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2015年5月22日金曜日

ジャガラモガラ [山形・天童市]



この「すり鉢状のくぼ地」がジャガラモガラ


〜現地・説明板より〜


県指定 天然記念物
ジャガラモガラ
平成7年3月28日指定


 ジャガラモガラは、天童で一番高い905mの雨呼山の北西の山腹、標高570mのところにある東西90m、南北250mの大きな、すり鉢状の凹地である。その中でも、凹地の南端にある550mの等高線で囲まれた東西30m、南北62mのすり鉢状の凹地が通称ジャガラモガラと呼ばれている。

 ジャガラモガラは、凹地の底でありながら、雨が降っても水がたまらない。地下は石英粗面岩の砕石からできている。所々に風穴があって、真夏でも3℃から7℃の冷たい風が出ている。その冷たい空気が凹地の底に淀み込むために、ジャガラモガラは異様な景観と特異な植生を呈している。

 春の訪れが遅い。植物の垂直分布が逆である。亜高山性の植物が群生している。乾燥地を好む植物が見られる。植物が矮小化している。植物の種類が豊富である。花の咲き方に特色がある。絶滅危惧種や希少性の植物が多いなど、学術的にも貴重な場所である。

平成25年3月31日
天童市教育委員会
津山地域づくり委員会


これらの風穴から「冷たい風(真夏でも3~7℃)」が流れ出ている。


春遅いジャガラモガラ
訪れた5月中旬にしてようやく桜が


低山にも関わらず、亜高山性の植物が群生している。



2015年4月18日土曜日

貫津(ぬくつ)の「種まき桜」 [山形・天童市]


















~現地・説明板より~


貫津の種まき桜


樹名 エドヒガンザクラ

樹齢 400年以上(推定)

幹回り 地上1.5m以上で4.21mの太さ

根回り 6.40m







2014年9月27日土曜日

石倉の石鳥居 [山形・天童市]


石倉の石鳥居

〜現地・案内板より〜

石鳥居

 この石鳥居は、凝灰岩(ぎょうかいがん)で笠木(かさぎ)の長さ6.2m、柱の高さ3.17m、柱の太さ直径0.89m、柱と柱の間は2.99mあります。

 造立年代について、干布村郷土史では「近世前期のようだ」としていますが、天童市史では「中世後期」と推定しています。また、この鳥居について郷土史は、雨呼山(あまよばりやま)大権現(龍神様)への奉納であろうとし、市史では向きが南向きだったとも考えられ、山寺に関わる鳥居ではないかと推測しています。

 しかし、これは総合的に判断すると、干布村郷土史が記した、雨呼山の信仰に対して造立されたものと考えるのが自然と思われます。そして、この鳥居を造った苦労を思うとき、それだけ雨呼山に対する先人の信仰の厚さと深さを考えさせられます。

平成19年10月
干布地域づくり委員会



額束(がくづか)が2つある珍しい石鳥居

〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜

石倉の石鳥居

所在:天童市下萩野戸
様式:明神系八幡鳥居
年代:近世
材質:石英粗面岩質凝灰岩
寸法:総高3.9m、柱径0.7m、柱間隔3m、笠長6.25m
位置:38.32514444,140.41567500


 額束を二つもつこの石鳥居は、天童市の東に位置する雨呼山の麓に立っている。鳥居の帰属は、天童市の舞鶴山方面の佛向寺と関係深い雨呼山とされる。柱の径が約0.7m、笠木の長さも約6.25mあり、古式の石鳥居のなかでは大型に分類される。形態の特徴は額束が二つ並んでいる点と、笠と島木の両側面が垂直に切られている点である。そして柱は僅かに転びがあるうえ、八角形に近い断面を示す。八角柱の鳥居は、大鳥神社など明神系鳥居に見られる特徴として、その用例は制限されている。

