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2013年8月17日土曜日

鹿島神宮 [茨城]

鹿島神宮へと向かう大通りにて
 現地説明板より
常陸国風土記万葉ライン

和銅6年(西暦713年)に編纂された常陸国風土記に「高天原より降り来たまひし大神、名を『香嶋天之大神(かしまあめのおおかみ)』と稱す。天にては香嶋之宮といひ、地にては豊香嶋之宮と名づく」とあり、鹿島神宮のご祭神「武甕槌命(たけみかづちのかみ)」が日本建国の昔、天降られて関東地方の開拓と鎮撫に当たられたことが書かれてある。

奈良時代に九州の防備に「鹿島立ち」した防人(さきもり)は、鹿島神宮に武運の長久と道中の平安を祈り、那珂郡上丁・大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)は

霰(あられ)降り 鹿島の神を祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に吾は来にしを」と詠んだ。

現在、鹿島神宮の境内は坂戸・沼尾の両摂社また往古の郡家(郡役所)跡を含めて、国の史蹟「鹿島神宮境内附郡家跡」として指定され、周辺地区には風土記、万葉集に詠まれた史蹟名勝が数多く見られる。



本来あった大鳥居は、東日本大震災にて倒壊したとのこと
現地説明板より
大鳥居再建へ向けて

東日本大震災で倒壊した大鳥居は皆様の御浄財により、境内御用材にて以前の鳥居と同等の大きさで再建が進められています。来る平成26年6月1日に竣工祭が斎行され、鹿島鳥居本来の木製の鳥居が披露されます。

大鳥居 身替りになり倒れしと 会ふ人ごとに無事を喜ぶ」牟根天


鹿島神宮「大鳥居」
平成26年6月完成予定
高さ:約10.2m
笠木巾:約14.6m
材料:杉(境内御用材)



重要文化財「楼門」
この楼門の秀麗な造りは、九州の阿蘇神社、筥崎宮とともに「日本三大楼門」に数えられている。

「三木宗策」彫刻による随身像

現地説明板より
重要文化財「楼門」

寛永11年(1634年)に水戸初代藩主「徳川頼房」公の奉納。頼房公は水戸黄門・光圀公の父君。

左右の随神像は東京・荻原捷奉納、彫刻は三木宗策(日展審査員)。



摂社「高房社」
現地説明板より
摂社「高房社」

祭神 健葉槌神(たけはづちのみこと)

鹿島の大神に従い、香々背男(かがせお)を討つ。常陸国二の宮「静神社(しずじんじゃ)」の祭神。

本社参拝の前に詣でるのが古例である。



鹿島神宮「本宮」
現地説明板より
鹿島神宮「本宮」

御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

創祀 神武天皇ご即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が遣わして勅祭されたと傳える。

御神徳 神代の昔、天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ、建国功労の神と稱え奉る。また「韴霊剣(ふつのみたまつるぎ)」の偉徳により武道の祖神、決断力の神と仰がれ、関東の開拓により農漁業、商工殖産の守護神として仰がれるほか、常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名である。さらに「鹿島立ち」の言葉が示すように、交通安全・旅行安泰の御神徳が古代から受け継がれている。



「宝物館」
国宝「直刀(ちょくとう)」展示
パンフレットより
「直刀」金銅黒漆塗平文拵附刀唐櫃

日本最古最大の直刀で、制作年代は今から約1,300年前と推定されます。常陸国風土記に、慶雲元年、国司等が鹿島神宮の神山の砂鉄で剣を作ったとあり、その剣であろうともいわれております。

古くは本殿内に納められていた神刀で、御祭神の神剣「韴霊剣(ふつのみたまつるぎ)」の名も伝えられています。神武天皇はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。



鹿島神宮御座舩の船首
現地説明板より
平成26年 式年大祭「御船祭」
12年に一度の絢爛壮麗な一大神事


 鹿島神宮の「御船祭(みふねさい)」の起こりは、大神を奉ずる船団による大昔の関東開拓の時代にまでさかのぼり、当神宮にとりましては最大の祭典であります。この御船祭が、来る平成26年9月1日より3日間にわたり行われます。

