2016年11月23日水曜日

青根温泉[斎藤茂吉と真壁仁]



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


青根温泉
蔵王にのぼらむとする道にわかれ


ぼくらは澄川(すみかわ)の峡谷にある峨々(がが)温泉へいったん降りたあと、青根温泉へ急いだ。

蔵王にのぼらむとする道にわかれて峨々温泉に行く人のあり

は、刈田岳の山腹の道で歌ったものであったろう。その道は今、車で越えることのできる観光道路である。



茂吉が父母とともに青根(あおね)へ湯治に行ったのは明治19年、茂吉5歳の夏のことである。大正15年になってから思い出して「青根温泉」と題する小文に書き、雑誌『改造』四月号に他の文章といっしょに発表した。それは昭和5年 刊、随筆集『念珠集』に収載されている。






何しろ40年経ってからの思い出であり、その40年前には5つの子どもであったのだから、くわしいことは書かれていない。どの道を通って金瓶(かなかめ)から青根へ出たのか、何という宿に泊ったのか、それが書かれていないのである。

しかし大切なことは記憶されている。文章は簡明な名文である。


父は五つになる僕を背負ひ、母は入用の荷物を負うて、青根温泉に湯治に行つたことがある。青根温泉は蔵王山を越えて行くことも出来るが、その麓を縫うて迂回して行くことも出来る。



青根温泉に行つたときのことを僕は極めて幽かにおぼえてゐる。父を追慕してゐると、おのづとその幽微になつた記憶が浮いてくるのである

斎藤茂吉『念珠集』


ぼくらは不忘閣という宿にあがった。玄関には、永々湯主佐藤仁右衛門という看板がかけてあり、門前には

夕方の虹見下ろして欄に倚る

という虚子の句などが石に彫って建ててあった。



浴場には高い樋から湯が滝になって落ちている。湯槽はすべて石でできていて、湯がそこから絶えず溢れている。女湯にも湯の滝が同じようにあり、浴槽の中ほどまでは石のしきりで境されているが、半ばは男湯と続いている。

茂吉は、宿に着いて、庭の中の四角な生け簀(いけす)にきれいな水を透かして鰻(うなぎ)がいっぱいいる泳いでいるのにまず目をとめている。こんなにたくさんん鰻のいる情景をはじめて見たのである。


それから宿へ著くとそこの庭に四角な箱のやうなものが地にいけてある。清い水がそこに不断にながれおちて鰻が一ぱい泳いでゐる。そんなに沢山に鰻のゐるところは今まで見たことはなかつた。
斎藤茂吉『念珠集』


それから帳場のようなところにいる女が、自分の母などよりいい着物をきている。愛想よくにこにこして笑顔をつくって、近よって行くと菓子をくれたりする。自分の母は家にいるとき休みもなく働いているのに、ここにいる女は働くこともしないで、いい着物をきて坐っている。それを不思議におもった。



帳場のやうなところにゐる女は、いつも愛想よく莞爾(にこにこ)してゐるが、母などよりもいい著物(きもの)を著てゐる。僕が恐る恐るその女のところに寄つて行くと女は僕に菓子を呉れたりする。母は家に居るときには終日忙(せは)しく働くのにその女は決して働かない。それが童子の僕には不思議のやうに思はれたことをおぼえてゐる。

斎藤茂吉『念珠集』

小水が近いのは、茂吉にとって生涯悩みの種であった。弟の高橋四郎兵衛によれば、子どものとき、母は大きい犬の皮を布団に敷いて、そのうえに上敷きを敷いて茂吉を寝せた。

「夜中に洩らすと犬の皮ぐるみ、くるくると巻いて縁側に出すが、その後また布団の上に洩らすという工合(ぐあい)だった」

青根入湯中も毎晩のように夜尿をした。父も母もそれには慣れていたが、さすがに旅館の布団だから気をつかった。天気がよくなると、父はまるめた布団を屋根のうえに持ち出し、そっとひろげて干した。茂吉はひとごとのようにそれを見ていて「器械体操をするやうな恰好(かっこう)をして父が布団を屋根のうへに運んだのを僕はおぼえてゐる」と書いている。


