2016年11月8日火曜日

千年の「ひいらぎ」[山形市平清水]



天然記念物
「平清水の柊(ひいらぎ)」



〜現地・説明板より〜


県指定天然記念物
平清水のひいらぎ
昭和28年2月13日指定


「ひいらぎ(柊)」は暖かい地方の常緑の小高木で、昔から庭木として広く植えられています。福島県のいわき市が自生の北限とされています。山形にこのような老巨木が生育したことは、極めて珍しいことです。

平清水家は、慶長・元和(1610年代)には山形最上氏の客臣として四千石を賜り、徳川時代には大庄屋をつとめた家柄です。この「ひいらぎ」は、その先祖が邸内の魔除けとして植えたものと伝えられています。

根周(ねまわり)は3.5mあり、根元で二幹に分かれています。東側の幹周(みきまわり)は2.2mで、高さ約11mを測ります。西側の幹はさらに分岐して西方に大きく傾き、枝張りは約10mに達し、地面すれすれに垂下しています。

なお、樹齢は千年を越えるものと推定されています。

平成4年3月
山形県教育委員会
山形市教育委員会



樹齢は千年をこえる



~『わがさと平清水』より~


大和政府は植民政策をおこない、全国より移民をはじめました。年代は不明でありますが、天童市の西沼田、酒田市の城の輪の遺跡などから、山形県地方への移住がうかがえるのであります。

平清水地区でも、平清水家(現第74代、平清水久左衛門氏)は奈良時代の神亀年間、家祖、黒金穆弥(くろがね・ぼくや)公が朝命により下野国(栃木県)から里人数十人を従えて、千歳山南麓に移住し草庵をむすび、飲料水を探しまわり、やや湿地のところを見つけて杖で土地を掘ったところ、突然、清水が湧き出したといわれています。それから自分の家の姓を「平清水」とし、村の名も平清水と呼ぶようになったといわれています。

道家の邸内には柊(ひいらぎ)が樹齢1,000有余年の威容を誇っています。このヒイラギは家祖、黒金穆弥公故郷の山野に生い茂る幼木を移住の地までもってきて屋敷の鬼門に植えたと伝えられています。暖帯性の植物が主家を見守るように、気候的に寒さの厳しい東北地方の山形に土着したことは珍しい。このヒイラギは昭和28年に山形県天然記念物に指定されました。



『わがさと平清水』より




2016年11月7日月曜日

ヒュッテ・ヤレン[白洲次郎と蔵王]



白洲次郎の別荘
「ヒュッテ・ヤレン」


〜現地・案内板より〜

白洲次郎と旧山荘(ヒュッテ・ヤレン)


日本昭和史上、敗戦後の危機を乗り越え、新生日本の礎を築いた、英国仕込みの『プリンシパル(筋を通す)』白洲次郎氏が、こよなく愛した蔵王にスキー山荘を東北電力会長時代(1951〜1959)建築されました。

生活を地域住民とともに楽しみ、蔵王温泉発展のために「東洋のサンモリッツ」を標榜し、スキー場初の大型ロープウェイ建設等に尽力いただきました。

この山荘は、日本語の「やれん(やってらんないの意味)」とかけて、白洲次郎氏によって、スイス風ドイツ語のつもりで「ヤレン(Jaren)」と命名されました。


スキーが「ヒュッと、やれん(上手くできない)」



〜現地・説明板より〜


白洲次郎と蔵王
Jiro Shirasu and Zao


1945(昭和20)年12月から終戦連絡事務局参与としてマッカーサー元帥が率いるGHQ(連合国軍総司令部)と国益のため勇猛果敢に交渉にあたり、日本国憲法の制定に立ち会った白洲次郎氏。

In December of 1945, after the Second World War was over, Jiro Shirasu became the vice president of the Central Liaison Office. 

He was responsible for firmly representing the national interest of Japan in negotiations with General MacArthur of the General Headquarters of the Allied forces (GHQ), resulting in the creation of the new Japanese constitution. 

わが蔵王とも関わり深い存在でした。

It's a little known fact that Shirasu had a deep connection with Zao.







敗戦4年目の12月、第二次吉田内閣の初代貿易庁長官に就任した白洲氏は、翌年に同長官を退任して国内の電力事業再編に全力を傾注しました。

Four years later, Shirasu became the first head of the Trade ministry. 

A year later he resigned from this position, and concentrated all of his energies in restructuring the electric power supply within Japan. 

やがて再編が完了した1951(昭和26)年5月、49歳の若さで東北電力(株)会長に選任され、しばしば同社の山形市店を訪れるようになったのです。

In May 1951, after its completion, at the age of 49, he was elected as the chairman of the Tohoku Electrical power company, Inc. 

Following this, Shirasu began making frequent visits to the Yamagata branch of the company.

スキーが得意な白洲氏は、蔵王の雪質の良さとロケーションに惚れこみ、早速、スキー山荘を新築。持ち前のウィットをこめ、ヒュッテ・ヤレン([スキーを]ヒュッと、やれん)と名付けたものです。

Shirasu was a keen skier and quickly fell in love with Zao's excellent snow and location. He wasted no time in building a mountain lodge and humorously named it, "Hutte Jaren" a German term, which sounds like the Japanese for "not a fast skier." 