 9月1日、まず勅使参向例大祭が斎行され、翌2日早朝、御分霊された御神輿は陸路を一の鳥居の大船津河岸までとり、そこから御神輿を奉戴した御座船は、数多の供養船を従えて一路香取市加藤洲へと進みます。そこで香取神宮の御迎祭を受けて後、再び同じ水路を行宮まで戻るという絢爛壮麗なる水上絵巻が繰り広げられるのです。

 例年の御神幸は門前町の大町通りに限られておりますが、12年に一度のこの御船祭は鹿島の大神が陸路と湖上を御神幸する人々の幸せと平安をもたらす一大神事であり、今回この大祭をあわせて東日本大震災の復興を中心とする日本再生の「鹿島立ち神事」とすべく準備に取りかかっております。



重要文化財「仮殿」
現地説明板より
仮殿(重要文化財)

本殿を修復する時など、一時的に神様をお遷しする社殿です。現在、下記の摂末社所管社の御分霊をお祀りしております。

摂社:奥宮、高房社、三笠社、跡宮、鳥栖神社、沼尾神社、坂戸神社

末社:須賀社、熊野社、津東祝詞社、稲荷社、潮社、阿津社、熱田社、御厨国主社、海辺社、鷲社、押手社、年社

所管社:大国社



旧東神門跡
現地説明板より
石灯籠

元和5年(1619)に社殿造営に関係した安藤対馬守が奉納(茨城県指定文化財)



国歌にも歌われる、巌(いわお)となった「さざれ石」
現地説明板より
さざれ石の由来

さざれ石(石灰質角礫岩)は、石灰岩が長い年月の間に雨水で融解し、その粘着力の強い乳状液が次第に小石を凝結し、段々と大きくなりついには巌となり、河川の侵蝕により地表に露出し苔むしたものであります。

国歌「君が代」は天皇の御代の弥栄をさざれ石に託して詠んだ歌がもととなっており、天皇大御代が千代に八千代に年を経て、さざれ石の巌となって苔のむすまで永く久しく栄えますようにという祈りの込められた歌であります。

古今和歌集・巻七賀歌に、題知らず読人知らずの歌として「わが君は 千代に八千代に細れ石の巌となりて 苔のむすまで」とあります。

「君が代」は神事や宴席で最後に歌われる祝歌として各地に広がり、浄瑠璃や謡曲にも取り入れられ、朝廷から一般庶民に到るまで全国津々浦々で歌われる歌となっていきました。

国歌「君が代」は明治26年、日本国歌に制定され、大正時代にニューヨークで開催された世界の国歌コンクールで特等となりました。


国歌「君が代」
君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで


国旗について

古来、日本人は太陽を信仰の対象としており、国名「日本」も国旗「日章旗」日の丸も太陽崇拝に起源するものと思われる。

日章旗が国旗として扱われるのは明治以降で、平成11年施行の国旗国歌法により正式に国旗として定められた。


「日の丸の旗」明治44年(1911)高野辰之 作詞岡野貞一 作曲

一、白地に赤く日の丸染めて ああうつくしや日本の旗は

二、朝日の昇る勢い見せて ああ勇ましや日本の旗は



神宮境内、21万坪の樹叢は「神の森」といえる荘厳さ
現地説明板より
樹叢(じゅそう)

鹿島神宮境内、約70ヘクタール(70町歩)に繁茂する植物は1,000種の多種にわたり、特に南限北限の植物が同生して植物学上貴重なため、県の天然記念物の指定を受けている。



照葉樹林の北限、フウランなどの北限をなす
現地説明板より

天然記念物
鹿島神宮の森について

最近、森林浴という言葉が話題になっています。これは緑豊かな森の樹木や草花などが発散する殺菌力のある芳香性の物質(フィトンチッド)が人間にも良い影響を与えることから、林野庁が提唱しているものです。

鹿島神宮の森は、その上に「極相林(きょくそうりん)」といって森が到達する極限の状態でありますので、人の心を和らげ、活動を促す精神的な働きもあります。このような姿を昔の人は神々しい森という言葉で讃えましたが、和らぎと明日への活力づくりに皆さんもゆっくりと森の香気にふれて下さい。

