2016年11月19日土曜日

甘茶屋跡と南無妙法蓮華経碑[蔵王温泉]



甘茶屋跡 五海道中細記


〜現地・案内板より〜


甘茶屋跡


由来

この一帯は高湯温泉(蔵王温泉)を訪ねる旅人の休息(助け小屋)の地として栄えた甘茶屋跡で、俗に「おみきの茶屋」と呼ばれ親しまれた場所です。

朝靄(あさもや)のなか、見下ろす風景は大海原の島々を思わせる眺望に似て、「沖見の茶屋」と呼ばれる由縁でありました。






自動車道路の開設とともに茶屋はなくなりました。

この稲荷は当時より甘茶屋の守護神として祭られ、いまも堀畜産により守り継がれております。


権兵衛稲荷大明神





〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


茂吉が幼かったころは、湯治客はすべて徒歩で高湯(いまの蔵王温泉)まで通った。

上野(うわの)という集落をすぎると童子平(どうしだいら)という台地に出る。そのとっぱなに甘酒茶屋(あまさけじゃや)があって、そこで清水につけて冷やした甘酒を飲んだり、トコロ天に酢醤油(すだまり)をかけたのを一本箸ですすったりして、また歩き出すのである。

温泉が近くなるにつれて谷も深くなり、道は崖をめぐるつづら折りとなるのだが、やがて滝となって落ちる湯尻(ゆじり)の音が樹間から聞こえてくるころには、きつい湯の香が鼻をつく。硫黄泉のにおいである。そこでいよいよ高湯に着いたのだという実感を味わう。


見返り滝



通りを挟んだ山腹に、南無妙法蓮華経の石碑が建っている。


南無妙法蓮華経の石碑


右側面「七靣(面)大明神」
五穀成就・村内安全


右側面・下部


寄進中

山形世話人

大瀧市良次
富田勘四郎
佐治吉左エ門
富田傳兵衛
同 源次
大樌傳三郎
丹野○○○

願主 當村 善藏



黄葉の残るなか、初雪がふった。



〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


甘酒茶屋


往時山形、高湯間の道路は元堀田村山の神から同志平に登り、首無地蔵を通り、字元かずらを経て茶屋上に出たのである。

この茶屋と言うのは近年までその面影を残していた甘酒茶屋のことであって、これは、文化、文政の頃からあったと言うことである。昔は此処を人助茶屋とも言って、長い山道で唯一の休み場であった。高湯温泉でも協力して保存に努めたので、封建時代から移り変わった世の中に存続して来たのである。行き暮れて困った人が泊ったこともあろう、甘酒茶屋は今は面影すらもない。

昭和二十年頃道路が変更になり、日増しひ自動車が発展して来て、甘酒茶屋はその目的である休憩の場所で無くなった。山道を歩いた人、籠を担いだ人、それらは皆バスと言う便利な乗物で甘酒茶屋の前を素通りしてゆく時代になって仕舞った。

斯くして休み茶屋はなくなったが、経営者は蔵王温泉に移って現在でも有数の成功者として称えられている。先祖から積み重ねた人助けの因縁と思うのは、私が老人である故ばかりではないかと思う。




2016年11月11日金曜日

安斎徹「蔵王火山」



〜真壁仁『蔵王詩集 氷の花』より〜


蔵王の水を飲んでぼくは育った。蔵王の水で稲もつくった。登山家ではないぼくも、この山にはかぞえきれないほど登っている。

熊野岳で暴風雨に会って遭難しかけたこともある。晴れた日の樹氷原で、モンスターとよばれる妖しい白の群像に見とれながら、空中を飛翔している過冷却の水滴が、プリズムのようにキラキラときらめく美しさを発見し、その極微な光の結晶を肉眼でたしかめるふしぎさは、やはり山に来たからこそ見ることができたのだと思ったこともあった。

…

ぼくは1950年の夏、仲間である詩人十人ほどで蔵王登山を試み、そのときの作品を持ち寄ってアンソロジー『蔵王詩集』を編んだことがある。旧山形高校学校教授で地質学者であった安斎徹先生におねがいして「蔵王火山」の一文を書いてもらい、詩集の巻末に添えた。この詩集も今では手に入れがたいものになっている。先生はもう亡くなられた。

蔵王火山の研究の先鞭をつけられた安斎先生の、短いけれども要を得たこの一文を、こんどの詩集に再録させていただくことにした。ぼくの蔵王の知識は、ほとんど先生との交遊の中で得たものが土台になっている。この文章などは先生の研究の集約の 観があるのだが、生前出版された先生の著作のどれいも収められていないので、本書に収めて記念にしたいと思ったのである。

1978年6月
真壁仁



蔵王火山
安斎徹



東北地方は奥羽山脈と言う分水嶺によって東西に両分される。この奥羽山脈の西方には、これに平行して出羽丘陵が南北に走り、山脈と山脈との間に幾つかの盆地平野を連ねているのが、東北の地形的特徴と言うべきであろうか。これら出羽、奥羽の両山脈には更に各々火山脈が附随していて、出羽には鳥海系、奥羽には那須系の火山が噴出堆積し著しい山岳地系の特色を現すようになった。

私達は鳥海火山脈とか、地理的分布の知識はもち合わせているが、火山脈と言うものに甚だしい個性があることを忘れていないであろうか。試みに鳥海系の火山を見るならば、月山、鳥海山、岩木山と言ったように何れもきまった一個の火山形態をもっていてそれ等の山を指示することの出来る山頂がある。然るに那須系の火山は、吾妻山、蔵王山、八甲田山などのように、広い地域に渡って多数の火山が噴出し、古い時代の噴出物は新しい時代の噴出物によって被覆せられ、或は古い火山が新しい時代になって爆裂されて、既成の火山形態が破壊されてしまい、ついに複雑不定の火山群 形をなしているものが多い。従って吾妻、蔵王、八甲田は鳥海系火山の場合のように、それ等の山の名を指示する代表の山嶺があるのではなく、多くの火山群地形を総称した名称になっているのである。吾等の親しみ敬う蔵王山、それは決して特定の山嶺の一つを指定した名称ではないのである。

このような火山の個性と言うものは、地中から上昇して来て火山の噴火を起す時の岩 漿の性質に原因するのである。鳥海系の火山は比較的静かな活動によってその噴出物を一条の火道を中心として堆積するのであるが、那須系火山の場合は、その噴出岩漿の包含しているガス体の量が著しく多いために、ガス爆裂作用が余りにも強烈であるから、火山の噴出物質は火口から四方に飛散して撒布され、堆積物は円錐形と言うよりは寧ろ高原状の地形を形成するのである。かかる噴火が幾個所となく行われて、次から次へと累積した火山は今日見られる複合火山地形を呈するものである。最も新しいこの形式の爆裂は明治二十一年磐梯火山を爆砕したものであった。檜原三湖の出来た、その山体爆破による泥流々布の地形は歴史的に明確であって、それと同じような爆裂は吾妻にも蔵王にも古い昔には幾度となく繰り返されたのである。蔵王火山の個性は、正しく那須火山の本質を示すものとして観察する価値があろう。