電力関係者という立場から、山荘の内部は殆んどを電化し、当時としては最新の設備を有する理想的な山小屋だったが、冬期間だけの使用でした。

Since he was working in the electric industry, the lodge was almost completely powered by the most advanced equipment, although, it was only used during winter.



1階 間取り

2階 間取り



長女・桂子さん(嫁いで牧山と改姓)は著書のなかで蔵王での思い出を述べています。

Shirasu's first daughter, Katsurako wrote about her childhood memories in Zao in her book.

「蔵王では毎日ソリに乗って下の温泉街まで二人で食料の買い出しに出かけます。帰りはソリに買った物を乗せて引いてくるのですが、ジャンケンで負けた方がソリを引き、勝った方が買い物と一緒にソリに乗れるのです。(中略)それでも、私がジャンケンに負けたときはソリに父と荷物を乗せるといくら引いてもビクともせず、いつしかジャンケンは消滅してしまいました」

"Everyday we would go down to the hot spring town to do our grocery shopping in a sleigh. After shopping, we would play janken (rock, paper, scissors) and the looser would have to pull the sleigh back up to the lodge, containing the groceries as well as the winner of the game. When I lost the game, I was of course unable to pull the sleigh containing the groceries and my father back up to the lodge, so on those occasions the rules of the game were ignored."



一方、蔵王の更なる開発による発展を念願した白洲氏は、道路の拡張と舗装、駐車場の充実、山岳ロープウェイの設置などにより蔵王のシンボル樹氷を世界に喧伝すべきであると熱っぽく提言したとのこと。

Shirasu always wanted to see Zao thrive as a tourist resort, and played a large part in its development. He identified the necessity of paving the roads, expanding parking lots and establishing a ropeway in order for tourists to view the "Juhyo" snow monsters, so that they could become the symbol of Zao.

因みに1961(昭和36)年、蔵王ロープウェイ(株)の操業以来、現役引退までの十年間、同社の顧問として観光蔵王の進展を温かく見守ったのです。

The Zao ropeway was established in 1961, for the next 10 years until his retirement, Shirasu was in an advisory capacity and continued to warmly watch over the development of Zao as a tourist resort.



秋の「ヒュッテ・ヤレン」



白洲次郎流
夫婦円満の秘訣
Jiro Shirasu's key to a happy marriage

夫婦別々の世界を持って一緒にいないこと。

"Being in separate worlds from each other in order to stay together for life"






〜『蔵王よもやま話』より〜


…


蔵王ロープウェイの開業について、同社の「沿革史」に次のような経緯が記されている。

会社設立当初は地元資本でおこなう予定であったが、多額の資本金を要するため、発起人の安孫子藤吉山形県知事、大久保傳蔵山形市長、服部敬雄山形新聞・放送社長、鈴木吉助け山形交通社長の各氏が協議の結果、日本国憲法の創案作成や貿易庁(現経済産業省)の創設などで活躍した東北電力会長の白洲次郎氏の斡旋で、東武鉄道株式会社社長の根津嘉一郎氏に資本参加を願った。

すると快く承諾され、1961年(昭和36)8月12日の総会をもって資本金1億5千万円で「蔵王ロープウェイ株式会社」を設立することができた。


…






〜『蔵王今昔温泉記』伊東久一覚書より〜


歩いて行った高湯の憶い出
吉田竹太郎


私が始めて蔵王温泉とめぐり会ったのは大分古い話になるのだが、(私の幼時々代で)大正年間の四、五年頃と気憶している。

その頃東京の神田神保町に居住していた私達は、偶々母親に連れられて帰郷したときに、山形の親戚の案内で蔵王高湯温泉につれて行かれ、山形館と云う宿に数日間を楽しく過ごしたことがあったのが、一番最初の蔵王温泉とのおつきあいだと思う。


バスは半郷カスミ茶屋まで



その頃はバスの便などはまだなかったので、高湯までは専ら徒歩で登らなければならず、宿についてからの若干の食料なども携行して、山道をあえぎあえぎ要所々々で小休みしながら数時間掛って温泉についたのである。

荷物や人を乗せる役馬も何頭かいて、従兄弟の祥一君はその馬に荷物と一緒に乗ってキャッキャッと喜こんでいたのが今でも目瞼に浮んで来る。私は意気地なしで馬の背中になどいくらすすめられても乗る事は出来なかった。徒歩を選らんで、わらじを履き旧道を登ったのだ。

旧道と云っても現在の様な舗装をした道路ではなく、云わば登山道であって、高湯温泉に到着する頃は小さい私の両足は豆だらけになって仕舞ったものである。


馬橇(うまぞり)


高湯温泉の特有な湯の香りが私の小さい身体にまつわりつき、真夏の深山らしい草木の茂り、盃湖を身近かに眺めた自然美のすがた、それにはたごや(旅館)の家並みなどすべて都会では見たことのない情景は、東京の下町っ子として育った幼な心には大きな驚きであり魅力でもあったのだ。