僕は入湯してゐても毎晩夜尿(ねねう)をした。それは父にも母にも、もはや当りまへの事のやうに思はれたのであつたけれども、布団のことを気にかけずには居られなかつた。雨の降る日にはそつとして置いたが、天気になると直ぐ父は屋根のうへに布団を干した。器械体操をするやうな恰好(かつかう)をして父が布団を屋根のうへに運んだのを僕はおぼえてゐる。
斎藤茂吉『念珠集』


滞在中、蔵屋敷で、湯治客が集まって余興の会をやった。雨でみな室にとじこめられていた日のようである。客たちがみんなで芝居の真似ごとをする。中には仙台の方からきている婆さんなどもまじっている。

そのとき茂吉たちは入口のあたりで見ていたのだが、突然父が飛び出していって、ヒョットコを踊った。踊ったあとに面をはずし、こんどは囃子方(はやしかた)のほうへ廻って笛を吹いた。たぶんそのとき、茂吉はふっくらした母の膝に抱かれて、滑稽な父のしぐさをじっと見ていたのだ。父はこのとき35歳、母は31歳だったはずである。


或る日に、多分雨の降つてゐた日ででもあつたか、湯治客(たうぢきやく)がみんなして芝居の真似(まね)をした。何でも僕らは土戸(つちど)のところで見物してゐたとおもふから、舞台は倉座敷であつたらしい。仙台から湯治に来てゐる媼(おうな)なども交つて芝居をした。その時父はひよつとこになつた。それから、そのひよつとこの面(めん)をはづして、囃子手(はやして)のところで笛を吹いてゐたことをおぼえてゐる。
斎藤茂吉『念珠集』


「青根温泉」という小文の最後は、いかにも茂吉らしくておもしろい。そこにはこう書かれている。


父の日記に拠(よ)ると、青根温泉に七日ゐた訣(わけ)である。それから、

『明治二十丁亥(ひのとゐ)年六月二日。晴天。夜おいく安産』。

と父の日記にあつて、僕の弟が生れてゐるから、青根温泉湯治中に母は懐妊(くわいにん)したのではないかと僕は今おもふのである。


斎藤茂吉『念珠集』


最近、『茂吉の足あと』を出版した上山市長・鈴木啓蔵さんの話によれば、茂吉が父の背に負われて青根に行ったのは、ナンバ越えの道だったという。ともかくまだ夜なかにもならぬに家を出て、小田原提灯か何かで足もとを照らしながら山道を行ったのである。


父は小田原提灯(ちやうちん)か何かをつけて先へ立つて行くし、母はその後からついて行くのである。山の麓の道には高低いろいろの石が地面から露出してゐる。石道であるから、提灯の光が揺いで行くたびにその石の影がひよいひよいと動く。その石の影は一つ二つではなく沢山にある。僕が父の背なかで其(それ)を非常に不思議に思つたことをおぼえてゐる。

まだ夜中にもならぬうちに家を出て夜通(よどほ)し歩いた。


斎藤茂吉『念珠集』


明けがた豪雨があって、雨は合羽(かっぱ)を通すほど降った。川を渡ろうとすると、増水で橋は流されてしまっている。その激流を父はいちど渡ってみる。それから引きかえしてきて、こんどは母の手を引きながら用心してわたった。

その情景を茂吉は記憶をたぐりながら書いている。父母にたいする茂吉の追慕の思いで書かれているのだが、描写としてもても、簡潔ななかに湯治場へと山越えする親子の姿が浮彫りにされている文章なのである。


あけがたに強雨(がうう)が降つて合羽(かつぱ)まで透した。道は山中に入つて、小川は水嵩(みづかさ)が増し、濁つた水がいきほひづいて流れてゐる。川幅が大きくなつて橋はもう流されてゐる。山中のこの激流を父は一度難儀してわたつた。それからもどつてこんどは母の手を引(ひ)かへて二人して用心しながら渡つたところを僕はおぼえてゐる。