蔵王火山群は広い意味に解するなら南蔵王と呼ばれている不忘山、屏風山、杉ヶ峯などの一帯は勿論、刈田岳、熊野、地蔵、三宝荒神の中枢部ばかりでなく龍山から雁戸山までの範囲はその中に入るのであるが、今日一般人の常識では狭い意味の蔵王を指すことになっている。それは最高峯の熊野岳を中心として、東南方に開口するお釜爆裂火口から刈田岳に及び、西は地蔵岳、三宝荒神岳への山峯を含んだ稍々東西の一連地形がそれである。

このような幾多の群峯が出来るまでには幾十万年の時間的経過と其間に於ける周期的火山噴出とがあった。最も古い時代の噴出は南蔵王で、これに時を同じうしたと思われるものは地蔵岳や龍山火山、更に三宝荒神ヶ岳火山であった。その次に熊野岳、刈田岳の噴出がよほど後れて行われ、馬ノ背の東方にも高大な山峯が聳えていたことは確かである。

かくて最も近代になってから大爆裂を起こしたのがお釜の大火口で、その噴出物は遠く東方に賽ノ磧と言う火山礫の裸地をつくっている。今日蔵王火山の活動が周期的に威力を発揮するのもこのお釜を中心とした部分であって、熊野岳一帯が焼石の裸地を呈しているのはこうした火山噴出の影響に外ならないのである。







山形からバスの客となって南に走り、半郷から山ノ神へと坂路をのぼる時、海抜600米の高地に達する間の段々たる水田と畑地と村落とが発達していることに関心をもたない者があったら、それは余りにも凡俗な人々であろう。このような耕作適性は同志平の開拓地にまで及んでゆく。

遠い歴史前の那須系爆裂は、山形盆地に向って高くたかく聳えて居った龍山火山の南部に破壊的活動を行ったのである。恰も明治二十一年に起こった磐梯山の破裂と同じであった。もともと龍山は溶岩性の火山であるからその山体の破片である安山岩塊は、火山灰と破裂に要した水蒸気の豪水化とにより泥流となって恐るべき勢いの下に西下した。熊野岳を凌いだであろうもとの龍山は僅かにその一片を残しただけで、爆裂の跡には今の高湯と言う大きな凹地が現われてしまった。

泥流は北の方半郷川を境とし、南の方蔵王川を境として流れ、末端は久保手に達して鷹取山の裾と相対し、そこには久保手の小さな盆地をつくってしまった。この泥流々下のため山形盆地と上ノ山盆地とは堰き止められ、磐梯の檜原湖をしのぐ大湖水が出来たことは言うまでもないのであるが、長い間に泥流を横断して侵蝕する川の威力は遂に上ノ山湖盆を今日の沃野と化せしめたものである。半郷から山ノ神への傾斜耕地、それは古い火山泥流が風化分解したため、今が耕作土壌として頃合いの時であると言うことを、洋梨の食べ頃に思いを走らすべきであろう。



高湯温泉は火山泉だと言う。正にその通りで龍山の火口壁が赤く切り立った様相、ドッコ林道の複雑な地形、何れも高湯爆裂火口の内壁なのであるが、時代の経過と共に崩れ落ちて今は原形を想像するよすがもない。

高湯の東に聳え立つ鳥兜山は龍山と同様、溶岩性の山である。恐らく高湯爆裂の地形変化に伴った現象であろうが、この峯を中心として四周に溶岩の大崩壊を起し多くの地崩凹地を形成している。その内容が累岩のため凹地に潴水するものは少ないが、泥土の沈積によって漏水のなくなったドッコ沼などは清水を湛えている。蔵王風穴と言うのは岩崩れのために出来たものである。







紅葉峠から仰ぎ見る三宝荒神岳の急崖、それは東西に向って長い断層崖を連ね、崖下にはカタカイ沼を初めとしてヨシ沼、ショウブ沼などの一連がある。しかし今はカタカイ沼を残して何れもくずれ去ったが、ヨシ沼の崩れは大正九年山形の大水害源となり、今も災源地として手を焼かれているが、これは三宝荒神岳の崖にそそり立つ夫婦岩、それはこの山体をつくっている集塊岩の一部が断層崖に残されたもので、断層にそうた東西の溝地は、ネマガリ笹の密生とダケ樺の林とアオモリトド松の疎林によって風致を飾られているが、コーボルトヒュッテはこの地溝の間に建てられている。冬になると季節風として著しい西風はこの地溝を風道として襲来する。海抜は1,400米に過ぎないが風速の強大甚だしく、樹林は悉く樹氷と化して壮観極まりない。

三宝荒神の断層崖をよじ登るのがザンゲ坂である。この坂をのぼって地蔵岳の山腹に茂るアオモリトド松の密林を展望する時は、火山を想うような焼けた素地など一点もなく、美しい針葉喬木の林の山頂に及んでいるのが目につくことであろう。火山が山頂まで喬木化することは、その火山の噴出時代が古くて、表土がよく分解発達していることを示すものである。

この針葉林は冬になると、特に猛吹雪の多い年程、樹林は樹氷と化けて全く雪氷の中に封じこめられた白妖に変わってしまう。昭和三年、コーボルトヒュッテを建てた頃、私は蔵王の樹林が白妖化した光景を研究して、それは烈しい気象的産物であることを知り、特に「樹氷」と言う名称をつけて表現して見た。其後幾度か全国への放送などを行って樹氷の壮観を公表したが、今では世人に普く知られるようになった。







樹氷は西風の猛吹雪によって起る現象である。雪が樹につくのではなく、雪の降る時その中に混在する過冷却の水滴(摂氏零度以下20度になっても凍らないでいる水滴)と言うのが沢山あって、これ等の水滴が幾十米と言う風速のために樹に打ちつけられて凍結し、その氷は風の来る方向に段々と伸び、歯ブラシの様相を呈して発育するものである。従って樹氷は西に面した方が刺刺しく、東に面した方は滑らかである。

樹林は樹氷に包まれてしまえば、氷のマントを被せられるので極めて安全に冬の厳寒を過ごすことが出来るから、一面より見れば樹木の保護にもなる。冬の登山者は、磁石がなくとも、樹氷の向きが西だと言う心得さえあれば、曾て蔵王山に命を捧げた人々のような災難を逃れることが出来るわけである。

地蔵岳の上に建てられた高山気象観測所の東側は、あの山嶺を境にして大雪庇がかかり、斜面は広大な無風帯のスキー地になる。所謂常風に対しての風蔭であって、そこは局地的に積雪の量が多い。この積雪は稜線の東にそい、夏になっても雪田として残される。雪田は地面に対して雪の侵蝕作用をするから地形の変化が起り、喬木などの生育はゆるされないが、雪田にそうて多くの高山植物が繁茂する。それがお花畑の美しい天地になる。







古い火山体は植物によって山肌が飾られ一見親しみを覚えるが、一度ワサ小屋の鞍部を横ぎって熊野岳へと向わんか、新しい火山の様相は今将に風の侵蝕と奮闘して一塊、一粒の岩礫をも保護し、強い根と蔓との網を拡げて地表を彩って岩をめぐり、自己の繁殖のために美しい花を多く飾って、その幾割でも芽生えの数を殖やそうと企てる植物は、雨と風とに傷められて荒れゆく火山の裸地を緑化する使命を帯びているのではあるまいか。

