2016年11月27日日曜日

沢庵和尚と春雨庵[山形県上山市]



通りから見る「春雨庵」







〜現地・案内板より〜


春雨庵の由緒


江戸幕府の厳しい宗教統制のなかで、元和法度(幕府の禁止令)や紫衣(しえ)事件に抗議した京都大徳寺153世の沢庵禅師は、寛永6年(1629)8月、この上山に流されてきました。

当時の藩主・土岐頼行は、この地に小庵を建て居住させたが、沢庵は殊の外この小庵がお気に入り、自ら「春雨庵」と命名し、花鳥風月を愛でながら配流の身を慰められたと言われています。

藩主・頼行も、名僧・沢庵に帰依して教導を仰ぎ、上山藩政史上、顕著な治績を挙げ、領民からも名君として慕われました。



寛永9年(1632)7月、三代将軍・家光により赦免された沢庵は、3年間の流刑生活を終え江戸に帰られたが、この間、禅道のほか、詩歌・風流の道、水利や築庭の設計など、京都や江戸の文化を伝え、領民のためにも広範な知識を授け、城下町の発展に貢献されました。

寛永16年(1639)4月、沢庵に帰依した将軍家光は、江戸品川に東海寺を創建し、沢庵を住職に迎え開山としました。

沢庵は、江戸になっても上山の春雨庵で過ごした頃が忘れられず、時折、語り種(かたりぐさ)になるので、正保元年(1644)に頼行は上山の春雨庵を模して、東海寺の境内に塔頭(たっちゅう)を建立し、その名も春雨庵と名付け、土岐家の菩提寺としました。



爾来、幾星霜を経て品川春雨庵が一部改造の際、一間(ひとま)の長押(なげし)と天井板などを譲り受け、昭和30年7月、この地に復元したのが現在の春雨庵であります。

正面には沢庵の尊像(原図は吉川英治、作は初代野川陽山)と、茶人でもあった沢庵を偲び、南側には日本茶道院石山太柏設計による茶亭(望岳 軒[ぼうがくけん]、聴雨亭[ちょううてい])および飯田十基設計の茶庭が配されています。

また、この「春雨庵跡」は、昭和28年8月31日、山形県史跡に指定されたものであります。



春雨庵にて詠める歌 二首

花にぬる胡蝶の夢をさまさじと ふるも音せぬ軒の春雨

浅くともよしや又汲む人もあらば われにこと足る山の井の水





沢庵禅師 春雨庵



春雨



春雨庵 内部 沢庵禅師 木像


〜現地・石碑文より〜


澤庵禅師 遺跡 春雨庵 復元記念誌


江戸二代将軍徳川秀忠の寛永六年 京都大徳寺の高僧沢庵禅師 紫衣勅許事件により徳川幕府の忌諱に触れ抗弁するも入れられず 羽前は上山城主土岐山城守頼行に謫流預けの身となる

城主頼行日頃その徳を敬仰し閑寂を好む禅師のためこの地に草庵を与えし処 禅師殊のほか欣び春雨の二字を木額に掲げ春雨庵と称し 家光三代将軍となるや寛永九年赦免となるまで三ヶ年 禅師この草庵に配所の月を眺めし遺跡なり

将軍家光禅師に深く帰依し江戸品川の地に東海寺を建立 寛永十六年落慶の上開祖としてこれを迎える 特に禅師の為に春雨庵をこの地上山より東海寺に遷しその徳に酬いたり

然るに今次太平洋戦争により帝都灰燼に帰したるも幸い春雨庵のみ戦禍をまぬがる 昭和二十六年村尾要助氏の提唱により春雨庵復元保存会を結成 旧庵所有者土岐 章管理者伊藤康安両氏諒承のもと旧庵の天井なげしその他を譲り受け 昭和三十年七月落慶入仏式を終え完成をみたのである

さらに禅師愛用の山の井の水は滾々として今も尽きることなく 茶人禅師を偲ばんと石山太柏氏設計の茶室二軒 茶庭築造は飯田十基氏の指導により風致を添えたり

茲に春雨庵復元再興のため協力せる奉賛御芳名とその記録を永く伝え 特に本事業に尽瘁せられたる故村尾要助夫妻 石山太柏 伊藤康安 野川陽山氏をはじめ当時役員たりし斎藤又兵衛 朝一圭鳳氏等 先人の功績を顕彰すべく今般沢庵禅師遺跡 春雨庵保存会再発足を機に大方の寄進を仰ぎ記念碑を建立せるものなり



澤庵禅師 遺跡 春雨庵 復元記念誌


禅師尊像 西村清一郎鋳造


尚 記念碑の禅師尊像は山形市銅町西村清一郎氏の鋳造寄進になるもので 昭和二十七年村尾旅館御宿泊の際 今上陛下の天覧を賜わりしものなり

昭和五十八年八月十五日 春雨庵保存会 庄司三郎撰文 岡村利三郎 謹書



土岐灯籠


〜現地・案内板より〜


土岐灯籠の由来


寛永六年(1629)、上山藩主土岐頼行公は、江戸幕府の厳しい宗教統制から紫衣(しえ)事件に連座し、上山に配流された京都大徳寺第153世住持の沢庵禅師を、この春雨庵に迎え厚遇し、三年間禅師を尊師として教導を仰ぎ、上山藩政史上格別の治績を遺し、領民からも名君と慕われ、二代藩主頼殷(よりたか)公は大坂城代にまで栄進した。