なお、境内の宮水である御手洗の湧水も昔から長命水といわれておりますので、この真清水をも賞味され、健康で活力ある毎日をお送り下さい。






重要文化財「奥宮(おくのみや)」


現地説明板より
重要文化財「奥宮」

祭神 武甕槌大神 荒魂

本宮御祭神の「荒魂(あらみたま・分け御魂のことで躍動する魂のこと)」を奉祀する。


社殿 慶長10年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるにあたり、現在地に引遷して奥宮社殿となった。

明治34年国宝指定、現・重要文化財。



「此松の 実生せし代や 神の秋」

俳聖・松尾芭蕉が当神宮に参拝したおり詠んだ句(1687)。「神前」の前書がある。



地震を起こす「大鯰(おおなまず)」の頭を押さえる

「要石」を祀る
大鯰(おおなまず)を押さえているという説話により、当地方は大地震にも被害が少ないという

意外にも、「要石」は子供の頭ほどに小さい
現地説明板より
要石(かなめいし)

神世の昔、鹿島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも。あるいは古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。

この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まるところ知らずという。

水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても掘っても掘り切れずと書かれ、地震押さえの伝説と相まって著名である。信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。


大地震(おおなゑ)に びくともせぬや 松の花」 一茶

小林一茶は文化14年5月26日、鹿島へ詣で右の句を詠みました。


芭蕉句碑

枯枝に 鴉(からす)のとまりけり 秋(穐)の暮



潔斎の池「御手洗(みたらし)」

池の水温は一定して夏は冷たく冬は温かく感じられるという
現地説明板より
御手洗(みたらし)

池水清冽にして四時滾々とし、一昼夜約2,400〜2,500石(432〜450キロリットル)を湧出す


古来、神職ならびに参拝者の潔斎の池である池の水は、清く美しく澄み四時滾々と流れ出て、どのような旱魃にも絶えることのない霊泉で、神代の昔、御祭神が天曲弓(あめのまがゆみ)で掘られたとき、宮造りの折一夜にして湧水したと伝えられ、大人小人によれず水位が乳を越えないという伝説により七不思議の一つに数えられている。

大昔は当神宮の参拝がこの御手洗を起点としてこの池で身を清めてから参拝するので御手洗(みたらし)の名が今に残るのである。



涼しさや 神代のまゝの 水の色

松露庵雪才



古くは御手洗のあたりが参道の起点であったという。
その名残りか、今は裏口のような園の入口にも大きく土が盛られている。



神の使いの子孫「神鹿」

鹿園には、およそ30頭が飼育されている
現地説明板より
神鹿について

鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)様のところへ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)様のご命令を伝えに来られたのが「天迦久神(あめのかぐのかみ)」という方で、鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっています。

神護景雲元年(西暦767年)に、藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建しましたが、そのとき、御分霊を神鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れて一年がかりで奈良まで行きました。

その鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨(ししぼね)をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っています。また、鹿島は古くは香島と書いていましたが、養老7年(723)頃から鹿島と書くようになったのは、この鹿との縁によるものでしょう。

神鹿は長い間大切に保護されてきておりますが、幾度か新たに導入され、現在の神鹿はかつて鹿島から移った奈良の神鹿の系統を受けています。



鹿島八景「鹿島山の晴嵐(せいらん)」

朝ぼらけ 近くききしは鹿島山 松のあらしの さそう鹿の音

吉澤義則



「稲荷社」
現地説明板より
末社 稲荷社

祭神 保食神(うけもちのかみ)

俗に「銚場の稲荷様」と呼ばれ、霊験あらたかで多く人々の信仰を集めている。なお、「銚場」とは直会場(なおらいば)のことで、江戸時代以前はこの広場で祭典の後、直会(なおらい)を行っていたのである。