とりわけいたいたしいのは可憐なコマ草の姿であろう。心ない登山者が見つけ次第に千切り採って今は焼石の地表にその影さえも失われてしまった。

コマ草は他の植物さえも生え兼ねる火山酸性の裸地に繁殖して、長い間に地表を土壌化し、やがて他の高山植物によって緑化され得る土壌の開拓者なのだ。山の緑化は、川の源の地崩をまもって平野の人文を安穏にする最大の原因ではないか。

コマ草を先頭とした高山植物の使命を、只美しい風景として見過ごしてよいものであろうか。無惨にも路傍に千切り捨てられたる高山植物のあわれな姿、威大なる蔵王の大自然には測り知れない詩情を感ぜずには居られない。







熊野岳と刈田岳とは其間に馬ノ背の長嶺を挟んでゆっくりと那須系火山の代表的な地形をつくっているが、一歩その東側に入れば、径二粁(km)に及ぶ爆裂カルデラ(凹陥地)がある。このカルデラは数万年この方蔵王山が活動を起す度に中心部となったところである。

馬ノ背の東側は高さ300米の連崖をなし、爆裂火口壁の模式的なものであるが、この火口が出来てから、カルデラの中に長い年月の間噴煙と共に火山砂礫を吹きあげる活動がつづいたので、五色岳と言う層状を呈した円錐形の火山が堆積した。火山ではこうしたカルデラの中に出来た火山を中央火口丘(セントラルコーン)と呼んでいるが、五色岳は正に中央火口丘である。中央火口丘は同じ火口に再活動を起した証拠であるから、そうした火山を複火山と呼び、複火山の場合に於ける火口壁のことを特に外輪山(ゾンマ)と呼ぶので、馬ノ背は外輪山である。

又外輪山と中央火口丘との間の谷合いは火口原(アトリオ)と呼ばれ、私がお釜を研究するために建てた小屋のある処は火口原にあたるのである。ところがこの火口内に第三次の爆裂が起ったのは、恐らく日本の歴史的初期のことと想像される昔のことで、五色岳の西腹を爆裂して径数百米の大火口をつくり、それが比較的近年に及んで火口に水が溜ったから美しい湖水をなすようになった。俗にお釜と呼ばれるのはこれである。






お釜は蔵王火山の生きた眼のように輝いて登山者の誰にでも強い魅力をもっている。その魅力は自然科学者達にとっても、全世界に類のない湖沼学的な興味から珍重がられるのである。お釜の径は360米、常時の水深は40米、夏の表水は18度、水面から深さを増すにしたがって水温は下り、15米のところには摂氏2度の 低温水層がある。そして20米位からまた水温が高くなって4度半位になる。

こんな風に湖水の深部にある低温水層を挟んで、上にも下にも水温が高くなっている現象を「双温層」と呼ぶ。双温層を形成する湖水は300米以上の深湖に限られ、最低水温は3度半以下の例がない。然るに蔵王湖は浅い水深であり乍ら2度という驚異的双温層が出来るのである。

この現象の究明に私は十数年の間観測をつとめたが、概ね結論はつかみ得た。お釜は単に双温層だけではない。湖水の化学成分変化と水色の関係や、微生物発生の時期など尽きぬ話題が現れて来る。

更に驚異を感ずるのは、大きな湖面へ向って、馬ノ背から吹き送られて来る無数の昆虫類が湖面に墜落して溺れることである。冬には吹雪のもととなり、夏にも常時恒風として吹く西風は、低い山形の盆地に安棲する昆虫類を、彼等の意志に逆らって蔵王の嶺へと吹きのぼせ、カルデラ地獄の中へと投げこんでしまう。お釜の湖岸に寄せられる溺れた昆虫の種類は九十種にも及ぶことは、私の湖水研究中に出た副産物の一つであった。



蔵王火山は長い年月の周期によって爆裂する。近くは明治28年のお釜大爆裂で、大正7年には湖水の大沸騰があった。その活動は昭和2年全く静まったが、昭和14年の夏には再び湖面に異変を現わし、15年には相当の活動を行って鳥地獄に小爆発を起すに至った。しかしそれは極めて小規模で18年には湖水平静となり、鳥地獄の噴煙のみ今尚地下の活力を示すかのように幽かな息を見せている。

(1950年稿)



出典:真壁仁『蔵王詩集 氷の花』





蔵王の歌[斎藤茂吉]



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


歌集『赤光(しゃっこう)』に蔵王の歌が出てくるのは、明治39年作「折に触れて」の中の蔵王山五首が最初である。茂吉はこのとき25歳、東大医科大学二年生であった。短歌の上では、伊藤左千夫に入門を果たした年にあたる。

8月になって郷里・金瓶(かなかめ)に帰省し、たぶん蔵王高湯温泉にも遊んだ。


火の山を繞(めぐ)る秋雲(あきぐも)の八重雲(やほぐも)をゆらに吹きまく天つ風かも

岩(いは)の秀(ほ)に立てばひさかたの天の川(あまのがは)南に垂れてかがやきにけり

天(あめ)なるや群(むら)がりめぐる高(たか)ぼしのいよいよ清し山高みかも

雲の中の蔵王(ざわう)の山は今もかもけだもの住まず石あかき山

あめなるや月読(つきよみ)の山(やま)はだら牛うち臥すなして目に入りにけり


これがそのときの作品である。

「岩の秀(ほ)に立てば」という句も見えるが、このときはたして蔵王山に登ったかどうか、明らかではない。どうも中腹の温泉から眺めて作った歌のようである。

翌40年に

岩根ふみ天(あめ)路をのぼる脚底(あしそこ)ゆいかづちぐもの湧き巻きのぼる

底知らに瑠璃(るり)のただよふ天(あめ)の門(と)に凝れる白雲誰まつ白雲

蔵王(ざわう)の山はらにして目を放つ磐城(いはき)の諸嶺(もろね)くも湧ける見ゆ

などの歌があるが、これは東京にいて作った歌である。

「明治四十年に、左千夫先生が日本新聞紙上で歌を募集したとき、それに応募したもので題詠であるから、いろいろの場合を求め、長いあひだかかり、非常に苦労したものであった。……自分の歌はかういふ応募歌を本として進歩した形跡がある」

と茂吉はのちに『作歌四十年』の中でこの歌について書いている。出題に応じて山の歌を眼前の諷詠として書ける想像力による写象の可能性をきたえていたことがよみとれる。しかし、実際に行っていないから、蔵王の山原から「磐城の諸嶺」に湧く雲が見えるなどとつい書いてしまった。

茂吉は41年ごろから「実際にあたつて作ることをおぼえ、それに作者の好きな感情を盛つて、一首をしらべあげる」歌風に変っていった。

しろがねの雪(ゆき)ふる山に人かよふ細(ほそ)ほそとして路見ゆるかな

は大正元年の作で、「東北(羽前)の冬の山を見て作ったもの」であるが、この時期になると「写生を突きすすめて行けば象徴の域に到達する」という考えが、すでにできていたと『作歌四十年』には書いている。