元禄六年(1693)、頼殷(よりたか)公は東京都港区虎ノ門の江戸見坂に上屋敷を拝領され、その後、三度の屋敷替えもあったが、明治三十一年(1898)まで代々の土岐氏が居住した。

その屋敷跡の庭園が、昨年七月に改造されることになり、土岐家19代当主實光氏のご厚意により、上山土岐会にその庭園にあった石灯籠六 基と七層石塔一 基が寄贈された。

この灯籠の様式は、江戸時代中頃の風格を持つ貴重なものであり、上山市とも協議のうえ、「土岐灯籠」と命名し、上山市制施行並びに上山郷土史研究会発足50周年記念事業として、会員や有志の協賛と上山市の援助により、土岐氏と縁の深い当春雨庵に灯籠一基を建立したものである。

平成十六年四月十五日
上山土岐会
上山郷土史研究会



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜




地元のSさんや記念館の事務局長の案内で、ぼくらは茂吉の弟の旅館山城屋の前を通り、月岡公園で二つの茂吉歌碑を見、それから沢庵禅師謫居の跡の春雨庵を訪れた。

茂吉は昭和九年一月に輝子夫人を預かってもらうため上山に来、山城屋旅館に滞在中、雪のつもっている近郊の山みちを歩きさまよいながら、ふかく現世厭離(おんり)のおもいに沈んでいた。人を嫌(いと)う気持から諦念の世界へ落ち込んでいったのである。



斎藤茂吉「上ノ山に籠居したりし沢庵を大切にせる人しおもほゆ」



そういうときに、春雨庵を訪れ

上ノ山に籠居したりし沢庵を大切にせる人しおもほゆ

という歌を詠んでいる。

沢庵を大切にした人というのは、当時禅師を引き取った上山城主土岐山城守のことだといわれている。沢庵和尚はいうまでもなく、京都大徳寺の紫衣事件に罪を得て、権力に屈しなかったために寛永六年七月、遠くみちのくの上山まで遠流されたのである。

土岐は禅師の徳を慕い、上山の松山という所に草庵を造ってあたえた。この庵は沢庵自身のことばでいえば「無明之住地」であった。

謫居三年半にして、徳川家光は品川に万松山東海寺を造営して沢庵を迎え住持せしめた。そのとき推輓(すいばん)につとめたのは、禅師を敬慕していた柳生宗矩であった。






茂吉は沢庵の生涯と人物に興味を抱いていた。

昭和十一年五月十六日、東海寺を訪れ、加茂真淵の墓とともに沢庵和尚の墓に展(てん)している。このとき、ふさ子へは「品川東海寺の牡丹を見にゆきます。同処は加茂真淵の墓のある処です。遠方の花の如き人をしのぶにはこれ以上の処はないとおもつてゐます」という手紙を書いた。



沢庵「浅くともよしや又汲む人もあらじわれにこと足る山の井の水」



春雨庵には

浅くともよしや又汲む人もあらじわれにこと足る山の井の水

と禅師が歌に詠んだ井戸があり、今も真清水を湛えている。



山の井の水


二つの茶室があるが、それに望岳亭、聴雨亭という名をつけたのは、二十数年前の石山太柏という画家である。茂吉の歌は他筆で碑になって茶室の前に建っているが、さりげないこの歌にも、流謫者の孤独な心情に、自らの現世厭離の思いを重ねあわせて詠嘆していたのではなかったろうか。



茶室 望岳庵


茶室 聴雨庵



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


春雨庵


”たくあんづけ”の名で知られる禅僧沢庵は、江戸時代初期の高僧であった。



沢庵漬 名称 発祥の地


各地に修行し尊信を集めたが、寛永六年(1627)、大徳・妙心両寺のいわゆる紫衣事件で幕府に抗議して罪を得、出羽国上山に流されること五年におよんだ。

やがて許され、晩年は徳川家光に重用され品川東海寺の開山に迎えられた。その上山配流時代の住居が春雨庵である。ときの城主・土岐山城守頼行はこの庵を設けて沢庵を遇したといわれる。沢庵は殊の外この庵を愛し、”春雨庵”と 名づけた、と。



沢庵 大和尚 行状録



現在の建物は原型をその遺跡に復元し、春雨の井戸、茶室聴雨亭が往時の侘びた俤をしのばせている。

上ノ山に籠居したりし沢庵を大切にせる人しおもほゆ

通りに面して春雨庵跡を左に見て、中庭に入った左手奥に茂吉の歌碑は立っている。碑の高さ138cm。春雨庵保存会によって建立され、昭和39年除幕された。

林谷広氏は”大石田に疎開中、聴禽書屋に住んでいた茂吉の心境は、沢庵のそれと似通うものがあったのだろう”とし、

しづかなる秋の光となりにけりわれの起臥せる大石田の恩

の歌を引いている。



庵には沢庵和尚の木像が安置され、茶室見覧、点茶も行われている。

上山駅より徒歩約15分。











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