それから何年か経ってからも両親の帰省の折に数回蔵王温泉に登った。幼いころの思い出が今もなつかしく私の胸の奥深く思い出が残っている。

今の蔵王温泉は東北の観光地として、夏は五色岳のお釜、刈田岳から熊野岳へ通じる馬の背、地蔵岳を中心とする高山植物の群生、又ロープウェイ中間駅附近、いろは沼湿原地帯の観光など、又冬期の観光では、世界的に有名な樹氷原の中でのスキーはロープウェイ、リフトの豊富な開発と設置によって、100万を越す観光スキー客を楽しませる施設を完了している山形県の蔵王温泉は、その日本中から集まる観光客の根拠地点となって仕舞った。

従ってその繁昌振りはすばらしいもので、大型の旅館、ホテル、公社大企業等の寮、貸別荘などが設置建設され大きく成長して今日に至っている。

…





話:菊池重太(元高湯巡査駐在所巡査)


…


冬籠りの冬は夜長で、娯楽施設もなければ遊び場がなく、退屈だから「ヤケッコ」の花形遊びをしていた。湯治客は十数名であったと思う。

高湯のお湯は疳(五官、目、耳、鼻、舌、皮膚)に利くと謂われているので、幼児の客が多い湯治場である。

交通の便はなく、馬と人力車のみであった。客は半郷三辻茶屋の前から人力車夫を頼んで、子供と荷物を背負ってもらい、草鞋をはいて往復した。冬は全く山の孤島の感であった。スキーも未だ初歩で実用化していなかった。

雪が多く積れば部落総出で、山神部落まで雪踏みして冬道を確保して往来に備えた。月に一回 定期訓示日には、上山警察署に午前九時まで出署しなければならない。朝は五時半に駐在所を出発せねば間に合わない。未だ夜は明けない、小さな小田原提灯をつけて足跡のない雪道に挑む。童志平の吹き溜りは腰までも雪があった。山神で少憩して出署する。帰りは上野で夕食を済ませて帰着するのは午後九時頃である。

高湯温泉は宿屋十七軒、商人その他三十二軒、計四十九軒の蔵王山の麓の湯治場であった。


…




2016年11月6日日曜日

八幡神社[山形市平清水]




平清水「八幡神社」


〜現地・案内板より〜


八幡神社
御由緒略

祭神 誉田別尊(ほむたわけのみこと)



寛治元年(1087)陸奥守(むつのかみ)源義家(みなもとのよしいえ)、奥羽の逆徒・清原武衡(きよはらのたけひら)追討の時(後三年の役)、この地に陣を構え八幡宮を勧請、祝い申しあげるや見事逆徒を亡ぼす。

後にこの勝利まさにこの宮の神徳なりとて鎧刀の二品を奉納あり。また朝臣の帰依により無税地にし、山地八段八畝、耕地一町五段を賜る。そのほか村内より寄進に係る因となす。



慶長15年(1610)出羽守(でわのかみ)最上義光(もがみよしあき)公、由緒正しく神徳の高きを敬い、大破せる本殿を再建し祈願所を定めらる。

天保3年(1832)二月、別当慈照院、大災にあい八幡宮宝物ら鳥有に帰す。

古人の言い伝えによれば、義家公の奉納にかわる鎧刀のほか、足利将軍義昭公寄進の品、最上義光寄進の品、宝物なども火災により消失す、と。



明治維新に土地官有に属し、神仏混合廃止つづいて別当慈照院、廃寺となる。

明治12年(1879)10月30日、村社に列せられしが、戦後は一宗教法人として今日にいたる。



昭和57年10月
平清水 氏子


八幡神社 拝殿


〜『わがさと平清水』より〜


平清水八幡神社


言い伝えによると、第73第堀川天皇の御代、寛治元年(1087)源義家朝臣、藤原武衡、家衡を亡ぼさんと、出羽国・平清水の地に来てここを本陣に構え、京都岩清水八幡宮を勧請して平清水八幡宮と申し上げ、戦勝を祈願、出陣した。途中、その甲斐があって、破竹の勢いで敵を破った。戦い終わって凱旋するにあたり、八幡宮の神徳と、義家の所持品である鎧・刀などを奉納され、現在地に祀ったといわれています。

八幡神社の別当には天台宗自性院(のちに慈照院と改む)を平清水右門が建立したといわれているが、明治に入って廃寺となり、その後、平清水部落の管理となり今日に至っています。

現在の社殿は、享保年間、乞食の火の不始末により消失。後、文化年間に建立されたものであります。






〜『山形市史編集資料 第二十八号 山形神仏分離関係史料』より〜


八幡神社
調査書
昭和10年6月4日

所在地:
山形県南村山郡
瀧山村大字平清水
八幡山三番 官有地第一種

神社名:村社 八幡神社

祭神:誉田別尊



由緒:


