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2016年11月10日木曜日

蔵王の「こまくさ」[真壁仁・安斎徹]



〜真壁仁『蔵王詩集 氷の花』より〜



真壁仁『蔵王詩集 氷の花』



こまくさ


山が火をふき
あつい泥をおし出して
それがかたまってできた溶岩の沙漠
そこに
どの草たちよりも早く
芽を出したこまくさ

火山の花

しっかりとふかく根をはって
岩をくだき
小石の肌をたがやして
どんな草でもそだつように
あれ地をひらいていく開拓者

蔵王のこまくさ

山のいただきの雨かぜはげしく
空気はつめたい
そのなかで
きよらかな夜ぞらの星のように
人間のこころのともしびのように
こまくさは咲く

雲海のうえに
あけぼののひかりがおとずれ
花にやどったつゆをとかす
そのひかりのいろを
しずくのなかに染めたような
うすくれないのこまくさの花

雲のなかの花

いつまでも若くういういしい
いのちのかがやき







火山の花


こまくさは
蔵王の溶岩の丘に咲いている
田沢湖のおくの駒ケ岳にも咲いている
岩ばかりの原っぱに
白っぽいみどりの葉をひろげ
ピンク色のちいさな花を
ちょうちんのようにつける

ほかの草木がいっぽんもはえない
あれつちに
しっかりと根をはって
わずかな日ざしにもぐんぐんのびる
雪が降るとあからむほっぺのような
花のいろ

こまくさは岩をくだく
こまくさは土をたがやす
こまくさがふえれば
どんな草でもそだつ土にかわっていく
こまくさは開墾者だ
こまくさのはたらきは山をみどりにする

ひるでも
霧にぬれて
こまくさは咲いている
風に折れない
やさしくてつよい花
けれども
ほかの草が生えれば
こまくさは
じぶんのたがやした土を
去らなければならない
かなしい開墾者だ







〜安斎徹「蔵王火山」より〜


古い火山体は植物によって山肌が飾られ一見親しみを覚えるが、一度ワサ小屋の鞍部を横ぎって熊野岳へと向わんか、新しい火山の様相は今将に風の侵蝕と奮闘して一塊、一粒の岩礫をも保護し、強い根と蔓との網を拡げて地表を彩って岩をめぐり、自己の繁殖のために美しい花を多く飾って、その幾割でも芽生えの数を殖やそうと企てる植物は、雨と風とに傷められて荒れゆく火山の裸地を緑化する使命を帯びているのではあるまいか。

とりわけいたいたしいのは可憐なコマ草の姿であろう。心ない登山者が見つけ次第に千切り採って今は焼石の地表にその影さえも失われてしまった。

コマ草は他の植物さえも生え兼ねる火山酸性の裸地に繁殖して、長い間に地表を土壌化し、やがて他の高山植物によって緑化され得る土壌の開拓者なのだ。山の緑化は、川の源の地崩をまもって平野の人文を安穏にする最大の原因ではないか。

コマ草を先頭とした高山植物の使命を、只美しい風景として見過ごしてよいものであろうか。無惨にも路傍に千切り捨てられたる高山植物のあわれな姿、威大なる蔵王の大自然には測り知れない詩情を感ぜずには居られない。






〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


火山(ひのやま)のはな駒草
雪消えしのちに蔵王の太陽が


昭和14年の夏、斎藤茂吉がはじめて山上歌碑を見たときの作品の中に

雪消えしのちに蔵王の太陽がはぐくみたりし駒草のはな

という一首がある。時は7月8日のことだったから、駒草の花の咲きはじめる季節である。歌碑をとりまく溶岩の頂上、とくに南の斜面に、昔はずいぶんこの花が咲いていた。昭和14年にも、あるいはあちこちに残っていたかもしれない。だからこの歌も実際に駒草の花を見ての作だろうと考えられる。

白っぽい緑の茎葉もうつくしいが、そこから花梗をのばして、外にしゃくれたような淡紅の花弁をひらいているこの花は、たとえようもない可憐なうつくしさを持っている。それがごつい岩石の砂漠にゆらぎながら咲いている。霧のふかいときは、しっとりと濡れて、その露の重みでくず折れはしまいかと思うばかりだ。