「死にたまふ母」一連59首は『赤光』のなかの絶唱で、「おひろ」の連作とともに『赤光』をして『赤光』たらしめている感動的な挽歌である。

大正2年5月23日、生母いくは亡くなった。それに先だって危篤の知らせをうけた茂吉は、5月16日急ぎ帰省し、臨終の母につきそって看病にあたった。母はついに逝き、村の火葬場で荼毘(だび)に付し、お葬式をすませる。

そのあと茂吉は高湯温泉(いまの蔵王温泉)に行って、親戚の若松屋旅館に二泊した。その第二日に、宿の主人と龍山に登った。爆裂火口そのものである高湯から見ると、龍山は山体の半ばを噴きとばしたままの姿で、赤い地肌を露出している。頂上への道は急峻だ。茂吉は、母をうしなった悲しみをまだ拭いきれないままに、黙々と山を登った。


寂しさに堪へて分け入る山かげに黒々(くろぐろ)と通草(あけび)の花ちりにけり

見はるかす山腹なだり咲きてゐる辛夷(こぶし)の花はほのかなるもの

蔵王山(ざわうさん)に斑(はだ)ら雪かもかがやくと夕さりくれば岨(そば)ゆきにけり

遠天(をんてん)に流らふ雲にたまきはる命(いのち)は無しと云へばかなしき

「死にたまふ母」の最後の部分のこれらの歌が、傷心を抱いて龍山にのぼったときの作であろうと想像される。目にとめる晩春の山の通草(あけび)や辛夷(こぶし)の花にも、残雪や空ゆく雲にも、悲しみの余韻がひびきわたっているのが感じとられる。



昭和16年になってからも、甥の高橋重男を同道して龍山に登り、

ひさかたの天(あめ)はれしかば蔵王のみ雲はこごりてゆゆしくおもほゆ

など19首の歌をのこした。






〜斎藤茂吉没後50年記念出版『茂吉の山河 ふるさとの風景』より〜



真澄なる空となりしかど一しきり蔵王のいただきに雪げむりたつ

ふかぶかとした灰色(はひいろ)を奥にして白き蔵王は聳えけるかも

おほよそに過ぎ来つるごと年老いてわれの見てゐる蔵王の山



いただきはきその一夜(ひとよ)に白くなり五月五日の蔵王の山

この見ゆる蔵王の山の前山のはだらの紅(あけ)に雲は移ろふ

すでにして蔵王の山の真白(ましろ)きを心だらひにふりさけむとす



真白なる鳥海山を見る時に蔵王の山をわれはおもへり

蔵王より離(さか)りてくれば平らけき国の真中(もなか)に雪の降る見ゆ

蔵王山に斑(はだ)ら雪かもかがやくと夕さりくれば岨ゆきにけり



きさらぎといふ日を継ぎて降れる雪この山河(やまかは)をまどかならしむ

ひさびさにわれは来て見つみちのくの入日(いりひ)あたれる大(おお)き雪山

みちのくの蔵王の山にしろがねの雪降りつみてひびくそのおと



朝な夕なこの山見しがあまのはら蔵王の見えぬ処(ところ)にぞ来(こ)し

ひむがしの蔵王(ざわう)を越ゆる疾(と)きかぜは昨日(きのふ)も今日(けふ)も断ゆることなし

蔵王をのぼりてゆけばみんなみの吾妻(あづま)の山に雪のゐる見ゆ



たち上(のぼ)る白雲のなかにあはれなる山鳩(やまばと)啼(な)けり白くものなかに

死にしづむ火山(くわざん)のうへにわが母の乳汁(ちしる)の色のみづ見ゆるかな

万国(ばんこく)の人来り見よ雲はるる蔵王の山のその全(また)けきを



とどろける火はをさまりてみちのくの蔵王の山はさやに聳(そび)ゆる

金瓶(かなかめ)のわぎへの里ゆ雲幾とほりにもなりて越えくる

ひいでつつ天(あみ)が下(した)なる厳(おごそ)かさ山形あがたの蔵王の山は



蔵王よりゆるくなだるる高はらはなべて真白し雪ふりつみて

蔵王ねのいただき今しあらはれて退(そ)きゆく雲のゆくへしらずも

蔵王より雁戸(がんど)にわたる山なみに雪かも降れるくもりの奥に



くもりたる空を奥(おき)にししろたへの蔵王の山はしばしあらはる

蔵王のくもりて見えぬこのあした一人(ひとり)あゆみて小山(をやま)にのぼる



雪ふりし山のはだへはゆうぐれの光(ひかり)となりてむらさきに見ゆ

ひさかたの雪はれしかば入日(いりひ)さし蔵王の山は赤々と見ゆ

ひむがしをふりさけみれば雪暴れむ蔵王ぞこもる黄雲(きぐも)のなかに





私はべつに大切な為事(しごと)もないので、よく出歩いた。

山に行っては沈黙し、川のほとりに行っては沈黙し、隣村の観音堂の境内に行って鯉の泳ぐのを見ていたりした。

そうして少年であったころの経験の蘇(よみが)えってくるのを知った。

たましひを育(はぐく)みますと聳(そび)えたつ蔵王のやまの朝雪げむり

斎藤茂吉『小園』


熊野山頂の朝



〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜



たましひを育みますと聳えたつ蔵王のやまの朝雪げむり

とうたった蔵王さんは、茂吉にとってもっと別な山であった。それはくらしのなかにやしないをそそぐ山であり、自分の心のなかに屹立する山であった。

茂吉の金瓶(かなかめ)の家には、蔵王の連嶺のなかから流れ出た水が堰にあふれ、傾斜のつよい村道に沿うて奔っている。その水をとりこんだ池で顔を洗い、遊びで汚れた足をすすぎ、鍋や茶碗のたぐいも洗ってきた。その水はまた日々の糧である稲を育てる水でもある。



金瓶から東を望むと、噴火のため山体の半分を噴きとばした龍山がいちばん近くに見える。金瓶はその溶岩流の丘のどんじりにできた集落である。龍山の右手には、断層のため切り立っている三宝荒神(さんぽうこうじん)岳、それから地蔵岳、熊野岳、さらに刈田(かった)岳の峰々が並んでいる。この荒々しい火山群はまた烈しい乱気流の渦巻く世界でもあり、雲の中に身を包んで姿を見せない日も決して少なくはない。

茂吉の少年時代に遠望するこの山がどんな威厳と畏れと情念のかげりをおとしたか。それを直接に証しするものは何もない。それはまた、理づめで証しできることでもない。しかしそれにもかかわらず、作品こそはもっともたしかな証言となるのである。

茂吉は十五歳の夏、父に連れられて湯殿山参りをした後まもなく上京している。だからそれまで蔵王に登ることはなかったと思われる。はじめて蔵王に登っての歌が出てくるのは明治44年(1911)である。