人皇七十三代、堀川天皇、御字寛治元年、源義家朝臣、奥州逆徒等追討として下向の時、此の処に陣を構え戦功を祈りし為、この八幡宮を勧請祝い申せしに、御守の違ひなく速に逆徒を亡ぼし、目出度く帰京ありて叡感の儘厚く恩賞を蒙り、子孫永く栄暉を残し玉へりは此社の神徳なりとて、鎧刀二品を奉納あり。外に宝物数品および縁起など委しく之れあり。

また源義家公の帰依により無税地にして山地八 反八畝歩、耕地一町五反歩を賜り、其のほか村内より寄付に係る耕地九反五畝歩の土地を有し、平清水八幡宮と申し奉る。



人皇百六代、正親町天皇の御字元亀二年、足利十五代将軍・義昭公、戦乱の砌り侍女・佐久間政長の女に曰く、

「汝すでに懐妊せり、今や都は戦乱の巷となり身危かるべし。出羽国村山郡平清水村には先祖八幡公の帰依厚き八幡宮あり。又かの地には源氏家臣の裔、数多ありと聞く。早々出羽に下りて時を待つべし」

と侍女、佐久間政長などと共に此地に下り平清水家に属し、男子を出生す。政長ら養育申し上げるが、義昭公再興の事もなかりければ、国主・最上義光公に謁し、下野守義行と改め、足利の姓を預かり平清水佐久間の両姓を名乗るを許され、禄を扶持し客将に遇せらる。義行公は殊のほか八幡宮を崇敬せらる。



慶長十五庚申年、国主・侍従少将出羽守、最上義光公、この八幡宮の由緒正しく神徳の高きを敬い、大破に属せる社殿を再建し、祈願所と定めらる。

寛文年間、奥平大膳亮公、享保二戊丁年、堀田伊豆守公、御参詣あり。

天保三年二月中、別当自性院、火災に罹り宝物縁起ら鳥有に帰す。

明治十二年十月三十日、村社に列せらる。



祭日:
祈年祭 三月十五日
例祭 九月十五日
新嘗祭 十一月二十七日

基本財産:
基本金 金 弐千圓

境内所有地:
南村山郡 瀧山村
大字 平清水 八幡山 千六十二番

山林 弐反四畝四歩
賃貸価格 金 参円参拾七銭

氏子:百三十八戸



八幡神社 児童遊園




2016年11月2日水曜日

『わがさと平清水』より



『わがさと平清水』

編集:わがさと平清水刊行会
発行:平成四年四月五日

『わがさと平清水』表紙・裏表紙

表紙について:
この版画『千歳山風景』は万松寺に所蔵されている。

筆者の霞峰は、明治の初期ごろまで湯殿山参詣の行者の先達をしていた法印(僧)で、画を宇野義川(小橋町)について学び、霞峰の名で多くの作品を残している。

着色は平清水の住人、橋本晶夫氏によるものです。


平成四年(1992)頃の千歳山周辺
写真の田畑は現在(2016)、すでに宅地化されている


阿古耶姫(万松寺)

源顕兼の説話集『古事談』(健暦2年〜建保3年、1212〜1215年)のなかに、「あこやの松」「雀になった実方」として藤原実方(平安の歌人、左近衛中将)のことを記しています。『古事談』の阿古屋の松について、つぎに原文(教育社新書版・志村有弘訳)の中から一部をのせます。

実方(さねかた)が奥州を経廻していた時、歌枕(古くから歌に詠まれた名所)を見るために毎日出歩いていた。ある日、あこやの松を見に出ようとしたところ、国人(土地の人々)が申すには、

「あこやの松と申す所は、この国の中にはありません」と。

その時、一人の老翁が進み出て

”陸奥(みちのく)の 阿古屋の松に木隠れて 出づべき月のいでもやらぬか”
と申す古歌をお思いになっておっしゃられたのでありますか。それでしたら、その歌は出羽と陸奥がまだ分かれていない時に詠まれた歌です。両国が分けられた後は、あの松は出羽の方に入っているのです。

と申された。


その他に、藤原長清選の延慶3年(1310)頃に編集された『夫木和歌抄』(夫木集)という歌書があって、このなかに巻二九に一三、七八八番和歌として

「みちのくの 阿古屋の松に木隠れて 出づべき月のいでやらぬかな 読人知らず」

と載っていますので、『古事談』の阿古屋の松と照らし合わせて、千歳山に伝わる阿古屋の松物語は古くよりあった史実と信じてよいでしょう。



また、この和歌は、承久から仁治(1219〜1240)のあいだに成ったといわれる『平家物語』(平曲の軍記物語)にも、二之巻、阿古屋の松としてみられ、丹波少将成経(鹿ケ谷の陰謀に参加し、鬼界ヶ島に流刑。のちに許された)の島送りの日、涙ながらに、昔、実方(さねかた)中将奥州へ流されたことを思い出して、

「みちのくの 阿古屋の松に木隠れて 出づべき月のいでもやらぬか」

という古歌を口ずさみながら流されていったと記されています。



針子絵馬(大日堂内)