しかし、ほんとうはほかのどんな草も生えられない裸地に、さきがけて咲く強い花なのである。冷たい山上の気流にも、烈しい突風にもめげず、ふかくふかく地中に根を張って、九月ごろまで、つぎつぎに咲いていく。



茂吉のこの歌は、「雪消えしのちに蔵王の太陽」の方に感動がかかっているように思われる。長い冬のあいだ、しかもシュカブラといわれる青氷に蔽われる火山岩の丘の氷雪が溶けて、春らしい太陽が照りはじめたのはついこの間と思われるのに、その短い期間の太陽光に育くまれて、夏の花である駒草が咲いているという感動である。

「雪消えし」で小休止の息を入れたあと、「はぐくみたりし」とたたみかけて声調の上にその感動を沈めこんでいる。駒草の花そのもののうつくしさは、声にならない無音の韻としてひびいている。


(中略)


駒草が咲くのは、荒い青年期の火山帯である。溶岩の原は強度の酸性であるが、その酸性に耐えて最初に根をおろすことができるのが駒草である。

もしこの美しい高山の花を摘みとることなく、花の群落をつくるのを待つなら、駒草の根は岩や礫をくだいて土壌化し、その土の酸性をも中和して行く。そういう先駆的な開拓が長い期間にわたって進むならば、そこは他の草たちも根をおろすことができるようになる。木もまた生えることができる。

しかしそのとき、駒草は他の草たちにその座を追われる。この、緑化の先駆者は、荒涼の地殻(ちこく)にだけ、その美しさを見せて滅びてしまう悲劇の女王でもある。



ぼくらが駒草を愛するのは、その美しさのためだけではない。水の源である山が、そのゆたかな水で麓の町や里を潤おしてくれることをねがっているからである。滅びをかけたその繁茂は、人間と大地の豊穣につながっている。

それだけに花をむしりとっていくものたちへのぼくらの怒りは深い。

ぼくらは熊野岳から馬の背へ、そして刈田岳への道をまた歩いたのだが、一輪の駒草にも出会わなかった。崖の上から、ふしぎな双温層の水層をもつといわれるお釜を眺めることで満足して山を下りた。


(中略)


こまくさ平で車をとめる。大黒天、こまくさ平、賽の河原などの一帯はまだ噴出した溶岩の大地である。

駒草の花は、柵をめぐらして保護されながら、台地に幾株か咲いている。花は乏しく、もう季節がすぎていることを思わせた。







2015年5月22日金曜日

ジャガラモガラ [山形・天童市]



この「すり鉢状のくぼ地」がジャガラモガラ


〜現地・説明板より〜


県指定 天然記念物
ジャガラモガラ
平成7年3月28日指定


 ジャガラモガラは、天童で一番高い905mの雨呼山の北西の山腹、標高570mのところにある東西90m、南北250mの大きな、すり鉢状の凹地である。その中でも、凹地の南端にある550mの等高線で囲まれた東西30m、南北62mのすり鉢状の凹地が通称ジャガラモガラと呼ばれている。

 ジャガラモガラは、凹地の底でありながら、雨が降っても水がたまらない。地下は石英粗面岩の砕石からできている。所々に風穴があって、真夏でも3℃から7℃の冷たい風が出ている。その冷たい空気が凹地の底に淀み込むために、ジャガラモガラは異様な景観と特異な植生を呈している。

 春の訪れが遅い。植物の垂直分布が逆である。亜高山性の植物が群生している。乾燥地を好む植物が見られる。植物が矮小化している。植物の種類が豊富である。花の咲き方に特色がある。絶滅危惧種や希少性の植物が多いなど、学術的にも貴重な場所である。

平成25年3月31日
天童市教育委員会
津山地域づくり委員会


これらの風穴から「冷たい風(真夏でも3~7℃)」が流れ出ている。


春遅いジャガラモガラ
訪れた5月中旬にしてようやく桜が


低山にも関わらず、亜高山性の植物が群生している。



2015年4月18日土曜日

貫津(ぬくつ)の「種まき桜」 [山形・天童市]


















