2016年11月28日月曜日

下湯[蔵王温泉]



蔵王温泉


下湯 共同浴場



〜現地・説明紙より〜


当浴場の温泉表示

温泉地名:蔵王温泉
利用施設名:下湯共同浴場

源泉名:蛇荒川折口・インキョ・上の川混合源泉
採水位置:山形市蔵王温泉字中森886番地、882番地の2
泉質:酸性・含硫黄・硫酸塩・塩化物温泉
源泉の温度:56.9℃
供用場所での温度:43.0℃
水素イオン濃度:pH 1.8

加水:源泉温度が高いので、水道水(井戸水)を加えて温度調節をしています。
加温:加温は一切行っていません。
かけ流し・循環ろ過:温泉水は、すべてかけ流し(放流式)です。
入浴剤・消毒:入浴剤、消毒剤は一切使用していません。

当館は、社団法人山形県温泉協会に加盟しており、安心して利用できる温泉を提供しています。

施設名 下湯共同浴場



源泉かけ流し



〜現地・案内板より〜


蔵王温泉の由来
The origin and evolvement of Zao Onsen


日本最古の温泉の一つに数えられる蔵王温泉は、西暦110年、日本武尊の蝦夷征伐に従軍した吉備多賀由が発見し、傷ついた身体をこの湯に浸かり完治したと言われています。

Zao Onsen is counted among the oldest Hotsprings in Japan. It is said that around year 110 of the Christian era, this hot springs was discovered by a wounded warrior named "Kibino Takayu", in which he was completely recovered from a serious injury after he bathed a couple times. 

また、日本書紀を含む六国史の日本三代実録にも蔵王温泉(酢川温泉神社)の記述が残されており、山形城主・最上義光公も当温泉を愛したと言われています。

This hot spring area was used to called "Takayu Onsen", and described in one of the oldest historic book in Japan "Nihonshoki" published in seventh century. It is also said that Mogami Yoshiaki, the Lord of Yamagata Castle, (1546-1614) loved Takayu Onsen.

蔵王山は、古来より山岳信仰の霊山と称されており、特に龍山には三百坊舎があり(出羽風土記参照)多くの修験者がこの湯に浸かり身を清めました。

Zao Cordilleras was also known as "Hallow Mountain" of the ancient mountain worship; holy men used to come and bath at Takayu Onsen to rest and purify their bodies.

標高900mの高地に湧き出す温泉は、日本有数の強酸性泉で、切傷、皮膚病、胃腸病に効果があり、「美人の湯、子供が丈夫に育つ湯」としても知られています。

Zao Onsen is one of the strongest highly acidic springs in Japan, and it is not only said to be good for cut, skin diseases and gastrointestinal illness, but also known as "Springs of the beauty" and "Springs for raising the healthy children."

昭和25年に蔵王山が日本観光地百選の山岳部第1位に輝いてから、それまで呼ばれてきた高湯温泉を蔵王温泉に改め今日に至っています。

On 1950, Mt. Zao was chosen a winner of Mountains category of "Best 100 Tourist site in Japan", and "Takayu Onsen" was renamed as "Zao Onsen" and continuing the development.



足湯



〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


高湯の湯治
木村富子





高湯温泉はその頃ようやく旅館の形態を整えていたが、余り行届いたサービスとては無かった。或時、行きつけの○屋が満員だというので、夏休みだったと思うが親戚の小学生など連れて、急に知人から紹介して貰った○○屋に投宿した。

二、三日なので「はたご」で依頼したが、通された処は古い座敷で、濡縁の下は崖になっていて、その下に細い道がだらだらと坂になっていた。折角来たのにと思って私はがっかりしたが、相手は子供達なので、すぐに裸になって表側の方に面した浴場に行った。

何しろ高湯は子供の「疳」に効くと言われているが一寸した皮膚の傷でもあると猛烈に痛い、しかし我慢して這入って仕舞えば大したことはないが、又湯から出る時空気にふれると飛び上るように痛い、それを事もあろうに四才になる皮膚炎の姪を連れて来たのであるから、浴場は大騒ぎである。泣き叫ぶのを湯から上げて、タオルの上で一面にシッカロールをつけるのだが、大きい子供に手伝わせて大奮闘である。しかしその後は大変さっぱりして気持良さそうであった。



