〜話:白州正子〜
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ただ一つ付け加えておきたいことがあった。やはり連載を終った後、『白い国の詩』という東北地方のPR雑誌で読んだのであるが、西行の歌に「瀧の山」というところで詠んだものがある。
またの年の三月に、出羽(いでは)の国に越えて、瀧の山と申す山寺に侍りけるに、桜の常よりも薄紅(うすくれない)の色濃き花にて、波たてりけるを、寺の人々も見興じければ
たぐひなき思ひいではの桜かな
薄紅の花のにほひは
という歌で、東北地方へ取材に行った時、訪ねたいと思っていたが、どこだかわからないので果たせなかった。その雑誌にも「現在地未詳」としてあったが、大体の見当はついたので、雑誌の編集者に案内をお願いした。彼もたしかなことは知らなかったが、西行がわざわざ平泉から出羽の国へ越えて見に行ったほどの桜なら、よほど美しいに違いない。少くともその痕跡ぐらいは残っているだろうと探してみたのである。
東京の桜は既に終っていたが、東北の山は今が花盛りで、私を勇気づけてくれた。その夜は山形県の上の山(かみのやま)温泉に泊り、翌朝早く蔵王連峰へ行く。山家集の註釈には、瀧の山というのは蔵王の龍山(りょうぜん、霊山とも書く)のことで、新しい地図で見ると、龍山ではなく、「瀧山」と記してある。だが、実際に行ってみると、そこは千数百米(メートル)もある高山で、荒々しい岩肌は、とても桜が自生するようなのどかな山容ではなかった。
編集者のKさんは、方々走りまわって「瀧の山」の在処(ありか)をたずねて下さった。やはりこういうことは、土地の人に訊いてみるに限る。やがてそれは昨夜泊った上の山温泉の北の方に位置することが判ったが、道がこみ入っているので中々はっきりしない。行きつ戻りつ何度同じところを右往左往したことか。何時間もそうして迷ったあげく、やっとそれらしいところに辿りついた。
道ばたに瀧の山の歌を記した西行の歌碑があり、そこで道は二つに分れて山へ入って行く。車は行かないので、暗い山道を歩いて登って行くと、1キロ半ほどで山ぶところの開けた大地へ出た。と、思いもかけず裏の山から下の谷へかけて、全山桜に埋もれているではないか。「常よりも薄紅の色濃き花にて、波たてりけるを」の形容にふさわしく、新緑にまざってもくもくと湧き上がってくるように見える。瀧の山とは、花の瀧の別名ではないかと思われるほどの眺めであった。
かつてはここに寺があったらしく、五輪塔のかけらや礎石がちらばっており、桜の根元には小さな祠(ほこら)が建っている。その中には平安時代の神像が二体、風化したままで祀ってあり、水など供えてあるのは里人に信仰されているのであろう。東の方には木立ちを通して雪を頂いた蔵王の瀧山が望まれ、無言のうちにこの廃寺が経てきた歴史を語るようであった。
帰宅した後、大日本地名辞書を読んでみると、龍山は修験道の霊場で、「又、桜田村に瀧山寺あり、是古の山寺なりしが、後世此村に引かれしといひ伝えたり」と記し、龍山が廃滅した後、現在の地に移されたように書いてある。桜田村がどこだかわからないし、「後世」がいつ頃のことだか不明だが、周囲の環境から見て、西行の「瀧の山と申す山寺」は、ここ以外にはないように思われた。
人里離れた山奥にあったために、訪れる人もなく、農家の人々のほか知るものもなかったので、崩れたままで残ったに違いない。それとて絶対に正しいというわけではないが、薄紅の花にかこまれた廃寺の風景は、私にとってもたぐいなき思い出として永く心に残るであろう。その美しさに比べたら、瀧の山の詮索など、もうどうでもいいような気がしてくる。
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出典:白州正子「西行 (新潮文庫)」
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