平清水家の柊(ひいらぎ)樹齢1,000年を越えるといわれる
県指定天然記念物

大和政府は植民政策をおこない、全国より移民をはじめました。年代は不明でありますが、天童市の西沼田、酒田市の城の輪の遺跡などから、山形県地方への移住がうかがえるのであります。

平清水地区でも、平清水家(現第74代、平清水久左衛門氏)は奈良時代の神亀年間、家祖、黒金穆弥(くろがね・ぼくや)公が朝命により下野国(栃木県)から里人数十人を従えて、千歳山南麓に移住し草庵をむすび、飲料水を探しまわり、やや湿地のところを見つけて杖で土地を掘ったところ、突然、清水が湧き出したといわれています。それから自分の家の姓を「平清水」とし、村の名も平清水と呼ぶようになったといわれています。

道家の邸内には柊(ひいらぎ)が樹齢1,000有余年の威容を誇っています。このヒイラギは家祖、黒金穆弥公故郷の山野に生い茂る幼木を移住の地までもってきて屋敷の鬼門に植えたと伝えられています。暖帯性の植物が主家を見守るように、気候的に寒さの厳しい東北地方の山形に土着したことは珍しい。このヒイラギは昭和28年に山形県天然記念物に指定されました。


平泉寺の紅しだれ桜市指定天然記念物

慈覚大師は新山の地を行脚された折り、大日堂の荒廃をいたく嘆かれ、下の平清水に風光明媚な土地をさがして中興されたといわれています。いまも境内にある古い桜は大師の偉業を物語るものと思われます。

なお大日堂の坂の下の池も、大師が掘ったものであります。大師が閼伽水(あかみず、仏に供える水)を求めて錫杖で土をついたら、清水がこんこんと出てきたので、里人はこの水を飲料に供し「平清水」と呼んだと伝えられています。

平清水の名の起こりは2つありまして、古い時代のことですから何れが本名とは言いがたいのであります。



青磁香炉 小野藤治平作 平泉寺蔵


中皿 定五郎窯製
花立 佐久間瓶屋 明治12年製

平泉寺所蔵品



『平清水郷土史』発刊に寄せて

山形郷土史研究協議会会長 小形利吉


「最上(もがみ)」は山形の古名であるが、その文化発祥の地は平清水である。平城宮跡から出土した奈良時代初期の木簡には「裳上」、承平年中(931〜937)源順が編纂した『倭名類聚抄』には「毛加美」の字を宛ているが、和銅5年(712)出羽国が建置された時、それまでの陸奥国から出羽国に移され、その後から中世・近代まで「最上(もがみ)」の字を宛てきた。

古代の五畿七道制の時代は東山道に属し、行政単位としては近江・美濃・飛騨・武蔵・上野・下野・陸奥・出羽の諸国が所属し、諸道を行政単位とはしなかったが、各国府を連ねる官道を設けてその呼称に用いられ、東山道(あずまのやまみち)は東国経営の重要な交通路であった。

延喜式が完成したのは延長5年(927)で、それが施行されたのは40年後の康保4年(967)であるから、それによって笹谷街道が官道に指定され双月・山家附近に最上駅が置かれるはるか以前のことである。



寛平4年(892)源能有が編纂した『三代実録』の貞観9年(867)12月29日の条に「出羽国最上郡霊山寺預之定額寺」という記事があって、この霊山寺は応保元年(1161)10月、信阿という天台僧が『和漢朗詠集私註』を書いた隴山寺と同一の寺と考えられ、また、岩波の石行寺や平清水の平泉寺と同じく行基開創、慈覚大師再興と伝える龍山寺(あるいは瀧山寺とも書く)とも同一寺院と推定されている。

久安4年(1148)頃、西行法師が瀧の山を訪ねて桜の歌を残したことについては、瀧山説と長谷堂説があって今のところ定かではないが、東山道の要衝として早くから開けた土地であることは間違いなく、平清水久左衛門宅のヒイラギ(柊)をはじめ、阿古耶姫や中将姫の伝説、歌枕としての「阿古耶の松」などは、延喜式以前の東山道時代にもたらされたもので、都との交流が盛んに行われていたことを示す貴重な資料でもあると思う。



このようにして山形市周辺では最も早く開けた「平清水の歴史」がまとめられ、公刊されることは誠に喜びに堪えないことで、多くの方々のご一読をこい願って推薦の辞とする次第である。



飯はち 平吉窯製(山田香亭画)


大すず七右衛門窯


陶風呂桶製
新瓶屋窯製

平泉寺所蔵




一本脚の鳥居


大字平清水小字名


明治34年測図「山形」1/2万地測図

私たち平清水の集落は、東に奥羽山脈が走っていて、その一山である新山(にいやま)高さ約560mを起点に、南の境界は左沢山(あてらざわやま)南滝山(なんりゅうざん)猿岡山(さるおかやま)大林山(おおばやしやま、前田山ともいう)鬼越(おにごえ)戸神山(とかみやま)約311mと連なって、南の境界(嶺境い)になっています。

北の境界は、新山から観音山(かんのんやま、護摩山ともいう)船ヶ沢(ふながさわ)高戸屋山(たかとややま)千歳山(ちとせやま)約471.1mの線であります。

平清水は、この狭い山あいに開けた小さな扇状地で、地質的には第三紀層(約700万年〜100万年ぐらい、新生代第三紀層)を基盤にしています。東に走る奥羽山脈は比較的に若い地質年令の山ですから壮年期の山容をあらわしていますので、大雨の時など山崩れや洪水に十分注意する必要があり、並行して走る那須火山脈にある蔵王山(滝山はその外輪山)も、思い出したように鳴動することがあるかもしれません。



出典:『わがさと平清水』


2016年10月31日月曜日

お釜は2代目?[蔵王]



「蔵王のシンボル、お釜! いつ見てもキレイだねぇ!