あまつ日に目蔭(まかげ)をすれば乳いろの湛へかなしきみづうみの見ゆ

死にしづむ火山のうへにわが母の乳汁(ちしる)の色のみづ見ゆるかな

秋づけばはらみてあゆむけだものも酸(さん)のみづなれば舌触りかねつ


火口湖お釜の歌であり、濃い硫黄泉の湯を流す酢川の歌である。これらの歌八首は、処女歌集『赤光』に収められている。

茂吉三十歳、東京帝国大学医学科副手、同大学付属巣鴨病院に勤務していて、八月帰省の際蔵王にのぼったのである。一月には、母いくの病気を見舞うために帰っているが、夏の帰省も、病気の母に会うためであったと思われる。








意外にも茂吉はその後、二十八年間も蔵王に登っていない。

陸奥をふたわけさまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

という歌を刻んだ碑が熊野の山頂に建ったのは1934年だけれど、その除幕式のときにも登らなかった。



※茂吉はそのころ、家庭の事情などから、極端に人を嫌(いと)うこころが深くなっていた。世間の晴れがましい場所に出ることを避け、人に会うことにもうとましさとためらいを感ずる厭世厭人の思いにさいなまれていた。そういう茂吉に、弟高橋四郎兵衛は強引に歌を作らせ、字を書かせ、歌碑を建ててしまったのである。それにしても、蔵王連峰の主峰である熊野岳頂上を選んだというのは、高橋四郎兵衛の気宇の壮大さを思わせ、茂吉理解のたしかさ、さらには兄貴思いの深さを考えさせるに足る。



歌碑を建てた弟、高橋四郎兵衛が、ぜひとも兄貴に見てもらおうと誘い出し、ようやくのことでそれが実現したのは、建碑から五年経った39年7月のことである。

このときは弟が先頭にたち、河野与一、河野多麻、結城哀草果、岡本信二郎らが同行した。茂吉は、山頂に建っている自分の歌碑をはじめて見て深く感動した。それは次のような詠嘆となって歌いあげられている。


歌碑のまへにわれは来りて時のまは言ぞ絶えたるあはれ高山や

この山に寂しくたてるわが歌碑よ月あかき夜(よ)をわれはおもはむ

一冬を雪にうもるる吾が歌碑が春の光に会へらくおもほゆ


夜になれば、山頂には人影が絶える。そのときも、わがいしぶみはひとり立っている。その孤絶の姿がすぐ茂吉には写象となって浮かぶのだ。冬は五ヶ月あまりも雪に埋もれる。春が来て凍結の 縛(ばく)から解き放たれ、いしぶみが姿をあらわし、春の光を浴びる。その一瞬の形象も、作者の心象とかさなりあった感動となっている。



熊野岳山頂 茂吉歌碑「陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」




2016年11月10日木曜日

蔵王の「こまくさ」[真壁仁・安斎徹]



〜真壁仁『蔵王詩集 氷の花』より〜



真壁仁『蔵王詩集 氷の花』



こまくさ


山が火をふき
あつい泥をおし出して
それがかたまってできた溶岩の沙漠
そこに
どの草たちよりも早く
芽を出したこまくさ

火山の花

しっかりとふかく根をはって
岩をくだき
小石の肌をたがやして
どんな草でもそだつように
あれ地をひらいていく開拓者

蔵王のこまくさ

山のいただきの雨かぜはげしく
空気はつめたい
そのなかで
きよらかな夜ぞらの星のように
人間のこころのともしびのように
こまくさは咲く

雲海のうえに
あけぼののひかりがおとずれ
花にやどったつゆをとかす
そのひかりのいろを
しずくのなかに染めたような
うすくれないのこまくさの花

雲のなかの花

いつまでも若くういういしい
いのちのかがやき







火山の花


こまくさは
蔵王の溶岩の丘に咲いている
田沢湖のおくの駒ケ岳にも咲いている
岩ばかりの原っぱに
白っぽいみどりの葉をひろげ
ピンク色のちいさな花を
ちょうちんのようにつける

ほかの草木がいっぽんもはえない
あれつちに
しっかりと根をはって
わずかな日ざしにもぐんぐんのびる
雪が降るとあからむほっぺのような
花のいろ

こまくさは岩をくだく
こまくさは土をたがやす
こまくさがふえれば
どんな草でもそだつ土にかわっていく
こまくさは開墾者だ
こまくさのはたらきは山をみどりにする

ひるでも
霧にぬれて
こまくさは咲いている
風に折れない
やさしくてつよい花
けれども
ほかの草が生えれば
こまくさは
じぶんのたがやした土を
去らなければならない
かなしい開墾者だ







〜安斎徹「蔵王火山」より〜


古い火山体は植物によって山肌が飾られ一見親しみを覚えるが、一度ワサ小屋の鞍部を横ぎって熊野岳へと向わんか、新しい火山の様相は今将に風の侵蝕と奮闘して一塊、一粒の岩礫をも保護し、強い根と蔓との網を拡げて地表を彩って岩をめぐり、自己の繁殖のために美しい花を多く飾って、その幾割でも芽生えの数を殖やそうと企てる植物は、雨と風とに傷められて荒れゆく火山の裸地を緑化する使命を帯びているのではあるまいか。

とりわけいたいたしいのは可憐なコマ草の姿であろう。心ない登山者が見つけ次第に千切り採って今は焼石の地表にその影さえも失われてしまった。

コマ草は他の植物さえも生え兼ねる火山酸性の裸地に繁殖して、長い間に地表を土壌化し、やがて他の高山植物によって緑化され得る土壌の開拓者なのだ。山の緑化は、川の源の地崩をまもって平野の人文を安穏にする最大の原因ではないか。

コマ草を先頭とした高山植物の使命を、只美しい風景として見過ごしてよいものであろうか。無惨にも路傍に千切り捨てられたる高山植物のあわれな姿、威大なる蔵王の大自然には測り知れない詩情を感ぜずには居られない。






〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


火山(ひのやま)のはな駒草
雪消えしのちに蔵王の太陽が


昭和14年の夏、斎藤茂吉がはじめて山上歌碑を見たときの作品の中に

雪消えしのちに蔵王の太陽がはぐくみたりし駒草のはな

という一首がある。時は7月8日のことだったから、駒草の花の咲きはじめる季節である。歌碑をとりまく溶岩の頂上、とくに南の斜面に、昔はずいぶんこの花が咲いていた。昭和14年にも、あるいはあちこちに残っていたかもしれない。だからこの歌も実際に駒草の花を見ての作だろうと考えられる。

白っぽい緑の茎葉もうつくしいが、そこから花梗をのばして、外にしゃくれたような淡紅の花弁をひらいているこの花は、たとえようもない可憐なうつくしさを持っている。それがごつい岩石の砂漠にゆらぎながら咲いている。霧のふかいときは、しっとりと濡れて、その露の重みでくず折れはしまいかと思うばかりだ。

しかし、ほんとうはほかのどんな草も生えられない裸地に、さきがけて咲く強い花なのである。冷たい山上の気流にも、烈しい突風にもめげず、ふかくふかく地中に根を張って、九月ごろまで、つぎつぎに咲いていく。