 鳥居の様式分類上では明神系八幡鳥居の変形と考えられる。だが、額束が二つあるなど、倒壊にともなう一定の改変が加わっている可能性が高い。これを裏付けるものとして、地元の著名な歴史家である川崎浩良氏による証言がある(『出羽文化史料』)。そのなかに、かつて石鳥居の左半分が崩れていたという記述がみられる。崩れた理由は鳥居下の中央部が雨水の影響で渓流となったためであり、右半分はかろうじて樹木に支えられて立っていたという。鳥居の位置する辺りは傾斜のある登山路と川が隣接しており、豪雨の影響を受けると道は渓流となる地形を示す。もう一つ述懐のなかで興味深い事実は、現在のような二つの額束はないとしている。すなわち、この鳥居の特徴を島木の切り落とし部分としているものの、額束が二つあるという記述は見られない。現在の二つある額束は昭和二十年代以降、修理の際に加えられたものと考えられる。


 鳥居の向きに関連して、一説では近隣の立石寺を意識し、現在のような東西ではなく南北向きだったという見解もある。しかし、村山地域の古式鳥居の立地条件は、東へ向う街道沿いを選んでいる。この点、現在の位置は少々山奥に入り込んではいるが、西から東の雨呼山に至る山門としての役割を勘案すると、現在の東西向きが本来的な姿と言えよう。

 製作年代に関しては、帰属する雨呼山の歴史・民俗を考慮して考えるべきであろう。農耕における雨呼び行事は根強い民間信仰として、近隣の立石寺と佛向寺との関連性は地元の歴史研究家により言及されている。ただし、その実態についてはより詳細な研究事例が求められるが、今のところ明確な分類や時代考証などは成されていない。


 南北に長い山形盆地は、南北に羽州街道が走り、これを主軸として盆地内の各地域は東西の横街道によって結ばれている。村山地域における古式石鳥居群の立地条件は、南北の主軸となる街道から、信仰空間である東の山々に向う方向に建立されている。こういった空間性からすると、立石寺との関係は山と街道条件からして無理がある。一方、佛向寺は山の反対側に位置するため、鳥居と参道の動線関係に矛盾を生じる。したがって、石倉の石鳥居の帰属は雨呼山とみるのが妥当であろう。

 ただし、石鳥居の表面の風化度合いや、製作痕の残存度合いなどからして製作年代はそうは古くないと考えられる。この他に、笠、島木の平面的な切り落とし方も近世的な変容と思われる。こういった点から、石倉の石鳥居の建立年代は近世頃とするのが無理がなさそうに思える。いずれにせよ、石倉の石鳥居は額束を二つ有する唯一の事例として、そのユニークさは印象深いと言えよう。










2014年9月25日木曜日

考察:「柱」としての鳥居


〜東北芸術工科大学、文化財保存修復研究センター「日本最古の石鳥居群は語る」より〜


(張大石)

 はたして鳥居の「本来の姿」とは何か。

 平安時代に編纂された『和名類聚抄』のなかで、鳥居の語源は「鷄栖」と記している。「鷄栖」は「鶏が住む」という意味であるが、アマテラスを祀る伊勢神宮では、白い鶏が今の境内のなかで大事に育てられている。また、鎌倉時代の『伊呂波字類抄』では「鳥の居るところ」としている。これは神社信仰と「鳥」を結び付けている。だが、現在の鳥居に鳥の姿は見られない。漢字の成り立ちを知るうえで最も重要な『説文』によれば、「鳥」という字は長い尾をもつものを指し、尾の短い「隹」とを分けている。「隹」が単なる動物としての鳥を指しているのに対して、「鳥」は神聖なる鳥を表している。

 日本の神社信仰において神は自然界のなかに存在する。古い神社信仰では自然をあらわす山を御神体とし、本殿などの建造物をもたない。鳥居が今現在のように神社建築の一部となったのは、仏教をはじめとする大陸の文化が大きく影響をおよぼす奈良時代以降とされる。本来、神は大自然のなかに存在するため、一定の場所に「神」を降臨させて祭祀をおこなっていた。祭祀が終わると神は神の世界に帰するわけで、別段と社殿という建築物が不要であったとされる。この際、神の去来する代表的な空間として山がある。神は山をはしごにして天界から下界に、降臨しては帰する。