鹿島七不思議

要石:その根底深くて図り知れずという

御手洗:池の深さ大人・小人によらず乳を過ぎずという

末無川:川の水、流れ行くほど追々かれて行末知らず

藤の花:御山の藤の花の多少により、その年の豊凶を予知すること

海の音:浪の響が上(北)の方に聞こえれば日和、下(南)に響けば雨降るという

根上りの松:すべて御山の内の松、幾度伐れども伐り跡に芽出て枯れることなし

松の箸:鹿島の松で作る箸は、松脂の出たことなしという




2013年8月14日水曜日

村松皇大神宮と虚空蔵尊 [茨城]



出迎える仁王

浮き出る血管

仁王門・鐘楼堂・四阿
 説明板より
村松山虚空蔵尊 宗派・真言宗

 平安時代の開山といわれ、伊勢の朝熊山(あさまやま)、会津の柳津(やないず)と並んで「日本三大虚空蔵」の一つで、弘法大師の作といわれる虚空蔵菩薩を本尊に祀る。

 菩薩は福徳知能を授け、厄除け、開運の守本尊として、徳川家康、徳川光圀などの尊信が厚かった。

 今も「十三詣り」といって、十三才の子女が参詣すると知恵が授けられるといわれ、近郷からの参詣者が多い。



水戸藩「三つ葉葵」の紋
説明板より
日本三体の一
村松山 虚空蔵堂の由来

809(大同二年) 弘法大師が鎮護国家と萬民豊楽、平和祈願のため一刀三礼の礼をつくし、等身座像の虚空蔵菩薩をお刻みになり、平城天皇から「村松山神宮寺」の勅額を賜り創建となる。

この後、平安末期より安土桃山時代までの約500年の間、佐竹氏が隆盛を極め、当山もまた塔中寺院、円蔵寺、松林寺、歓喜寺、東光寺、竜蔵寺、竜光院ら幾多の塔中を連ね、多数の僧侶の養成に貢献する。

1485(文明17年) 岩城常陸の兵と戦を交えることとなり、当山も戦火に遭い伽藍一切が勅額とともに焼失する。ただし、本尊と御厨子(佐竹氏一族、真崎浦天神山城主・真崎三郎奉納)は戦火から免れる。

1487(長享元年) 頭白上人が虚空蔵堂を再建し「村松山神宮寺」を改め「村松山日高寺」と称し、福徳知能、除災招福、一代開運を授ける祈願寺の根本道場として伽藍の整備がされる。

1610(慶長15年) 徳川家康公が方五十丁(約5.5km)朱印地五〇石を寄進。

1683(天和3年) 水戸光圀公が封をつぐにおよび、塔中の寺を龍蔵院、龍光院の二院をもってそれぞれ別当とし修験道に改宗。五所明神と虚空蔵尊を分離し堂塔伽藍を修理する。光圀公御仏前たる虚空蔵尊を修飾する。

その後、光圀公はさらに巨額の資を献じて伽藍の美を一新させるが、佐竹氏の僧侶を嫌忌し、真言宗日高寺を廃することとなる。
江戸時代初期より明治維新までの間、当山は乱世の坂東に幾度も戦火に遭い盛衰を越えつつ、法燈は連綿として維持されてきた。ある古書の一説には、当山が慈覚大師の開基と記されているものもあるが、文献は兵火により全く消失し、未だ定かではない(慈覚大師は戒律の教えを最も尊重し行動的に興し、関東・東北地方の仏教開発の稀代の名僧)。

1869(明治2年) 「廃仏毀釈の令」が行われ当山も「星の宮」と改称されたが、ほどなく水戸藩庁役所より「村松村星ノ宮、従前之通、虚空蔵に御改」との命令があり、真言宗日高寺となり再び創建も弘法大師の開基と改められた。

1900(明治33年) 門前民家からの火災により、本堂(330平方m)仁王門(現在の大きさ)三重塔(古代美術を誇る華麗な建築様式)客殿等ことごとく焼失。しかし幸いにも本尊・御前立・鍾馗霊尊画像・霊験木などは火災から免れる。