~現地・説明板より~


貫津の種まき桜


樹名 エドヒガンザクラ

樹齢 400年以上(推定)

幹回り 地上1.5m以上で4.21mの太さ

根回り 6.40m







2013年8月22日木曜日

大淀「羽黒神社」 [山形]

苔むした石段が長く続く

石段の傍らに

いよいよ社殿の屋根がのぞく

江戸時代創建と伝わる「羽黒神社」
現地説明板より

羽黒神社の由来

祭神 稲倉魂命(いなくらのみこと)



 羽黒神社は、当羽黒山(標高171.9m)の頂上に鎮座し、創建は明暦年間(1655〜1657)と伝えられている。氏子の住む大淀・長島は当時大淀村・下長崎村といい、幕府領であった。現在の社殿は、嘉永3年(1850)に造営したものである。

 当地は三方を最上川が流れており、南側は三ヶ瀬に、北側は早房の瀬に面している。頂上の神社境内からは、東方に大淀、遥かに霊山・甑岳(こしきだけ)を、西方に長島そして霊山・葉山が眺望できる。さらに、その間を蛇行して流れる最上川の景観を一望できる景勝の地である。

 この神社は天正の頃に航路が開かれ、その後さかんになった舟運の安全を祈って創建されたといわれている。元禄・享保の盛時には、250俵ほどの年貢米を積んだ艜船(ひらたぶね)が一日に30〜40艘も下り、上り舟で綿・古着・塩などの生活物資が運ばれていた。

 その舟運で最も恐れられた所が三難所で、船頭や水夫たちが通るたびにこの神社に航行の安全を祈って詣でたという。

 この神社は、もとは観世音菩薩を祀る観音堂で、代々一乗院(鈴木家)が別当を勤めていた。明治になって神社となり、明治6年8月、村社として格付けされ現在に至っている。


平成元年7月30日

羽黒神社



三方を最上川に囲まれる「羽黒山(標高171.9m)」
この辺りは、川行く舟にとって「三難所」と呼ばれるほど危険な箇所が続く。そのためこの羽黒神社は、その舟運の安全を祈願するために創建されたのだという。

天然記念物のイタヤカエデ
推定樹齢300年
現地説明板より
村山市指定文化財 天然記念物
羽黒神社のイタヤカエデ指定 平成2年10月24日


村山市大字大淀、村社・羽黒神社に自生しているイタヤカエデの老木で、根元廻り4.2m、幹廻り2.9m、樹高18mのもので、地上5mの部位で主幹が三方向に分岐し大枝となり、よく繁茂し旺盛な生育を示している。

推定樹齢はおよそ300年。


村山市教育委員会



周辺情報:

河島山「白山神社」 [山形]




大きな地図で見る

2013年8月17日土曜日

鹿島神宮 [茨城]

鹿島神宮へと向かう大通りにて
 現地説明板より
常陸国風土記万葉ライン

和銅6年(西暦713年)に編纂された常陸国風土記に「高天原より降り来たまひし大神、名を『香嶋天之大神(かしまあめのおおかみ)』と稱す。天にては香嶋之宮といひ、地にては豊香嶋之宮と名づく」とあり、鹿島神宮のご祭神「武甕槌命(たけみかづちのかみ)」が日本建国の昔、天降られて関東地方の開拓と鎮撫に当たられたことが書かれてある。

奈良時代に九州の防備に「鹿島立ち」した防人(さきもり)は、鹿島神宮に武運の長久と道中の平安を祈り、那珂郡上丁・大舎人部千文(おおとねりべのちふみ)は

霰(あられ)降り 鹿島の神を祈りつつ 皇御軍(すめらみくさ)に吾は来にしを」と詠んだ。

現在、鹿島神宮の境内は坂戸・沼尾の両摂社また往古の郡家(郡役所)跡を含めて、国の史蹟「鹿島神宮境内附郡家跡」として指定され、周辺地区には風土記、万葉集に詠まれた史蹟名勝が数多く見られる。



本来あった大鳥居は、東日本大震災にて倒壊したとのこと
現地説明板より
大鳥居再建へ向けて

東日本大震災で倒壊した大鳥居は皆様の御浄財により、境内御用材にて以前の鳥居と同等の大きさで再建が進められています。来る平成26年6月1日に竣工祭が斎行され、鹿島鳥居本来の木製の鳥居が披露されます。