 伊勢神宮の正殿には、中心部に「心の御柱」を据えている。この柱は床下に設置されるため、建築構造物としての意味は薄く、遷宮の際に基準点を提供する役割をはたしている。神が降臨する「柱」の名残りとして、神社建築の成立以前の信仰形態を示しているものと見られる。

 また民間信仰では、鳥居のかたちを成す笠木や貫などが無くても、両柱さえ立っていれば鳥居と呼ばれる風習が各地に見られる。山形地域に伝わる古式石鳥居群からも実例を見ることができる。山形の石鳥居群は地元産の凝灰岩でつくられ、山岳信仰と関係した街道の要所に立ち並ぶ。なかでも弁慶の一夜造りと伝わる「谷地中の石鳥居」は、笠木や貫など横材が一切無くなって柱だけが立つ。歴とした鳥居としての信仰がいまに伝わり、塀もなければ壁もない鳥居の柱立てとしての風景を物語っている。




(萩原秀三郎)

 奈良県大和の大神神社は、日本で最古の神社形式といわれています。本殿はなく、拝殿のみが神体山である三輪山に昇る太陽を拝するように建てられている。神社では一般的に鳥居の奥に本殿がありますが、大神神社の場合は拝殿の背後、つまり三輪山の前に鳥居が立っています。しかも、柱が三本ある三つ鳥居という特殊な形式です。

 仏教の伽藍配置などを見ても、当初、仏舎利を納めた塔が中心に置かれていましたが、時代が下がるにつれて塔は飾り物になっています。塔を中央に配列されていた形式が、東西に塔を配列するように変化し、さらに東大寺の七重塔のように回廊の外に建てられるようになっています。鳥居も同様に、最初は中心に立てられていたものが、やがて周辺部に立てられるように変化していったと考えることができるのではないでしょうか。

 折口信夫は『古代人の思考の基礎』のなかで、日本の神社の起源は、柱を立てて結界占地をあらわすことにあると言っています。また「髯籠の話」では、古代生活において最も偉大な信仰の対象であった太陽を迎えるためには依代が必要であり、それはやはり最も天に近い山や喬木に太陽神が降りてくるということが原型であったろうと、神社の起源を説いています。つまり「太陽を招く柱」が根本だというわけです。

 混沌から秩序へというのが神話の一つのパターンです。鳥居も一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居というようにどんどん、本当は真ん中にあったものが移動している。たとえば仏教にはお釈迦さんが亡くなった菩提樹といういのがあります。それを中心にしていたものが、いずれ仏塔という塔になる。その塔を中心にして伽藍配置が生まれたわけですけども、その塔も二重の塔、三重の塔、それから五重塔と、だんだん塔が中心ではなくて、飾りになって回廊の外にまで出ていってしまう。だから、本来中心で宇宙のヘソを囲むべきものがどんどん周辺にいってしまうことがあるのではないかと思います。



(赤坂憲雄)

 元木の石鳥居(山形)は背後に神社を持っていないのが特徴です。一般的な神社の前に立つ鳥居のイメージと離れている、あるいは断絶している意味は非常に大きいと思います。元木の石鳥居は、明らかに春分の日・秋分の日の朝日が昇ってくる方角を意識して建てられています。成沢やそのほかの山形の石鳥居に関しても、石鳥居の建立時には特定の神社との関わりはなく、その後に関わりができたのではないかと指摘されています。

 思い出したのが瀧山での聞き書きです。僕は西蔵王で聞き書きをしたときに、かつて瀧山や蔵王をお山参りした習俗が昭和のはじめ頃まではきちんと行なわれていたと聞いたことがあります。お山参りは、数えで15歳前後の少年たちが先輩たちに率いられて、瀧山から蔵王の方にかけて縦走していく。身体の弱い少年は丈夫に育つように祈願したといいます。このお山参りは古くは修験道の時代に遡ります。このお山参りの光景が、鳥居とつながるような気がしました。鳥居は特定の神社と関わるのではなく、お山参りと関わるわけです。