「そうじゃな。すばらしい自然景観じゃ」



朝焼けの「お釜」



「お釜って、いつ頃できたのかなぁ?」

「ずばりとは言えないが、およそ800年ほど昔のようじゃ」

「そのころだと、1230年の『北条九代記(ほうじょう・くだいき)』の記録があるね。もしや…、あの噴火がお釜誕生かも!?」

「あるいはそうかもしれんな。ところで、『お釜は2代目』という話は知っとるかな?」

「え〜? どういうこと?」

「厳密に2代目と言い切れるわけではなく、3代目とか4代目かもしれないんじゃが、お釜の東にくぼんだ地形があるじゃろ? それがお釜火口ができる前の五色岳(ごしきだけ)の旧火口なんじゃ」



お釜の旧火口と現火口



「あ、なるほどね〜。お釜にちょっと重なって、別のお釜っぽい凹みがあるね! これがお釜のお姉さんなんだね!」

「兄か姉かはわからんが…。旧火口は、お釜火口の噴出物で埋まっておる。お釜の湖岸で堆積の様子が観察できるんじゃ」

「ほんとだ! しましまが凹みの形に曲がってるよ! まさに『しましまは蔵王火山の年輪』だね!」






「蔵王火山は、約120万年もの長い時間をかけて成長してきたんじゃ。これぞ壮大なる地球の営みじゃ」

「120万年? そんなに長い間、ずっと火山活動を続けてたの?」

「いや、活動期と休止期とを何度も繰り返してきたようじゃ。くわしくは下の年代表を見てくれ」

「よく『蔵王連峰は、北→南→中央の順にできた』ってお話を聞くけど、これを見ると必ずしもそうじゃないんだね〜」

「北と南から中央に寄せてきてる、という感じじゃな」



約120万年〜80万年前
瀧山火山(北蔵王)、ロバの耳岩(中央蔵王)、前山・杉ヶ峰(南蔵王)などの山体ができる。ロバの耳岩は水中で固まった溶岩。つまり、当時はカルデラ湖ができていたことがわかる。

約80万〜40万年前
活動休止期

約30万〜10万年前
五郎岳・三郎岳付近(北蔵王)、中丸山付近(中央蔵王)、馬ノ神岳・不忘岳(南蔵王)などの山体ができる。

約10万〜3万年前
活動休止期

約3万年前
馬ノ背カルデラができる(中央蔵王)。複数の火口からの噴火や、爆発的な噴火が発生。比較的狭い範囲に複数の火口が形成され、後にこれらの火口が連結してカルデラが形成された。

約3万〜1万3,000年前
馬ノ背カルデラ内で爆発的な噴火が断続的におこる(中央蔵王)。約2万8千年前にはごしき岳が形成されはじめる。これらの噴火の火山灰は遠刈田温泉付近から、ときにはさらに遠方にまで降り注いだ。

約1万3,000〜7,500年前
活動休止期

約7,500〜4,000年前
それ以前より規模は小さいが、依然としてやや大規模な噴火が断続的におこる(中央蔵王)。

約3,000年前
特殊な規模の水蒸気爆発が発生し、現在の五色岳付近に凹地が形成される(中央蔵王)。

約2,000年前
凹地の東部から噴火がはじまり、五色岳が成長をはじめる(中央蔵王)。マグマ水蒸気爆発を繰り返し、火砕サージも多発した。

約2,000〜1,500年前
五色岳、標高1,500mほどまで成長。また、火口がやや西方に移動する(中央蔵王)。西方に移動した旧火口は、お釜火口に隣接しており、現在も痕跡が観察できる。

約800年前
五色岳、火口が現在のお釜の位置に移動する(中央蔵王)。

約800年前〜現在
五色岳、火山活動を断続的に繰り返して現在に至る(中央蔵王)。



出典:蔵王山頂レストランの資料



2015年10月8日木曜日

三本木沼 [山形市西蔵王]



山形市西蔵王、三本木沼



〜現地・案内板より〜


三本木沼(さんぼんぎ・ぬま)と野草園


 山形市の学校の遠足地として市民の行楽地として親しまれている三本木沼は、中桜田と桜田が管理する溜井である。この付近からは縄文期の赤焼土器が採集され、住居跡も確認され、上代の住民の生活を知る貴重な資料となっている。

