は午後になっていたが、刈田の駐車場まで車で行き、お釜のふちの馬の背を熊野岳をめざしてのぼった。さいわい、よく晴れていて、さわやかな新秋の日差しを浴びながら、ゆっくり溶岩の山肌をのぼった。

ぼくらは茂吉歌碑の手前に建っている熊野神社に礼拝した。石垣に囲まれた祠の境内は、荒天の場合の避難所でもある。この社におまいりをするのは久しぶりのことであった。ぼくらは礼拝を終ってから、祠のぐるりに立っている小さな石碑石仏を一つずつ見てまわった。



蔵王山神社 [熊野岳]



蔵王山は古くは金峰山とよばれ、不忘山(わすれずのやま)ともよばれた。刈田嶺(かるたね)というのも古い呼び名であろう。その変化の順序はともあれ、山名や神名は石に刻まれてのこっている。刈田岳の山頂にいま祀られている刈田嶺(かるたね)神社は、本尊が降三世明王で本地は釈迦如来といわれる。この神社ももとは熊野岳にあったのだが、元禄七年の夏、噴火があってから移されたと『上山見聞随筆』などには書かれている。

昔から死者のよみがえる山と信じられてきた。古くは火の山として畏れられ霊山として遥拝される山であったが、修験道がおこってからさかんに登攀される山となり、山岳斗擻の修行場となった。鎌倉時代のころから修験道は全国的にとくに盛んになり、蔵王の峰々もまた東北の諸山とともに有数の修験の山となった。

開祖は、どこでもそうであるように、役行者(えんのぎょうじゃ)小角(おづぬ)であるとされ、小角が修行者を守護する神を勧請祈願したときに蔵王権化があらわれ給うたのだと伝えられている。それに先立って、寿永二年(1182)に『蔵王御釜噴火』という記録もあるので、蔵王の名を冠したのも、決して新しいことではない。







蔵王権現信仰がひろまるにつれ、修行者や信仰者の登る参道もひらけ、その登山口にはそれぞれ口の宮がおかれた。口の宮は表口別当が陸奥国遠刈田(とがつた)の嶽ノ坊、裏口別当が出羽国中川口金谷(かなや)の安楽院、脇口別当が出羽国半郷(はんごう)の松尾院と宝沢(ほうざわ)の三条院の四ヶ所におかれた。それらはみな金峰山の山号を掲げ、蔵王権現像を祀っていた。

これらの像は、三眼怒髪の大憤怒相(ふんぬそう)を示している。左手は剣印にして腰にあて、右手は三鈷杵(さんこすい)を握ってかざしながら右脚はつよく岩座を踏まえ、左足は伸ばして虚空に張っている。この勇猛不屈の相貌は強烈で、悪霊調伏の表象とされている。金剛蔵王なのである。







山麓の村々に数えきれないほど遺っている板碑には、蔵王権現の本地である釈迦如来を表わす「バク」の梵字のほか、大日如来を表わす「ア」「アーンク」「バン」の梵字を刻んだものが多い。これは『蔵王山の金石文』を研究した武田好吉氏の調べによるものである。すると、蔵王の大日如来は金剛界大日如来であると思われる。それは、湯殿山の本地が胎蔵界大日如来であるのと相照相受の関係にあるのではないのか。

ぼくらは金峰水分(みくまり)神社だの金日命だの春日社だのと刻んだ十数 基の石碑や、役行者像らしい浮彫りなどを見ているうち、狗犬(こまいぬ)の前に倒れている小さな石碑をみつけた。起こしてみるとそれには、「蔵王」「湯殿」と並べて刻んだ下に「対面石」と彫ってある。これにはおどろいた。蔵王の金石文の研究者がだれもこれをとりあげていないのはどうしたことか。

対面といえば、おもてに合わせて向きあうことであり、対話することだ。むつみあいでもある。山神争闘の民話は多い。けれども山のむつみあいの話をぼくは知らなかった。高さを競いあうのなら、対立してだれにも目につくのはアスピーテの曲型のような月山である。湯殿山はその左肩に瘤(こぶ)のように見えるだけで、月山の褶曲(しゅうきょく)の中にかすんでいる。しかも湯殿の神は、その山のはるかに下にある仙人沢のはざまに祀られているのだから見えるはずもない。



蔵王・湯殿「対面石」[熊野岳]



しかし湯殿は昔から恋の山として知られている。ご神体そのものが赭ら肌の巨岩で全身を湧きでる湯の泉で濡らしている女体である。荒ぶる神、雄々しさにおいて無双の男神たる金剛蔵王が、月明の夜などにふと心優しくなって、はるかに対向する女神の名を呼んだのであろうか。

ぼくは一基の小さな石碑を台石の上に据えながら、これを刻んだ人の心を思った。神々の名でエロスへの情念をひそかに祈ろうとした悲願は、ひろくて切実なものであったとみられる。それは豊穣をいのる性神への信仰にもむすびついていると思われる。ここで、いちばん大切にされなければならないのは、この対面石なのだ。ぼくはそうひとりで決めてしまった。

ぼくらの地域では、蔵王山を「おひがし」と呼び、出羽三山を「おにし」と呼ぶ。茂吉のふるさとをふくめて、山形の町や村山平野は、この東と西の山にはさまれ、まもられてきた。蔵王は農民にとって、修験道の起こる前から水の源であった。だから旧暦五月二十一日は、水神としての蔵王を祀り、農民も水車業者も、水の使用を休み、餅をついてささげた。