斎藤茂吉『念珠集』








茂吉は母の死をかなしみ、ほとんど慟哭のひびきをもつ「死にたまふ母」一連の挽歌を書いた。

みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる

にはじまる、その挽歌の悲しみのしらべの深さに比べ、父が死んだときの歌はたった二首にすぎない。

わが父が老いてみまかりゆきしこと独逸の国にひたになげかふ

七十四歳になりたまふらむ父のこと一日おもへば悲しくもあるか

それは、遠く留学中で死に目に会えなかったということもあり、長寿を完うして命終(めいじゅう)を迎えたのだとの思いもあってのことであろう。


僕は計らずも洋臭を遠離(をんり)して、東方の国土の情調に浸つたのであつた。さういふ心の交錯のあつたときに、僕は父の訃音(ふおん)を受取つた。七十を越した齢(よはひ)であるから、もはや定命(ぢやうみやう)と看みても好(よ)いとおもふが、それでもやはり寂しい心が連日湧(わ)いた。

夜の暁方(あけがた)などに意識の未だ清明(せいめい)にならぬ状態で、父の死は夢か何かではなからうかなどと思つたこともある。併(しか)し目の覚めて居るときには、いろいろと父の事を追慕した。それは尽(ことごと)く東海(とうかい)の生れ故郷の場面であつた。

「念珠集」は所詮、貧しい記録に過ぎぬ。けれどもさういふ悲しい背景をもつてゐるのである。



斎藤茂吉『念珠集』


留学から帰りつつあった大正13年、茂吉は青山の病院が失火のため全焼したことを知った。焼失したものの中にはドイツで苦心して買いあつめ、すでに送ってあった医学書もふくまれていた。専門の医学の研究をなげうつほかないと思うほど、その業火は茂吉に深い衝撃をあたえたのである。

しかし大正15年になって、その衝撃もしだいに癒されるにおよんで、少年時回想の随筆『念珠集』十篇を書いた。その中には、くわしく父の姿が描かれている。時の経過のなかで感傷を風化させてはいるが、父を思う心情は浅いものではない。

二人の兄や、弟、妹にたいする情義も茂吉は深かった人だが、父を描いた『念珠集』は「死にたまふ母」と双璧をなすものかもしれない。父のことを決して忘れてはいなかったのだ。

ぼくは、刈田の峠を越え、羽前の山野が見えはじめるころ、しきりにそのことを思ったのである。


これ(父の日記)を見ると、父は十年前に高野山にのぼり偶然にも北室院に宿泊して、宿料が一円五十銭なのに、日牌料(につぱいれう)七円五十銭も上げてゐる、これは、僕の母のために供養(くやう)して貰つたのに相違ない。母は大正二年に歿(ぼつ)したのだから、大正四年は三回忌に当る都合である。

父の日記に拠(よ)ると、高野山を半日参詣して直(す)ぐその午後には下山して居る。仏法僧鳥(ぶつぽふそう)を聞かうともせず、宝物(はうもつ)も見ず、大門の砂のところからのびあがつて、奥深い幾重の山の遙(はる)か向うに淡路島(あはぢしま)の横(よこた)ふのも見ようともせず、あの大名の墓石(ぼせき)のごたごたした処を通り、奥の院に参詣して半日つぶして直ぐ下山して居る。

道中自慢であつた父も、その時は既に六十四五歳になつて居り、四十歳ごろから腰が屈(まが)つて、西国(さいこく)の旅に出るあたりは板に紙を張りそれを腹に当てて歩いてゐた。さうすれば幾分腰が延びていいなどと云つてゐたのだから、高野の旅なども矢張り難儀であつたらうと僕はおもふ。そして、僕らが食べたやうな、汁の中にしよんぼりと入つた饅頭(まんぢゆう)を父も食べたのだらうとおもふと、何だか不思議な心持にもなるのであつた。

これを「念珠集」の跋(ばつ)とする。


斎藤茂吉『念珠集』







出典:真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』




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