 私たちは鳥居を見るとき、近代の神社信仰や神社建築の一部という視点に縛られているんじゃないかと思います。かつての鳥居は、今のような形では存在していなかった可能性がある。門前の鳥居というイメージは近代に作られたものです。それを少しだけ解いていかなければ、私たちが目にしている山形の鳥居群の意味は見えてこないのではないかと思います。われわれの鳥居の感覚というのが、あまりにも神社の門というイメージに縛られてしまっている。けれども日本が最も古い鳥居として、我々のすぐそばに残されている石の鳥居というのは神社に関わりがありません。

 しかし鳥居の信仰と、鳥居を立てる場所について、どのように考えたらいいのか、じつはまだ僕のなかでは混乱があるんです。中国のミャオ族は村の中心の広場に立てる。いわば村という世界の中心に立つ。ところがもう一つ、常陸国風土記のヤツノカミにまつわる伝承が取り上げられています。あの話は、谷間の湿地に水田稲作をはじめた一族の首長であるマタチが、谷を占めている蛇体のヤツノカミを山の方に追い払って、谷間の湿地に標の杖を立てる。そして、今日からはこの杖の手前は人間が田んぼとして使う。その向こうは神々が利用する神の地である、というふうに唱えて、自分たちはこれからずっとあなたを祀り続けるから、どうぞ自分たちに田んぼを開かせてくれと祈願するわけです。その杖を立てられたところが谷の社、神社になっている。このとき、杖を立てた場所は村の中心ではなく村のはずれ、山と田を分かつ境界なんですよね。村のはずれの田から山へと移っていく境界に鳥居が立てられている。

 それから縄文文化と鳥居のかかわりですが、僕は鳥居と縄文との関係は稀薄なような気がします。日本列島で鳥居が宗教的なイメージをもって出てくるのは弥生時代以降、稲作農耕との関わりのなかで生成された宗教的なものではないかと感じています。僕がなぜ縄文と弥生にこだわるのかというと、縄文の聖地と弥生の聖地はつながったり消えたりするからです。たとえば秋田県大湯にあるストーンサークルは、夏至の日に太陽が沈む方角を示しているんじゃないかという説がある。三内丸山遺跡の六本柱のモニュメントも、夏至・冬至、そして春分・秋分に太陽が昇ったり沈んだりする方角を意識して建てられていたと考えられています。いくつかの実証的な裏付けをもって近年、縄文の人々もまた太陽信仰を、あるいは山岳に対する信仰というものを持っていたことが明らかにされつつあります。一方、鳥居がたてられた時期は、明らかに弥生的な世界がかぶさっていると思います。



山形県天童市「谷地中(やちなか)の石鳥居」
弁慶が一夜であわてて造ったため、柱しかないのだとか。


鳥居は「門」であり「柱」である。

柱だけがそびえる「弁慶の一夜造りの石鳥居」は、「柱」としての鳥居の原風景を静かに物語る。



 

2014年9月17日水曜日

高瀧山不動尊 [山形・天童市]



燃え盛る朝焼け

県道281号線わきの鳥居
ここから山道へと入っていく。

かたわらには「太神宮」の石碑

鳥居そばの道標



右 髙瀧山不動尊ニ至ル 二十四丁十間
左 田麥野ニ至ル 十六丁四十間

昭和六年八月建之
山口村青年團上組支部
寄贈者 石山七台氏



右「無量浄土 不動明王 地蔵菩薩」
左「庚申供養碑」

沢沿いの林道(一部未舗装)をしばらく走ると
建物が見えてきた。

奥の院へと導く鳥居


石碑「高瀧山大天聖不動明王」

「童心にかへる 移民の里帰り」

石碑「高瀧山不動尊 籠堂跡」

〜現地・案内板より〜

高瀧山不動尊「籠堂(こもりどう)」

 高瀧山不動尊は、神亀五年(奈良時代728年)六月、高僧「行基(ぎょうき)」が開眼したといわれ、雨呼山(あめよばりやま)から流れる水が十数メートルの滝をつくり、この滝の正面に不動尊、左に阿弥陀如来を祀っております。