大鳥居 身替りになり倒れしと 会ふ人ごとに無事を喜ぶ」牟根天


鹿島神宮「大鳥居」
平成26年6月完成予定
高さ:約10.2m
笠木巾:約14.6m
材料:杉(境内御用材)



重要文化財「楼門」
この楼門の秀麗な造りは、九州の阿蘇神社、筥崎宮とともに「日本三大楼門」に数えられている。

「三木宗策」彫刻による随身像

現地説明板より
重要文化財「楼門」

寛永11年(1634年)に水戸初代藩主「徳川頼房」公の奉納。頼房公は水戸黄門・光圀公の父君。

左右の随神像は東京・荻原捷奉納、彫刻は三木宗策(日展審査員)。



摂社「高房社」
現地説明板より
摂社「高房社」

祭神 健葉槌神(たけはづちのみこと)

鹿島の大神に従い、香々背男(かがせお)を討つ。常陸国二の宮「静神社(しずじんじゃ)」の祭神。

本社参拝の前に詣でるのが古例である。



鹿島神宮「本宮」
現地説明板より
鹿島神宮「本宮」

御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

創祀 神武天皇ご即位の年に神恩感謝の意をもって神武天皇が遣わして勅祭されたと傳える。

御神徳 神代の昔、天照大御神の命により国家統一の大業を果たされ、建国功労の神と稱え奉る。また「韴霊剣(ふつのみたまつるぎ)」の偉徳により武道の祖神、決断力の神と仰がれ、関東の開拓により農漁業、商工殖産の守護神として仰がれるほか、常陸帯の古例により縁結び安産の神様として著名である。さらに「鹿島立ち」の言葉が示すように、交通安全・旅行安泰の御神徳が古代から受け継がれている。



「宝物館」
国宝「直刀(ちょくとう)」展示
パンフレットより
「直刀」金銅黒漆塗平文拵附刀唐櫃

日本最古最大の直刀で、制作年代は今から約1,300年前と推定されます。常陸国風土記に、慶雲元年、国司等が鹿島神宮の神山の砂鉄で剣を作ったとあり、その剣であろうともいわれております。

古くは本殿内に納められていた神刀で、御祭神の神剣「韴霊剣(ふつのみたまつるぎ)」の名も伝えられています。神武天皇はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。



鹿島神宮御座舩の船首
現地説明板より
平成26年 式年大祭「御船祭」
12年に一度の絢爛壮麗な一大神事


 鹿島神宮の「御船祭(みふねさい)」の起こりは、大神を奉ずる船団による大昔の関東開拓の時代にまでさかのぼり、当神宮にとりましては最大の祭典であります。この御船祭が、来る平成26年9月1日より3日間にわたり行われます。

 9月1日、まず勅使参向例大祭が斎行され、翌2日早朝、御分霊された御神輿は陸路を一の鳥居の大船津河岸までとり、そこから御神輿を奉戴した御座船は、数多の供養船を従えて一路香取市加藤洲へと進みます。そこで香取神宮の御迎祭を受けて後、再び同じ水路を行宮まで戻るという絢爛壮麗なる水上絵巻が繰り広げられるのです。

 例年の御神幸は門前町の大町通りに限られておりますが、12年に一度のこの御船祭は鹿島の大神が陸路と湖上を御神幸する人々の幸せと平安をもたらす一大神事であり、今回この大祭をあわせて東日本大震災の復興を中心とする日本再生の「鹿島立ち神事」とすべく準備に取りかかっております。



重要文化財「仮殿」
現地説明板より
仮殿(重要文化財)

本殿を修復する時など、一時的に神様をお遷しする社殿です。現在、下記の摂末社所管社の御分霊をお祀りしております。

摂社:奥宮、高房社、三笠社、跡宮、鳥栖神社、沼尾神社、坂戸神社

末社:須賀社、熊野社、津東祝詞社、稲荷社、潮社、阿津社、熱田社、御厨国主社、海辺社、鷲社、押手社、年社

所管社:大国社



旧東神門跡
現地説明板より
石灯籠

元和5年(1619)に社殿造営に関係した安藤対馬守が奉納(茨城県指定文化財)