1917(大正6年) 本堂落慶、書院再建
1924(大正13年) 長廊下再建
1925(大正14年) 鐘馗霊神堂再建
1926(昭和元年) 仁王尊献納会より献納を受ける。
1934(昭和9年) 講社より客殿寄付、奥之院多宝塔一基を寄進される。
1970(昭和45年) 仁王門再建
1972(昭和47年) 石畳参道完成
1980(昭和55年) 大鐘楼堂再建
1983(昭和58年) 信徒会館完成
1998(平成10年) 三重之塔再建
2007(平成19年) 創建1,200年記念
2008(平成20年) 手水舎落慶



巨大な絵馬の奉納されている「鍾馗(しょうき)霊神堂」
説明板より
東海村指定文化財(有形民俗・信仰)
鐘馗霊神絵馬(一枚)
昭和59年3月10日

 この絵馬は、延宝三年(1675)悪疫が大流行して世人が大いに苦しみ悩んでいたとき、藤原高信が百ヶ日のあいだ沐浴潔斎して精魂を注ぎ描き上げたものと伝えられ、悪病退散の権之丞鍾馗大神として崇敬されている。

 絵馬は、縦150cm、横200cmと大型の杉材・木板彩色絵画で、画面右側に「延宝三年□月吉祥」、左側に「藤原高信」などと記されており、今から300年以上前の絵馬で、時代・作者名とも明確であり、大きさも県内絵馬の中では最も大きなものに属し貴重なものといえる。

 しかも、疫病退散を願ってこの絵馬をかつぎ歩く行事が昭和25年頃まで行われていた。近世における信仰を物語る民俗資料として価値の高い絵まである。

昭和59年5月

東海村教育委員会



「安産地蔵尊」

「三重之塔」
1900年、焼失。1998年、再建。

三重之塔のてっぺんに輝く「相輪(そうりん)」

奥之院「多宝塔」
説明板より
奥之院のわきには、俳聖・芭蕉の「野を横に 馬引むけよ 時鳥(ほととぎす)」の句碑と、詩人・山村暮鳥の「おう土よ」の詩碑が建っている。

山村暮鳥の詩碑
「おう土よ 生けるものよ その黒さに太古のかほりがただよってゐる」
録暮鳥詩犀星、昭和十四深秋



出世稲荷「荼吉尼天尊」



茨城一の宮「村松皇大神宮」
茨城県の「お伊勢さま」
説明板より
村松大神宮 御由来

御祭神 天照皇大神 天手男命 萬幡豊秋津姫命

 村松大神宮は伊勢皇大神宮の御分霊を奉祀する神社であり、その創立年代は桓武天皇の御代にすでに奉崇されていたとの由を伝えていて、平城天皇の勅号を賜り、さらに嵯峨天皇の御代に奉弊があった。

 また後冷泉天皇、康平三年(1060)に源頼義・義家父子が奥州征討のさいに戦勝を祈って社殿の造営寄進があり、古来より東国の名神霊社として敬われ、その神領は数百町にも及び現在もなおゆかりの地を多く存している。「村松」「阿◯」などの地名は即ち当宮の勢州奉遷によって起った名称である。

 しかしながら時の流れは止むことなしに、中世時運の変遷によりその神域に異動が生じ、神宮寺(中世仏教渡来し全国諸大社にその茶布のために寺院を従属建立して神宮寺とした)の建設をみるに至った。

 そして神仏習合の弊風が次第に移り変わり、祭祀の紊乱が生じ、かつ戦乱のために社殿は兵火を被り神領も侵掠され、ついにその宗元を逸し奉祀祭神の変更を余儀なくされたが、徳川幕府の覇業成るに及んで朱印地当高三十三石一斗九升、ならびに神地三十余町の寄進があった。

 しかしなお末だ祭祀の紊乱変革を嘆かれ、有司に命じて特に神殿を造影して元禄九年(1696)改めて伊勢皇大神宮の御分霊を奉遷され、天照皇大神神宮と奉称し多数の神宝神器を奉納されて参拝された。これより以後は祭典に水戸藩主の参拝があり、尊崇はなはだ篤く他とは異なった。