茂吉のこの歌は、「雪消えしのちに蔵王の太陽」の方に感動がかかっているように思われる。長い冬のあいだ、しかもシュカブラといわれる青氷に蔽われる火山岩の丘の氷雪が溶けて、春らしい太陽が照りはじめたのはついこの間と思われるのに、その短い期間の太陽光に育くまれて、夏の花である駒草が咲いているという感動である。

「雪消えし」で小休止の息を入れたあと、「はぐくみたりし」とたたみかけて声調の上にその感動を沈めこんでいる。駒草の花そのもののうつくしさは、声にならない無音の韻としてひびいている。


(中略)


駒草が咲くのは、荒い青年期の火山帯である。溶岩の原は強度の酸性であるが、その酸性に耐えて最初に根をおろすことができるのが駒草である。

もしこの美しい高山の花を摘みとることなく、花の群落をつくるのを待つなら、駒草の根は岩や礫をくだいて土壌化し、その土の酸性をも中和して行く。そういう先駆的な開拓が長い期間にわたって進むならば、そこは他の草たちも根をおろすことができるようになる。木もまた生えることができる。

しかしそのとき、駒草は他の草たちにその座を追われる。この、緑化の先駆者は、荒涼の地殻(ちこく)にだけ、その美しさを見せて滅びてしまう悲劇の女王でもある。



ぼくらが駒草を愛するのは、その美しさのためだけではない。水の源である山が、そのゆたかな水で麓の町や里を潤おしてくれることをねがっているからである。滅びをかけたその繁茂は、人間と大地の豊穣につながっている。

それだけに花をむしりとっていくものたちへのぼくらの怒りは深い。

ぼくらは熊野岳から馬の背へ、そして刈田岳への道をまた歩いたのだが、一輪の駒草にも出会わなかった。崖の上から、ふしぎな双温層の水層をもつといわれるお釜を眺めることで満足して山を下りた。


(中略)


こまくさ平で車をとめる。大黒天、こまくさ平、賽の河原などの一帯はまだ噴出した溶岩の大地である。

駒草の花は、柵をめぐらして保護されながら、台地に幾株か咲いている。花は乏しく、もう季節がすぎていることを思わせた。







斎藤茂吉「霊泉碑」と瀧山登山[山形市・蔵王温泉]



蔵王温泉の共同浴場3湯の、ほぼ中央に位置する。


蔵王温泉「霊泉」碑


斎藤茂吉筆「霊泉」



〜現地・案内板より〜


斎藤茂吉
霊泉碑
"Reisen" Stone Monument


山岳信仰で名高い蔵王のお山、蔵王のお湯は神聖な山に足を踏み入れるときに身を清めたと言われる大切な湯泉です。

This monument was built in 1971. The original calligraphy was drawn by poet, Mr. Mokichi Saito while he stayed at Wakamatsuya ryokan in 1933.

アララギ派の有名な歌人、斎藤茂吉は蔵王の麓、上山市に生まれています。

昭和8年、茂吉翁50歳、旅館・若松屋に逗留時に「霊泉延年」と書いた書より「霊泉」の部分を縮小コピーし、先代・長右エ門氏が昭和46年に建立。

現・長右エ門氏の曽祖母、おわかさんは茂吉翁の養父(青山脳病院の斎藤紀一博士)の姉、おわかさんの長男・平六氏と茂吉翁は同年 輩、ともに机をならべ勉強した間柄。

昭和16年5月1日、58歳のときにも若松屋に逗留(2泊)。龍山に登りながら10首、山頂で9首の句を詠んでいます。






〜 岩波書店『斎藤茂吉全集 第3巻』「霜」より 〜



四月三十日、赤湯を立ち上山温泉山城屋に著く。
五月一日、上山を立ち山形を経て高湯温泉(蔵王温泉)なる龍山に登る。高橋重男、同道せり。


ここにして蔵王(ざわう)の山はあら山と常立(とこた)ちわたる雲(くも)見つつをり

ひさかたの天(あめ)はれしかば蔵王のみ雲はこごりてゆゆしくおもほゆ

桜桃の花しらじらと咲き群るる川べをゆけば母をしぞおもふ

春ふけむ五月一日しら雪は澤のひだりに消えのこりたる

しろ妙(たへ)の雪をかかむる遠山(とほやま)がをりをりに見ゆ木立(こだち)の間(かひ)に

うつせみの胸戸(むなと)ひらくるわがまへに蔵王は白く雁戸(がんど)ははだら

いきほひて山の奥よりながれたる水際(みぎは)しづかに雪は消残(けのこ)る

いつしかも笹生(ささふ)ひたしてこの谿(たに)の雪解(ゆきげ)の水のあつまるあはれ

消(け)のこれる雪は笹生(ささふ)のうへにして春のふかみに日ごとに解(と)けむ

雪ふみていゆく春山(はるやま)のしづかさに光をかへす雪のうへより



龍山のいただきにありて


蔵王よりなだれをなせる山膚(やまはだ)に白斑(しらふ)になりて雪消(き)えのこる

羽前(うぜん)なるあまそそる山いまだかもそともの雪かげともの雪

山の峰(みね)たかみに低くなりゆきて笹谷峠(ささやたうげ)は其處(そこ)にあるはや

雁戸(がんど)よりひだりに低くなりゆきし笹谷峠(ささやたうげ)は愛(かな)しきろかも

蔵王(ざわう)よりひくき雁戸(がんど)のあゐ色をしばし戀(こほ)しむ雪のはだらも

絲のごとき道の見えをる山越えてわきいづる湯に病(や)み人(びと)かよひき

しらじらと川原(かはら)がありてその岸にわが生(あ)れし村の杉木立(すぎこだち)みゆ

生きものの膚(はだへ)をなせる山むらにまだらに雪の白きかなしさ

斑(はだ)らにし消(け)のこる雪をさやりなく見つつやうやくに高きゆ下(くだ)る


山をくだりて若松屋長右衛門方にやどる。



瀧山山頂に立つ「斎藤茂吉歌碑」


「山の峰たかみに低くなりゆきて笹谷峠は其處にあるはや」





斎藤茂吉『霜』

昭和26年12月20日、第1刷岩波書店発行。アララギ叢書第150篇。昭和16年および昭和17年の作歌のうち、戦争に関係のないものを選んで、863首を収めてある。

著者の日記によれば、この期間の作歌は、昭和16年8月、昭和17年7月、9月およびそれ以降に整理清書され、はじめ「いきほひ」(昭和16年作)、「とどろき」(昭和17年作)の二歌集に編輯されてゐたのであるが、敗戦後の出版事情により、戦争関係の歌を削って、「霜」の一冊にまとめたのであった。











〜真壁仁『斎藤茂吉の風土 蔵王・最上川』より〜


…

茂吉は生涯、どのくらい山に登っただろうか。山が、茂吉にとって何であったかを考える前に、山に刻んだ茂吉の足跡をたどってみよう。

茂吉の父、守谷伝右衛門は、からだこそは小柄だが、脚は達者で「道中自慢」らしかった。茂吉は山に登るとき、かならずといっていいほど脚絆(きゃはん)をきちんとつけ、草鞋(わらじ)を穿いた。その身構えは、また心構えでもあったろうが、父ゆずりのものといえよう。