 滝に至る周辺は、木立に囲まれ、昼なお暗く、幽邃境に瀑布がひびく霊地となっております。

 霊験譚は、居合いの祖「夢想神伝流・林崎甚助重信」の武勇伝のほか、眼病平癒があり、滝ノ水は「ハヤリ目」などの目の病気に良く効くと言われ、往時は近郷近在(特に山形県西村山郡)の崇拝を得て、大勢の参拝客で賑わいました。

 その当時は交通の便も悪く、参道は、現在の道路と留山からの沢登りの二箇所があり、多くの参拝者が訪れましたが、日帰りの参拝が出来る不動尊ではありませんでした。このようなことから、参拝者の宿舎として「籠堂(こもりどう)」が現在地に建立され、滝まで行けない参拝者や、朝のおつとめのための祭壇を設けた時代もありました。

 また、大勢の参拝者で賑わうことから、増築を行なうとともに、籠人(こもりびと、管理人)も常駐し、無料にて食事の世話などの仕事を行ないましたが、その費用はお賽銭などで賄うことが出来ました。当時の献立は定まったものは無く、麩や高野豆豆腐などの日持ちの良い食品と、山菜や茸などを使った季節料理が中心だったと言われております。

 しかしながら、現在の参道の改修により交通の便が良くなったことや、参拝者の減少などにより、平成二十一年十月に籠堂の役目を終えることとなりました。

ありし日の「籠堂」
(案内板の写真より)

無量壽如來
高瀧山 不動明王
請雨龍王神

小高いところに稲荷神社

少し登ったところにある「見晴らし台」
ちょうど朝日が真っ正面。

一転、谷を下る。


沢筋を下っていくと
小さな御堂が見えてくる。

中に御座しますは姥神さま

〜鹿間廣治「奪衣婆―山形のうば神」より〜

色柄の美しい着物をきた奪衣婆(姥神)は、ふくよかな若い女性のような姿で、薄暗がりの中に座っている。小さなお堂の中で、1mぐらいの高い所にいる。こちらからは足下のほうから見上げるようになるので、なおさら艶めかしく感じる。ふっくらとした唇も印象的だし、優しい目つきも奪衣婆らしくはない。



鬱蒼たる大木林

見えてきた奥の院

高瀧山不動尊は「天童三大不動尊」の一つとされている。
ほか2つは「奈良沢(剣瀧山)不動尊」「石倉(天龍山)不動尊


不動明王の祀られている「だんらん滝」

滝上部
この時期(9月半ば)流量は少なかった。

滝のたもと、高瀧山」と書かれた石碑が
倒木の直撃をうけていた。

滝右手の岩窟

岩窟の入口に祀られていた石像

滝の周囲は、断崖に取り囲まれている。

滝の左手、岩の窪みに祀られていた石碑
「奉納 昭和七年七月吉日 為 身体堅固」

岩からも盛んに樹木が生える。



山の麓にある「高瀧山 光明院」
高瀧山不動尊の本坊


高瀧山(こうりゅうざん)
光明院(こうみょういん)

不動尊利益和譛から縁起を見ると、「聖武天皇の御宇、行基菩薩が開眼した景勝無双の霊地にて、その霊験は世々に赫灼なり」と記す。不動尊の影現は滝の魔崖仏である。峻厳な山の気を分けて千仞の谷に降りると、幽邃境に瀑布がひびき、屏風岩に不動明王と阿弥陀仏の影向を拝することが出来る。


