2013年8月1日木曜日

文知摺(もちずり)観音 [福島]


かつて、俳人・松尾芭蕉も足を寄せたという「文知摺(もちずり)観音」。

詠んだ歌は 「早苗とる 手もとや昔 しのぶずり」



松尾芭蕉
銅像下にあった記述
奥の細道より

 二本松より右に切れて 黒塚の岩屋一見し 福島に宿る

 あくれば しのぶもち摺の石を尋て 忍ぶのさとに行 遥山陰の古里に 石半土に埋てあり 里の童部の来りて教ける

「昔は此山の上に侍しを 往来の人の表草をあらして 此石を試侍をにくみて 此谷につき落せは 石の面下ざまにふしたり」と云 さもあるべき事にや

村の童がいうことには、その昔、「しのぶもち摺の石」は山の上にあったそうな。だが、その石のモノ珍しさから、文人墨客らが麦畑を荒らしてまで見に来てしまう。その無法に怒った村人らは、その「しのぶもち摺の石」を谷底に突き落としてしまったという。

「しのぶ摺り」というのは、石の上に布を置き、「しのぶ草」の茎葉の乱れた模様を布に写す技法。そして、その乱れた模様は「実らぬ恋」に心乱れる様に重ねられたという(当地に伝わる悲恋物語「虎女伝説」は後述)。


「しのぶもち摺の石」


翼を広げたような鐘楼の屋根
参拝者は常時、自由に撞くことができる


足止め地蔵尊

説明板より
足止め地蔵尊

家出人や走り人があるとき、この地蔵尊の足あたりを縛っておくと必ず無事に帰って来るというところから「足止め地蔵尊」と呼ばれるようになった。

のちに危険から身を守り、足の怪我や病にも御利益があると信仰を集めるようになった。



夜泣き石
説明板より
夜泣き石

古来よりこの石に祈願すると、小児の夜泣きがやむと伝えられているところから「夜泣き石」と名付けられた。


正岡子規の真筆の刻まれた句碑
説明板より
正岡子規 句碑

明治26年(1893)7月25日、正岡子規がこの地を訪れ詠む

涼しさの 昔を語れ しのぶ摺

句碑は昭和12年11月、子規追遠会に建立された。書は子規の真筆である。


東北唯一の「多宝塔」

初層正面の「唐破風(屋根中央の凸部)」は、この塔独自の工夫。
説明板より
安洞院「多宝塔」一棟


福島県指定重要文化財(建造物)
昭和57年3月30日指定
所在地 福島県山口字文知摺70
所有者 安洞院


木造、重層、方三間、銅板ぶき(もと板ぶき)
正面唐破風付



 この多宝塔は、寺伝の記録によると文化9年(1812)安洞院八世「光隆和尚」の建立と伝えられ、棟梁は地元旧山口村の「藤原右源次」と口伝されている。明治17年(1884)に現在の銅板ぶきに改められた。

 小型の塔で、小さい起(むく)りをもつ亀腹とこれに重ねた上層の塔身などは在来の多宝塔形式を備えているが、初層の正面につけられた唐破風や、請花を省略して竜車を立方体とした相輪などには、この塔独特の工夫も見ることができ、全般に入念で安定した構法がとられている。

 内部は正面の二本の来迎柱の間に禅宗様の須弥壇を置いて、金剛界五智如来を祀る厨子を安置する。天井は絵様を施した格天井(ごうてんじょう)である。

 多宝塔遺構は畿内には多いが、関東以北には10棟くらいしかなく、これは東北唯一のものである。

福島県教育委員会


観音堂
説明板より
観音堂

 ここには、かつて大悲閣また大悲堂とも呼ばれた観音堂がありました。

 この方形造りのお堂は、宝永6年(1709)に安洞院の第三世「漢補和尚」が一万人の浄財を集めて改築したものです。

 もともとは南面して建てられたものですが、明治18年(1885)、時の信夫郡長紫山氏らが”もちずり石”の周辺を整備した時、いまの西面に直しました。

 本尊は行基菩薩一刀三礼の作と伝えられる二寸二分(6.5cm)の木造観音で、33年ごとにしか開帳されない秘仏であります。



虎女の恋しい人「源融」の面影を写したと伝えられる「文知摺(もちずり)石」

説明パンフレットより
 かつてこの地は、「綾形石(あやがたいし)」の自然の石紋と綾形、そして「しのぶ草」の葉形などを摺りこんだ風雅な模様の「もちずり絹」の産地でした。

 その名残りをいまに伝える「文知摺(もちずり)石」は、都からの按察使(巡察官)「源融(みなもとのとおる)」と、山口長者の娘「虎女(とらじょ)」の悲恋物語を生み、小倉百人一首にも詠まれました。


虎女(とらじょ)の悲恋物語

 遠い昔、貞観年中(9世紀半ばすぎ)のことです。陸奥国の按察使(巡察官)「源融(みなもとのとおる)」が、お忍びでこの辺りまで参りました。夕暮れ近いのに道もわからず困り果てていますと、この里(山口村)の長者が通りかかりました。

 源融公は、出迎えた長者の女(むすめ)「虎女(とらじょ)」の美しさに思わず息を飲みました。虎女もまた公の高貴さに心奪われました。こうして二人の情愛は深まり、公の滞留は一月あまりにもなりました。

 やがて、公を迎える使いが都からやって来ました。公は初めてその身分を明かし、また会う日を約して去りました。



 再開を待ちわびる虎女は慕情やるかたなく、「もちずり観音」に百日詣りの願を掛け、満願の日となりましたが、都からは何の便りもありません。

 嘆き悲しんだ虎女がふと見ますと、「もちずり石」の面に慕わしい公の面影が彷彿と浮かんで見えました。なつかしさのあまり虎女が駆け寄りますと、それは一瞬にしてかき失せてしまいました。

 虎女はついに病いの床に就いてしまいました。公の歌が使いの手で寄せられたのは、ちょうどこの時でした。


みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえに みだれそめにし我ならなくに(河原左大臣・源融)


もちずり石を「鏡石」というのは、公の面影を写したためだと伝えられています。




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