子供連れのことなので果物やお菓子を持参して行ったが、荷物と一緒に床の間に置いたり、地袋の棚の中へ入れたりして寝んだが、翌朝床の荷物が散乱していて、地袋の中の梨とぶどうは皆鼠に喰い散らかされていた。

おまけに大きな糞が沢山落ちていたのである。しかし、こんな時にも女子供連れの客である私は、宿に一言の不平も言えなかった。女中さんに一言「鼠が出て果物皆食べられて仕舞った」と唯それだけ。子供達が、がっかりしたので、外へ行って何かお菓子を買って来たのだった。

紬の風呂敷を囓られたのが私は一番悲しかったが、不思議なことに、夜眠っている部屋を鼠が走り廻ったりして、細菌を一っぱい撒き散らしていったことなど、余り気にしないでいられたと言うのは、私の知能指数が低かったのか、時代的な認識なのか、今では一向判らないのである。

二晩泊って三日目に帰宅したが、皮膚炎の○子ちゃんは、浴室で二日間声を限りに泣いたので、帰宅してよく見ると、脱腸していて驚いた。






「蚤しらみ馬の尿する枕元」

封人の家の修復で脚光を浴びた陸羽東線「堺田」、芭蕉さんの歩いた三百年前ならば、旅としらみは当然の付き物であったことと思う。

蚤、しらみが一般家庭に棲息していたのは、極最近迄のことである。DDTなる物が現れる前までは、個人の家庭がいくら清潔にしていても、どこかで蚤が発生し、どこかで、しらみがもぐり込んで来たものである。

戦争末期の猛烈な繁殖は今でも記憶する人が多いと思うが、大正時代には学童の頭髪、下着等に根が絶えず田舎に行く程教師も困ったものであった。



或年、昭和○年、私は小さい子供達と老母を連れて高湯に行った。始めて行ったのである。バスは山形、蔵王間六十 銭位と覚えている。紹介して貰った○屋に五日程泊っていて、老母だけもう暫く湯治すると言うので、宿に食事を依頼して先に帰ったのであった。

当時の高湯温泉は殆どが自炊制であったが、「はたご」として泊まれば食事も出してくれたのである。部屋も同宿を拒む訳に行かず、人の出入りが多いので、蚤の活躍は致し方がないが、大きな蠅が食べ物の上を飛び廻り、便所やゴミ棄場には黒くなる程群っていた。これには何としても耐えられない思いであった。

二週間も老母は滞在していたが、迎いに行く時は子供を近所に頼んでおいて、私が独りで迎いに行った。老母はその頃七十才位かと思うが、「綺堂捕物帖」と言うのを読んでいて少しも退屈しなかったと云うが、家に帰って驚いたのは、頭髪の「しらみ」であった。実に見事に半白の髪の毛に巣喰っていたのである。老母曰く「毎日温泉で頭を温めると気持ちが良かったから、温めていたのでそれで殖いたのだね」。こんなこともあった。

誠に長閑な浮世風呂を思わせるものであった。



近隣に無料駐車場あり



話:飯田煕男(第一通信社クリエイティブ部副部長)





たいていの物には、表と裏がある。だが、球体に表と裏をみつけることは難しい。蔵王山もまた然り。

宮城県では蔵王山の表は宮城側だという。山の形の美しさが問題にならぬ。山形人のありがたがっている蔵王は裏側にすぎない。すると、山形人もまけてはいない。山形側から見た蔵王山の美しさがわからぬとは、よほどフィーリングのない連中だ。第一、山形側には竜山という前山があり、蔵王温泉があるではないか。すべての点から蔵王の表は山形側である。

かくて球体のように蔵王山に表と裏をきめることは、きわめて困難だ。ともあれ、山形人も宮城人も蔵王を愛することに於いて共通している。





このころの蔵王温泉は、まだ近在の人たちの保養地的な性格が強く、蔵王というよりは高湯の名で知られている。

今日同様、蚊はいなかったが、旅館に宿泊すると蚤の大歓迎。それだけ衛生設備や、環境衛生思想が未発達だったことになる。たまりかねた客が高湯の悪評をたてる一方、県や警察に苦情をもちこんだりしたために、それまで旅館同士が互いの利益保全を目的として、分家をしない、よそものを入れないなど閉鎖的な内容で結ばれていた協定が、話し合いによって解消され、自由競争の時代を迎える。







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