国歌にも歌われる、巌(いわお)となった「さざれ石」
現地説明板より
さざれ石の由来

さざれ石(石灰質角礫岩)は、石灰岩が長い年月の間に雨水で融解し、その粘着力の強い乳状液が次第に小石を凝結し、段々と大きくなりついには巌となり、河川の侵蝕により地表に露出し苔むしたものであります。

国歌「君が代」は天皇の御代の弥栄をさざれ石に託して詠んだ歌がもととなっており、天皇大御代が千代に八千代に年を経て、さざれ石の巌となって苔のむすまで永く久しく栄えますようにという祈りの込められた歌であります。

古今和歌集・巻七賀歌に、題知らず読人知らずの歌として「わが君は 千代に八千代に細れ石の巌となりて 苔のむすまで」とあります。

「君が代」は神事や宴席で最後に歌われる祝歌として各地に広がり、浄瑠璃や謡曲にも取り入れられ、朝廷から一般庶民に到るまで全国津々浦々で歌われる歌となっていきました。

国歌「君が代」は明治26年、日本国歌に制定され、大正時代にニューヨークで開催された世界の国歌コンクールで特等となりました。


国歌「君が代」
君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで


国旗について

古来、日本人は太陽を信仰の対象としており、国名「日本」も国旗「日章旗」日の丸も太陽崇拝に起源するものと思われる。

日章旗が国旗として扱われるのは明治以降で、平成11年施行の国旗国歌法により正式に国旗として定められた。


「日の丸の旗」明治44年(1911)高野辰之 作詞岡野貞一 作曲

一、白地に赤く日の丸染めて ああうつくしや日本の旗は

二、朝日の昇る勢い見せて ああ勇ましや日本の旗は



神宮境内、21万坪の樹叢は「神の森」といえる荘厳さ
現地説明板より
樹叢(じゅそう)

鹿島神宮境内、約70ヘクタール(70町歩)に繁茂する植物は1,000種の多種にわたり、特に南限北限の植物が同生して植物学上貴重なため、県の天然記念物の指定を受けている。



照葉樹林の北限、フウランなどの北限をなす
現地説明板より

天然記念物
鹿島神宮の森について

最近、森林浴という言葉が話題になっています。これは緑豊かな森の樹木や草花などが発散する殺菌力のある芳香性の物質(フィトンチッド)が人間にも良い影響を与えることから、林野庁が提唱しているものです。

鹿島神宮の森は、その上に「極相林(きょくそうりん)」といって森が到達する極限の状態でありますので、人の心を和らげ、活動を促す精神的な働きもあります。このような姿を昔の人は神々しい森という言葉で讃えましたが、和らぎと明日への活力づくりに皆さんもゆっくりと森の香気にふれて下さい。

なお、境内の宮水である御手洗の湧水も昔から長命水といわれておりますので、この真清水をも賞味され、健康で活力ある毎日をお送り下さい。






重要文化財「奥宮(おくのみや)」


現地説明板より
重要文化財「奥宮」

祭神 武甕槌大神 荒魂

本宮御祭神の「荒魂(あらみたま・分け御魂のことで躍動する魂のこと)」を奉祀する。


社殿 慶長10年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和五年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮社殿が奉建されるにあたり、現在地に引遷して奥宮社殿となった。

明治34年国宝指定、現・重要文化財。



「此松の 実生せし代や 神の秋」

俳聖・松尾芭蕉が当神宮に参拝したおり詠んだ句(1687)。「神前」の前書がある。



地震を起こす「大鯰(おおなまず)」の頭を押さえる

「要石」を祀る
大鯰(おおなまず)を押さえているという説話により、当地方は大地震にも被害が少ないという

意外にも、「要石」は子供の頭ほどに小さい
現地説明板より
要石(かなめいし)

神世の昔、鹿島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも。あるいは古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。

この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まるところ知らずという。

水戸黄門仁徳録に、七日七夜掘っても掘っても掘り切れずと書かれ、地震押さえの伝説と相まって著名である。信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。