 瀧山山麓には、三本木沼をはじめ二十有余の湖沼が点在して、田圃の灌漑等に利用されているばかりでなく、以前は凍結した氷を切り出し、雪むろに蓄え、夏に山形市の病院や魚店などに売り出したものである。即ち、採氷湖の役割をもっていた。今では人造氷の出現により、氷雪も雪むろもすっかり姿を消してしまった。

 この湖沼群の湿地帯を活用した一大野草園が、山形市によって造営され名所が一つふえた。また、三本木沼周辺には、県立西蔵王公園がつくられ、一大レクリエーション基地として、大きな役割を担っている。

歴史の散歩道
滝山地区町内会連合会



水面に映るは、西蔵王のテレビ塔


釣りのメッカでもある


石碑「西蔵王観光 発祥の地」
山形県知事 高橋和雄 謹書



〜現地・石碑より〜


 この三本木沼は、元禄八年(1695)山形藩主松平下総守により、桜田一帯約58ヘクタールの田畑を潤す灌漑用水として築かれました。以後部落民の生命の源として、現在は桜田水利組合に依って維持管理されております。

 戦前戦後の頃から、西蔵王観光の拠点となり、山の精気を求め学校の遠足やハイキング等、市民の憩いの地として広く親しまれて今日に至りました。

 この碑の建立にあたり、尾原儀助氏の絶大なるご支援とご配慮を賜り又、西蔵王高原開発の祖として尽力された左記の方々に永く敬意を表し名を刻します。

峯田良藏 前田光雄 荒井貞雄 丹野保信 鈴木萬一 大内小一郎 小野博好
梅津初雄 山口藤雄 佐藤吉助 中根正昭 塩野政太郎 羽角喜代春 佐藤正

平成十一年四月吉日 建立
西蔵王観光協会々長 佐藤小太郎



西蔵王の詩 佐藤小太郎

”唐鍬を手に耕し続けて幾百年自然の織りなす風土の中で

竜山下しの冷たい風と情熱が美味な野菜を育てます

おらが自慢の高原野菜”




背後にそびえる瀧山、旭日がのぼる




2015年10月4日日曜日

荒沼(あれぬま) [西山形]



釣り人でにぎわう、荒沼の朝


〜現地・案内板より〜


荒沼(あれぬま)


県民の森の中では二番目に大きな湖沼である。荒沼は大沼と同じく、今から570年前(1470年、室町時代)ころ、村木沢の住人、石沢与一・遠藤久七の両名が、相州箱根権現にお参りして分神を頂き、神社を建て、北沼を作り始めた。この北沼を「大沼」「荒沼」と云う。この沼によって数百町歩の田を開拓した時の領主最上直家(二代)が先の神社を沼明神(ぬまみょうじん)と名付けた。

慶安年中(1648〜1655年)に、この沼の水が不足したため、笹原五良右エ門と言う人が独力で改修・拡大し、干ばつから救った。それ以来、下流の村民が時々沼の修理をしたが、年とともに沼の破損がひどくなった。これを領主堀田公が哀れみ、郡奉行に命じ、安政四年(1857年)秋7月から安政五年秋九月にかけて、藩費をもって再度改修が行われてつくられたものである。

水利権 門田水利組合
魚類 コイ・フナ・ワカサギ等
昆虫 ハッチョウトンボ・カオジロトンボ等
表面積 132,600m2
最大水深 7.2m
貯水量 186,600m3



荒沼大明神


〜現地・説明板より〜


荒沼大明神


応永(1394〜)年間、領主・最上直家が荒沼に奉られていた箱根権現の分霊を沼明神と名づけ、ここから荒沼大明神として祀られるようになりました。荒沼は田に水をひく灌漑池として作られ、この沼の出現によって西山形の数百町歩の田が開墾されました。



荒沼碑



荒沼碑

荒沼の起源と経歴を記す安政荒沼碑は、祖先の辛苦経営と神水一如の信仰を伝へて炳手たり。茲に安政以降の事績を尋ねるに文久二年、名主市右エ門、清兵工伝四郎、百姓総代茂右エ門久六等、捨水利用に付、柏倉村と折衝を重ね入堰千八百米を開設、年々貯水増大の基を開く。

降って昭和九年、大字門伝八代総代斉藤宇一熊の胴新設を発起、大字の総力を結集、旧胴より二米掘下げ、旱魃時水利の方途を拓き、旧胴を最新ハンドル式に改良、堤塘を牢固たる現況に改修。同四十九年、熊の胴老朽漏水あり。十三代総代飯野貞一、之を機に潜水胴抜式熊の胴をハンドル式に改良。同五十年、市議飯野貞雄、山形市少年自然の家誘致に奔走。同五十四年、荒沼の高台に落成を見る。同五十一年、県民の森地域指定を受くるや十四代総代坂本元次郎、地区民と諮り荒沼関係諸施設の改善に付、関係当局に鋭意陳情の結果、県及び市の同意取付けに成功。同五十二年、胴の尻底樋改良工事施工。同五十三年、荒沼隔間沼線林道開通。同年十一月、荒沼入堰。翌五十四年、乗鞍井堰の両堰U字溝工事完成し、諸施設の整備万全と為る。

