2013年8月12日月曜日

五浦海岸、「六角堂(岡倉天心)」 [茨城]



五浦海岸
岩々は天然のコンクリート(炭酸塩コンクリーション)
 説明板より
五浦(いづら)海岸ジオサイト

 約1,600万年前の大陸棚の上の浅海に堆積した砂や泥が、かたまって出来た地層が分布しています。海に住んでいた貝やサメの化石、メタンガスが噴出した痕跡が観察できます。

 小五浦では、累々と連なる新第三紀の地層と不整合を見ることができます。

 また、岡倉天心による日本美術の発信地でもあり、文化と自然と交差する場所です。


岡倉天心の「六角堂」
説明板より
文化復興のシンボル「六角堂」

 新しい日本画の創造を目指した「岡倉天心」がその本拠地とした茨城・五浦の六角堂。天然のコンクリートの上に建てられた六角堂は、杜甫の草堂、親鸞が夢のお告げを受けた京都の頂法寺の六角堂、茶室のイメージが渾然とした建築です。

 岡倉天心は、眼下に広がる奇岩を、中国の文人好みの太湖石と重ねてこの地を選んだと思われます。六角堂は断崖と海を結びつけ、人と自然が一体となる天心の理想郷を形作っています。六角堂が建っている岩盤、また海面から顔を覗かせているゴツゴツした岩は、炭酸塩コンクリーションです。

※東日本大震災の津波によって消失したが、復興を願う多くの人々の支援によって再建された。


五浦美術文化研究所(茨城大学)
かつては岡倉天心の住居跡

説明板より
茨城大学「五浦美術文化研究所」ご案内

 当研究所は、近代日本を代表する思想家「岡倉天心(1862〜1913)」の住居跡に設置されました。天心は明治政府の美術行政の確立のため目覚ましい功績をあげ、26歳の若さで帝国博物館(現・東京国立博物館)理事・美術部長、翌年には東京美術学校(現・東京芸術大学)の校長となりました。

 1898年に博物館、美術学校を辞職し、橋本雅邦、横山大観らと日本美術院を設立。以後、天心はインドで後のノーベル賞詩人タゴールと親交を結び、ロンドン、ニューヨークで英文著書『東洋の理想』『茶の本』を出版、ボストン美術館中国日本部長となるなど、国際的に活躍の場を広げました。1906年には日本美術院をこの五浦の地に移し、愛弟子の横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山を呼び寄せました。

 現五浦美術文化研究所の地所と建物は、1942年に天心の遺族・米山高麗子氏により岡倉天心遺跡顕彰会に寄贈され、1955年、茨城大学に移管されました。現在の研究所敷地内には長登屋、旧天心邸(1904)、六角堂(1905)、天心偉績顕彰記念碑(1942)、ウォーナー像(1970)、天心記念館(1963)があります。茨城大学では遺跡の保存に努力するとともに、岡倉天心と近代美術研究のために活用しています。


岡倉天心の眠る墓

説明板より
岡倉天心の墓地


 この墓は日本美術院の主催者「岡倉天心」の遺骨が、天心の辞世とされている和文の


我逝かば 花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて 落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影


および「An Injunction(戒告)」と題した英詩にもりこまれた遺志に沿い、天心没年の大正2年(1913)、東京都の染井霊園の墓から近代日本美術黎明の地「五浦(いづら)」に分骨、埋葬されたものであり、歴史的・文化的に価値の高い史跡である。



平成元年7月24日 市指定
北茨城市教育委員会




海岸に顔をだした蟹

水戸黄門由来の井戸
説明板より
黄門の井戸

 元禄年間、徳川光圀公が領内巡視のおりにこの地を訪れた際、喉の渇きをおぼえ、「井戸はないか」と供のものが捜しまわり、畦の脇に古井戸を発見した。

 ただし、水は底深く飲むことができず、光圀公が井戸を覗き見たときに杖が井戸の淵にあたり、水がコンコンと湧き出でて難なく飲むことができた。

 その後、この井戸は「黄門の井戸」と呼ばれ、涼味あふれる水を永く土地の民に与えたといわれている。
北茨城市


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