大地震(おおなゑ)に びくともせぬや 松の花」 一茶

小林一茶は文化14年5月26日、鹿島へ詣で右の句を詠みました。


芭蕉句碑

枯枝に 鴉(からす)のとまりけり 秋(穐)の暮



潔斎の池「御手洗(みたらし)」

池の水温は一定して夏は冷たく冬は温かく感じられるという
現地説明板より
御手洗(みたらし)

池水清冽にして四時滾々とし、一昼夜約2,400〜2,500石(432〜450キロリットル)を湧出す


古来、神職ならびに参拝者の潔斎の池である池の水は、清く美しく澄み四時滾々と流れ出て、どのような旱魃にも絶えることのない霊泉で、神代の昔、御祭神が天曲弓(あめのまがゆみ)で掘られたとき、宮造りの折一夜にして湧水したと伝えられ、大人小人によれず水位が乳を越えないという伝説により七不思議の一つに数えられている。

大昔は当神宮の参拝がこの御手洗を起点としてこの池で身を清めてから参拝するので御手洗(みたらし)の名が今に残るのである。



涼しさや 神代のまゝの 水の色

松露庵雪才



古くは御手洗のあたりが参道の起点であったという。
その名残りか、今は裏口のような園の入口にも大きく土が盛られている。



神の使いの子孫「神鹿」

鹿園には、およそ30頭が飼育されている
現地説明板より
神鹿について

鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)様のところへ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)様のご命令を伝えに来られたのが「天迦久神(あめのかぐのかみ)」という方で、鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっています。

神護景雲元年(西暦767年)に、藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建しましたが、そのとき、御分霊を神鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れて一年がかりで奈良まで行きました。

その鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨(ししぼね)をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っています。また、鹿島は古くは香島と書いていましたが、養老7年(723)頃から鹿島と書くようになったのは、この鹿との縁によるものでしょう。

神鹿は長い間大切に保護されてきておりますが、幾度か新たに導入され、現在の神鹿はかつて鹿島から移った奈良の神鹿の系統を受けています。



鹿島八景「鹿島山の晴嵐(せいらん)」

朝ぼらけ 近くききしは鹿島山 松のあらしの さそう鹿の音

吉澤義則



「稲荷社」
現地説明板より
末社 稲荷社

祭神 保食神(うけもちのかみ)

俗に「銚場の稲荷様」と呼ばれ、霊験あらたかで多く人々の信仰を集めている。なお、「銚場」とは直会場(なおらいば)のことで、江戸時代以前はこの広場で祭典の後、直会(なおらい)を行っていたのである。



鹿島七不思議

要石:その根底深くて図り知れずという

御手洗:池の深さ大人・小人によらず乳を過ぎずという

末無川:川の水、流れ行くほど追々かれて行末知らず

藤の花:御山の藤の花の多少により、その年の豊凶を予知すること

海の音:浪の響が上(北)の方に聞こえれば日和、下(南)に響けば雨降るという

根上りの松:すべて御山の内の松、幾度伐れども伐り跡に芽出て枯れることなし

松の箸:鹿島の松で作る箸は、松脂の出たことなしという




2013年8月11日日曜日

夏井「諏方神社」「翁スギ媼スギ」、東北「天の岩戸」 [福島]


子連れの狛犬

右が「翁(じじ)スギ」
左が「媼(ばば)スギ」

樹齢1,200年
これほどの巨木が並び立つのは極めてマレ

説明板より
諏訪神社の「翁(じじ)スギ・媼(ばば)スギ」

指定 国指定天然記念物
指定日 昭和12年12月21日
所在地 小野町大字夏井字町屋


樹齢 1,200年
樹高 翁スギ 48.5m 媼スギ 47.8m
幹周 翁スギ 9.2m 媼スギ 9.5m
根元周 翁スギ 10.6m 媼スギ 10.8m


 神社の縁起によると、奈良時代に右大臣・藤原継縄(つぐただ)がこの地に立ち寄り、勿来(なこそ)の関より持参した白砂をまき二本のスギを植え、諏訪神社を勧請したと伝えられている。