…

強い山岳信仰を抱いていた父の影響で、茂吉は郷里の月山や蔵王山などを神在(い)ます山と考えてきた。そういう山々に茂吉はきまって、脚絆に草鞋ばきのいでたちで登っている。

…

男の子が十五歳になると初詣をさせる慣(なら)わしがある。たいてい出羽三山つまり月山、湯殿山、羽黒山という修験の山がえらばれた。

茂吉は明治29年(1896)十五歳の七月、父に連れられて初詣をしている。このときは湯殿山に詣でただけであったが、汽車の便もなかったから、金瓶(かなかめ)の家から歩きずくめ、本導寺という村へ着いて一泊した。白い晒木綿(さらしもめん)の装束をつけた行者姿で行くのであるが、食べるものも精進料理で、納豆に豆腐汁といった簡素なものだった。宿坊では出立にあたって水垢離(みずごり)をとって身を清める。

そのとき茂吉の父は四十六歳であったが、すでに腰がまがっていた。けれどもなかなかの道中自慢で脚には自信があった。第二日には志津(しず)まで行き、そこで先達(せんだつ)を頼んで登った。折あしく天気が崩れて、風つよくどしゃ降りの雨となった。笠が飛び、茣蓙(ござ)もちぎれそうになる。その中を「六根清浄(ろっこんしょうじょう)、御山繁昌(おやまはんじょう)」と唱えながら登って行く。湯殿山神社には尾根をひとつ越えた谿間(たにま)にある。そこまでは氷の張りつめた崖があり、鎖につかまっておりる岩場がある。氷の谷にさしかかったとき、強い風が吹いてきて転びそうになった。父は後から歩いていたが、鋭い声で

「茂吉、匐(は)へ。べたっと匐へ」

と叫んだ。茂吉は氷の上に匐った。そのときのことが忘れられず、のちに『念珠集』の中に書きとどめている。

湯殿山の御神体は巨大な岩である。赭(あか)らびた岩肌からこんこんと湯が湧き出して、岩ぜんたいを濡らしながら流れおちている。雨でびしょ濡れになってたどりついた茂吉と父熊次郎は、このふしぎに妖しい岩に向かって手を合わせた。帰りは志津に泊って衣類を乾かし、荒天の初詣をすませた。

その茂吉が、昭和5年(1930)七月、自分の長男茂太が十五歳になったので、連れだって三山詣をしている。父が教えた慣わしを忠実に承(う)けついだのだ。

…




2016年11月9日水曜日

平泉寺と大日堂[山形市平清水]




平清水 平泉寺

山門扁額「千歳山」



〜現地・説明板より〜


歴史の散歩道
平泉寺と大日堂


慈覚大師の開祖と伝えられる平泉寺は、天台宗の古刹であり、当寺には重要文化財に指定されている鉄鉢があり、陶祖・小野藤治平の碑がある。

また、夏椿と称する「沙羅の木」が白い花を咲かせる。天然記念物の枝垂れ桜の下には結城哀草果の歌碑がある。

大日堂は胎蔵界大日如来を本尊とし、大仏殿の復興を願ってつくられた千嵗山大仏の仏頭が安置され、裏山には四国八十八ヶ所霊場を勧請した石仏が並び、また、白山権現には宝篋印塔があり、修理の折、仏舎利の納められているのが発見されている。

なお境内には阿古耶姫の遺歌や、風五の句碑が建っている。


夜や更けて おぼろの中に 松の声
風五

消し世の 跡問う松の末かけて 名のみは千々の 秋の月影
阿古耶

滝山地区振興協議会
平成三年 宝くじ助成品



山形市指定天然記念物「紅しだれ桜」


~『わがさと平清水』より~


平泉寺縁起
山形市史資料第五十七号より


天台宗の古刹・平泉寺は、大日堂を本堂として奉祀し、明治維新まで無檀の祈祷寺として、代々山形城主や柏倉陣屋をはじめ、近郷近在の信仰が厚かった。

天保11年の同寺の『由緒分限御改張』によると、天平9年(737)行基菩薩の開山と伝え、仁寿2年(852)慈覚大師が東北巡錫の折、中興開基となり、その後、鎌倉時代には源頼朝から祈祷所に仰せつけられ、寺領36町歩を下付されたと伝え、当時、一山の塔頭は12坊あったと記している。



また同書には、慈覚大師が山寺にある立石寺を開山する以前に、瀧山に龍山寺を開山したが、今の三百坊跡に三百坊があって、平泉寺はその龍山寺三百坊の本坊として「龍山貫主」と称した由を記している。

さらに同書は、最上氏時代には代々270石の寺領を寄進され、山形東郷三十三ヶ村の総鎮守に定められたと記しているが、最上家の改易後は、寺領も召し上げられ、その後、松平大和守が山形城主のときに、諸社寺は幕府の御朱印領を申請して、御朱印寺になったが、平泉寺は当時無住だったので、その願いを出さなかったため、御朱印寺にはならなかったと記している。

また同書は、寛文頃に、松平下総守、奥平美作守が山形城主時代に、祈祷所に仰せつけられ、初穂米として毎月2俵ずつ、正月・九月には3俵ずつを下賜されたが、それらの文書は、今も数通所持していると書き上げている。



かくの如く平泉寺は、江戸時代まで無檀の祈祷寺として、山形藩主や、その他私領の尊敬を集めていたが、現在は有壇の天台寺院となっています。



結城哀草果 歌碑「栗のいがの青きがおちし裏庭を いがをぬらして雨はふりをり」


ころり観音



〜現地・説明板より〜

山形市指定文化財
氏家相模守光房寄進 鉄鉢 壹個
昭和40年3月5日指定


千歳山平泉寺は、遠く奈良時代に僧・行基が開創し、のち天台宗の高僧・円仁(慈覚大師)が再興したと伝える古寺で、仏像、仏具、絵馬など多くの文化財を伝えているが、そのなかに山形城主・最上氏の家臣、氏家相模守光房が大日堂に寄進した鉄鉢がある。

鉄鉢は洗米鉢ともよび、これを神仏の宝前に置き、参詣者の浄財や米穀を納れたものであるが、県内に遺っておるものは非常に数が少ない。

この鉄鉢は高さ27.5cm(九寸一分)、口径50.0cm(一尺六寸五分)あり、一度火中したらしく黒ずんでいるが、次の銘文を陽刻している。

敬白 大日御宝前
奉寄進御鉢
藤原朝臣 氏家相模守光房
請願成就所
于時 慶長六年辛丑 閏月廿八日

慶長六年(1601)は山形城主・最上義光が関ヶ原余波戦の功により、庄内、由利の諸郡をも加増されて五十七万石の大名に飛躍した年である。

昭和四十年三月
山形市教育委員会


氏家相模守「鉄鉢」



~『わがさと平清水』より~


平泉寺の宝物

大般若経 写本


岩波の石行寺に南北朝時代の大般若経の写本があって、山形県の有形文化財に指定されていますが、その中の第三十六巻の一冊が平泉寺にあります。

それはなぜかと言うと、その写本の奥書に「文和二年五月九日、於平泉寺客欄之下書之、出羽州石行寺常住一筆写百巻之内第三巻也、云々」との記があるのを見つけ、平泉寺先代覚田代に石行寺から特に譲り受けたものであります。