光明院御詠歌

世を救う 大悲あまねき 不動尊
焔を負へる 姿尊し


奥ノ院御詠歌

高瀧の 巌にいます み仏は
迷いある身を 救い給はむ

所在地:〒994-0101 山形県天童市大字山口3143-1



堂庭に屹立する「不動慧童子」
東北三十六不動尊霊場の第三番札所となっている。

〜ブログ「神仏仏閣に癒しの音が響く」より〜

寺伝によりますと、聖武天皇の命により奈良時代の高僧・行基菩薩が諸国巡歴の折、この地の山中に「不動明王」「阿弥陀如来」「地蔵菩薩」の三尊の影向を感得し、神亀五年(728)に高瀧山を開いたと伝えられております。

ここ光明院には三体の不動明王が祀られております。大日如来を囲むように両側に一体ずつ、後方上部にも一体。そしてこの不動明王の両脇には薬師如来と蔵王権現がお祀りされております。この三体の不動明王はそれぞれ過去、現在、未来をあらわしているそうです。御存知の方もおられるでしょうが、不動明王の背後にある炎は炎では無く「火の鳥カルラ」で煩悩を食いつくしてくれるそうです。近くでよく見せて貰いましたら、炎の先の形が鳥の頭の形になっていました。

光明院には他に出世大師像や文殊菩薩の修業時代の像が祀られておりました。また昔は真言宗でしたので、弘法大師像も祀られております。






天童三大不動尊:

高瀧山不動尊 [山形・天童市]

石倉(天龍山)不動尊 [山形・天童市]

奈良沢(剣瀧山)不動尊 [山形・天童市]


不動さま関連記事:



2014年9月16日火曜日

北畠神社 [山形・天童市]


北畠神社





〜現地・案内板より〜

北畠神社 由緒
天童市大字荒谷字小才勝四二一鎮座


御祭神

北畠親房命
北畠顕信命
猿田彦神
阿須波神等数柱


由緒

当荒谷(阿谷)は正平六年(1351)十一月、南朝の忠臣北畠顕信卿が北朝の賊将陸奥探題吉良貞家・貞経父子と会戦し、敗走せしめた処(昭和二年五月十六日山形県告示を以って山形県史跡に指定)という史家伊佐早謙の考証と、元財団法人山形県教育会が組織した顕信卿忠誠顕彰会の後援により、邑人村形長兵衛と荒谷地区民の協力により建立された神社である。


大正七年九月 竣工

大正十年八月 秩父宮(淳宮)・高松宮(光宮)両皇子殿下、山寺御成の際、御車を駐められ昔時を偲ばせらる。

昭和十七年十月 久我通顕候爵・岩倉具栄公爵、参拝せらる。

昭和三十八年十月 交通祈願所として猿田彦神・阿須波神等数柱、合祀。

昭和四十四年 社務室ならびに一般集会場、新築。


創立尽力者

史家 伊佐早謙
元山形県知事 馬淵鋭太郎・依田鉄次郎・三浦実生・三沢寛一・篠原英太郎・川村貞四郎など歴代知事
知事官房主事 大沼一郎
顕信卿忠誠顕彰会長 渡辺徳太郎ほか


境内神社
正一位 新霞稲荷神社
御祭神 稲倉魂神

境内地
約壱千坪

恒例祭
大祭 九月二十三日(秋分の日)
元旦祭・祈念祭・新嘗祭ほか

その他
交通安全祈願・神前結婚式・ほか各種御祈祷、随時受付けて居ります。





姥神さま

〜鹿間廣治『奪衣婆―山形のうば神』より〜

境内の真ん中で、でんと座っている。

胸もお腹も脚もむっちりぽってりで、すべすべした肌の感じは老婆のそれではない。髪も女らしく、長く背中に垂らしている。うつむき加減の視線は何を見、何を思っているのだろうか。

そばの太い松の美しい緑が、奪衣婆の齢を感じさせない若さをさらに強調するように演出しているようにも見えた。