 諏訪神社の参道をはさんで立っている夫婦スギのうち、社殿に向かって右側が翁スギ、左側が媼スギで、どちらも樹勢は旺盛である。

 二本のスギの根元の間隔はわずか1m程度で、二本の幹がまっすぐにそびえ立ち、幹の上部で互いの枝が交錯している光景は圧巻である。これほどの巨木が並び立つ例は非常にまれで、二本が相対して並んでそびえ立っている姿は壮観で威厳を感じる。

小野町教育委員会


諏訪神社

整然とした灯籠三基

奥の本殿と天照大御神(あまてらす)を祀る「天満宮」

説明板より
夏井諏訪神社本殿

町重要文化財
指定 昭和50年2月26日


◯本殿 一間社流造。中備蟇股、組物出三斗、寛文五年(西暦1665年)再建
◯祭神 健御名方命、下照比売命


 当社の縁起によれば、光仁帝宝亀年間(奈良時代)に、当時蝦夷と呼ばれていた東北地方の伊治村の城主砦麻呂が反逆し、国司の広純公を殺害した。またその勢いで民を殺戮し暴虐の限りを尽くしていた。

 このため、宝亀11年5月(西暦780年)征東使として藤原朝臣継縄卿が任命され東奥に出伺した。そして此の地に陣をとり社壇を築き杉を植え勝敵の祈願をこめて奥地に進発し、諸々の敵を破り国府につく。翌天応元年3月、数度の合戦に伊沼の柵を破り賊首砦麻呂を誅して凱戦。帰京し其の後本社を造営したという。

 境内参道にある「おきな」「おうな」杉はその当時植えられたものと伝えられており国の天然記念物に指定されている。

小野町教育委員会
小野町観光協会

八咫烏(やたがらす)の鳥居
「東北・天の岩戸」へと導く

「東北・天の岩戸(あまのいわと)」

この岩の中央やや右に「御神顔」が現れているというが…

説明板より
東北 天岩戸 由来

 今を去る40数年前、当地方に疫病が流行した際、諏訪大神の熱心な信者・柳沼久助翁が社前に病気平癒の祈願をしこの辺りに来たところ、突然スギの大樹の根元に祠があり、その背後に神の御姿が現れ恐れおののき平伏したのであります。

 ただちに他の信者を伴い再びこの地に来たが、そこは跡形もなく消え去り、方々探し求めたが遂に拝することは出来なかった。その後疫病は治まり、平穏な村にかえり今日に至った次第であります。

 以来、幾星霜が過ぎ噂も忘れ去られた頃、時に平成元年6月「みどりのこみち」遊歩道工事中、忽然と山中の大岩に神の御姿を発見。その状は天の岩戸を押して開く「天手力男神(たぢからお)」、無心に踊る「天宇受賣命(あめのうずめ)」の御姿でありました。

 急ぎ山を切り開き、敬虔な信者によって鳥居が奉納され、並びに多数の浄財により祠を鎮座し、我が国数千年の神話に基づき「東北天の岩戸」と命名し、「天照皇大神(あまてらす)」「天手力男神(たぢからお)」「天宇受賣命(あめのうずめ)」御三柱の神を祀るに至り、人々の平和と身体堅固の神として内外多数の信仰を集めた次第であります。

 なお、八咫烏(やたがらす)の鳥居は天照皇大神(あまてらす)の御使いとして遊歩道第一の鳥居であり、人々の道先案内の意でございます。


御祭神

日の神「天照皇大神(あまてらす)」 人類の平和と幸福の神
力の神「天手力男神(たぢからお)」 スポーツ愛好者の守り神
舞の神「天宇受賣命(あめのうずめ)」 舞踏愛好者の守り神


例大祭

11月23日(勤労感謝の日)


平成元年 己巳(つちのと・み)12月吉日

東北天の岩戸奉賛会


きつく匂い立つ

マダケの林を抜けて

山道を少し歩いた先に
「古峯神社」

諏訪大釜

説明板より
諏訪大釜の由来碑

土用入の神社神事である湯花祭に因み、神社より諏訪の名を拝受し信者の総意を以って安置した大釜であります。

平成22年3月吉日

諏訪大釜保存会



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