絵馬


もともとは大日堂に奉納されたものであります。華鬘(けまん)型の小さな絵馬がたくさんあります。元禄、宝永、正徳年代の素朴な木版画が多い。

特記すべきものとしては、奥平美作守昌章が奉納した武者絵であります。縦1m、横1.2mの大きなもので、表面に「奉掛御宝前、所願成辨之所」、裏面に「武運長久之所、元禄七甲戌歳八月朔日作州、昌章、敬白」とあります。

昌章は一代の守護仏が大日如来なので、その信仰が特に篤く、平清水大日堂への参詣が34回に及んだと平泉寺の記録にあります。


奥平美作守「武者絵馬」



参道よりのぞむ大日堂


千歳山「大日堂」


~『わがさと平清水』より~


本堂 大日堂


現在の御堂は貞享元年(1684)、二十五世愛慶代(棟札が保存されている)に再建されたもので、四間四面の宝形造で桧造である。

正面の「覚王殿」と書かれた扁額は寛延三年、佐倉に移封して間もない堀田伊豆守正虎公の筆になるものである。

宮殿内の本尊は、行基菩薩の作と伝える胎蔵界の大日如来(秘仏)という。昭和54年の屋根替工事の落成祝賀の際、一世一度の御開帳が執行されました。さらに内陣には脇侍として持国天、増長天をはじめ火伏の牛(慈覚大師作という)、飛地蔵(秘仏)、南滝山不動の本地仏が祀られている。

周りの板壁には花図、竜、象、鳳凰の図絵が極彩色で描かれ、外陣の格天井にも見事な絵が描かれています。

また、大きな仁王像(左右二体で、もとは外の仁王門にあったという)と、約1.90cmの木造大仏頭(千歳山大仏の復元用に造られたもの)、また針子たちが奉納した特大の絵馬、技能の上達を祈願して奉納した数々の絵馬や実物作品などが堂内いっぱいに飾られています。



扁額「覚王殿」堀田伊豆守正虎公筆


針子絵馬(大日堂内)



〜現地・説明板より〜

千嵗山 大日堂
別当 平泉寺


当山は人皇四十五代、聖武天皇の御 宇、天平九 丁丑年(737)行基菩薩の草創にして、のち仁寿壬申年(852)六月十二日、慈覚大師完興の霊場なり。

もとは当山より四粁ばかり奥の字新山という処に、行基菩薩御自作による大日如来の尊像が安置されてあったのが、のち慈覚大師、東北巡錫のみぎり尊像の風雨に犯せらるるを悲しみて、現在の地に移し祭られたものであります。元の新山の旧蹟の地には古碑(薬研堀りのह्रीःキリクを刻してある)一基が残されている。

建久年間(1190〜1199)鎌倉右大将軍・頼朝公よりは、東北の祈願所の一として三十六町の庄園を賜り、一山塔中十二坊、十二末社などを字寺ヶ入りという処に扣え、天下泰平、五穀豊穣などの祈祷の道場であった。



その後、国司・斯波兼頼公、御入部より祈願所として寺領二百七拾石を賜り、本尊・大日如来は川東三十三ヶ村の鎮守と定められた。さらに松平下総守、奥平美作守、旧領の節は、本尊献膳用御初穂として毎月弐 俵、正、五、九月には三俵づつ奉納された書類など現存している。

また承応二年(1653)五月五日、改めて千嵗山のうち大日山、竪二町三十二間、横一丁四十間、絵図面入りの寄附古文書ならびに、当大日堂、屋根普請の祈りには、その都度、萱三千把、葭二百束、足代木三十本、ほかに人足などの寄附書類および寄進札など、今なお保存されている。



本堂、坂の石段、東の池は、慈覚大師、本尊奉移のみぎり閼伽水を求め錫杖にて穿ち給うところ、突然、白蛇があらわれ清水が湧き出た。

現在の平清水という字名、平泉寺という寺号は、皆これより起きたものであると伝えられている。



本尊:胎蔵界・大日如来(行基菩薩御作)

不動明王:南瀧山の本尊

飛行地蔵菩薩(秘仏):元和元年(1615)三月二十四日、山形北肴町表、火行河原より飛来る。

正面扁額:覚王殿 寛延三年(1750)、老中・堀田伊豆守正虎公、筆。

千歳山大仏御頭像:高さ六尺三寸余、元千歳山公園六角堂にあったもの。

両脇仕:増長天、広目天

御縁日:正月二十八日早朝、初大護摩供修行、家内安全、厄難消除(年祝いの人)、交通安全、とくに進学成就、諸願如意、御祈祷

大祭礼:四月二十八日(もとは旧三月二十八日)、午前十時、大護摩供

例祭:毎月二十八日

文化財:鉄鉢、別当平泉寺にあり。


慈覚大師の穿ちし池


~『わがさと平清水』より~


慈覚大師は新山の地を行脚された折り、大日堂の荒廃をいたく嘆かれ、下の平清水に風光明媚な土地をさがして中興されたといわれています。いまも境内にある古い桜は大師の偉業を物語るものと思われます。

なお大日堂の坂の下の池も、大師が掘ったものであります。大師が閼伽水(あかみず、仏に供える水)を求めて錫杖で土をついたら、清水がこんこんと出てきたので、里人はこの水を飲料に供し「平清水」と呼んだと伝えられています。

平清水の名の起こりは2つありまして、古い時代のことですから何れが本名とは言いがたいのであります。



お不動さま


風五「夜や更けて おぼろの中に 松の声」


阿古耶姫「消し世の 跡問う松の末かけて 名のみは千々の 秋の月影」


蔵王に多い「山姥さま」がここにも


白山大権現と宝篋印塔

~『わがさと平清水』より~


白山大権現堂

むかし、修験道の白山信仰が北陸から東北地方に拡がったといわれ、穢れを払う神で、お山、境内を守護するから地主権現ともいわれる。



~現地・説明板より~


白山大権現:川東三十三ヶ村の地主明神であった。

宝篋印塔:仏舎利を納蔵。



白山大権現の奥からはじまる「大日山八十八ヶ所」登山口



~『わがさと平清水』より~


新四国八十八ヶ所霊場


文政年間(1818〜1830)に、紀州の人、浦若歌之助が同行者たちと協力して、東北の人々も西国八十八ヶ所の霊場を参拝することができるようにと、それぞれの土を持ってきて瓶に入れ、一つ一つの石仏の下に埋めて建てたものといわれています。

(補足)
八十八の石仏が大日山に建つ。施主は山形の人である。為○○之菩提也とある。



~現地・説明板より~

新四国八十八ヶ所霊場:
文政年中、紀州牟漏郡木ノ元浦若之助、同行三人建立。境内山内にあり。



つづら折りの登山道沿いに多数、石仏が配置されている。


一番上の石像


展望台


展望台よりのぞむ山形市内。右奥には月山。


下りの別ルートにも、多数の石仏


蔵王権現


「山寺」の文字がみえる


八十八ヶ所を山中一巡すると、大日堂に戻る