是等諸事業の遂行に当り特に率先尽力せられしは、県民の森造成事務所長沢内公男県議、沼沢善栄同、峯田吉郎市長、金沢忠男市林務課長、山川五朗の諸氏なり。受益者一同、之に感謝し、安政碑以降百二十幾星霜、代々荒沼の保守改良に挺身刻苦せし諸先達の事績と共に碑に刻み後世に伝承、併せて荒沼萬代の御守護を祈願し、荒沼大明神の大前に謹んで狛犬一対を献納す。

昭和五十五年五月
大字門伝 飯野幸雄撰
大字村木沢 吉田七兵衛書
大字門伝第十四代総代 坂本元次郎





献納された狛犬



安政の荒沼碑



荒沼碑

夫原荒沼之濫觴應永中有石沢與一遠藤久七者郷
里憂水之乏而祈誓於相州筥根権現蒙神勅以帰初
□此沼也大沼荒沼之二沼是也爾来数百町之民田
開發矣干時羽之探題最上直家□感其奇瑞称号沼
明神也而年祭不怠下民氏子帰□□久□至寛永□
保中領主世々分村邑之□納米以賜之也□四百年
間也然慶安中此沼猶憂水之不足笹原五良右衛門
獨立心力□山□水以□□□憂□領主松平総州候
見賞其功米穀繁多賜之也且貞享中之領主松平和
州候新田畑及畝歩附属之新恩亦不浅也由来□□
之村民時々雖加條造此沼経数百之星霜破□亦□
□於此安政丁巳秋七月
邦君隣之命郡宰而下賜八木百五十俵使監造小吏
修造之到午秋九月之□堰浚及樋埋築立之功就□
数年蒙
國主之恩澤仁恵不可勝計也因以立碑於社□傳于
不朽□

七松山主荒沼院宥照記




~西山形の散歩道(双葉地区編) より~


荒沼碑に沼のいわれが次のように刻まれている。

…荒沼の起源を尋ねなに、今から約570年前のころ、石沢与一、遠藤久七の両名が御里の水が少なくとぼしいので、相州箱根権現にお参りして、分神を頂いてきて神社を建て、北沼を造り始めた。この北沼を大沼、荒沼二沼と言う、この沼によって数百町歩の田を開発した、時の領主最上直家(二代)が先の神社を沼明神と名付けた。この沼明神を村民、氏子が忘れることなく久しく年祭を行い信仰してきた。 寛永正保ごろ、領主たちはおよそ400年もの間収米を沼明神に献納した。

ところで慶安年中(320年前ごろ)北の沼の水が不足しているのを笹原五良右ェ門という人が一人で山を抜き水を引き干ばつから救った。これをみた領主松平総州候が、その功績をたたえて米穀を数多く贈った。又貞享中頃領主松平和州候も新田畑地を贈ってその功を讃えた。

それ以来、下流の村民が時々沼の修理をしたが、年と共に沼の破損が年々少なくなく、ところが邦君(掘田氏)がこれを見てあわれみ、安政4年7月郡奉行に命じて惨造のため米150俵を贈らせたり、又普請奉行達を派遣して修理工事に当たらせた。  安政5年(午)秋9月にセキザライ、トイウズマリや堤防の修理が終わった。  以上のことから邦君(堀田氏)の施した恩恵は計り知れないものがあり、これをたたえて社の前に立碑し、永く伝えるものである。






結城哀草果の歌碑




羽交なす尾根の
まなかに峯高く
白鷹山は大空を
飛ぶ

哀草果



結城哀草果 本名光三郎

明治二十六年十月十三日、山形市下条町一○三一番地、黒沼作右衛門(妻ナカ)五男に生る。生母の乳不足のため南村山郡本沢村大字菅沢三四六番地、結城太作(妻なみ)の里子となる。

明治四十年二月二十日、結城家の養子に入籍し、小学校高等科卒業後、農に従事す。読書により独学し、短歌に心を寄せ、大正三年、アララギ短歌会に入会し、隣村金瓶出身の歌人、斎藤茂吉に師事し、短歌道に入る。

歌業大いに進み、昭和四年六月、第一歌集「山麓」を発行し、農民歌人としての地位を占め、「すだま」「群峰」「まほら」「おきなぐさ」「樹蔭山房」「樹蔭山房以降」等の歌集を発行し、昭和十年二月、随筆集「村里生活記」の発行により一躍名随筆家として喧伝され、「續村里生活記」「小風土記」「農村歳時記」その他の名著を発行す。

昭和二十二年八月十六日、上山町村尾旅館にて天皇陛下に師斎藤茂吉と共に拝謁し、短歌につき御進講す。昭和三十五年一月、河北文化賞受賞。同四十一年十一月、紫綬褒章受賞。同四十四年十一月三日、勲四等旭日小綬章を授与され、同四十六年七月、山形市名誉市民の称号を贈らる。

同四十九年六月二十九日、自宅にて長逝。享年八十二歳。法名 峭峻院達翁道淳居士

勲三等瑞宝章を贈らる 西村直次撰

昭和五十七年十月十三日 建之