 御社殿は神明造りにして、その簡素荘厳なる構えはいよいよ神域の尊さを覚えさせるものである。

大神宮



関東型みこし
明治四年(1871)制作

水戸藩奉納の「飾り神輿(三代目)」

神輿の屋根中央には「鳳凰」を置くのが一般的

ギロリと目を剥く「天狗面」

説明板より
お神輿 由緒案内

 神輿、「しんよ」または「みこし」ともいう。

 神幸の際や氏子地域を神幸する歳の、御霊代を納める輿であり、動く神座と成ります。祭礼を重視する神社にとっては必要不可欠な神様の乗り物です(お神輿の上に人間が乗ることは、この意に反します)。普通その形式は木製黒漆塗りで、四角形・六角形・八角形に造られる。屋根の中央には、一般的に鳳凰を置く。大きく分けて関東型と京阪型がある。

 当大神宮のお神輿は、水戸藩下賜の三代目の尊いお神輿です(当宮例大祭には、歴代水戸藩主の参拝を常とした)。水戸藩三つ葉葵の神紋が有る方が、そのお神輿です。

 京阪型は飾り神輿とし、展示の状態で保管されるのが一般的です。関東型神輿は、当宮の神紋(菊紋)のお神輿がそれにあたります。

 今回の修復にあたり、制作年度と製作者の氏名が判明し、その署名によると明治四年(1871)に制作され既に125年近くの歳月が経過しております。前回の大神宮競馬祭(ヤンサマチ)に渡御した伝統のお神輿です。

 中央の「天狗の面」は、同じく当宮競馬祭(ヤンサマチ)の際、渡御したものを同じく修復したものです。



村松皇大神宮「本殿」
ことに徳川光圀の崇敬厚く、佐々介三郎(助さん)に命じて神鏡を奉納している。

神社周囲には数々の祠が点在する。

赤の映える稲荷の祠
キツネ様てんこ盛り


徳川斉昭、自筆による「村松晴嵐」
説明板より
水戸八景「村松晴嵐」

水戸八景とは水戸藩内の8つの景勝地で

「仙湖暮雪(せんこのぼせつ)水戸市常磐町
「青柳夜雨(あおやぎのやう)水戸市青柳町
「山寺晩鐘(やまでらのばんしょう)常陸太田市稲木
「太田落雁(おおたのらくがん)常陸太田市栄町
「巌船夕照(いわふねのゆうしょう)大洗町祝町
「広浦秋月(ひろうらのしゅうげつ)茨城町下石崎
「村松晴嵐(むらまつのせいらん)東海村村松
「水門帰帆(みなとのきはん)ひたちなか市和田町

のことである。

 天保四年(1833)水戸九代藩主・徳川斉昭(烈公)が中国の「瀟湘(しょうしょう)八景」になぞらい、藩内の子弟に自然鑑賞と健脚鍛錬とを図るため設定されたものである。

 烈公は、この村松の地を

真砂地に 雪の波かと見るまでに 塩霧はれて 吹く嵐かな

と詠み、「村松晴嵐」と命名された。この碑石の題字は烈公自らの書であり、天保五年(1834)に建てたものである。

東海村

東海村観光協会


白砂
説明板より
水戸八景(徳川斉昭 作)

雪時嘗(かつ)て賞す仙湖の景
雨夜更に遊ぶ青柳の頭(ほとり)
山寺の晩鐘幽壑(ゆうがく)に響き
大田の落雁芳洲を渡る
霞光爛漫(かこうらんまん)岩船の夕べ
月色玲瓏(れいろう)たり広浦の秋
遥(はる)かに望む村松晴嵐の後
水門(みなと)の帰帆高楼(こうろう)に映ず



浜の植物


誰かさんの落し物
説明板より
白砂青松・村松の海岸

 村松海岸は「白砂青松(はくさせいしょう)」の景勝地で、天保4年(1833)水戸第九代藩主・徳川斉昭(烈公)は、水戸八景の一つに選び、自筆による「村松晴嵐」の名勝碑を建てさせた。

 砂浜には、ハマボウフウやハマヒルガオ、松林の中には茸などの植物が多く自生し、野ウサギやリスなどの動物も見られる。大神宮先の砂の高台からは、美しい白い砂・緑の松・青い海を一望することができる。 
東海村