さてぼくらは石室を出て、すぐ西方に建っている茂吉歌碑に近づいて行った。しばらくぶりでみる歌碑は、石肌が鉄いろにくすんでいっそう剛度(ごうど)を増しているように見えた。長い冬のあいだ、硬い水晶が貼りついて凍結するのだから、脆く風化していくのではないかと前に思ったのはまったくの素人考えで、蔵王の安山岩はその密度を年ごとに高めるのではないか。

そう思いながら、雄勁重厚とでもいうべき茂吉の書風をしばらくは見つめていた。気がつくと、郷里金瓶(かなかめ)の頭越しに、湯殿と対面しているのは、いしぶみとなった茂吉である。そうだ、茂吉は十五歳のとき、父につれられて湯殿参りをし、あの女神の前で成人式を挙げている。それからあとも湯殿山信仰は消えなかった。信仰は、蔵王と結びつき、蔵王を通した相称の神への信仰であると見られよう。


茂吉は、いや歌碑は、あちらの方を向いている。もうふりむくこともない。



斎藤茂吉 歌碑 [熊野岳]



出典:真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』




甘茶屋跡と南無妙法蓮華経碑[蔵王温泉]



甘茶屋跡 五海道中細記


〜現地・案内板より〜


甘茶屋跡


由来

この一帯は高湯温泉(蔵王温泉)を訪ねる旅人の休息(助け小屋)の地として栄えた甘茶屋跡で、俗に「おみきの茶屋」と呼ばれ親しまれた場所です。

朝靄(あさもや)のなか、見下ろす風景は大海原の島々を思わせる眺望に似て、「沖見の茶屋」と呼ばれる由縁でありました。






自動車道路の開設とともに茶屋はなくなりました。

この稲荷は当時より甘茶屋の守護神として祭られ、いまも堀畜産により守り継がれております。


権兵衛稲荷大明神





〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


茂吉が幼かったころは、湯治客はすべて徒歩で高湯(いまの蔵王温泉)まで通った。

上野(うわの)という集落をすぎると童子平(どうしだいら)という台地に出る。そのとっぱなに甘酒茶屋(あまさけじゃや)があって、そこで清水につけて冷やした甘酒を飲んだり、トコロ天に酢醤油(すだまり)をかけたのを一本箸ですすったりして、また歩き出すのである。

温泉が近くなるにつれて谷も深くなり、道は崖をめぐるつづら折りとなるのだが、やがて滝となって落ちる湯尻(ゆじり)の音が樹間から聞こえてくるころには、きつい湯の香が鼻をつく。硫黄泉のにおいである。そこでいよいよ高湯に着いたのだという実感を味わう。


見返り滝



通りを挟んだ山腹に、南無妙法蓮華経の石碑が建っている。


南無妙法蓮華経の石碑


右側面「七靣(面)大明神」
五穀成就・村内安全


右側面・下部


寄進中

山形世話人

大瀧市良次
富田勘四郎
佐治吉左エ門
富田傳兵衛
同 源次
大樌傳三郎
丹野○○○

願主 當村 善藏



黄葉の残るなか、初雪がふった。



〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


甘酒茶屋


往時山形、高湯間の道路は元堀田村山の神から同志平に登り、首無地蔵を通り、字元かずらを経て茶屋上に出たのである。

この茶屋と言うのは近年までその面影を残していた甘酒茶屋のことであって、これは、文化、文政の頃からあったと言うことである。昔は此処を人助茶屋とも言って、長い山道で唯一の休み場であった。高湯温泉でも協力して保存に努めたので、封建時代から移り変わった世の中に存続して来たのである。行き暮れて困った人が泊ったこともあろう、甘酒茶屋は今は面影すらもない。

昭和二十年頃道路が変更になり、日増しひ自動車が発展して来て、甘酒茶屋はその目的である休憩の場所で無くなった。山道を歩いた人、籠を担いだ人、それらは皆バスと言う便利な乗物で甘酒茶屋の前を素通りしてゆく時代になって仕舞った。

斯くして休み茶屋はなくなったが、経営者は蔵王温泉に移って現在でも有数の成功者として称えられている。先祖から積み重ねた人助けの因縁と思うのは、私が老人である故ばかりではないかと思う。




2015年6月6日土曜日

請雨塔・普潤碑 [山形市・羽竜沼]


請雨塔

普潤碑



普潤碑

羽州最上之地累 嵗旱魃而耕種不登百穀苗稼悉欲枯増也 矣因茲當地民生 杓愁攅肩也
依 請萬松全牛和尚嗣子鐡山具壽合請雨具壽來于斯數 回祈雨毎祈雲雨忽□山陸普潤石
穀穫登依是建於斯碑遺功于千載也予此嵗來于茲祭神龍如在之供證共功蹟者也

銘云

累嵗旱魃 百穀不登 苗稼枯稿 民生誰憑
山老斯來 祈雨雲興 雲雨霶霈 普潤丘陵

維時安永七嵗戊戌(1778)八月穀且 千嵗山萬松現住叟俊記焉


出岫閑雲絶所求 無心片々倚山頭 降甘雨有神龍力
一□灑時邱海流     前萬松 牛鐡叟書
            請雨武州人事鐡山建焉


※千嵗山萬松寺 第拾八世 鐡面全牛和尚 寛政四年八月九日寂
※千嵗山萬松寺 第拾九世 寂叟知俊和尚 天明二年四月朔日寂


瀧山、羽竜沼のほとりに建つ