東海村観光協会



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2013年8月12日月曜日

五浦海岸、「六角堂(岡倉天心)」 [茨城]



五浦海岸
岩々は天然のコンクリート(炭酸塩コンクリーション)
 説明板より
五浦(いづら)海岸ジオサイト

 約1,600万年前の大陸棚の上の浅海に堆積した砂や泥が、かたまって出来た地層が分布しています。海に住んでいた貝やサメの化石、メタンガスが噴出した痕跡が観察できます。

 小五浦では、累々と連なる新第三紀の地層と不整合を見ることができます。

 また、岡倉天心による日本美術の発信地でもあり、文化と自然と交差する場所です。


岡倉天心の「六角堂」
説明板より
文化復興のシンボル「六角堂」

 新しい日本画の創造を目指した「岡倉天心」がその本拠地とした茨城・五浦の六角堂。天然のコンクリートの上に建てられた六角堂は、杜甫の草堂、親鸞が夢のお告げを受けた京都の頂法寺の六角堂、茶室のイメージが渾然とした建築です。

 岡倉天心は、眼下に広がる奇岩を、中国の文人好みの太湖石と重ねてこの地を選んだと思われます。六角堂は断崖と海を結びつけ、人と自然が一体となる天心の理想郷を形作っています。六角堂が建っている岩盤、また海面から顔を覗かせているゴツゴツした岩は、炭酸塩コンクリーションです。

※東日本大震災の津波によって消失したが、復興を願う多くの人々の支援によって再建された。


五浦美術文化研究所(茨城大学)
かつては岡倉天心の住居跡

説明板より
茨城大学「五浦美術文化研究所」ご案内

 当研究所は、近代日本を代表する思想家「岡倉天心(1862〜1913)」の住居跡に設置されました。天心は明治政府の美術行政の確立のため目覚ましい功績をあげ、26歳の若さで帝国博物館(現・東京国立博物館)理事・美術部長、翌年には東京美術学校(現・東京芸術大学)の校長となりました。

 1898年に博物館、美術学校を辞職し、橋本雅邦、横山大観らと日本美術院を設立。以後、天心はインドで後のノーベル賞詩人タゴールと親交を結び、ロンドン、ニューヨークで英文著書『東洋の理想』『茶の本』を出版、ボストン美術館中国日本部長となるなど、国際的に活躍の場を広げました。1906年には日本美術院をこの五浦の地に移し、愛弟子の横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せました。

 現五浦美術文化研究所の地所と建物は、1942年に天心の遺族・米山高麗子氏により岡倉天心遺跡顕彰会に寄贈され、1955年、茨城大学に移管されました。現在の研究所敷地内には長登屋、旧天心邸(1904)、六角堂(1905)、天心偉績顕彰記念碑(1942)、ウォーナー像(1970)、天心記念館(1963)があります。茨城大学では遺跡の保存に努力するとともに、岡倉天心と近代美術研究のために活用しています。


岡倉天心の眠る墓

説明板より
岡倉天心の墓地


 この墓は日本美術院の主催者「岡倉天心」の遺骨が、天心の辞世とされている和文の


我逝かば 花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて 落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影


および「An Injunction(戒告)」と題した英詩にもりこまれた遺志に沿い、天心没年の大正2年(1913)、東京都の染井霊園の墓から近代日本美術黎明の地「五浦(いづら)」に分骨、埋葬されたものであり、歴史的・文化的に価値の高い史跡である。



平成元年7月24日 市指定
北茨城市教育委員会




海岸に顔をだした蟹

水戸黄門由来の井戸
説明板より
黄門の井戸

 元禄年間、徳川光圀公が領内巡視のおりにこの地を訪れた際、喉の渇きをおぼえ、「井戸はないか」と供のものが捜しまわり、畦の脇に古井戸を発見した。

 ただし、水は底深く飲むことができず、光圀公が井戸を覗き見たときに杖が井戸の淵にあたり、水がコンコンと湧き出でて難なく飲むことができた。

 その後、この井戸は「黄門の井戸」と呼ばれ、涼味あふれる水を永く土地の民に与えたといわれている。
北茨城市


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